思い出のメロディーは甘く切なく
「おはよう、冴香」
突然声をかけられて、冴香はベッドから飛び起きた。
「キャッ」
そこには、再び人間の姿に戻ったダミアンの姿があった。彼は陽の光を浴びて艶やかにうねる金髪を掻き上げて、悪戯っぽく冴香に微笑みかけた。
「ちょっとどういう事!?あなた、キスされないと人間の姿になれないんじゃ……!?」
ダミアンは、クスッと口元に手を当てて、妙に色っぽい大きな翡翠色の瞳でこちらを見詰めてきた。長い金色の睫毛が瞳を瞬く度に大きく上下する。
「昨夜、君は僕のことを、ギュッとキツく抱きしめて寝ていたからね、自然に唇が触れてしまったんだろう。気づいたらこの姿になっていたよ」
「何ですって〜!?」
冴香は髪を逆立てて怒った。
「私は断じてあなたにキスなんてしてな……」
するとダミアンは、右手の人差し指を立てて、左手で再び冴香の口を優しく塞いだ。
「シーッ、お母さんに気づかれてしまうよ」
冴香ははっとして口を噤み、小声で彼に話し続けた。
「ちょっとあなた、私に変なことしてないでしょうね」
冴香が疑わしげに背の高いダミアンを見上げると、彼はおやおやという風に、大袈裟に手を広げ、溜息をついてこう言った。
「やれやれ、僕はイギリス生まれの紳士だよ?そんな事すると思う?それに……」
「それに?」
「冴香は、まだちょっと色気が足りないというか……」
冴香の顔色が青くなり、下を向いて拳を握りしめ、ぷるぷると震え出した。
「どうせ私は色気が無いわよ!男なんて皆同じなんだわ、もう出て行けー!この変態!」
そう言うが早いか、冴香はダミアンの長い腕を掴んで窓から彼を放りだそうとした。
「ちょっと冴香、落ち着いて。僕が悪かった。窓から投げ飛ばすのは止めてくれないか」
「これが落ち着いていられますか!だいたいあなたは、空を飛べるんだから、窓から追い出されても平気でしょう!?」
「昼間空を飛ぶ訳にはいかないよ。冴香、本当にごめん。君を傷つけるつもりはなかったんだ。許してほしい」
二人は静かに見つめ合い、そして冴香は目を逸らした。
「……わかった。もう、いいわ……」
「許してくれるの?」
「許してはいません、でも私は忙しいの。これから出掛けるわ」
「どこに行くの?僕も一緒に行く」
「来なくて結構、職安くらい一人で行けるわ。あなたは、どこでも好きなところへ行ったらいいわ」
「ショクアンて……?」
ダミアンはぽかんとした表情で、冴香に問いかけた。
冴香は自分が仕事を失ったこと、失恋した事、住む家を失ったことなどを簡潔にダミアンに説明した。
「冴香……」
ダミアンは言葉を失って、冴香を気遣わしげに見つめた。
「大変だったんだね……」
そう言って、ダミアンはこれまで見たこともないような優しい瞳を彼女に向けた。
「同情しなくていいから。全部私がいけないの。仕事の事も恋人の事も」
「そんなことない。君はよくやったよ。これまで、よくがんばったね」
そう言われると、冴香の目には涙が溢れて止まらなくなった。
(なんで、なんでそんなに優しいの?)
