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遠く過ぎ去りしもの

 タキザワケイタの死から一ヶ月が過ぎた。

 彼は自動車事故に巻き込まれたキリウレイカの身代わりとなり命を落とした。

 哀しみと絶望の淵にいたレイカの心を救ってくれたのは、彼の母親だった。


「あなたが助かってくれて本当に良かった。どうか自分を責めずに、幸せに生きてほしい。あの子もきっとそう願ってるはずよ」


 息子を失いやつれた様子の母親の言葉は、彼のように優しかった。

 彼の分も強く生きようと、レイカは決心することができた。


 レイカは月に数回、ケイタの母親の元を訪ねるようになった。

 いくら気丈に振舞っていても母親の受けた傷は計り知れない。

 同じ苦しみを共有するもの同士。少しでも母親の力になることが、自分にできるせめてもの恩返しだと思っていた。


 四年が過ぎたある日、いつものようにレイカは母親の家を訪れた。

 ベルを押しても返事がない。

 在宅のはずだった。彼女は教師の仕事を辞めており、外出することはめったにない。


「アキさん? いませんか。レイカです」


 玄関を開けた瞬間、鼻をつく異臭がした。

 彼のお葬式のとき、最後のお別れをしたときの嗅いにとても近い。

 暗い闇の底を這う死の臭い……。


「アキさん……?」


 嫌な予感がして、レイカは家に上がった。

 居間のソファに横たわっている母親を見つけ、体を揺すった。


「寝ているんですか」


 母親の唇は青紫色で、すでに息はなかった。床には睡眠薬と思われる錠剤が大量に落ちていた。


「そんな、アキさん……、お願い、目を覚まして」


 母親の腕が力なく垂れ下げり、その手に折りたたまれた手紙が落ちた。

 頭が真っ白になりながら、レイカは手紙を広げた。

 それは、離れたところに住む親族にあてた遺書であった。

 そこには、息子を失ったことによる心の闇がつづられていた。


『──わたしは、恵太が人の命を救ったことを心から誇りに思っています。

 その点に関して疑いはありません。

 しかし、善いことをしたはずのあの子がどうして死ななければならなかったのでしょう。

 避けられない運命だったのでしょうか。

 恵太が亡くなった日から、それだけを考えて生きてきました。

 あの子はわたしのすべてです。

 恵太がいなくなったあとの人生を生きることはあまりに辛い。

 努力はしたつもりですが、もはや限界です。精も根も尽き果てました。

 もし、神様がいるとして、恵太を連れていかざるをえない理由があったというのなら、わたしにできる最善の選択はひとつしかありません。

 わたしは、あの子のいる所に旅立とうと思います。

 あとのことはよろしくお頼み申します。 滝沢明来』


 その夜、近所の住人の通報により滝沢家前を警察救急両車両が詰めかける事態となった。

 四十代女性の死亡者一名と二十代女性の意識不明者一名。


 前者の死に事件性はなく、睡眠薬の過剰摂取による自殺。

 後者の女性は、後追いの可能性が高いと思われた。




◇ ◇ ◇




 光の牢獄から解放された時、恵太は森の中にいた。

 木漏れ日のおかげで明るくはあるが、森の雰囲気は陰鬱だった。

 大地からのぞいた岩には苔がむしていて、樹木の根群は無節操な蛇のように伸びている。

 前人未踏の秘境か原始の密林といった趣だった。


「ここは……どこなんだろう」


 自然の生気は満ち溢れているのに、どこか現実感が無くて闇を孕んでいる領域だ。

 もしかすると富士の樹海のような場所なんだろうか。


「……待っていてもしかたない」


