もう一度テンダネスVer∞
小学校の門を越えるとまた足跡が出現した。
足跡はおびただしいほどの数に膨れ上がり、道を埋め尽くした。
異様な光景に美夏の顔は青ざめていた。
「どうなってるの。なんで急に……」
「きっとかく乱してるんだ。冷ちゃんは、俺たちに見つけてほしくないんだよ」
恵太は、交差点まで戻り立ち止まった。
せっかくのアシリアの道具が裏目に出ている。
本当に見つけられるのか。探すところの検討もつかないのに。
深淵がどこまで広がっているかわからないし、街だけに限定しても隠れる場所は多い。
しかもアナザーレイカは深淵を支配している存在だ。
彼女本人だとわかる姿でいるんだろうか……。
時間はほとんどないはずだった。
アナザーレイカは、最後のキーである霧生冷河を手に入れた。
もう一人の自分に働きかけ、いつでも爆弾のスイッチを押せる。
生命のすべてを消し去ってしまえる。
子供が砂浜に作り上げた砂の城を崩すように、さしたる感慨もなくそれをやるだろう。
世界をリセットしたいという願望は決して特別なものじゃない。
どんな人間も一度は考えることなのだ。
ただ、それを実行するだけの手段を持ち合わせていないだけで──
「どうしたの恵太!」
「わからない……」
無力感に苛まれ、恵太は膝をついた。
アナザーレイカのもとにたどり着くことさえ遥かに遠い。
仮に会えたとして、どう言えばいいんだ。
彼女を絶望のどん底に追い詰めた自分に、偉そうに説得する権利があるのか。
「こらっ」
美夏は恵太を強引に立たせて頬を張った。
打たれた痛みで、恵太は現実に引き戻された。
「ね、姉さん」
「ちょっとは目が覚めた? いつから諦めが良くなったの。しゃんとしなさい!」
「でも……もう時間がない。爆弾のスイッチを押されたら終わりなんだ。それまでに冷ちゃんを見つけることなんて」
「爆弾? ……なんのことかわかんないけどさ、諦めるには早すぎるでしょ。このかくれんぼには、大きなヒントが転がってるのに」
「え?」
美夏は推理するように、指を額に当てた。
「刑事ドラマなんかでも定番でしょ。犯人は犯行に関わったことをとにかく隠したがるものよ」
「……だから?」
「あなたの考えじゃ、冷ちゃんはわたしたちに見つけてほしくない。だったら逆に足跡のないところを探したらいいってことじゃない!」
犯人はお前だ! と言わんばかりに恵太に指を突きつけた。
「えー……いくらなんでも安直な……」
とはいえ他にいい考えも浮かばない。
「手がかりはもうひとつ。今までの足跡は恵太に関係するものばかりだったじゃない。つまり冷ちゃんのいる場所はあなたが知ってる可能性大ってこと」
「……足跡がなくて、俺が知ってる場所?」
「そうそう。だいぶ絞れてきたわね」
光が差し込んだ気がしたがまだ足りない。
自宅と小学校を除外しても多すぎる。
子供時代、恋愛修行と称して冷河と一緒にいろんな場所へ行った。図書館、美術館、遊園地、ショッピングモールや県立公園、忘れている場所も含めたらもっとある。ぜんぶを探し回る時間はない。
発想の転換がいる。
もっとシンプルに考えるんだ。
俺がアナザーレイカならどうする?
彼女は、自分の生きた痕跡を消してきている。
古い世界を壊そうと思ったとき、どこでやろうと思う?
