千年の静養 ―癒しの井戸に祈る姫―
これは、わたしがかつて暮らしていた、
とある山あいの村での記憶をもとにした物語です。
「癒しの水が湧く」「心の病に効く」と言い伝えられる井戸がある
小さな庵にまつわる不思議なお話し。
序章
それは、はるか昔のこと。
かれこれ千年も前のことである。
ある姫君が、心の病にかかったそうな。
心配した周りの者が、村人からこんな噂を聞いてきた。
「あの山むこうの庵にある井戸水を飲むと、
心も体も元気になるとか」
姫は都から山を越え、その庵に赴き、井戸水を口に含んだ。
そして静かに祈りを捧げたという。
──姫の病が癒えたかどうかは、今となっては誰も知らない。
ただ、姫の祈りが千年の時を越えて、
いまも井戸の水に宿っているという話が伝わっている──。
第一章:終点の村へ
街を離れてから、山の緑は濃く、深くなるばかりだった。
窓ガラスに頬を寄せると、夏の湿り気が薄く曇りをつくる。
乗客は少なく、話す声もしなかった。
運転席の上には「終点」の文字が灯り、
そこだけが小さな灯台のように揺れて見えた。
「つぎ、終点です」
機械の声が告げると、車体がゆっくりと減速した。
舗装の継ぎ目が車輪の下で低く鳴り、
やがてバスは、灰色の小さな待合所の前で止まった。
扉が開いた。
足を一歩、地面に置いた瞬間、ふわりと体が浮いた気がした。
ちゃんと地面に触れているはずなのに、足の裏の重力が薄い。
息を吸うと、肺の底が水で満たされるみたいに静かで冷たかった。
──ここより先、人の世が絶えるかのように感じる。
「終点」という言葉が、冗談みたいに現実を指している。
坂の向こうは、深い山と森。誰もいない世界。
気づけば、バスの最後部に座っていた人、
運転席のすぐ後ろにいた人、それぞれが、
黙って同じ方向に歩き出している。
誰も言葉を発しない。挨拶もしない。
まるで、音のない劇のなかの群像のように、同じ傾きで坂を登っていく。
私もそれに続いた。
夏草のにおいが濃く、葉の一枚一枚に山の水気が宿っている。
風がほとんど吹かない。
耳の奥では、遠いところで水が滴る音がしていた。
やがて、古い瓦屋根の建物が見えた。
木の看板に、手彫りでこうある。
山霞診療所
看板の下には、まだ新しい板片が吊られていて、
そこには丸い印が刻まれていた。
掌で水をすくう図。
木目の谷間に残る薄い色が、なぜか懐かしく、
胸の奥があたたまる。
私は、いつかどこかでこれを見たのだろうか。
石段の上に白衣の女性が立っていた。
私を見ると、彼女は小さく会釈し、二、三段降りてくる。
「ようこそ。……お待ちしていました」
声は静かで、どこか濡れている。
私は紹介状を差し出し、受付で名前を書こうとした。
ペン先が紙の上に触れる。
たしかに自分の名前をいま言えるのに、指の力がうまく入らない。
細い線が震え、姓の途中で止まった。
「大丈夫ですよ、あとでゆっくりで」
白衣の女性は微笑み、奥に案内してくれた。
廊下には、水彩の植物画が等間隔に飾られている。
光を反射しない額縁と、磨かれた木の床。
歩くたび、みしりとも言わないのに、音が吸い込まれていく。
中庭の向こう、苔むした石組みの輪が目に入った。
真夏だというのに薄い霧が底から上がっているように見える。
「あれが、井戸ですか」
私が尋ねると、彼女は短くうなずいた。
「昔から“癒しの水”って呼ばれています。よろしければ、どうぞ」
渡されたガラスのコップの水は、冷たく、すこし甘い匂いがした。
ひと口含むと、喉の内壁にやわらかい膜が張るようで、
