そして再び出会える日のために
恵太が翌朝目を覚ますと洪水が起こっていた。
いや洪水というのは比喩なのだけれど、そういって差し支えないくらいの事件ではあった。
いっしょにベッドで寝ていた美冬がおねしょしたのだ。
はじめは、お腹がぐっしょり湿ってるなあ、という感覚だった。
意識がはっきりしてくるにつれ、湿っているというより冷たい、冷たいというより濡れている。おまけにほんのり鼻をつくアンモニア臭……。
高校生にもなってやってしまったか! という罪悪感はすぐ消えた。
美冬が涙目でいちご模様のパジャマに大きな湖を作っていたから。
「ごめんなざいぃ……っ」
「だ、だいじょうぶ、だいじょうぶだから! お、お、お兄ちゃんにままま、任せな」
おねしょ卒業がまだだったか~。
「ね、姉さん、ちょっとこっちに来てくれる? 手伝ってほしいことが!」
親の手は借りられない。
そこからはドタバタと忙しく動き回った。美夏と役割分担だ。恵太が濡れたシーツとパジャマの水洗い、美夏が下着を替えさせる。たったそれだけなのに作業が終わるころにはどっと疲れてしまった。
「ちゃんと寝る前におトイレ行っとくこと! 寝る前はジュースのがぶ飲みも禁止だからね。わかった?」
「あい……」
母さん顔負けの剣幕で、美夏が美冬を叱りつけていた。
「助かったよ、姉さん。俺一人だとどうしていいかわからなくて……」
「なにを情けないこといってんの。もうお兄ちゃんなんだから、これくらい一人でできるようにならなきゃ」
「それが……妹とはいえ着替えさせたりなんだりは少し抵抗が……」
「自分が面倒見るって大口叩いたんでしょうが。そうそう、美冬のお風呂のことだけどさ。今日のところはわたしが入れるから、明日は恵太がやりなさい」
「わ、わかったよ」
反論の余地はない。
美夏はとっくに責任の重さを自覚して姉としてできることをやろうとしている。
俺も見習わなくてはいけないのだ。
奥の部屋からスーツを着たフィンがキャリーバッグを転がしながら出てきた。
なにか良いことでもあったのか笑顔がまぶしい。
「おはよう美夏、恵太。朝から大変だったね」
美冬の粗相を知っているらしい。
「パパ、こんな早くから出るの?」
美夏は名残惜しそうにしていた。
「仕事が立て込んでいてね。今度はイタリアさ。帰国は二週間後になりそうだ」
「そんなに長いんだ……」
「そうだ、忘れるところだった。これを預かっておいてくれないかい」
フィンは美冬名義の通帳を美夏に渡す。
「ゼロが一、二、三、四、五、六、七……って、こんなに!?」
「暗証番号は美冬の誕生日だよ。美夏の判断で使ってくれて構わないから」
「……わ、わかった。う~ん、どこにしまっとこうかなあ~」
お金の管理を任された美夏が階段を上がっていった。
父親と二人きりになって、恵太は居心地の悪さを感じていた。
この人がお父さんであることは納得している。
過去に何があったにしろ悪い人じゃないのもわかってる。
それでも、どう接していいのやら。
友だちと話すような感じか、それとも子どもがするように甘えればいいのか。
本当にわからない。
「わかるよ。ぼくも恵太と同じ気持ちだ。離れていた時間が長かった上に、お互いの存在すら知らずにいたんだ。なにを話せばいいのかわからなくもなる」
先に口を開いたのはフィンだった。
「そうですね……」
「幸いだったのは、ぼくらは男同士だということだ。男同士にだけ通用する秘術を使うことで、どんなに仲の悪い者でも分かり合えるようになる。親子の会話から敬語を取り払ってくれるくらいにね」
「そんな魔法みたいな方法が?」
「ああ、まさに魔法だ。その秘術というのはね…………女性だ」
「はい?」
「女性は最高だよ」
「えっと……」
「肌を合わせるとわかる。柔らかさ、瑞々しさ、滑らかさ……。一人として同じものはなく、それでいて美しさを内包する……神の創造した至高の芸術だ」
「あの……」
「お互いに好きな女性のタイプを教え合うのが一番だよ。その人の趣味嗜好性癖がすべてわかる。どんなアナリティクスも敵わないくらいにね。この国の言葉でいうなら、腹を割って話すというやつさ」
子どもみたいなこと言ってないこの人?