 美夏、アシリア、冷河の三人が気がかりだ。早く脱出しなければいけない。


「聞こえる?」


 四方からアシリアの声が聞こえた。

 辺りを見渡しても姿は見えない。


「アシリア! どこにいるの?」

「質問はあと。とにかくアタシのところに来て」

「そうは言われても、きみがどこにいるのかわからないんだ」

「光の柱を目指して」

「柱?」


 密集した木々を注視すると、その中のわずかな隙間に糸のように細い光が天に向かって伸びているのが見えた。


「その方角にまっすぐ向かってきてくれればいいからね。ケーくん」

「け、ケーくん?」


 はじめての呼び方だった。

 とにかく、今はアシリアを目指して進むしかない。

 恵太は、木の根が隆起した地面に足を取られないよう気をつけながら歩いた。


「ケーくんはさ~、自分のことどう思ってる?」


 暇つぶしでもするような質問だった。


「アトロポスさんにも同じこと聞かれた気がするよ」

「ちょっとイジワルな質問だったかな。運命の当事者であるキミには答えられないよね。……よし、じゃあアタシがビシッと教えてあげちゃおう。今の君は、最初のキミとは大きく変わってきてるんだ」

「最初の俺?」


 足元に小さな沢があり、大股で乗り越えた。


「アトロから異次元世界の話は聞いてるでしょ。宇宙の数は無限に等しいくらいあるから、人間も同じなの。ケーくんと似て非なるケーくんもいたわけ」

「それってアナザー恵太のこと?」


 異次元世界の同一人物はたしかに存在するだろう。今の自分がそうなのだから。


「そ。今のケーくんに起こってることは、キミがはじめてじゃないんだ。もうずっと以前から同じことを繰り返してきたんだよ」


 急勾配の段差が現れた。地面から突き出た木の根を階段にして慎重に上る。


「最初のケーくんは、レイカを事故から守ることができなかったんだ。その後悔の思念は、次元を越える波となって別世界のケーくんに届いた。それがすべての始まり」

「最初の恵太、か。それが度々見てた予知夢の正体……。異世界にも俺と同じように、冷ちゃんを助けようとしてる恵太がいるってことか」

「正確にはいた、だよ。キミはその最後の一人」

「さ、最後?」


 思わず根から足が滑った。

 だいぶ歩いたと思うのに、なぜか一向に柱へ近づいている気がしない。


「無限の宇宙ではなくなっちゃったんだ。無限を飲み込むほどの勢いで終局が加速している。わかりやすくいえば……世界総オワコン化? 放っておけばキミの住む世界も終わっちゃうだろうね」


 終わるというのは、アトロポスの言っていた滅びの未来のようになるということだろう。


「それってやっぱり……俺のせいだよね。アトロポスさんのいうように、俺が運命に逆らったから」

「それはひとつの例え。もっと正確に言ったら、ケーくんのアフターフォローが不完全だったからだよ」

「……? ご、ごめん。言ってる意味がよく……」

「最初のケーくんは、エコーと呼ばれる思念波を別の世界へ飛ばした。彼女に生きていて欲しいという純粋な願いをね。そうやってレイカの運命を変えようとした。その甲斐あって、あるひとつの世界ではレイカの命を救うことができた。しかし、その後が良くなかった」

「良くなかった?」

「結果的に、キミはレイカを苦しめたからだ」

「苦しめた……なんで」


 なにかおかしい。彼女が事情に詳しくなっているし、呼び方も違和感だ。

 この声は、本当にアシリアなんだろうか。


「そりゃあアタシは一応人を導くことを是とする……あ~、そこそこ、動かないで。そのポイントドンピシャ。まったくもー、アトロのやつ面倒なところに放り込んでくれちゃって、捜すほうの身にもなってよ。ちょ~っと待ってね。すぐ扉創るからさ」

