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ダミアン・ラファエル・ベルジェ

翌日——


 鳴り続ける目覚ましを何度も止めて、冴香は這うようにしてベッドから降り、床に座り込んだ。

「もう、朝か……」

 重い身体を引きずりながら鏡の前に立ち、はれぼったい瞼を擦りながらやっとの思いで歯磨きをした。

(酷い顔だ……)

 結局昨夜は、博人は帰って来なかった。あの絢美とかいう浮気相手と一緒に夜を過ごしていたのかと思うと、なんともやりきれない気持ちになったが、もう何も考えたくなかった。朝まで泣き続けていたせいで、目は大きく腫れているし、こんな顔ではそのまま外に出ることもできない。

 再びベッドに戻り腰掛けると、スマホを取り出して職場に電話をかけた。

「……はい、はい。すみません。今日はお休みさせてください」

(どうせ私はもう、職場には必要とされていない人間なのだ……)

 電話を切ると、ベッドにぱたっと倒れこみ、しばらく起き上がることができなかった。

 それから何時間が経っただろう。気付くと太陽は中天に上り、時刻は昼過ぎになっているようだった。

 ぼんやりとベッドから窓の外を眺めていると、スマホが鳴った。


―—もしもし? お姉ちゃん?

 声の主は妹の舞香だった。

「舞香? どうしたの」

——どうしたのって、お姉ちゃん昨夜、私に泣き顔のスタンプ送ってきたじゃない。何かあったのかなって、心配になるでしょう?

 妹の声を聞くと心が弾み、少し元気が戻ってきたような気がした。昨日の出来事をかいつまんで話すと舞香も驚いていたけれど、ショックのあまり頭も心も凍り付いていた自分に代わって、次々と解決策を提案してくれた。

——お姉ちゃん、一度実家に帰ってきたら?

「でも……」

——お母さんには、私から話しておくから。

「あ、ちょっと」

——じゃあね!


「もう、せっかちなんだから」


 冴香はしばらく通話の切れたスマホの画面を見詰めていたが、「よし」と気分を入れ替えて伸びをした。


三週間後——


「ただいま~」


 荷造りは大変だったけど、ようやく田舎の実家に戻ってきた。「田舎」と言っても、冴香の実家は千葉のいわゆる中核都市にあった。県庁所在地ほど開けてはいないが、駅前や郊外には大型のショッピングモールやホームセンターがいくつもあるような利便性の良いところだ。もちろん、以前住んでいた東京のN区とは比べ物にならないけれども……。

 あの後、博人とは一応話し合ってきちんとお別れする事ができた。彼はアパートに住み続け、冴香は荷物をまとめて実家に帰ることになった。実家に帰るのは音大に進学し、卒業後派遣社員として就職してから実に六年ぶりのことだった。


「冴香、お帰り」


 母は笑顔で冴香を迎え入れてくれた。台所からは、魚を焼くいい匂いが漂ってくる。

「お母さん、今日の夕飯、何?」

「ん? 鯛と肉じゃがよ」

「わーい、楽しみだな」

 事情を簡潔に伝えると、母は快く私の帰郷を受け入れてくれたのだった。実家には幼い子供のいる妹一家もよく出入りしているので、賑やかだった。まだ五歳になったばかりの姪っ子に会えるのも楽しみだ。失業保険を受給しながらの就職活動は大変だけれども、実家での生活はきっと楽しいものになるに違いなかった。

 久しぶりに帰った実家は、懐かしい香りがした。二階に昇り、自室に入ると六年前家を出た時のままになっていた。東京から届いた段ボールが山積みになっている以外は……。

「はぁ、まずはこの大量の荷物を荷ほどきして、整理しなくちゃね」

 実は引っ越しまでにあまり時間がなかったので、必要なものも必要ない物も、ほぼそのまま段ボールに詰め込んで送ってしまったのだった。自分は片づけが苦手だと認識はしているものの、なかなか改善できないのが悩みだった。

 両親、妹一家と共に夕食を取った後、熱いシャワーを浴びて部屋に戻った。


 三月も末ともなると、ひんやりした夜風も心地よく、冴香は窓を開け放って南の窓から月を見上げていた。春の朧月夜は満月に近づき、ふっくらとした輪郭が優し気で、冴香は飽きもせずベッドに腰掛けて月を眺めていた。カーテンが爽やかな夜風に揺られてひらめいた時、ガタンと音がしてハッとした。

(泥棒!? 二階の窓から? 嘘でしょう!?)