「ところで……恵太はいつ知ったのかな?」
「知ったとは、なにがですか?」
「ああ、ごめんね。うっかり要点が抜けてしまった。ははは。ぼくも少し浮かれているらしい」
「はあ……」
「つまり、恵太はいつ女性を知ったのか、ということを聞きたいんだ」
「女性を……知る?」
なにこれ。
もしかしてエッチな意味で聞いてます?
昨日会ったばかりの親子でする会話なのかな?
この人実は……いやどう考えても確定的に変なおじさんなのでは?
「………………何人かの女子と付き合ってきて……そのぉ、最後まで行く前に失敗してばかりで……。一緒のベッドに入ったことがあるか的な意味で聞いているなら……、まだ知りません……」
なんで実の父親にこんなデリケートなこと言わなきゃいけないんだよ。
なにやら敗北感が凄まじい。
いや勝ちも負けもないはずなんだ。
……くっ、やっぱり言わなきゃよかった。
「そうか! それを聞いて心から安心したよ。恵太はまだ、ぼくが過ちを犯した一歩手前の段階で踏みとどまっているみたいだね」
「過ち……ですか」
「恵太にはぼくと同じ過ちを繰り返してほしくないんだ。ぼくは若い頃、自分は世界中の女性に幸せを与えられる男だと信じていた。ぼくが好意をもった女性、好意をもってくれた女性と分け隔てなく付き合い、すでにアキと結婚して美夏が生まれていたのにもかかわらず十五股までやってたり……」
「あのぅ……それって控えめにいっても最低では?」
おかげで母がカンカンになってるわけだし。
「恵太の言うとおりだ。身の程知らずの自惚れ屋といっていい。調子に乗ったあげく浮気がばれて、かけがえのない家族を失うことになった。キミのママを深く傷つけてしまったんだ。せめてアキにだけは、真実を知られぬよう細心の注意を払うべきだったのに、ぼくはそれを怠った」
「いや、注意を払うよりも、最初から浮気しなければよかったんじゃあ……」
「とにかく、そんな最低なぼくだからこそ言えることがある。いくら女性を喜ばせる才能に恵まれたとしても、一人の男にできるのはたった一人の女性を幸せにすることだけさ。あの人もこの人もなんて言っていると、幸せのほうから逃げていく。さて、ここでちょっとした問題を出してみようか。恵太の前に双子のガールフレンドがいたとする。姿形はそっくり同じで、過ごした時間もほぼ同じだ。キミは彼女たちが好きだし、彼女たちもキミが好きだ。あるとき、キミは双子から同時に愛を告白される。その場で返答を求められた。さあどうする?」
「う~ん……」
甲乙つけがたいふたりをどう線引きするかという問題か。
どちらを選んだとしても、選ばれなかった人はひどく傷つくだろう。
好きな人に選んでもらえない辛さはわかるつもりだ。
「俺だったら……『嫌いだ』というかもしれません」
「双子の両方にかい?」
「どちらかを選ばなければ角は立たないでしょ」
「なるほど」
なにやら含みのある顔でフィンはうなずいていた。
「双子の調和を乱さないようにしたわけだね。恵太は優しい子だと思うよ。いや、悩ませてすまなかった。こういった問いに正解はない。自分が正しいと信じるほうを進むしかないんだ」
「じゃあ……」
「しかし、今の答えだとキミは将来、アキを傷つけたぼくと同じ失敗をしそうだ」
フィンは首を横に振った。
「傷つけまいとしているようで、キミは双子たちの愛を否定しているんだ。どちらかを選んでいれば一人は幸せにできたはずなのにね」
「選ばれなかったほうが傷ついてもですか」
「決着がつかないと次の愛を探せないと思わないかい。愛することと傷つくことは表裏一体なんだよ」
フィンはキャリーバッグを離して、おもむろに恵太を抱きしめた。
「ぼくは後悔している。アキには今まで何千回とアイラブユーを伝えたが、オンリーユーとは伝えてない。本当にバカだったよ。彼女と別れるべきじゃなかった。土下座でもなんでもして許しを請うべきだった。かけがえのない特別な存在だと、もっと早く気がつくべきだったんだ」
「だから……今まで家に来なかったんですか」