「で、でもまだぜんぜん柱には……」

「いいの、いいの! 方角さえ合ってれば」


 木の根の階段を上がり切ったところで恵太は止まった。

 目指していた光の柱はまだずいぶん先だ。

 指示通り待っていると目の前の空間が陽炎のように揺れた。

 樹海に不釣り合いな白いドアが現れた。


「さあどうぞ。入ってきて」

「う、うん……」


 まるでどこでもドアみたいだ。

 ドアの先がどうなっているのか想像つかない。

 狐につままれた気持ちで、恵太はドアを開いた。

 目のくらむような光が広がった。


「……ここって」


 傾斜のある床に大量のリクライニングシートが設置された薄暗い空間。

 映画館のように思えたが、どの壁を見渡してもスクリーンはない。

 天井がドーム状になっており、これが全天周スクリーンになっているようだ。

 映画館というよりプラネタリウムに近い施設だろう。


「じゃ~~ん。次元観測室『フェイト』へようこそ~!」


 暗闇で見えなかった最後尾の席からアシリアの声。短い拍手を叩いていた。

 館内の調光器が作動した。

 立ち上がったアシリアは、ゴスロリシャツに腰のくびれを強調したコルセットを巻いてふんわりスカートを穿いていた。メイド服を基調にした魔法少女風のコスチューム。これでマスケット銃を持っていたらとある人気キャラのコスプレになる。


「……どしたの、その格好?」

「あ、あれ? 反応薄いな……。もしかして、アタシの服どっかおかしい?」

「似合ってるとは思うけど……どうしてコスプレしてるのかわからないっていうか……」


 はじめてデートしたとき以上に違和感がある。

 アシリアが手で制した。


「待って。みなまで言わなくてもキュートでワイズなアタシはちゃんとわかってるから。ケーくんはいま『なにこの痛いカッコした空気読めないクソバカアホ女』って思ってるんだね?」

「そ、そこまでは思ってないから……」


 ものすごく悪意に満ちた言い方するとそうなるけれども……。

 アシリアは詐欺師に騙されたような表情を浮かべてシートの背もたれに顔を埋めた。


「クロトのウソつき! これが女神っぽい正装って言ったじゃん! 羨望の眼差し向けられるっていったくせにぃ! くきぃ~~~っ」


 柔らかいシートに恨みのこもったパンチを打ち込んでいた。

 ストレスを発散し終わったのかすっと立ち上がり。


「ごめん。ちょっと待っててくれる? このふざけた服着替えてくるから」


 恥を忍ぶような足取りで館内扉から出ていった。

 恵太は、言われた通りシートに座って待った。アシリアの様子が変だ。姿形や声はまちがいなく彼女なのに別人に思えてしまう。

 三分もしないうちにアシリアは戻ってきた。助けに来てくれたときと同じ制服だった。


「アタシは決めたよ……もう二度と他人のアドバイスをうのみにしない! ファッションは自分で選ぶのがいちばん!」


 シートの後ろを飛び越えて恵太の隣に座った。そのままシートを倒して天井を見上げる格好になった。


「アシリアはどうやってここに? というか、ここがどこなのか知ってるの?」

「アタシは自分の意思で来たんだよ。フェイトは異次元世界を覗くための施設なんだ。うえを観てみ。ちょうどクロトとアトロがガチでバトってるから」

「えっ」


 天井のスクリーンに映像が映った。美夏と冷河が剣のような武器を手にして闘っている。音は聞こえなかったが、その戦闘の凄まじさが伝わってくる。互いの武器が一回、二回、三回とぶつかり合うたび爆発のように砂塵が舞い上がり、地面が抉れた。CG処理された虚像ではない本物の戦闘だ。人間のレベルを超越した様は少年バトル漫画的とも思えた。


 アシリアが恵太の席のリクライニングボタンを押す。ふたりで並んで空を見上げた。


「すごい……。美夏姉さんにあんなことができたなんて」


 それでも戦いである以上素直に感心する気にはなれない。


「心配はいらないよ。ケーくんには凄まじいように見えても、ぜんぜん手加減してるから」

「あれで手加減?」

「運命の女神は、狂気じみたテクノロジーを持つ人類を統治するために強力な武力を与えられてるんだ。力のない女神の言うことなんて誰も聞かないからね。全力全開MAXなら惑星間戦争クラスの戦力を単体で殲滅できるんだって」