 冴香が慌てて窓をぴしゃりと締めようとした時、「イテッ」という声と、誰かが自分を呼ぶ声が聞こえた。

「冴香、冴香、僕だよ僕!窓を開けておくれよ」

「きゃーーっ!!」

 そこに居たのは、黒いマントに黒い帽子、腰まである金髪を風に靡かせてこちらを覗いている異国の男性だった。驚いたことに、彼は宙に浮いていた。

「あ、あの……あなたは誰? どうして宙に浮いているの?」

 冴香は驚きのあまり声が震えていた。

 金髪の男性は、深い翡翠色の瞳をゆっくりとしばたたかせながら、次の言葉を口にした。

「今夜は月が綺麗ですね。でもこんな夜更けに窓を開け放って月を眺めているのは、不用心ですよ」

 開け放たれた窓からは、薄紅色の桜の花びらが舞い込んで、男性の金色の髪にいくつも絡みついていた。

「あなたは誰?」

「僕のこと、覚えてない?」

「分からないわ。私、変質者の知り合いは、いないもの」

 彼は不満そうに眉を少し顰めた。

「変質者だなんて、失礼な!」

「ちょ、ちょっと大きな声で叫ばないでよ!」

 そう小声で言うと冴香は、彼の黒いマントの裾を引いて、窓から部屋に引き入れた。

「仕方ないからとりあえず、家に入って」

「ありがとう」

 そういうと、金髪の男性は高い背を屈めて、そっと窓から部屋に入ってきた。

「あ、靴は脱いでね」

「もちろん!お邪魔しまーす」

 そういうと彼はピカピカの黒い革靴を脱いで手で持ち、そろりと絨毯の上の、ふかふかのハートのクッションの上に腰掛けた。

「で、あなた一体何者なの……?」

 そう言われると彼は少し緊張したように、背筋をピンと伸ばして、語り始めた。

「僕の名前は、ダミアン・ラファエル・ベルジェ。イギリスで作られた魔法使いの人形だよ」

「……思いっきり怪しい」

「どこが?」

 ダミアンは、大きな深い翡翠色の瞳を何度も大きく見開いた。

「だって『魔法使い』だなんて信じられないわ。窓から突然現れるし、宙に浮いてるし。イギリス生まれなのに、名前がフランス風なのもヘン。それに……」

「それに……?」

 冴香は次の言葉を口にするのを少し躊躇っているようだった。

「あなたは男性にしては、余りにも美しすぎるわ」

 ダミアンは思いっきり大きな声で笑った。

「はは、僕が美しいだって?魔法使いにとって、外見の美しさなど取るに足らないものだよ。それに、君の方が僕よりずっと美しいよ」

 冴香は真っ赤になって否定した。

「私が!? 何故!?」

「何故って、美しいからさ。僕は君のことがずっと好きだった。僕が君の人形になった時からずっと」

「ちょ、ちょちょちょっと、ストーーップ!!」

 冴香は再び顔を赤らめながら、ダミアンの口元を抑えた。

 その時、階下から母親の声が響いてきた。

「冴香、何を叫んでいるの。誰かいるの?」

「何でもないよ、ちょっと電話してただけ」

 そう階下に向かって叫ぶと、ダミアンの顔を見詰め直した。

「それで、あなたこれからどうするつもりなの?」

 ダミアンはぽかんとした顔で、こちらを見つめ返した。

「どうって、もちろんこのままここで君と一緒に暮らすつもりだけど……」

「何ィーー!?」

また階下から母親の訝しむ声が聞こえた。

 ダミアンは切々とここにいるべき理由を語り始めた。彼は元々冴香が大切にしていた人形だったこと。ずっと冴香を探していたこと。そして—―

