第2章 哲学者とエプロン
陽希と莉桜が目を開けると、目の前には広大なローマの街並みが広がっていた。
「……本当に来ちまったんだな」
陽希は唖然とした。
石畳の道路、白い大理石の神殿、活気に満ちた市場――まさに古代ローマそのものだった。
「すごい……本当に、2000年前のローマですね」
莉桜も感嘆の声を漏らす。
しかし、驚いている暇はない。
彼らにはセクストス・エンペイリコスにエプロンを売るという使命がある。
「さて、どうやって哲学者に会うか……」
陽希は頭を抱えながら、ローマの街を歩き始めた。
ローマの街を歩く二人は、目の前に広がる光景に圧倒されていた。
市場には新鮮な果物や香草が並び、売り子たちが声を張り上げている。
羊皮紙に記された商品リストを見せながら客と交渉する商人の姿もあった。
通りにはトーガをまとった人々が行き交い、街の片隅では演説をする哲学者たちが集まっていた。
「これ、どこで哲学者を見つければいいんだ?」
陽希は周囲を見渡しながら呟いた。
「哲学者って、どこかに集まって議論してるイメージがありますね」
莉桜が市場の奥を指さすと、確かに何人かの男たちが白いトーガをまとい、真剣な表情で語り合っていた。
「あそこか……行ってみるか」
陽希は緊張しながら足を踏み出した。
近づくと、彼らは何かを熱く議論している。
ひとりの男性が腕を組みながら、低い声で語っていた。
「確かに、我々の知識がすべて正しいとは限らない。しかし、懐疑を持ちすぎるのもまた問題ではないか?」
別の男が答える。
「だが、絶対的な真理など存在しないのでは? どんな理論も、疑い得るものではないか?」
哲学的な議論が飛び交っている。
陽希は息をのんだ。
(やばい、何言ってるかよくわからんぞ……)
莉桜も戸惑ったように陽希を見た。
「セクストス・エンペイリコスって、この中の誰ですかね?」
陽希は思い切って一人の男に声をかけた。
「すみません、セクストス・エンペイリコスを探してるんですが……」
男は陽希を見て、少し驚いた表情を浮かべる。
「お前たちは、見慣れぬ服を着ているな。どこから来た?」
「……遠いところからです」
陽希は曖昧に答えた。
男は陽希をじっと見つめると、口を開いた。
「セクストスなら、あちらにいる」
指差された先には、一人の男が座っていた。
鋭い眼差しと整った髭をたくわえた哲学者らしき人物が、静かに書物をめくっている。
「彼が……セクストス・エンペイリコスか」
陽希は息を整えながら、彼に近づいた。
「すみません、セクストス・エンペイリコスさんでしょうか?」
男はゆっくりと顔を上げた。
「……私だが、君は誰だ?」
低く落ち着いた声。知性を感じる眼差しが、陽希を射抜く。
「私は陽希といいます。こちらは莉桜。商人です」
「商人?」
セクストスは興味深げに眉をひそめた。
「あなたに、ぜひ見てもらいたいものがあるんです」
陽希は鞄からエプロンを取り出した。
「これは……?」
セクストスは目を細める。
(さて、どうやって売り込むか……)
陽希は大きく息を吸った。
セクストス・エンペイリコスは、陽希が差し出したエプロンをじっと見つめた。
薄い布地でできたそれは、ローマの衣服とは異なるデザインをしており、彼の興味を引いたようだった。
「これは……何だ?」
セクストスの声には、疑問と警戒が入り混じっていた。
陽希は心の中で考えを巡らせながら、慎重に口を開いた。
「これはエプロンというものです。料理をする際や作業をする際に、衣服を汚さないための道具です」
セクストスは目を細め、陽希の言葉を吟味するように間を置いた。
そして、ゆっくりとエプロンの布を指でつまみながら口を開いた。
「なるほど……では、これは我々にとってどのような価値があるのか?」
この問いが来ることは予想していた。