ひとつだけ心当たりがある。
それを裏付けるように、その場所へ続く足跡はない。
「行こう、姉さん」
「閃いたみたいね」
「他に思い当たるところがないんだ」
「あなたがそうだと思う場所なんだから、きっと冷ちゃん待ってるわよ」
目的の場所は、ものの数分でたどり着くことができた。
駅前方面に向かう途中に橋があり、その下には他県から続く大きな河が流れていた。
河川敷のスペースは広く、夏祭りの開催場所、休日には子供が草野球に使っていたりする。
恵太にとって思い出の場所だった。
子供のころこの河川敷で泣きべそをかいていて冷河と知り合ったのだ。
橋の近くの緩やかな斜面に立って、恵太はあたりの草むらに目を通した。
人の影はない。生い茂る草を踏みながら、ゆっくりと進む。
やはり……何もなかった。
恵太は、斜面に腰を下ろした。
美夏は恵太のことばを待っている。
「本当にごめん……違ったみたい」
「…………………」
美夏は頭を横にふって、橋の上へあがった。上からなら広く見渡せる。まだ諦めていないようだ。
恵太は、膝に額をつけて泣いた。
冷河と初めて出会ったのは六歳だったから、ちょうど十年前になる。
今みたいに無力感に苛まれた自分の様子を見かねて彼女は声をかけてくれた。
今度も同じようにはいかなかったが……
「どうしたの?」
懐かしい声音に、恵太は顔を上げた。
黒のTシャツにキュロットスカートをはいた小さな女の子。
黒檀のような黒髪に吊り上がった目。
はじめて会ったころの霧生冷河そのままだ。
「ほら。みっともなく泣いてないで」
冷河は当然のようにハンカチを差し出す。
恵太は、夢を見ているような気持ちでハンカチを受け取った。
……夢じゃない。妄想でも幻でもない。
子供の冷河がたしかに存在していた。
「ねえ、なんで泣いてたの?」
安心したのか嬉しいのか、恵太はもっと泣きたくなった。
流れ出ようとする液体をなんとか体内に留めようと鼻をかんだ。
アナザーレイカは穏やかな顔をしていた。
これから宇宙を滅ぼそうとしているとはとても思えなかった。
「どうしたら……大好きな人が幸せになってくれるのか考えてたんだ。でも、どうしてもわからなくて」
うんうんと、アナザーレイカはうなずいていた。
「そんなの簡単よ。あなたが幸せになってくれたらいいの」
「……俺が?」
「気の遠くなるほどの時が流れたわ。それでもわたしの思い出は色褪せないの。きっとわたしの知ってる子も、あなたと同じように悩んでくれたでしょうね」
「俺は……」
「その子に伝えたいと思ってたことがあるの。でも、それは決して叶わないから……あなたに聞いてほしい。ありがとう」
「感謝しなきゃいけないのは俺のほうだ」
「その気持ちだけでじゅうぶんなのよ。だから、あなたは、わたしのことはもう忘れて」
「どうして? そんなことできるわけない」
「間違った時計の針はね、正しい位置に直さなきゃダメなの。でも、それを間違いだと思ってる人がいるとまた針は戻される。そのせいで何回直しても間違いが繰り返されるんだよ」
「間違い?」
針を世界に置き換えると腑に落ちた。
アナザーレイカは、死の運命を変えようとする行動を間違いだと言っている。
「わたしは、あなたが幸せに生きられる世界を作りたかった。それなのに、あなたはいつもわたしを助けようとする。自分の身を犠牲にしてでも……。あなたがわたしを忘れてくれさえすれば、誰も不幸にはならないの。わたしが生き残った地獄のような世界も生まれることはなくなるの」
悔しそうに唇を噛みしめる様子をみて、恵太は気づいた。
もしかして……繰り返してたのか。
冷ちゃんが生き残ると、その世界の彼女が俺を救うために動き出す。
そうして俺が助かるとまた冷ちゃんを救おうとする。
一つしかない生命を押しつけあってる。
俺たちの運命は、どちらか一人の生存しか許さないんだ。
これじゃいつまでたっても終われない。
アナザーレイカはミステリアスに微笑んだ。
腕を大きく広げ上手にバランスを取りながら踊るようにゆっくり回りはじめた。