「スケールが大きすぎて俺にはぜんぜん想像できない……」

「まあ早い話、あのふたりはいまお互いの主張を通したいだけで手抜きまくりの忖度しまくり。よくある姉妹ケンカだね」


 万物を壊しまくる姉妹ケンカとはいったい。


「元は姉妹だったんでしょ? どうしてあんな戦いを……」

「クロトとアトロは、とある問題の解決方法を巡って意見が割れちゃってさ。お互い正当性を主張して譲らないんだ」

「そのとある問題というのはもしかして俺の……」

「そ。ケーくんとレイカが引き起こしてる問題だよ」


 アシリアの目が一瞬赤く光り、映像が変わった。赤く変色したような地球が映し出されている。


「あれがふたりの戦ってるオワコン地球ね。ケチャップぶっかけたみたいに赤いでしょ。星から生命が無くなっちゃうとああなるの。アタシらは、赤い闇の彼方って呼んでる」


 恵太は、気になっていたことを聞いた。


「ねえアシリア。どうしていろいろと詳しいの? いつものキミじゃないみたい」


 アシリアが目を丸くした。


「あ、ゴメ~ン! そういや自己紹介がまだだったね」


 そういうと突然彼女の体が宙に浮いた。空中で胎児のように丸くなると背中に金属の骨で作られた右翼が出現した。


「アタシの名前はラケシス。ラッシーでいいよ。導きと過去を司る運命の女神だぜぃ!」


 横ピースでアピール。

 制服に戻してもコスプレしてたときの癖が抜けないようだった。




「────つまりラッシーさんは、女神だった頃の記憶を思い出したアシリア本人ってことでいいんだよね? 別人格とかじゃなくて」

「そうそう。最初はけっこう混乱しちゃったよ」

「その気持ち、よ~くわかるよ。……ごめん、ちょっと慣れないから今まで通りアシリアでいい?」

「もちろん」


 別の人格やら魂が入ると適応するのにささやかな時間が必要だ。


「とにかくアタシはダイジョーブ! ちゃんとケーくんのことも覚えてるから。はじめて出会ったころは猛烈にアタックしてくれたよね?」

「……ごめん。それはアナザー恵太のやったことで、今の俺じゃないんだよ」

「ああ、そっかそっか。ケーくんはまだそういう認識なんだね」

「そういう認識?」

「ううん、いいのいいの。そのことは置いとこうかっ」


 アシリアがラッシーとなったのは、恵太がアトロポスによって樹海へ飛ばされた直後だったらしい。

 あのあと美夏がアトロポスに連れ去られてしまい、取り残されたアシリアは記憶と能力を取り戻したという。


「能力といってもアタシのは地味なもんだよ。現在視や未来視のように便利でもないし。過去視にできるのは、迷える人に過去を追体験させて未来への道筋を立ててあげるくらいだよ」

「過去の追体験……。そういえば意識不明で入院してたとき、それっぽいことがあった気がする。あれはアシリアが見せてくれたのか」


 地味なんてとんでもない。

 おかげで自分の知らない美夏とアシリアの思い出を知ることができたのだ。


「え~、どうかな~。ま、好きなように思っといて」


 アシリアは謙遜したように微笑んだ。

 頃合いを見計らって、恵太は尋ねた。


「それで……俺はどうしてここに飛ばされたの?」


 アトロポスには冷河に会って真実を確かめろと言われたが矛盾しているように思えた。

 当の本人が異次元の彼方で戦っているのだから会えるわけない。

 もし、アトロポスのいう冷河が別人を指しているのなら……。


「本題に入ろっか。ケーくんにやってほしいことはただひとつ。レイカを解放してほしいんだ」

「解放……? アシリアのいうレイカっていうのは……」

「正確にいったら、ケーくんに救われて死の運命を逃れたレイカだよ」

「なんだか頭がこんがらがるよ。アトロポスさんのやってることもわからないし……。俺がある種の爆弾を持っていて、未来に悪影響がある人間だから排除しようというのはわかるけど、どうして冷ちゃんまで道連れにしようとしたのか」