胸のなかで硬くなっていた何かがほどけていく。
「……おいしい」
自分でも驚くくらい素直な声が出た。
白衣の女性の目が、ほんの少しやわらいだ気がした。
部屋に通されると、窓の外に井戸が見える。
四角い石の縁、つやのない鉄の滑車、長い柄のついた木桶。
古いものなのに、壊れていない。
手入れされながら、ここにずっとある顔をしていた。
夕方、風鈴の音も虫の声もないのに、
耳の奥の水音だけが、規則正しく続いた。
ぽちゃん。ぽちゃん。
私はそのまま眠りに落ちた。
第二章:水と夢
夢のなか、白い着物の女が井戸のそばに立っていた。
月明かりが長い髪の黒を薄く透かし、顔の輪郭がにじんで見える。
彼女はゆっくり振り向いた。
次の瞬間、胸のなかがひどく痛んだ。
──知っている。
知らないはずなのに、知っている。
この人を、どこかでずっと待っていた気がする。
「あなたも、癒されに来たの?」
声は井戸の底から響くみたいに低く、遠く、澄んでいた。
私は返事をしようとしたが、舌が乾いて動かない。
女は眉をかすかに寄せ、それから微笑んだ。
「水を飲めば、楽になる。……でも、ね」
風は、ない。
それでも、彼女の袖だけが、小さく揺れた。
「私は、誰にも呼ばれなくなったの」
その言葉は、決壊した水の匂いがした。
「父にも、母にも、侍女にも。
名を呼ぶ声は、都に置いてきた。
ここはね、人の世の終わり。
馬も輿も止まる。台風の後は、道が消える。
……だから、祈りだけが残るのよ。
祈りは声じゃない。声が消えても、残るもの」
私は、その寂しさに喉が焼ける気がした。
女は井戸の縁に指を置き、
ひとさし指で石の冷たさを確かめるみたいに触れた。
「癒されるには、名を預けるの」
彼女は井戸の闇を見下ろした。
「名は、重いから。ここに置くと、楽になる。
……でも、名は、あなたをあなたに繋いでいる糸でもあるの」
「名を預けたあなたは、どうなったのですか」と、
私はようやくのどの奥で言った。
声は空気にならず、水になって落ちた。
女は答えなかった。
微笑んだまま、井戸の暗がりへ、帰るように吸い込まれていった。
目を覚ますと、窓の外は青い。
まだ夜と朝の境目。
井戸の縁に、白い影が立っているように見えた。
まばたきのあと、そこには何もいなかった。
第三章:記憶の底から
夜半、目が覚めた。部屋の空気が浅くなっている。
耳の奥の水音は、もう規則的ではない。
近づいたり、遠のいたり、呼吸みたいに揺れている。
私はベッドを降り、足音を殺さないように歩いた。
誰もいない廊下。蛍光灯が一定の間隔で白い影を落とす。
床板は鳴らないのに、私の輪郭だけが薄くなっていく。
廊下の突き当たりに、昼にはなかった木の扉があった。
古い。取っ手の丸い金属は、指に吸い付くようにぬるい。
押すと、冷たい空気が頬をなでた。
小さな洗面所──ただの洗面所なのに、違和感を感じる。
壁紙の花模様は色を失い、鏡の縁はくすんだ銀色。
そこにある何もかもが、一世代前の時間を保っていた。
灯りは薄く、天井の蛍光灯がふ、と揺らぐ。
鏡に自分が映っている。
私は目を細めた。映っているのは、私の顔だ。
なのに、鏡の向こうの私が、先に瞬きをした。
心臓がひとつ飛んだ。背中に冷たい汗が伝う。
私は鏡を背にして扉に手を伸ばした。
「……お名前、なんとおっしゃるの?」
うしろから声がした。
少女でも、老女でもない。湿った木綿の衣の匂いが混じる声。
私は振り向けなかった。扉を開け、廊下に躍り出る。
閉める瞬間に、扉の内側でカチリと音がし、鍵がかかった。
次に顔を上げたとき、そこは壁だった。