ダミアンの大きくてしっとりした手が冴香の髪にそっと触れ、頭を優しく撫でた。そして冴香は雪崩れ込むように、ダミアンの胸にしがみついて大声で泣いた。
仕事を失ってからの、辛かったことや苦しかったことが一気に津波のように胸に押し寄せて止まらなかった。そうして泣き続けてからどれくらいが経っただろうか。冴香の長い髪が涙で湿り、しがみ付いていたダミアンの服もぐっしょりと濡れていた。
「あの、ごめんなさい。服を濡らしてしまったわ」
「いいんだ。僕の服はすぐ乾く。魔法で新しくすることも出来るからね。気にしなくていい」
ダミアンは相変わらず静かな笑みを湛えて、こちらを見詰めている。
「さっきは酷いことを言ってごめんなさい。あなたと一緒に出掛けてもいいわ」
「えっ、本当に!?」
ダミアンの驚いた表情が面白くて冴香は思わず吹き出してしまった。
「ええ、本当よ。ただし、人形の姿でならね」
「ちぇ、このままの姿で君と歩きたかったのに」
「贅沢言わないの!ほら、早く」
「早くって、何を?」
「……キ、キス」
冴香は恥ずかしそうに目を逸らした。ダミアンはふっと笑うと大きな身体を少し傾けて冴香に口付けた。
あっという間に小さな人形の姿に変わったので、冴香は慌てて床に落ちないようにそっと両手で受け止めた。
「じゃあ、着替えるからここに入っていてね」
そう言って冴香はダミアンの人形をハンカチにくるんでそっと鞄の中に仕舞った。
それからというもの、冴香は平日の午前中は実家の家事を手伝い、午後は職安に出掛ける日々を送っていた。そして妹一家が子供を連れて遊びに来れば子供たちの遊び相手をした。平凡だけれども穏やかで満ち足りた日々。後は良い仕事さえ見つかればいう事はないのだが、なかなか自分にぴったりくる仕事はみつからなかった。
気付けば桜の花もすっかり散り、街にはハナミズキやツツジの花が咲き始めていた。いくつか面接を受けた企業もあったものの、どこも不採用で気持ちは落ち込み続けたまま、季節は移ろい始めていく。
再び娘が塞ぎこむのを心配した母から「今日は職安に行くのをお休みしたら」と声を掛けられたので、午後の用事もなくなってしまった。仕方なく部屋の荷物の片づけをすることにしたのだが、そこで冴香は見るのを避けていたものを「見つける」ことになる。
それは押し入れに仕舞われていたバイオリンだった。少しくすんだ赤い長方形のケースを目にした途端、胸が締め付けられるように痛んだ。
(バイオリンは……音楽は私のすべて。わたしの青春そのものだった)
音楽を愛し、音楽に生きる事を夢見ていた彼女にとって、バイオリンを諦めることは、人生を諦めるに等しい事だった。
冴香はそっとバイオリンのケースを開ける。
懐かしい楓の木と松脂の香りがした。アメ色のボディはそのニスの艶を失わず、今も輝いている。恐る恐るA線(ラの音)を指で弾いてみた。
楽器はまだ生きている——
そう主張しているようだった。
すると、ダミアンの声が脳に響いてきた。
——冴香、冴香。今のはもしかしてバイオリンの音?
——そうよ、どうしたの?
——ぼく、冴香のバイオリン聴いてみたいよ。
——駄目よ、私はもう弾けないの。
冴香は、ベッドの上に置いていたダミアンの人形に軽くキスすると、彼はたちまち人間の姿に戻った。
「やぁ、やっとキスしてくれたね」
「毎日、二度はしているでしょう?もうっ、こんな事言わせないでよね?」
冴香はぷんぷんと怒るふりをした。
「……とにかくね、私はもう楽器は弾けないのよ。大学を卒業してから、もう二年も弾いていないの。きっと指が動かないわ」
「ただ弓で音を鳴らすだけでいいんだ。お願い聞かせておくれよ」
ダミアンは手を合わせて祈るポーズをした。
「わかったわ。ただ音を出すだけなら……」
冴香は楽器ケースに収納されていた弓の毛を、ネジを回してピンと張り直し松脂を入念に塗った。それから、楽器の本体を横から眺め、歪んでいた駒の位置を調節し、糸巻を慎重に回転させながらチューニングを始めた。
Aの音・ラから始まり、四本の弦の音をゆっくりと溶け合わせて調弦していく。
「わぁ」
「駄目ね。もう弦が古くて、ちょっと錆かかっているわ」
冴香は小さく溜息をつくと、すうっと息を吸ってクライスラーの『愛の悲しみ』を弾き始めた。
哀切なメロディーで始まり、まるで翻る木の葉の中に込めらた花の一生を称えるような、喜びと悲しみを歌う展開部、そしてまた仄かな憂愁に舞い戻り終曲する。
