剣聖令嬢、幸せな一日
事件の処理を騎士団長に任せ、私は夜の下町を急ぐ。カーシェとシエラは騎士団の馬車で送り届けてもらうことができたので、馬車よりも圧倒的に速く動ける私だけ先に孤児院へと向かった。一刻も早く、あの人の顔が見たかったから。
夕闇が完全に夜へと溶け込み、オーロラが幻想的に輝く夜空の下で、ようやく見慣れた孤児院の門をくぐる。入り口近くの門灯の下で、辺りを見回しながら落ち着かない様子で立ち尽くす、金髪の青年の姿があった。
「ゼスィア様!」
私の声に、彼が弾かれたようにこちらを向く。ルビーの瞳が私の姿を捉えた瞬間、ハノ字型の眉毛で寄っていた眉間のシワが、憑き物が落ちたようにフッと緩まった。
「セレナ……!」
「ゼs、っわ!?」
駆け寄ってきたゼスィアに、溢れんばかりの感情を抑えきれない様子で、ギュッと、けれど壊れ物を扱うような慎重さで抱きしめられた。彼の匂いと体温に、体中の力が抜ける。
―――ああ、ゼスィア様だ……。
彼も同じ気持ちでいてくれたのか、私を抱きしめたまま、ゆっくりと深呼吸をしていた。
「よかった……本当に、よかった」
彼の細い指先が私の肩に触れ、その震えが服越しに伝わってくる。この人に心配されていると分かるだけで、心がポカポカとするから不思議だ。
「……ただいま戻りました、ゼスィア様」
「ありがとう、セレナ……。帰ってきてくれて。もし君に何かあったらと思うと、生きた心地がしなかったよ」
「もう……、ただ注意しに行っただけですわ」
「うん。……そうだけど、それでもね」
婚約者の胸に顔を埋めると、確かにドキドキと心臓の鼓動が耳に響く。
そんなに心配されなくても、私は大丈夫なのに……。こんなにも心を砕いてくれる彼が愛おしい。その温もりは、まるで戦場で見せていた氷の仮面を溶かしていくように、じんわりと心に浸み込んでくる。
私がもし猫だったなら、きっとゴロゴロとのどを鳴らしてしまっていただろう。
「……伯爵たちは、どうなったんだい?」
彼の優しい問いかけにヒュッと我に返った。
いけない……。今の私はただの「セレナ」だ。半壊させた車両や、氷像にした護衛たちのことなんて、口が裂けても言えない。
「そ、それがですね! 伯爵閣下を追いかけて、一生懸命説得したのです。カーシェとシエラは良い子たちだから、大事にしないとバチが当たりますよって……」
「それは大変だったね……。セレナがあの伯爵に乱暴でもされていないか心配で、騎士団まで使ってしまったよ……」
停車駅で騎士団長たちがいた理由が分かった。
この人は私が伯爵に拉致されてしまうとでも考えたのだろう。だから騎士団を向かわせて、私を助けだろうと……。結果的にはハーベルナン伯爵を拘束する手間が省けたのでありがたかったが。
「私、そんなに弱くありませんよ?」
それどころか、百倍くらい強いと思う。
「君が例え、僕の千倍強くても、心配する自信がある」
「本当に、ゼスィア様はよわっちぃですね」
「あはは、なんたって、『三下令息』ですから。……ところで、ハーベルナン伯爵はなかなか話を聞いてくれなかったんじゃないかい?」
きっと夕方の事を思い出しているのだろう。ゼスィアは苦虫を噛み潰した顔をする。おそらく院長として沢山の説得を試みたのだろうが……あの横暴な性格だ。最後まで話を聞いてくれなかったに違いない。
だから私は説得なんてしなかった。最初から殺意マシマシの力技で黙らせたのである。
「……何とか、なりましたわ」
「え?」
「その、……ゼスィア様の気持ちを懇切丁寧に伝えたら、色々と反省したみたいでして」
「すごいね!? なんて言ったら分かってくれたんだい?」
「あ……、えっと、わ、忘れてしまいましたの。で、でも! 伯爵も改心なさったのか、騎士団に自首すると言い出しまして……」
我ながら、あまりに無理のある嘘。けれど、必死に弁解する言葉を、ゼスィアは疑うことなく、ただニコニコと聞いていた。何故か、ずっと私を抱きしめたまま。