「それだけじゃない。僕の占いに拠ると、君に今危機が迫っているんだ。今君の傍を離れる訳にはいかない」

「もう嫌よ、私は十分大変な目にあったわ! 仕事も失い、彼氏には浮気され家を失い……。これ以上何があるっていうの?」

「冴香、落ち着いて!」

 ダミアンはおろおろとしながら、冴香の肩に優しく触れた。

「大丈夫、僕がいるよ。君を助けるためにここにやってきたんだ」

「でも、あなたとここで暮らすなんてできるはずがないじゃない。家族になんて説明するのよ?」

 するとダミアンは、片目瞑ってウィンクしてみせた。

「大丈夫。僕は人形の姿にもなれるからね」

「……本当?」

「ただ、それには条件があるんだ」

 冴香は嫌な予感がして、動悸を感じた。

「君がキスしてくれれば、僕は人形の姿に戻れるよ」

「え……?」

 そういうと、ダミアンの整った顔がこちらに近づいてきて、唇が触れそうになった。

「わーーっ、ちょっと待って。こんなの駄目よ、好きでもない人とキスするなんて」

 ダミアンは心外だとでもいうように、手を広げて見せた。

「キスなんて外国では普通の挨拶みたいなもんだよ。それに、僕は君のことが好きだし、そんなに問題ないと思うけど?」

 確かに、冴香には今恋人はいない。博人とは別れたばかりだが、未練どころかむしろ怒りと恨みを抱いているといっていいくらいだった。

「冴香、誰かいるの?」

 母親が階段を登って二階に上がってくる気配がした。

「わ、わかったわ。本当にキスしたら人形の姿になれるのね?」

「そうだって、いったでしょ」

 冴香は目を瞑って、ダミアンに顔を近づけた。

「早く、君からして」

(えーい、儘よ!)

 冴香は瞳をぎゅっと固く瞑って、ダミアンの唇に自分の唇を押し当てた。

 瞬間、ボンッという小さな音がして、彼は手のひらに乗るような小さなぬいぐるみへと姿を変えた。

「冴香、何して……あら? そんな人形、家にあったかしら?」

 扉を開けて部屋に入ってきた母親は、不思議そうな顔をした。

「あ、ああ……。これはね、東京に居た時友達に貰ったもので、えーと……」

「ふうん。なんでもいいけど、早く寝なさいね。あなたには持病もあることだし、夜更かしは身体に毒よ」

「はあい」

 バタンと扉を閉めて母が部屋を出ていくと、冴香はどっと疲れが出て床に転がった。

——冴香、冴香。

 急に頭の中に声が響いてきた。

——もしかして、ダミアンなの?あなた、テレパシーも使えるの?やっぱり超能力者だったのね?

——てれぱしぃって、なんだい?でも僕は人形の姿の時は会話はできないけど、心の中で君と話をすることはできるんだよ。

——なんでもできるのね……。それでね、訊こうと思っていたんだけど、今日あなたをどこで寝かせたらいい?

——もちろん、冴香のベッドで。人形の姿なら別にいいでしょ?

——ええ!? ほかに適当なところもないし、まあいいけど、絶対変な事しないでよ?

——わかってるよ。それに僕は紳士だしね。そうだ、今日は君がいい夢を見られるように魔法をかけてあげるよ。

 すると、ダミアンは何か呪文を唱え始めた。

——ドゥルチャ・ソムニア

 冴香はダミアンの人形を抱えて、ベッドに潜り込むと、深い眠りに就いた。窓の外からは、靄の晴れて煌々と輝く月が顔を出し、ベッドの上で眠る二人に優しい光で照らしていた。

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