「ああ、そうだよ。情けなくて格好悪いよね。こんな当たり前のことに気づくのに、十六年もかかってしまった。恵太はいま好きな子はいるかい?」
脳裏に浮かんだのは、特別で吊り目の女子。
「……いるよ」
「その子は特別?」
「うん。まちがいなく」
「どうしてそう思う?」
「俺のためなら世界だって滅ぼせる人だから」
「なるほど。それは口説き落とさないと世界の損失だね」
「でも、すごく手強い人なんだ。全然オーケーがもらえない」
「良い方法がある。そういう子の場合は、他の子をどんどん口説いてみるといい」
「え~、なんで?」
「女性は浮気をしない男を求めるが、浮気をできない男は求めてないんだ。できるけどやらない、これがもっとも女性の心を惹きつける」
「でも、父さんはそれやっちゃって失敗したんじゃないの?」
「ははは、返す言葉もないね」
お父さんと呼ばれたのが嬉しかったんだろう。
優しい手つきで頭を撫でられた。
「行ってくるよ。みんなのことをよろしく頼む」
出て行こうとしたフィンが足を止めた。
「ああ、そうだ。美冬のことなんだが、夕食後に甘いものを与えすぎないように気をつけてほしい。でないと洗濯の手間が増える」
「うん。よ~く思い知ったから注意しとく」
そう聞くとフィンは満足そうな顔で出発していった。
慌ただしく階段を駆け下りて美夏が美冬を連れて戻ってきた。
「もう行っちゃった?」
「みんなによろしくだってさ」
「パパ、おしごといったー」
さて、朝食の用意をしようかと思った矢先、母の部屋のドアが乱暴に開かれた。
「あの恥知らずのゴミクズはどこ!?」
母の目は真っ赤で、焦燥しきっている。黒髪を振り乱して、パジャマの前ボタンは掛け違えたままだ。
「父さんならもう出発したよ」
本人がいないとわかると、母は憎々しげに「許さない! 今度会ったら息の根止めてやる!!」と吐き捨てていた。
「どうしたのママ。パパに酷いこと言われたの?」
「最悪だわ! 『綺麗だよ』だの『可愛い』だのまるで十代の小娘扱いされたのよ! 屈辱だわ……酔ってたからってあんな見え見えの手にかかるなんてぇ……!!」
「……それって褒められたんじゃないの?」
「パパはママのことすきー」
そういえば父さん、さっき母さんの部屋から出てきたっけ……。
もしかして一晩中……?
……ダメだダメだ。親のアレコレとか想像したくないよ!
同じことを考えていたらしい美夏がつぶやく。
「なんか昨日のアレが作り話かってくらいうさん臭くなったような……」
「昨日のアレって?」
「あ、いや……それより恵太どうする? じつはパパって、ウチに入れないほうが良かったりするのかなぁ。また妹か弟できたらどうしよっか?」
「……………………ノーコメントで」
新しく始まった滝沢家は波乱の幕開けに思えた。
八月三十一日 火曜日
「つ、疲れた……」
「そうね。じゃあ五分休憩としましょう」
向かいに座る冷河が度の入ってないメガネを外した。最近は勉強のルーティーンとして伊達メガネを取り入れたらしい。
恵太は背をそらして大きく腕を伸ばした。開放された学校の図書室で勉強しているのは自分たちだけだ。
夏休みは終わり、明日から二学期が始める。
運命の日から一ヶ月になる。濃密な一ヶ月だった。
父が正式に滝沢家に住居を移したこと(母さんが渋ったのはいうまでもなく。「今度やらかしたら物理的に殺すからね!」「ぼくを殺したいほど愛してくれるのはアキだけだよ」とか脅迫なのか惚気なのかよくわからないことになってた)、なんやかんや美夏が達也と付き合いだしたこと(俺はぜんぜん納得してないが……)。
そしてなにより冷河が恵太も東大受験させようと張り切っているのだ。無理だというと怒られるし、昔とは比較にならないくらいムチャぶりパワーアップ。
「こうやって図書室で勉強してると思い出すよ」
「妙成寺さんのこと?」
「冷ちゃんが転校してくる前は、よく一緒に勉強してたんだ」
多くは喜ばしいこと、楽しいことであったが、そうでないこともある。