「それは、滅びの未来をつくったのがケーくんじゃなくてレイカだからだよ」


 アシリアが立ち上がって大きく伸びをした。


「どうしてそんなことになるんだ」

「それを話すために、ケーくんには、レイカの半生を知ってもらわなくちゃいけない。そこでアタシの出番! 過去視によってレイカの視点から追体験させてあげるよ」

「追体験……」


 アシリアがポケットから先日見せたメジャーを取り出し帯を伸ばした。七色に光る帯の中に薄っすらと街の情景みたいなものが映りこんでいる。


「見える? 配の神器には失われた宇宙の運命が克明に刻まれてる。アタシらがせっせと集めたデジタルアーカイブスみたいなものだね。過去現在未来に渡る宇宙の歴史……人の築いた文明や文化、人の個人間の記憶や感情に至るまでファイリング済み。もちろんレイカの記憶や感情、味わった絶望のすべてもね。はっきりいって、ケーくんにとってそうとうキツイ現実が待ってると思う。すべてを知る覚悟はあるかな?」

「そうすることが必要なら」


 そのために来たのだ。恵太はうなづいた。


「よし、決まりだね。寝たままの状態でいいから、目を閉じて~、リラックスして~」


 恵太は深くシートに身体を沈めた。

 昔語りをするような調子でアシリアは目の上にそっと手をかぶせた。

 母の子守歌を聞いているような安らか気持ちになっていく。


「レイカの死は運命だったの。それはとても変え難くて、何百回とエコーを重ねてもどうしようもなかったくらいに。それでもキミは、レイカを救いたい一心でトライアンドエラーを繰り返した。悠久の時と、膨大な宇宙を渡り歩いたと言い換えてもいい。いまのキミは、そういう苦難の旅を続けた者にとって最後の希望なんだよ」

「俺はまだ、冷ちゃんを救えてない。結局なにもできないかもしれないんだ」

「自分を疑ったら失敗する。最後まで最後まで信じ抜くの」


 目の前の闇が晴れていく。

 恵太は、冷河の部屋にいた。艶のある黒髪が視界の上で揺れている。彼女の視点になってモノが視えているらしい。

 目の端でとらえたカレンダーの日付は八月一日だった。

 どこからともなくアシリアの声が聞こえる。


「人はみな運命の糸と呼ばれる物質を持っている。魂だと思ってもらっていいよ。いつどこで生まれて死んでいくか。魂に刻まれた情報の通りにスタートを切ってゴールしていくの。寿命という陸上トラックがきっちり用意されてるってことだね。しかし、ケーくんの魂は壊れているからいつまで経ってもゴールはしない。その気になれば好きなだけトラックを走っていられる。ルール無視で出禁にならないのが不思議なくらいだよ」

「それってそんなに異常なことなのかな。魂がどうこう言われても、俺だっていつかは年老いて亡くなるってのは変わらないと思うし……」

「運命にとっては大問題なんだよね。だってケーくんだけトラックのルールに従わないんだもん。全人類から蟻一匹にいたるまで生と死の運命は決まっているのに、キミだけが違う。生きるも死ぬもエンジョイ&フリーダム。うーん、困った。この厄介者をどうしてくれよ~か。これじゃあ美しく完璧だった宇宙の整合ってものが維持できなくなっちゃうよぉ~」


 なんだか社会のルールを守れないヤクザみたく思えてきた。

 冷河の家のチャイムが鳴った。誰か迎えに来たようだ。

 玄関には恵太がいた。鏡以外で自分の姿を見るのはこそばゆいものがある。今朝の行動をリフレインしているらしい。


「ケーくんの厄介なところはもうひとつある。キミは自分だけじゃなく、他人の運命をも自由にできる。たとえば火事に巻き込まれた男の子を生還させたり。あるいは塔のてっぺんから落っこちた女の子をつかみ上げたり。死の運命をキャンセルできちゃう。その代わりケーくんが死にそうな目に遭うけどね」