「あなたの哲学の考え方からすれば、このエプロンも“懐疑”の対象に入るでしょうか?」
陽希はあえて問いかけた。
「……ほう?」
セクストスの目が鋭くなった。
「あなたは、“すべてのものは疑われるべきだ”と考えていますね?」
陽希は慎重に言葉を選びながら話を続けた。
「しかし、もしこのエプロンが“疑うことができない実用性”を持っていたとしたら?」
セクストスは腕を組み、じっと陽希を見つめた。
「……ほう。面白いことを言うな」
陽希は続ける。
「例えば、料理をするとき、衣服が汚れるのは避けられません。しかし、このエプロンを使えば、汚れを防ぐことができます。これは、“実際に使ってみれば明らかに役立つもの”です。つまり、理論的にどれだけ疑おうとも、“行動によって証明される”のです」
セクストスはじっと考え込んだ。
「なるほど……では、これは私の哲学に対するひとつの挑戦だというわけか?」
陽希は苦笑した。
「いえ、挑戦ではありません。ただ、あなたにとってもこれは“考えるに値する道具”だと思ったのです」
セクストスはエプロンをじっと見つめる。
莉桜が小さく囁いた。
「陽希さん、うまく説得できそうですね」
陽希は静かに頷いた。
「試しに使ってみてはいかがでしょう?」
陽希はエプロンを差し出した。
セクストスはしばらく考えた後、ゆっくりとそれを受け取った。
「……興味深い」
彼の口元に、わずかながら笑みが浮かんでいた。
セクストス・エンペイリコスは、手の中のエプロンをじっと見つめた。
布の感触を確かめながら、慎重に広げる。その動作は、まるで未知の思想を探るかのように静かで丁寧だった。
陽希は緊張しながら、彼の表情を窺った。
セクストスがこれを拒めば、すべてが振り出しに戻る。
「……興味深い形状をしているな」
セクストスは、布を前に当てながら呟いた。
「我々の服はトーガが基本だが、このような形で体の一部を覆う衣服は珍しい。だが、機能性を求めるのであれば、確かに有用かもしれない」
陽希はすかさず言葉を継ぐ。
「そうなんです! 例えば、料理人や職人の方々がこれを使えば、服を汚さずに作業に集中できます。効率が上がり、仕事にもいい影響を与えるはずです」
セクストスは目を細めた。
「ほう……では、君は“エプロンの使用が合理的であり、それを疑う余地がない”と主張するのか?」
陽希は一瞬、言葉に詰まった。
(しまった……完全に肯定したら、彼の“懐疑主義”に反する……)
だが、すぐに答えを出した。
「いいえ、それは違います」
セクストスがわずかに眉を上げる。
「私は、あなたに“エプロンを疑う”ことを提案しているんです」
「……疑う?」
「はい。“使わない”という選択肢のままでいるのは簡単ですが、それでは何も生まれません。しかし、使ってみることで本当に良いか悪いかを確かめられる。“実践することで見えてくる真理”もあるのでは?」
セクストスは沈黙した。
その沈黙は、決して否定的なものではなかった。
彼はエプロンをじっと見つめながら、何かを考えている。
「……なるほど」
ゆっくりとした口調で、セクストスは言った。
「確かに、懐疑とは“疑う”ことそのものではなく、あらゆる可能性を探求するための思考法だ。君の言う通り、“使ってみなければ分からない”という考えも、一つの真理かもしれない」
陽希と莉桜は、ほっと胸をなでおろした。
セクストスはしばらく考え込んだ後、小さく笑った。
「よかろう。私は“哲学者”である前に、一人の人間だ。人間としての経験を積むことは、哲学の探求にもつながる。では、このエプロンを使わせてもらおう」
そう言って、彼は静かにエプロンを腰に巻いた。
「悪くないな」
彼は満足そうに頷いた。
陽希と莉桜は顔を見合わせ、思わず微笑んだ。
第2章 哲学者とエプロン 終