……アシリアのこと。
この一ヶ月で彼女の痕跡はほぼ無くなった。
武村恵麻や塚本明乃、水城舟穂高をはじめとするアシリアの友人は、すでに彼女を憶えていない。
初めからいなかったかのように、きれいさっぱりと消えてしまった。
アシリアの住んでいた家は空き家となり、今彼女のことを憶えているのは、一月前の未然自動車事故に関わったほんの数人だけだ。
今になって思うのは、アシリアは女神というより天使だったんじゃないだろうか。
銀色の片翼を羽ばたかせ、世界のピンチを救うべく天から降り立った天使。
救世の役目を果たして、天国へ帰ってしまった。
そうやって前向きに考えてないと、寂寥感に打ちひしがれてしまう。
いつか会えるとはいっていたけれど、それはいったいいつ訪れるのか……。
冷河は眼を閉じて頭を休めているようだった。表情が少し寂しげに見える。
無心に努めようとしてもアシリアのことを思い出してしまうのかもしれない。
明るい話題に切り替えようと、恵太は冷河の手に触れた。
「冷ちゃん……、俺と結婚してください」
遊びじゃなく本気で伝えたが、冷河の反応は冷めきっている。
「今日の出来は三点ね。ムダを削ぎ落しすぎて求婚のセリフとしてはそっ気なさすぎるわ」
「俺には冷ちゃんしかいないんだよ」
「マイナス二点。特別扱いが効果的だと気付いたのは評価するけれど、それだけ連発しておけばオーケーっていう思い上がりが鼻につくわ」
「どこか静かなところで暮らしたいよね。結婚式はたくさん人を呼んで、子どもは三人くらいがいいかな」
「持ち点ゼロは忍びないから今のはノーカウントにしてあげる。そういうのはセクハラスレスレよ。猛省しなさい」
「……ごめんなさい。気をつけます」
「何度もいうようだけど、今は恵太くんの強化合宿なわけよ。ステップツー。わたしを口説くよりさきに偏差値を一ポイントでもあげてほしいの」
「いくらなんでも東大受験を視野に入れるのは、俺に見合ってないんじゃないかなあ。冷ちゃんみたいに頭良くないし……」
冷河は首を振ってため息をついた。
「また『泣き虫恵太くん』が顔を出してるわよ? あなたはかつてわたしの課した試練を……ステップワンを乗り越えた。だからこそ今の『王子様恵太くん』がいる。でもね、果たしてあなたがやってきたステップワンは、本当の努力と呼べるものだったのかしら」
「え? 違うの?」
「容姿がパッとしない人が魅力的になろうと努力する……というのはわかるわ。でも、あなたは違ったでしょ。女子ウケの才能持て余してただけでしょ。資質がある分野の努力は、本当の努力とは呼べないのよ。あなたがやってきたことは元々あったポテンシャルを引き出して、『泣き虫恵太くん』を引っ込ませただけの、いわばプチ努力ね」
「プ、プチ……ですか」
「恵太くんはわたしのほうが賢いと思ってるようだけど、それは違うわ。わたしは一日の大半を勉強に当ててるだけの凡人よ。遠山くんと比べたら足元にもおよばない。わたしが一時間かけることも彼なら数分で終えちゃうでしょうね」
「それはすごいね」
「だからね。頭が良くないからとか、才能がないからとか、そんな言葉で片づけてほしくないの。たとえ結果が伴わなかったとしても、やり抜けたら大きな自信に変わる。本当の努力ってそういうものなんじゃない?」
「本当の努力……、俺にできるのかなあ……」
「できるわ。ステップワンをクリアしたあなたなら。磨き上げた宝石に次のカットを加えるの。今のままじゃ歳とったら何も残らないんだから、代わるものを身につけておかなくちゃ」
「それが学力ってこと?」
「その通り。『玉磨かざれば光なし』ってことよ。どんなに優れた資質や才能があろうとも、学力ゼロならゴミ同然! 生まれ持った才能をもっと活かすためにも、あなたはもっともっと磨かれるべきなのよ」
「異次元超えるよりも学力上げるほうがしんどいんだよね……」
「じゃあこう考えなさい。あるところに恵太くんそっくりの偽者がいました。見た目だけじゃ全然区別できません。彼は『自分が本物の滝沢恵太だ』と主張しています。この場合、わたしはどうやって本物を見極めればいいでしょうか?」
