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香澄が住む3001号室は最上階の角部屋だ。
チャイムを押してしばらく待つとドアが開いた。高級そうなルームフレグランスの匂いとともに、化粧をバッチリ決めた気の強そうな美女が姿を表す。
「狭いところだけど、上がって」
「忙しいところありがとう。お邪魔します」
「あ、スリッパを履いてくれる。床を汚したくないから」
”床が汚れる”という言葉が引っかかったものの、確かにこの埃一つない大理石の床と自分の靴下だったら、考えるまでもなく靴下のほうが汚い。狭いと言われた玄関も、うちの寝室より広いのだから。
いくつものドアが並ぶ廊下を歩いてリビングに出ると、天井から床まである大きな窓に見事な景色が広がっていた。
「わっ、すごい景色!」
「毎日見ていたら飽きるわ。ま、隣の家の壁しか見えないアパートよりはマシかしら」
香澄はわたしを大きなソファに座らせると、キッチンの方へ消えていく。
「高嶋さん……でしたっけ。コーヒーはインスタントのほうがお口に合う? 豆もあるけれど、飲み慣れてるほうがいいわよね?」
「あっ……インスタントで大丈夫。お気遣いなく」
(……なるほど。伊藤さんが言っていた”別世界”ってこういうことね)
こんな天上人とうちの平凡な夫が不倫をするかしら、と単純に疑問を覚える。
コーヒーカップとお茶菓子をきれいに並べると、香澄はスマホのカメラを向けた。
「写真、ですか」
「そう。SNSにあげるのよ」
聞けば、香澄はネイルサロンのオーナー兼インフルエンサーなのだそうだ。
わたしは詳しくないからピンとこなかったけれど、何千人ものフォロワーがいて、モデルのお客さんなんかもいるらしい。
「伊藤さんの爪、ボロボロじゃない。かわいそうだから、一回無料で磨いてあげてもいいわよ」
「本当? じゃあ今度、お願いしちゃおうかな」
わたしが笑うと、香澄はなぜか意外そうな顔をした。
「どうしたの? なにか変なこと言った?」
「……いえ。なんでもないわ。ところで私に用件って何かしら?」
「実はうち、家の購入を考えているの。このマンションも候補にあって、九条さんが住んでるって聞いたから、住み心地を教えてもらいたかったの。大きな買い物だから、住んでる人の生の声って大事でしょう」
「そうだったの」
もちろんこれは、近づくための嘘なのだけれど。
香澄は顎の下に手を当てると、私の頭の先からつま先までじっと眺めた。
「……このマンション、管理費と修繕費だけで月々十万円かかるわよ」
「じゅう……!? そ、そんなにかかるのね」
「高嶋さんが買うのは低層階でしょうけど、諸費用は高層階と同額なの。住心地はいいから、身の丈に合っているならおすすめよ」
香澄は立ち上がると奥に消え、パンフレットを持って戻ってきた。
「これ、捨てようと思っていたものだから差し上げるわ。三年前にここを買ったときの資料よ」
「ありがとう」
嘘なのに申し訳ないと思いながら、折り目がつかないように丁寧にバッグにしまう。
その様子を目で追っていた香澄がポツリと呟いた。
「高嶋さんって、変わってるのね」
「えっ。そうですか? あまり言われたことはないけど」
「そうよ。……私と平気な顔して会話しているんだもの」
一瞬、何を言われているのかわからなかった。ぽかんとしていると香澄は気まずそうに目をそらす。
「他のママから聞かなかった? 九条香澄は偉そうで嫌なやつだって」
「あ……」
敬子の顔が脳裏をかすめ、わたしは香澄の言いたいことが理解できた。
「正直に言えば、ちょっと嫌味っぽい言い方だなと思うところはありますけど。でも、九条さんの本心は優しい人だっていうのは分かりますよ」
香澄は大きな目を丸くして驚いた。
「私が優しいですって?」
「だって、私の口に合うコーヒーはどっちかわざわざ聞いてくれたもの。相手を気遣う気持ちがなければそんなことしないわ。爪をタダで磨くのだって手間のかかることだし、マンションの資料も戸棚を探して持ってきてくれたでしょう。ふふっ、九条さんはツンデレなのねと思って見ていたわ」
「この私が、ツンデレ……」
「スリッパの件も、大理石の床は冷たいからと勧めてくれたんじゃない?」
雷が落ちたような顔をしている香澄は、この部屋に不似合いで、思わずくすりと笑ってしまった。
わたしは心のどこかで確信していた。
九条香澄は夫の浮気相手ではないと。
(こんなに不器用で優しい人に、不倫はできないわ)
ちらりと腕時計を見る。そろそろ出ないとパートに間に合わない。
「ねえ九条さん。最後に教えてほしいのだけど、今年のGW最終日は何をしてた? 」
「いきなりどうしたの」
「仲良くなりたいと思った人に聞いているだけ。深い意味はないわ」
「やっぱり変な人ね」
少し頬を赤らめた香澄はスマホを手に取る。
SNSの画面を確認して、わたしの方に向けた。
「五月六日はハワイよ。前後で多めに休みを取って家族旅行をしていたの」
ハワイで撮った家族写真が表示されている。テーマパークでらしき場所で、背景にしっかり日付が写っていた。
「わかったわ。ありがとう。……じゃあ、そろそろお暇するわね」
帰り支度をするわたしに、香澄はもじもじと声をかけた。
「いい景色を見たくなったら、また来てもいいわよ」
「ふふっ。じゃあ、お言葉に甘えてまたお邪魔するね。庶民の作ったクッキーが手土産でもいい?」
香澄はにやりと口角を上げた。
「とびきり上等なコーヒーを淹れて待ってるわ」
◇
不倫相手候補三人のうち、二人にアリバイがあった。残るは亀久保のぞみ一人である。
もうほぼ確定していると言ってもいい状況に、わたしは怒りと悔しさを押さえるのに必死だった。
そんな焦りもあってか、のぞみと上手く接触することができない。
のぞみは人付き合いがほぼ無く、敬子も香澄も連絡先を知らないと言う。登園や降園の時間が変則的で、顔を合わせる機会もない。
(ママ友経由も無理、偶然を装って会うのも無理。こうなったら……)
最終手段を使うしかない。
わたしは担任の先生にそれらしい理由を並べ、のぞみの連絡先を教えてもらえないか頼んだ。
「うーん。本当はあんまりよくないんですけど、今回は急ぎってことなんで特別にお教えします。亀久保さんには私の方から一言連絡を入れておきますね」
「ありがとうございます。無理を言ってしまってすみません」
のぞみに送るメールは、怒りのトーンがにじみ出ていないか何回も読み直した。
あまりスマホをチェックしないのか、次の晩に返信があった。
『わかりました。では明後日の十時に、駅前のカフェで待ち合わせましょう』
その一文を確認すると、わたしはスマホをひっくり返して布団の上に戻した。
隣では、聡太がすやすやと可愛い寝息を立てている。
(……明後日ですべてが明らかになる。彼女が頭を下げて謝るのなら話は別だけど、もしそうでなかったら……)
そっと聡太を抱きしめる。
不倫は100パーセント親の問題だ。子供につらい思いはさせたくない。
――それでも。
一人の女性として真実を知りたかった。
(ごめんね聡太。この先どうなってもママが絶対に幸せにするから。人の二倍三倍働いて、お休みの日は必ず一緒に過ごして、悲しい気持ちになる暇がないくらい楽しい思い出でいっぱいにするから)
目の奥が熱くなるのを感じながら、わたしはぎゅっと目を閉じた。