「……そうか。君の真剣な想いが届いたんだね、きっと。……やっぱり僕の女神は最高だ」
「め!? ……何を言っているのですか!」
ツッコミに「あはは!」と微笑む彼の顔が、ゆっくりと近づく。既に抱きしめ合っているので、これ以上接近したら顔がくっついてしまう距離だ。
この事実を分かっているのかいないのか、婚約者は耳元で小さくつぶやいた。
「ねぇ……、セレナ」
「……はい」
腰に回された腕が、きゅっと腰を密着させる。
「好きだ……」
「っ…………」
夜風が止まり、門灯のオレンジ色の光が、彼の長い睫毛に繊細な影を落としているのが見える。逃げようと思えば、いくらでも避けられた。だって、相手の筋力は学校でも下の下なわけだし。
―――けれど、吸い寄せられるように視線を固定され、この体は指先一つ動かせなくなってしまう。
不思議な引力によって、どちらからともなく互いの視線が近づいていく。まるで魔力がひきつけ合っているかのように、彼から目が離せない。
「あ……」
吐息が触れ合うほどの間近で、ゼスィアが目を細めた。次の瞬間、私の唇に、柔らかくて温かな感触がそっと……丁寧に重なる。羽毛に触れるような、優しく、けれど確かな重み。
そこには、さっきまで纏っていた冷気など微塵も存在しない。ただ、好きな人の温もりと、溢れ出す愛おしさだけが、唇を通じて心臓へと直接流れ込んでくる。
(……すき……)
数刻、ほんの数秒のこと。けれど、私にとっては永遠のように長く、何よりも尊い時間に感じられた。
「ふぅ…………」
唇が離れた後、彼は、この頬を大きな手で包み込み、オーロラの光でも分かるほど真っ赤な顔で囁く。
「おかえり、僕だけの女神……」
「もう……、バカ……」
もう一度唇を重ねる。
一度目よりも強く。
深く。
互いを、確かめ合うように。
………………。
どれくらい、そうしていたのだろう? 気が付けば夜は遅く、オーロラも雲に隠れ始めていた。
「………………」
「………………セレナ?」
「はい!?」
「顔がものすごく熱いけど、……その、大丈夫かい?」
「え!? だ、だだだ、大丈夫ですよ!?」
(うそです大丈夫じゃないですヤバいです!!)
耳元で囁かれたその言葉と、唇に残る熱。私の頭の中は、その瞬間に真っ白な光で埋め尽くされ、喜びと幸福感で大爆発を起こす。心臓の音がうるさすぎて、自分の顔がどれほど赤くなっているのか、湯気が出ているのではないかと思うほどに熱い。
「じゃあ! 私! 帰ります!」
「え? う、うん。送っていk」
「大丈夫でず! ヤバいです! うそでう!」
「セレナ!? 言葉が崩壊してきt」
最後まで聞くことなく、私は走っていた。なかば体が自動的に飛び出していたのである。もはやこの行動に理性など無い。
本当は彼を寮まで護衛しなきゃいけないのだけど、隣にいることが出来なかったのだ。あの香りと、熱と、声と、唇に……もう訳が分からなくなってしまった。
「セレナ―――――!?」
遠くで婚約者の声がする。だけどもう私の体のブレーキは機能してくれなかった。そして、充分に距離を取った所ですかさず『氷華の簪』を発動。半径数十mの温度感知能力を駆使してゼスィアの居場所を特定。円周マラソンみたいに彼を中心に据えながら私は走り続けたのだった。
どうしてそんなことをしているのかって? 護衛の為である。
どうして近づかないのかって? 近づけないからである。
その日、自分がどうやって部屋まで戻ったのか、ベッドに倒れ込んだのか、何も覚えていなかった。
ただ、指先で唇に触れると、あの時の感触を思い出し、声にならない叫びを上げながら、ジタバタすることしかできない。
(私……ゼスィア様と、キス……しちゃった……)
剣聖としての冷徹な覚悟も、戦いの余韻も、全てどこか遠くへ消えてしまって―――。
今夜の私は、ただの世界で一番幸せな女の子として、夢の中へと溶けていった。