なんかつい最近似たクエスチョン出された気がする。
ついでにいうなら一年くらい近い悩みも。
「え……? もしかしてそれも学力?」
「その通りよ! 一ポイントでも偏差値が高いほうが本物ってことなんだから! 偽物は本物を真似て終わりだけど、本物は常に磨かれて一歩先にいるから本物なの! 本物であるために磨かれ続けなきゃいけないの!! わかった?」
「え~~……」
子どもの頃に戻ったような晴れ渡った笑顔だった。
楽しそうでなにより……。
なんだろうなあ、このゴールポストずらされてる感。
ちょっと思っていた幸せと違うんだよなあ。
恋愛映画だったらとっくにキス以上のことやっててもおかしくないはず。
乗り越えた困難を考えたらもっとこう……あってもいいだろ!!(血涙)。
毎日のように愛の告白をしてるのに空振りばかり。
効果のある言葉を突き止めても風邪の免疫のようにそれ以降は効かなくなってしまうから困る。
休憩が終わり勉強を再開して十分ほど過ぎると、私服の達也が入ってきた。
「よお、ここだったか……」
「どしたの、こんなとこに」
酷く疲れたような顔だった。
「美夏さんに滝沢がいると聞いてな……ちょいと寄ってみた」
達也が椅子を引いた。
「お疲れみたいね」
冷河が興味深そうに見ていた。
「理想と現実のギャップについていけなくてよ……。女と付き合うってのは、口でいうほど簡単じゃないんだな」
こめかみを抑えて愚痴を言い出した。
「一度でいいから初恋ってやつが実ってほしかったね。甘酸っぱいデートをして、どっかの湖のほとりで語り合い、満天の星空を背景に唇を重ねるんだ。しかし、現実の俺はどうだ。滝沢の親父さんに命を狙われてんのに、美夏さんのパシリだぜ?」
「そのシチュエーションだとナタ持ったマスク怪人に殺されそうね。なんにせよよかったんじゃない? 念願の素敵な彼女ができて。遠山くんには仁美より合ってると思うわよ」
「……………………」
達也の文句もわからなくはない。
自分の意思に関係なく誰かの都合に付き合わされる。なにをやっても我慢の連続だろう。
だがしかし! そんなことはどうでもいい!
なにより重要なのはこいつが姉を幸せにできるかどうかだから!!
「タツは女子と付き合いたいたかったんだよね?」
「誰でもいいってわけじゃねえぞ」
「性格もいい人で」
「もちろんだ」
「究極、可愛ければそれだけでいいと」
「たしかに」
恵太は間を詰めた。
「……で、そこいくと、うちの姉さんになにか問題あるの?」
「いや、問題っつうか……お前の姉貴だし……」
「なにか問題が?」
「元がよくわからん女神らしいしなあ」
「それがなにか?」
「女心と秋の空っていうしよお。マジで俺に気があるってわけじゃねえだろ」
「それがなにか問題でも?」
真剣な目の恵太に達也はたじろいでいた。
「…………………べつにないか。考えてみたら俺にはもったいない人だよな」
「わかってくれたらいいんだよ」
自分で言わせておいて頭をガツンと殴られたような衝撃だ。一月前もそうだった。姉の交際を知ったときから胸の内を掻きむしられるような、わけもなく津軽海峡を熱唱したくなるような、とにかく失恋に似たなにかに苛まれてる。
いや、似てるというより……はっきり言うと。
これは失恋そのものだ。
アナザー恵太……、記憶を失う前の自分が、無くしたはずの感情が、構成する細胞のひとつひとつが悲鳴をあげる! 苦しんでのたうち回って血反吐をぶちまけるくらいの勢いで。
達也の認識は間違いだと思う。美夏と一緒に暮らしてきた俺だからわかる。姉さんは芝居をしてるんじゃなくて、本当に恋をしてるんだ。本人も気づいてなさそうな恋を。
恵太は、足元のスクールバッグから小さい箱を取り出して達也に渡した。
「これを預かってほしい」
「なんだこりゃ?」
「姉さんへのプレゼント。デートの終わり際でもなんでもいいから、頃合いを見てタツが姉さんに渡してやって」