「この世界、よくできてるでしょう。今はまだ模造物でも、もうすぐ本物になるわ。他の世界が消えれば、影たちにも色がつく。ここには人を縛り付ける運命はない。誰もが自分の意思で人生を決められるようになるの」
「そんなことしても……そこに冷ちゃんはいるの?」
んべ、と彼女は小さな舌を出す。
「ばれちゃったか。でもね、いなくなるわけじゃないわ。わたしは新しい世界を見守る存在に……大げさにいったら女神に生まれ変わるんだよ」
アナザーレイカが右手を上げた。
河の中心がぱっくりと割れ、中から透明な膜に覆われた冷河が現れた。
「冷ちゃん!」
泡の中の冷河は、息を切らし憐みを込めた表情で口を開いた。
「……神の真似事などよせ。他の世界を滅ぼしたところで、お前の心は癒されないというのに」
「黙りなさい」
「…………ッ」
アナザーレイカが手を握りしめると、冷河は身を強張らせて動かなくなった。
「いつもいつもわたしの邪魔ばっかり。女神を名乗るならものを壊すだけじゃなくて、新しいものを生み出してみせなさいよ」
美夏が事態に気づいたようだった。
橋の欄干から飛び降りようとしていたが、不可視の何かに遮られていた。
「ちょっと! どうなってんの」
見えない障壁をしきりに叩いていた。
「わたしの命は終わっても、胸に蠢く憎悪は消えなかった。必要だったからよ。運命に縛られた古い世界を壊して、新しいものを生み出さなきゃいけない。わたしの味わった苦痛と絶望は、安楽と希望を生み出す糧になるの。蝶がさなぎを脱ぎ捨てるように、新しい世界へ生まれ変わるところを見せてあげる」
まるで世界中に響かせるようにアナザーレイカは高笑いした。
河の向こうに天を貫くように光の柱が現れた。光は無数と思えるほどに数を増していく。光の中心には人の影があった。しだいに鮮やかな色がつきはじめ、人間としての輪郭が鮮明になる。
「さあ、みんなこっちにいらっしゃい。ここには理不尽な運命も、死を懇願するような不幸もない。みんなが幸せでいられるわ!」
とうとう始まった。
急ピッチで進む突貫工事のように異空間は現実世界へ移り変わる。
異世界で消滅させられた人たちは、死んだわけではなかった。
新たな宇宙のたまごとなる領域に送られていた。
深淵はアナザーレイカの願う理想郷になる。
宇宙の構造から切り離され、逃れられない運命を排斥した絶対平等の世界。
彼女のやっていることは悪いことじゃない。
歴史上誰も成しえなかった最大の善だ。
運命に逆らって多大なリスクを背負う必要もなくなる。
運命が存在していても誰かが不利益を被るだけじゃないか。
理性では正しいことだってわかってるんだ。
わかってるはずなのに……それでも……。
「俺はいやだよ。冷ちゃんはなにも悪くない。ぜんぶ俺が悪いんだ。俺が始めたことのせいなんだ」
「どうしてそんなこというの。なにが気に入らないの。みんなが幸せになれることなのよ」
「冷ちゃんはどうなるんだよ。他の人たちは救えても、肝心な人が救われてないじゃないか。冷ちゃんがいなくなる世界なんて、俺には耐えられない!」
「あなたはわたしがいなくても十分にやっていけるわ。そうでしょう? だって、あなたはタキザワケイタなんだから」
「そんなことない……、俺は冷ちゃんが思ってるほど強くないんだ。大好きな人と一緒じゃなくなるなんていやなんだよ」
アナザーレイカが哀しい表情をみせた。
「おんなじ顔をしていても……やっぱりわたしの知ってる恵太くんとはちがうのね。あの子ならそういう言い方しないもの」
恵太は、はっとした。
まただと思った。期待外れだと落胆されている。しかたのないことなのか。俺は彼女にとって他人も同然だから。これじゃ聞き入れてもらえない。アナザーレイカの期待に応えられない限り、カタストロフィは止められない。
追い詰められ直感が働いた。
彼女たちが期待外れだという理由は同じなのだ。
この理由を埋めることができれば、タキザワケイタの言葉として伝えられる。
……どうしてもわからない。
今の俺は、他の教えを取り入れた"破"の段階だという。新しいものを生み出す”離”の段階に至ってないと冷河は言った。『好き』とか『愛してる』以外に、たった一言が足りないと。
それを考えろ!