扉は、最初からなかった。
第四章:水底の祈り
その夜、夢は最初から井戸のそばだった。
白い着物の女──姫──は、そこに立ち、まぶたを伏せていた。
「ここはね、陸のはてなの」
彼女は、私ではなく、井戸の闇に向かって言う。
「都から離れて、道が途切れて、声も届かない。
人はここまで来ない。……だから、私の祈りは、誰にも拾われずに残ったの」
私は遠慮がちに、でも、どうしても訊きたかった。
「寂しかったですか」
姫は、ゆっくり、うなずいた。
「寂しいっていう気持ちは、
本当は“誰かに呼んでほしい”って心から生まれるの。
誰かの名を呼んで、返事を待つ……
でも、ここでは返事はなくて、やがてその声も水に沈むのよ
沈んでしまえば、もう苦しくはないの。少しだけ、楽になるの」
私は胸に手を当てた。姫の言葉が心の奥に沁み込んでくる。
「あなたも、ここに置いていきなさい」
姫は言った。
「名を。痛みを。人の世から持ってきた音を。置けば、楽になる」
私は静かに首を振った。
「帰りたいのです。あちらに」
姫は寂しそうに笑い、井戸の縁に片手を置いた。
「帰る道は、声でできているのよ。あなたを呼ぶ声。
あなたが呼ぶ声。その糸があれば、人は山を越えていけるわ。」
彼女は指先で、石の角をなぞった。
「でも、あなた、もう少しで……自分の名を呼べなくなる」
私は、言葉をこぼすみたいに答えた。
「もう、少し?」
姫はうなずき、袖の端を井戸に垂らした。
白が闇に溶け、沈む。
私はそこで目を覚ました。
夜明け前、窓は灰色。
井戸の輪郭が薄く浮かぶ。
私は起き上がり、裸足のまま中庭に降りた。
石の上は冷たく、指先が痛い。井戸の縁に両手を置く。
水の匂いがした。あの甘さが、少しだけ強い。
私は、名前を言おうとした。
え?出てこない。名前が。自分の名前。
こわばった顏で、私は井戸をのぞいた。
底は見えない。
闇の向こうで、ひとつ波紋が生まれた。
そのとき、底のほうから誰かの指先が、
わずかに私の指に触れた気がした。
エピローグ:またひとり
数年後。
終点のバス停に、若い男が降り立った。
扉が閉まり、バスはゆっくりと去っていく。
蝉の声は遠く、風の音はない。
男は足の裏に妙な軽さを覚え、
「……なんだろう」と空に向かって小さく言った。
坂の上に、瓦屋根の建物が見える。
人々が黙って歩いていく。その背中は互いを知らないまま、
同じ方角に傾いていた。
> 山霞診療所
木の看板の下、掌で水をすくう丸い印。
男は胸の奥に、理由のわからない懐かしさを覚え、
思わず指先でその彫り跡をなぞった。指先がひやりとする。
門のところで白衣の女性が立っていた。男の顔を見て、やわらかく笑う。
「ようこそ。……お待ちしていました」
中庭では、井戸の水面が、風もないのに、かすかに揺れていた。
波紋はひとつ、そしてもうひとつ。
広がっては、戻る。を繰り返していた。
まるで、一つの歌を繰り返し歌うように。
──声が、聞こえた気がした。
男は胸に手を当て、ゆっくりと一度だけ振り向いた。
誰もいない。
受付に紹介状を出しながら、
「……お願いします」と男性が言うと
白衣の女性は、うなずいた。
井戸の底で、古い祈りが水に溶け、
祈りのための場所を、少しだけ空けた。
“癒し”とは、ときに“手放すこと”なのかもしれません。
自分の名前、過去の傷、重たい心……
それらを預けることで、たしかに楽になることがある。
けれどその井戸は、今もどこかで、
誰かの“名前”を待っているような気がしてならないのです。
読んでくださって、ありがとうございました。