第1章 陽希と莉桜の出発
冬の冷たい風がビルの谷間を吹き抜ける。灰色の空の下、陽希は会社の窓際に立ち、外を眺めていた。
コーヒーの湯気がカップからふわりと立ちのぼり、窓に映る自分の姿と重なる。
「やっぱり、変化ってのは怖いもんだな……」
小さく呟いた言葉は、誰に聞かれるでもなく空気に溶けた。
陽希はこの会社に入って五年になる。医療機器の営業として働きながら、自分なりに誠実に仕事に向き合ってきた。
だが、ある日、会社から突然の辞令が下された。「新規事業の営業チームを立ち上げる」という決定だった。
新規事業の内容は、異なる時代や場所へ移動し、その時代の英雄たちに現代の商品を売り込むというもの。
あまりにも現実離れした話だった。
「お前の誠実さと粘り強さが必要だ」
上司はそう言って、陽希を新事業チームに選んだ。
だが、いきなり未知の世界で営業をすることになるとは思わなかった。
「……やるしかないか」
心の中では不安と期待が入り混じっていた。
そんな時、ふと背後から声がかかる。
「陽希さん、まだ考えてるんですか?」
振り返ると、莉桜が立っていた。彼女は金型工として働く職人で、今回のプロジェクトには技術者枠として参加することになっている。
彼女は陽希とは対照的に、新しいことを前向きに受け入れるタイプだった。
「いや、ちょっと考え事をな」
陽希は苦笑しながら答えた。
「まぁ、確かに突然ですもんね。でも、面白そうじゃないですか?」
莉桜の目は好奇心に満ちていた。
彼女にとって、どんな環境も「成長のチャンス」なのだろう。
「そう簡単に言うけどな……相手は歴史上の人物だぞ。どんな性格してるかもわからんし、俺たちのことをすんなり受け入れてくれる保証もない」
「だからこそ、挑戦しがいがあるじゃないですか」
莉桜は微笑む。
「それに、陽希さんなら大丈夫ですよ。誠実に話せば、きっと伝わります」
その言葉に、陽希は少しだけ気持ちが軽くなった。
「……まぁ、やるしかないな」
コーヒーを一口飲み干し、決意を固める。
彼らの旅は、まだ始まったばかりだった。
出発の日、陽希と莉桜は会社の特別な施設に呼ばれた。
そこには、まるでSF映画に出てきそうな装置が設置されていた。
「……これが、時空を超えるためのシステム?」
陽希は眉をひそめながら目の前の巨大な円形装置を見つめる。
中央には円形のゲートがあり、周囲には無数の計器とモニターが並ぶ。
「これ、本当に大丈夫なんですか?」
莉桜がエンジニアに尋ねると、研究者らしき男性が頷いた。
「実験は成功しています。理論上は問題ありません。ですが……行った先で何が起こるかは保証できません」
「保証できないって……それ、めちゃくちゃ怖いんですけど」
陽希は頭を抱えた。
「まぁ、戻って来れないってことはないんでしょ?」
莉桜は意外と冷静だった。
「そうです。装置が起動すれば、特定の時間が経過すると強制的にこちらに戻ってくるシステムになっています」
「強制的……か」
陽希は少し気が重かったが、もう腹をくくるしかない。
「最初の行き先は……」
スタッフがモニターを操作し、行き先の情報を表示する。
『紀元2世紀、ローマ帝国。哲学者セクストス・エンペイリコス』
「哲学者か……いきなり、難しい相手じゃないか?」
陽希は唸った。
「まぁ、どんな人かは会ってみないとわかりませんしね」
莉桜は軽やかに答える。
「で、持っていく商品は?」
スタッフが準備したのは、エプロンだった。
「……エプロン?」
陽希は目を丸くする。
「ローマ時代にエプロンなんて需要あるのか?」
「実際のところは不明ですが、セクストス・エンペイリコスの思想から考えると、彼にとって『実用性』がどのように判断されるかがポイントになるかもしれません」
「なるほど……とりあえず、やるしかないか」
陽希は深呼吸してゲートの前に立った。
「行きますよ、陽希さん」
莉桜が隣に並ぶ。
「おう」
二人は光に包まれ、ローマ帝国へと送り出された。
第1章 陽希と莉桜の出発 終