アナザーケイタにはできていて、今の俺にできないことってなんだ?
「俺は……自分のことが好きだよ。ナルシストだってよく言われる。自分の顔、身体、声、性格、ぜんぶだ。嫌いなところなんてひとつもない」
恵太の独り言に近い。言葉で吐き出さないと考えがまとまらなかった。
「いきなり何の自慢話?」
「冷ちゃんのおかげだよ。中身のない俺をほめてくれた。王子様という役を教えてくれた。冷ちゃんが認めてくれたから好きなんだ。冷ちゃんがいなかったら、滝沢恵太という人間はどこにも存在しないんだ」
恵太はゆっくりと近づいて彼女の手を握った。
「……やめて。わたしはあなたの言っている人とは違うの。あなたが感謝しているのは、そこで眠っている子でしょ」
アナザーレイカは空中に張り付けられた冷河を眺めた。
目を尖らせて体を震わせていた。
「もう一人のわたしというだけで虫唾が走るわ。できることならわたしの手で引き裂いて殺してやりたいくらい。何の根拠もなく今日と同じ明日が来ると信じているレイカ。物事をはき違えて、やるべきことをやろうとしなかったレイカ……。苦痛と絶望を味わう前の、わたしじゃないわたしなのよ」
「感謝したい人は、違ってもいいと思う。貰った恩を人づてに伝えていけたら、巡り巡って届いてほしい人にも届くよ」
力づくで振り払われた。
「だったら感謝する必要なんてないじゃない。はっきり言ってあげましょうか。あなたみたいな人はね、わたしなんかいなくてもなりたい自分になれていたのよ!」
「そうかもしれないし、そうじゃなかったかもしれない。でも、俺は、冷ちゃんに助けてもらった恵太なんだ。一人じゃなにもできなかった。きっとキミの知ってる恵太もそうだよ。いま、俺がここにいることが、その証拠だと思う」
アナザー恵太が他に何人いたのかはわからない。
宇宙が無限に等しいというのなら、たくさんの俺がいたんだろう。
みんな冷河のために奔走した。
永遠のような時間、膨大すぎる世界を旅してきた。
もし、たった一人でも自立できた恵太がいたら、旅を続けることはなかった。
どうしても冷河を助けたかった。
その理由は、言葉にして一言で済む。
(ああ……そういうことか。怒られたのも当たり前だった。なんでこんな簡単なことがわからなかったんだろう)
恵太は膝をついてアナザーレイカを抱き寄せた。
気づいたら何のことはない。
冷河はずっとヒントをくれていた。
わたしの言うことは真に受けなくていい、と。
"離"の段階に進むために必要だったこと。
それは──
「一番……、大好きな人のためじゃないと、ここまで来れなかった」
首筋に冷たいものが落ちた。
『女子には親切に、公平に接しなさい。王子様に贔屓があっちゃいけないんだから』
子供のころに教えられた鉄則。そして、彼女が口にしなかった続きは──
『だけど、わたしだけは特別扱いしなさいよね。わたしだけが知ってるの。あなたの泣き虫でダサイところもぜーんぶ』
一番とか、あなただけとか、この世でもっともとか。
特別扱いの一言が足りてなかったのだ。
とんでもないくらい回り道をした気がする……。
バカだのアホだと愚鈍だのと言われても本当にしょうがない。
たったこれだけのためにどれくらいの時間がかかったんだろう。
抱き寄せたアナザーレイカの背丈が変わっていた。
いつの間にか腰の辺りを抱いている。
二十代になり、美しさの絶頂にある霧生冷河だ。
恵太が呆気にとられていると、さらに変化が起こる。
頬の肉は削げ落ち、皮膚はゴワゴワとひび割れ、黒く美しかった毛髪の色が抜けた。