演奏が終わると、ダミアンは冴香に惜しみなく拍手を送った。
「凄いよ、冴香。冴香はやっぱり音楽をやるべきだよ」
「そんな、大袈裟な」
「大袈裟じゃないよ。本当に神々しくて、まるで本物のミューズみたいだった。楽器を弾いてる時の冴香はまるで別人みたいだよ」
「ミューズ」とは、ギリシア神話に登場する芸術の女神のことである。ダミアンはこういう表現が得意だった。だが冴香の表情が一瞬曇ったのをダミアンは見逃さなかった。
「ありがとう、ダミアン。久しぶりに弾けて嬉しかったわ」
そういうと冴香はそそくさと、楽器用クロスでバイオリンを拭き、元通りに赤い楽器ケースに仕舞った。
「もう仕舞っちゃうの?」
「あのさ、冴香。僕聞こえちゃったんだ。冴香の『楽器の声』」
「楽器の声?」
冴香はぽかんとして、訊き返した。
「そう、そのバイオリンの声だよ。彼は冴香がまた弾いてくれて嬉しいって泣いて喜んでいたよ。どうか押入れに仕舞わずに、部屋の見えるところに置いてあげて、昔みたいに。そう彼が言っているんだよ」
「そんな事言われても……」
だが、「魔法使い」のダミアンにそう言われると、本当かもしれないと思えて、押入れに——自分の目に触れないところに——もう一度置くのは躊躇われた。
「わかったわ」
「あと、もう一つ」
「まだ、あるの?」
「楽器店に連れて行って欲しいって言ってる。コンチュウが曲がっているからって」
魂柱とは、バイオリンの中央部にある表板と裏板を支える柱のようなものである。
「確かに言われてみれば、音の響きが以前とは少し違ったような……。わかったわ、明日、お茶の水の倉澤バイオリンに行きましょう」
「僕も連れて行ってくれるの」
冴香は、コクンと頷いた。
「ええ、いいわ。たまには一緒に出掛けましょう」
ダミアンは、飛び跳ねて喜んだのだった。
—―翌日
冴香は人間の姿に戻ったダミアンを連れて、お茶の水の楽器店を訪れることになった。
「ねぇ、なんか凄い視線を感じるんだけど」
「そう? 気のせいじゃない?」
これまで出掛ける時には、いつも人形の姿にして鞄に入れて持ち歩いていた為、ダミアンがこれほど目立つとは思っていなかったのだが、甘かった。
道行く外国人の姿も決して珍しくはない東京の都心でも、ダミアンの容姿は注目の的だった。
「ダミアン、私ちょっと角のドラッグストアに寄ってくるから、そこの本屋さんで待っててくれる?」
「わかった」
ドラッグストアで買い物を済ませ、本屋に行こうとした時、見覚えのある人物とすれ違った。
「冴香?」
声を掛けられて心臓が止まりそうになった。
「博人……?」
目の前に居たのは、二ヶ月前別れたばかりの三國博人だった。そして博人の隣に居たのは、あの日の浮気相手とは別の、女子大生風の少女だった。
「久しぶり」
「あぁ」
しばしの沈黙があった後に、博人は甲高い声で話しかけてきた。
「こいつ、俺の彼女。お前は新しい彼氏とかいないの?」
「……あんたに関係ない」
「おお、怖っ。お前、そんなんだからモテないんじゃねえの。相変わらず地味だし」
その時、冴香の後ろから一人の男性が現れた。
「コンニチハ。冴香のお友達ですか?」
「へ……!?」
そこには、腰まである輝く金髪を棚引かせた、長身の白人男性がこちらを見下ろすように立っていた。濃いビロードのような翡翠色の瞳がこちらを冷たく見つめている。 彼は瞳の反対色である少し赤みを帯びたブラウンのジャケットに、緩すぎない濃紺のジーンズを粋に履きこなしていた。
「私はダミアン・ラファエル・ベルジェ。冴香の恋人です」
博人は明らかに動揺して、ダミアンから差し出された手を握り返す力もなかったようだった。
「ダミアン!」
「ハニー、お待たせ」
そう言うとダミアンは軽く冴香の腰に手を回し、博人たちの前で冴香の頬にキスをした。
一瞬ヒヤリとしたが、ダミアンは人形には戻らなかった。どうやら、唇にキスしないと変身はしない仕様(?)らしい。
「ダ、ダーリン。それじゃあ、行きましょう」
「そうだね、ハニー」
ダミアンは、冴香の腰に手を回したまま、楽器店の方に向かって坂を下り始めた。
「なんだアレ……」
博人は驚いて、暫く呆然としていたが、年下の彼女に小突かれてやっと我に返ったようだった。
新緑の若葉の眩しい、五月の事だった。