それは恵太が昔購入していた税込み四九八〇〇円の鎖型ブレスレット。
自分が姉に渡すようなものじゃない。
アナザー恵太もそう思ったからこそ長い間机の奥に封印した。
でも、一生封印しておくより、役立ててもらったほうがいいと思う。
箱の中身を見た達也が怪訝そうな顔でいう。
「は~……けっこう値が張りそうだな。こいつを俺が?」
「姉さんお気に入りの一品だから。欲しがってたものは俺から聞いたって言えばいいよ」
「なんで滝沢が渡さねえんだ?」
答えにくいことをさらっと言いやがって。
こっちが姉さんに想いを寄せてたことは聞いてるはずなのに忘れてるみたいだ。
「なんでもいいから! タツが渡したほうが喜ばれるんだよ」
「そうか? まあ、そういうことなら。三時に会う予定なんでそん時にでも……」
「……いや待った! やっぱり渡すときはシチュエーションにこだわらないとダメだ。そうだな~、一月遅れの誕生日プレゼントと……交際一ヶ月記念ってことで明日渡すのがいい。絶対に明日!」
「あ、明日だな? わーったよ」
「当然、タツが買ったってことにすること! まちがっても俺が買ったものなんて言ったらダメだからな」
十分に念を押された達也は、頭を掻きながら図書室を出ていった。
冷河との勉強を再開しても、頭に美夏がちらつく。
いつのまにか鼻水まで。
ああ、ダメだ……。
最近泣いてばかりで涙腺ゆるゆる。
そんな恵太の様子を見て察した冷河がハンカチをくれた。
「ほら泣かないの。姉離れする良い機会でしょ。いいかげん慣れなさい」
「……ありがと」
「美夏ちゃんのために、敵に塩を送ったって感じね。立派なことだと思うわ」
冷河には、恵太の姉への気持ちがバレバレだったらしい。
冷河を愛してる気持ちにウソはない。
でも、それはそれとして、やっぱり悲しいものは悲しい……。
ある意味では救いか。
姉の相手は無二の親友。
いいかげんな奴じゃなくて良かった……はずだよね?
口が回るだけの人やかっこつけてるだけの男に持ってかれるよりはよっぽどいい。
とでも思わないと死にそうな気分になる。
机の上のマナーモードにしていたスマホが震える。
美夏から電話だ。
「もしもし」
「くォォォらァァァ、恵太!」
凄まじい巻き舌で怒られた。
なんで怒り心頭なんだ。
恵太はそそくさと図書室を出た。
「な、なんでしょう……?」
「また美冬にお小遣いあげたでしょ!」
「……お小遣い?」
妹と買い物行ったとき『あらいぐまのプーさんチョコ』をねだられたことがある。
「あげたといっても二百円だよ? なんかマズかった?」
「なんかマズかった、じゃあないわよっ。あんた先週先々週もおんなじことやってたでしょうが」
「……だいたい週三、四くらいのペースかなあ?」
「多すぎじゃい! お小遣いあげるわ、間食させまくるわ! あの子のおねしょが治んないのもあんたがジュース与えまくるからでしょ!!」
「そうかなあ……」
だってすごい喜んでくれるし。
妹が死ぬほど可愛いからしかたないし。
妹のためならなんでもやってあげたくなるんだよ!
美冬の面倒見るのはほぼ恵太の仕事だ。
まだ小さいので寝かしつけやお風呂もずっと付きっきり。
おねしょの対処は完璧。シーツ下にビニールシート敷いとけばよし。
どこに問題があるのかわからない。
そんなことより心配なのは妹の将来だ。
いまはまだ兄の後ろをちょこちょこついてきて可愛い盛りだけど、成長するにつれ「もう子供じゃないからあんま干渉しないでー」とか言われちゃうんだろう。
きっと小学生高学年になるころには美貌が開花して男子の注目を一身に集めるんだろう。
きっと同じころに同級生の彼氏と付き合いはじめたりもするんだろう。
そのころには「お兄ウザいー。クサいー。邪魔ー。うちにカレシ呼ぶからどっかいっててー」とか追っ払われる日が来るんだろう……。
…………想像しただけでめちゃくちゃ病む!
妹に嫌われたくないし、彼氏なんかできたら立ち直れなくなる! そんなのは姉だけで十分だ!!