おそらく六十を超えているだろう。
老婆は、恵太の頭をそっと撫でた。
「がっかりしたでしょう。これが本当のわたしよ。嘘偽りのないわたし……」
恵太は立ち上がった。
「俺ががっかりするとしたら、冷ちゃんと一緒に年をとれなかったことだよ」
もう一度抱きしめた。
見せたくなかっただろうに……。
それでも正々堂々とさらけ出せる強さを持つのが冷河だ。
その強さがひと際美しく輝いてるように見えた。
「今度こそ、一緒に年をとっていけたらいいのに……」
アナザーレイカも強く抱き返してくれた。
会えなかった時間を取り戻すように……。
「本当に……素敵になれたね……恵太くん……」
「俺なんて、まだまだだよ」
轟音が鳴った。薄氷が割れるように、地面の亀裂が広がった。地面の下には広大な闇。落ちたら二度と戻ってこられないような果てのない暗黒だ。
「恵太ぁ!」
後ろで叫ぶ美夏の声に気をとられた。
その瞬間、抱き合っていたアナザーレイカがいなくなっていた。
「冷ちゃん、どこに行ったの!」
「冷ちゃんはそこよ。早くつかんで!」
美夏が指差したのは、空中ではりつけにされていた冷河だ。
忽然と消えたアナザーレイカはどうしたのか。
いまの状態では知りようがない。
……頭を切り替えるんだ。絶対に守りたい人が、目の前にいる!
恵太は浅瀬に入り、冷河の真下に移動した。
彼女の高度が徐々に下がっているように見える。
待ち構えていれば受け止められるだろう。
「うわっ」
光の柱は消失し、深淵の揺れがますます激しくなった。
倒れないようバランスを取りながら、なんとか冷河の腕を掴むことができた。
意識の戻らない冷河を抱え河川敷まで運んだ。
「このおっ」
美夏は何度か掌底打ちを繰り返して障壁を破壊した。
恵太は駆けつけた美夏と一緒に冷河を運んだ。
「また月でも落とされそうな……イヤな予感するわね……」
「とにかく避難しないと……」
河川敷を登りきったところで、恵太の指輪から声が流れた。
「やったね」
「アシリア!」
通信機になっていたらしい。
「深淵の相転移が確認できた」
「その……フェイズシフト、ってなに?」
「水中の魚は氷の中じゃ生きられないのといっしょだよ。とにかくすぐ出ていかなきゃ。……そっちの座標が乱れてるけど、ミカがいればなんとか……すぐに出口を作る」
白い扉が出現すると、さらに大きく大地が揺れた。
立っていられないほどの振動に、恵太たちは地面に伏した。
天変地異の大きさに身じろいひとつできなかった。
大地が巨大な爪で引き裂かれた。
新たに発生した断層は、恵太たちのすぐそばであった。
「そんな、冷ちゃんっ」
冷河の体を掴む暇もなく、彼女は奈落へ落ちた。
穴は深く、奥の底をうかがい知ることはできない。
底が存在しないのかもしれない。
深淵の内側は、さらなる異空間なのだ。
真っ黒なクレバスを降りようとする恵太を美夏が引き止めた。
「わたしが助けに行くから、あなたは先に逃げなさい!」
「待って、ミカは動いちゃダメ! フェイズシフトが進行してるんだ。移動されたら出口を維持できなくなる」
アシリアの叫びに美夏は反論した。
「でも、このままじゃあ……」
「ケーくんに行かせて。封印はもう解けてるから、彼に装備を!」
「わ、わかったわ。んん~…………能力解放ぉっ」
そう唱えると美夏の腰に銀色の尾翼が出現した。
シートベルトロックを解除するような調子で外していく。
「恵太、これ腰に巻いて」
「ええっ、なにこれ?」
「マジキュアの使ってた空飛ぶ箒みたいなもんよ。念じるだけで飛べるから、あなたにも使えるはず」
