突然の出逢いと別れ
「……え? 今、なんて……?」
江藤冴香は、立った今耳にした言葉が信じられず、思わず手にしていたボールペンを取り落としてしまった。
「だからね、今回の契約は三月までということで……」
気色ばんで、派遣先の上司に聞き返した。
「どうしてですか?」
上司の畑中は、言いにくそうに目を逸らし、言葉を選びながら冴香を宥めた。
「聞けば君は、先日もまた教授の旅費精算でミスをしたそうじゃないか。以前から思っていたけれど、君は少し集中力が足りないんじゃないかな。教授はかなりご立腹の様子だったよ」
冴香の顔は途端に青ざめた。
「そんな、急に困ります」
「急ではないよ。まだ一か月ある。それまでに新しい仕事を探せばいいことだ」
畑中は落ち着き払って答えた。
「もしかして、先日教授からのセクハラを相談したことが原因なんでしょうか」
「……さあ、それはどうかな。 嫌なら君がやめれば済むことだ」
冴香の肩は震えていた。
「そんな……」
畑中は冷たい瞳をこちらに向けて、こう言い放った。
「申し訳ないけど、君の代わりはいくらでもいるんだ」
そう言うと、畑中は退職願の書類を冴香に残して立ち去っていった。
(どうしよう……)
冴香は膝から崩れ落ちるような感覚に陥り、しゃがみ込んだ。
(眩暈がする……)
よろよろと立ち上がって、薄暗い小さな会議室を出ると、そのまま帰路についた。
都会の夜は光の洪水に溢れ、夜七時過ぎでも十分に明るかった。規則的なリズムを刻む電車の音が駅から遠ざかり、何故か切なく胸が締め付けられる。
(ここにはもう私の居場所はないんだ……)
虚ろな心を持て余したまま、自宅へ向かう電車に乗ると、極彩色の夜景は徐々に遠ざかり、空っぽの心を映し出すように徐々に色褪せていった。ふらふらと電車を降り、改札口へ向かうと、古い街灯が点滅する静かな住宅街へと向かう。
都心から地下鉄で三十分ほど離れた場所にある自宅のアパートのドアに鍵を差し込むと、力なく開けた。
「ただいま……あれ?」
玄関に見慣れない、女物の靴があった。どうみても博人の物ではない。
同居人の居るはずのリビングには、何故か人気がなかった。
「博人……?」
嫌な予感に、心臓がドクドクと脈打つのが分かって、思わず胸の辺りで拳を握りしめた。
「博人、いるの?」
荷物を持ったまま、寝室のドアを開けるとそこには、同居している恋人の三國博人が立っていた。
「冴香、もう帰ってきたのか、早いな。今日は帰りが遅かったんじゃないのか?」
博人は何故か落ち着かない様子で、何度も後ろのクローゼットをチラチラと見た。
その時、クローゼットの中から物音がした。
「待って……もしかして誰かいるの?」
博人はクローゼットを庇うように、後ろ手でその扉を抑えると、おろおろと落ち着きなく視線をさまよわせた。
「やっぱり誰かいるのね? そこをどいて!」
「嫌だ、この中には大事なものが入ってるんだ! 見せる訳にはいかない」
「何を馬鹿なことを言ってるの!?」
二人はクローゼットの前で激しい揉み合いになった。
その時、突然ガタンと大きな音がして、クローゼットの扉が開き、中から一人の女性が出てきた。
「あー、バカバカしい」
「絢美!? なんで出てきちゃうんだよ」
「うっさいわね、もうとっくにバレてるでしょうが」
女性は女子高生の制服を着ていたが、外見に違和感があった。しかしそんな事を気にしている余裕も無いほど激高していた冴香は、博人の胸ぐらに掴みかかった。
「博人、どういうこと!? 女子高生と浮気してたの!?」
「あなた、目が悪いのね。私のどこが女子高生に見えるのよ」
絢美と呼ばれた女性は、だるそうに冴香を横目で見た。
「どうもこうも、まぁそういう事だよ……」
博人は観念したかのように、後頭部をぽりぽりと掻いた。
「はぁ!?」
絢美は冴香に歩み寄ると、悪びれる様子もなく声をかけた。
「あんたも見る目ないわね、やめときなさいよ、こんなエセ・ロリコン男」
「ロリコン……」
「くっそー、これからっていう時になんで帰ってくるんだよ、冴香」
つまりは、何か。博人は浮気相手に女子高生のコスプレをさせて、これから楽しもうとしていたということか?
しばらく怒りで震えて下を向いていたが、我に返った冴香は博人を軽く突き飛ばすと、「二人とも出て行ってーー!!」と叫んだ。
「ま、まぁ落ち着けよ、冴香。話し合えばわかるって……」
「この状況で何を話し合うのよ? 出ていけ、この変態ーー!!」
冴香は力いっぱい叫ぶと、博人に鞄を投げつけた。
「イテッ……」
「出て行ってってば!!」
「まぁ、今日のところは出ていくけど、帰ってくるよ。ここは俺の家でもあるんだし……」
「もう帰ってこなくていいから!!」
冴香は博人を追い出そうと、背をぐいぐいと押した。
「ちょ、待てよ……」
「うるさい!」
博人と浮気相手の絢美がアパートを出ていくと、涙が溢れ出して止まらなくなった。
「こんなのひどいよ、神様……」
この日、江藤冴香は仕事と恋人の両方を一遍に失ったのであった。