第2話 婚約破棄の令嬢
第2話 婚約破棄の令嬢
「……はあ、なんて馬鹿らしい夜会だったことかしら」
きらびやかなシャンデリアが消えた舞踏会場の片隅。
マーガレット=ローレンス伯爵令嬢は、割れたシャンパンのグラスを踏まないように歩きながら、ドレスの裾を軽く持ち上げた。
スカーレットのドレスの裾には、いまだに誰かのワインが飛び散った痕がある。
それでも彼女は背筋を伸ばしていた。
――泣くものですか。あんな男のために。
舞踏会の中心で告げられた言葉は、今も耳の奥に残っていた。
「君のようにすぐ怒る女とは、もうやっていけないんだ」
「……はい?」
「婚約は破棄させてもらう。ああ、それと……もう少し笑う練習をした方がいい」
彼女の唇が、ぴくりと引きつった。
笑顔の練習? ふざけたことを。
私はずっと、彼のために笑ってきたのに。
マーガレットは、ホールの出口に向かいながら、自分のヒールの音を聞いた。
コツ、コツ、コツ――冷たい石の音が、まるで心臓の鼓動のように響く。
控室に戻ると、侍女のアンヌが待っていた。
涙目になって駆け寄ってくる。
「お嬢様! 本当に、婚約破棄を……!?」
「ええ、本当に。正式な書類もこの通りよ」
彼女は扇子のように封筒を振って見せた。
中身は見たくもないが、これで“解放”されたのだ。
「ひ、ひどいです……あんな男! お嬢様に怒る権利があります!」
「怒る? いいえ、怒るなんて上品じゃないわ。私は――ムカついてるの」
マーガレットは静かに笑った。
それは怒りを飲み込んだ笑み。
凛としたその姿に、アンヌは言葉を失う。
「ねえアンヌ、私ってそんなに怒りっぽいかしら?」
「ぜ、全然そんなことありません! ただ……正直で、思ったことを言うだけです!」
「でしょう? それを“怒りっぽい”って言うなら、世の中の男どもは黙ってばかりなのね」
化粧台の前に座り、マーガレットはイヤリングを外した。
金の輪が卓上で小さく転がり、静かな音を立てる。
「怒る女は嫌われる、だなんて。――だったら嫌われてやるわよ」
その瞬間、ふっと涙がこぼれた。
唇を噛み、鏡の中の自分に言い聞かせる。
「泣くのは五分だけ。泣いたら、次はワインとチーズね」
アンヌは慌ててワインボトルを取りに走る。
マーガレットは少しだけ笑った。
けれど胸の奥では、違う痛みが燻っていた。
――どうして、いつも私は怒ってしまうんだろう。
怒りは盾。涙は矢。
けれど、そのどちらも、もう疲れてしまった。
ただ、誰かに“わかってほしい”だけなのに。
「お嬢様……」
「なに?」
「……昔、公爵家の坊ちゃんとよく喧嘩してらっしゃいましたよね」
「リボンオのこと?」
アンヌはこくりと頷く。
「わたくし、あの頃から思ってたんです。お二人、とてもお似合いでした」
「やめて。あいつは今、立派な“怒りの象徴”よ。会えばまた喧嘩になるわ」
「でも……そうやって本音をぶつけ合える人、もう他にいないのでは?」
マーガレットは視線を落とした。
確かに、彼といるときだけは、嘘をつけなかった。
怒鳴り合っても、どこか安心していた。
彼の灰色の瞳の奥には、いつも誰にも見せない寂しさがあった。
「……あいつ、まだ怒ってるのかしら。昔のこと」
アンヌはくすっと笑う。
「おそらく一生怒ってますよ、お嬢様のことが好きすぎて」
「……ばか」
ワインのコルクが軽やかに抜けた。
マーガレットはグラスを受け取り、ひと口。
舌に広がる苦味が、妙に心地よかった。
「アンヌ、荷物をまとめて。しばらく実家に帰るわ」
「えっ、ローレンス領に? 雪がまだ残ってますよ」
「構わない。冷たい空気の方が、頭が冷えるの」
アンヌが荷造りを始める。
マーガレットはカーテンを開け、夜の王都を見下ろした。
舞踏会の光が遠く霞んで見える。
「愛だの結婚だの、もううんざり。……でもね、呪いでも何でもいい。
今度こそ、自分の人生に“怒らずに”笑ってみたいの」
その夜。
馬車が雪の積もる街道を走る。
マーガレットの頬には、風と涙の跡。
遠くの森の向こう――そこには、十年ぶりに彼女の“怒り仲間”が待っていることを、まだ誰も知らなかった。