アシリアの使っていた片翼と同じものか。
恵太が尾翼を装着し終えると、美夏は腕に巻かれたゴールドリングを差し出した。
「あとこのリングも。色んなものを引き寄せたり、超能力っぽいことができるようになるから」
「これも念じるだけでいいの?」
「大事な人を手放したくなかったら、何が何でも掴み取ってきなさい」
恵太は親指を立て、意を決して断層に飛び込んだ。
延々と体が落下していくような感覚をおぼえた。
静かすぎて耳鳴りがしてきた。黒と藍色で染めあがった世界の中には、星々の瞬きのような光が溢れている。
「減速しないと」
ずいぶん深くまで降りたはずだ。まずは停止しないとどこかに流れた冷河を探せない。
美夏から借り受けた尾翼の出番だ。
はじめて乗った自転車を停止させるような気持ちで念じた。噴射される炎は不思議と熱くなかった。
未経験すぎて戸惑いは多いものの、自力飛行できるパラグライダーだと思えばなんとかなる。
黒い液体の中を泳ぐようで、ノロノロしたスピードしか出せないのがもどかしい。しかも装置が敏感で、操縦者の思考が乱れると上へ下へとすぐブレる。乗り物酔いしそうだ。小一時間ほど練習したら上達しそうだが、今はこれが精一杯だった。
上下左右、あらゆる方向に気を巡らすように探した。冷河の姿は見えない。いったいどこまで落ちたのか。離れすぎたら探しようがなくなる。
「冷ちゃん! 聞こえてたら返事して!」
取り戻す、恵太はその一心だった。ここまで来て肝心の冷河を取り返せないでは死んでも死にきれない。
「冷ちゃんを連れ戻せるなら、俺は死んだっていいんだ……だから……」
誰にともなく懇願する。
恵太の独り言を叱責するものがいた。
「こらあっ!」
指輪から聞こえたのは美夏の怒声だった。
「ね、姉さん」
「なんべんおんなじこと言わせんねん! 死んでもいいなんて覚悟はできて、どうしてみんなで生きて帰るって覚悟はできないのよっ!」
「でも……どこにもいないんだ。真っ暗な底なし沼みたいで、あとは遠くに小さな光が見えるだけで……」
「だいじょうブイよ! わたしには冷ちゃんの位置が正確にわかってるの。恵太からだいぶ離れたところにいるわ。ナビゲートするから言う通りに進んで。わかった?」
「わ、わかった」
「よ~し、まずは二時の方向を向いて……」
美夏の誘導に従い恵太は前進した。
完璧にまっすぐ進むということが思ったより難しく、ほんの少し角度をまちがうだけで明後日の方向へ行きかねない。冷河がいまだ遠い位置にいるのならなおさらだった。
美夏がその都度方角を修正してくれた。
「恵太、方向がずれてきてる。どうしたの?」
あれは……なんだ……?
一瞬目の端に小さなものが映った。長方形の白い紙が宙に浮かんでいるのだ。
恵太は、ゴールドリングを巻いた手をかざした。
こっちに来いと念じて白い紙を引き寄せた。
『tenderness』
きれいに整った手書きの文字。
「これって……英単語の暗記カード?」
冷河がいつも使っていたものだ。
取った先から別のカードを見つけた。
点々と続く水滴のように、持ち主に通じているかもしれない。
しかし、美夏が指示する方角とは違う。
いったいどっちが正しいんだ。
「そっちじゃないわ。恵太!」
冷河の生命の鼓動を強く感じる。
カードが教えてくれている、持ち主はこの先だと。
美夏の千里眼を疑うわけじゃない。
だが、体の奥から衝きあがってくるような直感を無視することもできない。
「ごめん、姉さん。それでも、俺は……」
恵太は、カードの指し示す方向を目指すと心に決めた。