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わざわざ新しい園に転園してきた理由はただ一つ。
ここに夫の不倫相手がいるからだ。
夫と不倫相手のやりとりのスクショから、いくつかの情報がわかっていた。
一つ目は、不倫相手はこの園の”ひよこ組”――ちょうど聡太の年齢のクラスにいるということ。
二つ目は、メッセージアプリでの相手の登録名が”Kちゃん”であるということ。つまり、名前のどこかにKを含むであろうということ。
これらを手がかりにして、わたしは不倫相手の女を突き止めに来た。
探偵に依頼するとか、わざわざ転園せず外から調べるとか方法は他にもあったかもしれない。
でも、どうしても自分の手で調べたかった。
(探偵から証拠写真を提示されても、もしかしたら、偶然だと思いたくなる自分がいるかもしれない。でも自分の目で見た光景ならば、覚悟がつくわ)
(メッセージアプリでわたしのことを『愚かな女』だと笑っていたわね。愚か者はどちらなのか、この手で決着をつけてやる)
ひよこ組保護者名簿を確認すると、容疑者候補として浮かんだのは三人のママだった。
一人目 伊藤敬子
二人目 九条香澄
三人目 亀久保のぞみ
――この中に夫の不倫相手がいる。
相手はわたしの下の名前までは知らないようだったから、怪しまれてはいないはず。健一郎がいつ何をポロッと話すかわからないので油断はできない。
(ゆっくりしている時間はないわ)
さっそく一人ひとりと接触して、不倫女を探すことにした。
◇
一人目の伊藤敬子との接触は簡単だった。
敬子の登園時間を把握し、子供を送り届けたばかりの敬子に話しかける。
「あの……航平くんのママですよね。いきなりごめんなさい。今ちょっと平気ですか?」
「ああ、聡太くんのママ? うん、大丈夫だよ。どうしたの?」
敬子は緊張したようにマスクの鼻のところを直し、くいっと黒ぶち眼鏡を持ち上げた。
「航平君、空手を習ってるって聡太から聞いたの。うちもそろそろ習い事をと思っていて、よかったら話を聞かせてもらえないかしら」
「なんだ、そんなこと。いいわよ。ここで話すのも何だから、よかったら近くのカフェに移動しない?」
――うまくいった。
敬子はしっかり化粧をしてくる日とすっぴんにマスクの日とがある。
自分もそうであるように、仕事がない日は身なりが適当になる。
そういう時間に余裕がある日を狙って適当な話題で話しかけ、情報を引き出す作戦だった。
駅前のカフェは通勤時間の客が落ち着いたこともあり、店内に人はまばらだった。
「もう園には慣れた? いろいろ変わって大変じゃない?」
「聡太が楽しく通えてるみたいだから、それが一番ホッとしているかな。親の苦労はまあ、どこにいっても同じというか」
「その気持ち、すごいわかる。男の子だから毎日ひやひやさせられてばかりよね」
他愛もない会話を交わしながらコーヒーを飲み、本題に入る。
「航平くんのママもパートしてるなら忙しいでしょう。この間のGWも出勤だった?」
「GW? どうだったかな」
「わたし、駅の向こうのスーパーで働いてるんだけど。急に病欠が出て早朝に店長から電話がきちゃって。バタバタなGWだったのよ」
「休みの日にそれはきついわ。待って、今手帳を見てみるね」
敬子は手さげから手帳を取り出す。
「出勤は一日だけだったわね。あとは日帰り旅行とかに行ってたみたい。GWももう二か月も前になるのね。子育てに追われてると時間の流れが早いわ」
「最終日はおうちでゆっくり?」
「最終日はねー……。ああ、それこそ航平の習い事ね。空手の発表会があって、朝から夕方まで市民会館に缶詰。で、子どもたち皆でファミレスで夜ご飯を食べて帰ったわ」
「一日がかりですね」
「そうなのよ。タイミング悪く夫が風邪をひいちゃったから、わたし一人で付き添ったわ。もう疲れちゃって」
そのセリフを聞いた瞬間、伊藤敬子のシロが確定した。
メッセージアプリのスクショから明らかになっていることの三つ目――今年のGWの最終日の昼頃、夫は『休日出勤』と嘘をついて不倫相手と密会していた、という事実。
(市民会館とスクショにあったラブホテルは電車で数駅離れてる。発表会の合間に抜けて戻れるような距離じゃない。不倫相手は伊藤さんじゃないわ)
胸にのっていた重しが一気に軽くなった。
「伊藤さん、いろいろ教えてくれてありがとう。このカフェ、ケーキが美味しいって聞いたんです。お礼にご馳走させて」
「えっ、いいの? わたし図々しいから、遠慮とかしないけど」
「もちろん」
レジでチョコレートケーキを二つ注文して戻る。
「ほんとだ美味しいわ!」と目を細める敬子に心が温かくなった。
「ねえ伊藤さん。九条さんの連絡先を知ってる? ちょっと用事があって、連絡を取りたいのだけど」
「英恵ちゃんのママ? 一応知ってるけど……」
フォークを置いてスマホに手を伸ばす敬子の表情は、どこか渋い。
「どうしたの?」
「高嶋さんはまだ知らないわよね。でも、変なこと言って恨まれても嫌だし……」
敬子は言葉を選んでいるようだった。わたしと視線が合うと、なぜか同情するような色を浮かべる。
「……九条さんと接する時は、心を強く持ってね。わたしたちとは世界が違う人だから。愚痴ならいつでも聞くからね」
会えば意味がわかるから、とだけ敬子は言った。
連絡先を教えてもらい、敬子とは解散した。
◇
そして数日後。
わたしは駅前にそびえるタワーマンションの前にいた。
見上げると首が痛い。数年前に建ったばかりの、この街で最高級の物件だ。
「九条香澄の家は、最上階……」
敬子から連絡先を教えてもらった日、香澄に時間をもらえないかと連絡をしたところ、こうして自宅に呼び出されてしまったのだ。
ドキドキと嫌な音を立てる心臓をなだめるように胸を押さえる。すう、と一つ深呼吸をした。
「わたしたちとは世界が違う人だから」――あのときの敬子の、渋柿を食ったような顔を思い出しながら、わたしはきらびやかなエントランスに足を踏み入れた。