まだ見ぬ妹の彼氏がふいに頭をよぎってしまう。
……あ、美冬の兄貴っスか? そっすか。妹さんめちゃくちゃカワイイっすよねえ。へっへっへ。少し妹さん借りますね。猫をやさしく愛でるよーに、俺だけのハニーをしっかりたっぷり可愛がってあげますんで。へっへっへ。
こんなん連れてきたら胸の内のドス黒い憎しみを抑えられる自信がないぞ!!!
……とまあそれはともかく、俺は美冬のささやかなお願いを断るなんてできやしないのだ。お小遣いをあげると「おにいちゃん、アリガトございます」とたどたどしく言ってくれるからね。いつもは「若パパ」でお兄ちゃんと呼んでくれないし。
お兄ちゃん。
脳髄に甘い痺れを伴う魔法の言葉。
お兄ちゃん。
お兄ちゃん。
お兄ちゃん!
お小遣いあげるだけで魔法をかけてもらえるなら安いもんじゃないか!!
いままでメイド喫茶にハマる人の気持ちが理解できなかったが、こういうものだと思うとめちゃくちゃ理解できる!
でも、こういった兄の溺愛は、母や姉にぜんぜん理解してもらえなかったりする。
家族に一人くらい甘やかす人がいてもいいと思うのに。
慣れない家で暮らしててあんまり厳しくしても……というのが我が家では通用しないのだ。
特に母さん。息子のときより教育熱心になってしまった。
(あのクズ男がどういう育て方してきたかよくわかるわ。大人に媚びれば何とかなるという甘えが染みついてるようね。うちの子になった以上行儀がよくて自立心をもった人間に育てないと)
と徹底したスパルタ教育を主張し、美夏姉さんまでそれに乗っかる始末。
「ダメ兄貴やってんじゃないわよ。起きて半畳寝て一畳ってことわざ知らないの? 身も心も贅沢にどっぷり浸かった美冬が将来どうなるか想像できる? 金銭感覚の崩壊! パパ活にホスト狂い! みっともない自己顕示欲増し増しのモンスター女子になっちゃったらどうすんの!!」
ワーオ……その言い方どっかで聞いたことある。
どうしてうちの女性陣は悪いほうに想像力豊かなのか。
「いえ、さすがにそこまでは……、ちょっと極端すぎません?」
「おだまり! 今の子はお金の大切さがわかってるようでわかってないの。せっかくママとわたしがそれを教えようとしてるのに、恵太がぜんぶブチ壊してんの。人をダメにするクッションみたいに、妹をダメにする兄貴になっちゃってんの! 本当に美冬のことを思うのなら心に鬼を飼いなさい。嫌われるのも辞さないくらいにね!」
説教を聞かされていたら廊下にいた冴子先生と目が合った。
相変わらず親の仇を見るような目だ。
先生は美冬の伯母さん。当然兄妹であるという事実も伝えてある。
(兄妹? ……ああ、神さま、どうして美冬にそんな過酷な運命を与えたのですか)
教えたらめちゃくちゃ嘆かれた。
どうしてろくでもないチャラ男に引っかかったみたいな顔をされるのですか?
冴子先生は、校内で電話はやめなさいと注意してその場を去った。
説教が一段落して電話を切った。
誰もいない廊下でため息をもらす。人生ってわからないもんだ。特に運命の日以降の日々は……。
死んだと思っていたお父さんが帰ってきたり、新しく妹ができたり、冴子先生が単なる先生という関係じゃなくなったり。
美夏姉さんは念願の彼氏ができて楽しそうだし、タツも同じく。
俺自身は冷ちゃんと楽しい日々を送ることができてる(プロポーズの返事が芳しくないのをのぞけば)。
本当に幸せだと思えた。これでアシリアがいてくれれば……と考えてしまうのはワガママなんだろうか。
仲間内では、彼女のことで悩むのはやめようという結論になった。
本人が望んだことであるし、いつかは会えると言っているんだからそれを信じようと。
でも……いつかっていつなのかな。
肝心の疑問は誰も答えられない。
恵太は気合を入れるように頬を打った。冷河の前で暗い表情はできない。いつも通りに徹しなくては!
図書室に戻ると冷河がスマホを見ていた。嬉しいことでもあったのか、その表情は柔らかい。
「たっぷり絞られたみたいね」
「妹の教育方針が対立してるんだ。姉さんと母さんは厳しく派、俺は普通派だから」
「あなたの普通はとことん甘やかすって意味でしょ。妹ラブの度が過ぎて、厳しくなんてできないじゃない」
「そうかなあ」
冷河がスマホを裏返し、持っていたシャープペンを恵太に向けた。
「当ててみせましょうか。妙成寺さんのことを考えてたでしょう?」
「いや、そんなことないよ」
「いつ会えるのかって気になってしかたない」
「どうしてわかるの。女神の読心術が使えるようになった?」
「そんなもの要らないわ。あなた、妙成寺さんのこと気にしない日がないもの」
「……敵わないなあ」
なにもかもお見通しか。
「あなたにとって良いニュースがあるんだけど、いま聞きたい? それとも勉強のあとにする?」
「そういわれると知りたくて手につかなくなりそうだから……いまかな」
「はい、これ。読んでみて」
冷河がスマホ画面を見せてきた。ニュースアプリトップページのランキング。
大ヒットとなったドラマ劇中の夫婦役が本当に結婚したとか、某野球選手二刀流で前人未到の活躍とか、おめでたいとはいえ冷河が注目するようなものはなさそうだが──
そのひとつのニュースに恵太の目は吸い寄せられた。
『完全復活!? 天才子役が復帰した理由』
(子役は短命、のジンクスを打ち破る先駆けとなるか。三歳で芸能界入りし、十一歳までドラマ・バラエティと広く活躍していた名子役芦莉愛が帰ってきた! 芦莉愛は今年で十七歳、母親との二人三脚で芝居の稽古は欠かさなかったとのこと。すでに『呪霊3』の出演も決定しており、今後もますます目が離せない!)
冷河はいまにも鼻歌を口ずさみそうだ。
「新しい妙成寺さんってことなんでしょうね。名前や外見が一緒の別人だと思うわ。……どうする?」
「それでもいいよ」
「わたしたちのことも覚えてないと思うわよ」
「もう一度知ってもらえばいいんだ」
てっきり十数年待つと思っていた未来がすぐそこまで来ていた。
でも、彼女は東京在住だろうし、いきなり押しかけるわけにもいかない。
実際どうしたらいいんだろう。
そういえば、アシリアに関する謎でひとつだけわかったことがある。きっかけは美冬だ。暇を持て余した妹がクローゼット奥のダンボール箱から宝物のようにしまわれた一枚のハガキを引っ張り出してくれた。
消印は十年ほど前。見覚えのある字でこんなことが書かれていた。
『こんにちは。いつも応援のお手紙ありがとう。笑顔のコツはね、アタシは自分が楽しかったこと、嬉しかったことを意識しながらやってるよ。笑顔の練習って意外と難しいんだよね。ケーくんもがんばって。やってみればなんとかなる! アタシも応援してるよ!』
たぶん昔の自分がファンレターを出したのが始まりだと思う。
笑顔を練習しろと冷河に言われて、その時視聴していたレスキューヒーローヒロインに直接教えを乞うたんだろう。
すごく笑顔が魅力的だったヒロインの女の子に。
当時の自分もまさか本当に返事が来るとは思ってなかったかもしれない。
アナザー恵太にとって、アシリアは笑顔の先生だったというわけだ。
ともかくこうして、記憶以外に残ったもののひとつがこのハガキだった。
アシリアがケーくんと呼んでいた理由がわかった。
ずっと覚えていてくれたんだ。
彼女にとって何気ない返信のひとつに過ぎなかったはずなのに……。
「どうするの? 妙成寺さんのところに押しかけてみる?」
「とりあえず、まずファンレターを出してみるよ」
「ファンレターか……そうね。まずはそこからって感じよね」
冷河は恵太の手に重ねた。
「見事仲良くなってみせなさい。新しい妙成寺さんともね」
「うん!」
まずはお手紙からという古風なやり方がどこまで通用するかはわからない。
アシリアの目に留まるまでやってみようとは思っている。
快く読んでもらえるかは運次第。
向こうにとっては面識のない人からの手紙なわけで、返事の期待はできないだろう。
それでもやらないという選択肢はない。
始まりは何でもやってみることだ。
完
応援してくれた方々に深く感謝いたします。
最後まで読んでくださり本当にありがとうございました。