「そんな特殊能力みたいに言われても。慶太くんや美冬ちゃんのときは、無我夢中だっただけだよ」


 人として当然のことをしただけだと、今でもそう思う。


「そう。ケーくんはレイカだけじゃなくて、手の届くところにいる人も助けようとしてきた。誰かを助ける力があって見て見ぬふりができなかったんだね。そういうトコは素直に美徳だって思うよ」


 早回しのように場面が映り替わった。車に轢かれ倒れている恵太の姿。冷河は腰を抜かし、その目はこと切れる瞬間の彼を見つめ続けていた。


「何度もエコーを重ねまくった末、ケーくんはとうとうレイカの命を救うことができた。ただし、自分の死をもって。一人を救うのなら一人の犠牲が必要になる。キミはこの時、彼女に自分の糸を渡したんだよ」

「糸を渡す?」

「レイカの死の運命を塗り替えるために。追いつめられた末の無意識が引き起こしたんだろうね」


 恵太の葬儀後、冷河は抜け殻のような日常を送った。自分の不注意が人を死なせたという罪悪感に苛まれ、学校にも行けなくなっていた。

 その冷河を励ましたのは、恵太の母親だった。おかげでなんとか日常生活に戻ることができた。

 それから数年後、二度目の衝撃が冷河を襲う。


 心を病んでいた恵太の母親が命を絶った。遺書には、息子のところへ行きたいという叶わぬ願いが綴られていた。

 想像してなかった悲劇に、心臓をぎゅっと締め付けられる思いだ。

 自分と冷河の遣り切れない気持ちが増幅されるようだった。

 冷河は「ごめんなさい」と何度も呟きながら、残された薬を飲んでしまった。


「冷ちゃん、ダメだ!」


 思わずそう叫んだが、声は届かなかった。


 目を覚ましたとき、白い天井が見えた。

 冷河は、辛うじて一命を取り留めていた。

 しかし、二度にわたる悲劇のショックで、その精神に癒えない傷を負うことになった。

 おぼろげな瞳で天井の一点を見つめているようで、何も見えていない。心の中は闇に覆われている。

 深淵よりも深く暗い闇を生み出しているのは、後悔と罪の意識にほかならない。


 どうして……、わたしは今も……、生きているのだろう?

 そのことだけがたまらなく許せない。


 外にある樹木の青々とした葉が枯れていく。

 お見舞いに訪れた冷河の母親の髪に白いものが混じるようになった。

 母親はいつも冷河の身の回りの世話をして、近況を話す。恵太の耳には聞こえていたが、果たして冷河の心には届いているのだろうか。彼女は変わらず天井の一点を見つめているだけだった。


 月日が過ぎ、何度目かの冬が来る。

 肌を刺すような空気の冷たさでさえ感じることはない。たとえ氷の中に閉じ込められたとしても何も感じないだろう。心は深淵の谷底へ落ちている。失った心を集め、拾い上げることのできるものは、もうこの世にはいない。


 目まぐるしいほどの早さで季節が巡る。

 目を閉じる時間が長くなった。自分の年齢も思い出せない。時折施設の職員が安否確認のため様子を見るだけの日々。唯一話しかけてくれた母親は、数年前に他界してしまった。自分の身体も骨と皮だけのようになり、その時が近いと悟る。暗黒に沈む心が唯一待ち望んでいた死は、もうすぐそこにある。

 死を目前にして、閉ざしていた心の底からかつての後悔が浮上した。


 ……わたしのせいだ。

 不幸の原因はすべてわたしにある。

 わたしは、生き残るべきではなかった。

 わたしが生き残ったせいで、大切な人たちを不幸にした。

 あのとき、わたしが轢かれてさえいれば……。


 運命は、滝沢くんではなく、わたしを連れていくべきだったのだ。

 わたしは、わたしを生かした運命を心の底から憎む。

 なにもかも消えてしまえばいい。失われてしまえばいい!

 わたしさえいなければ、すべてはなにも起こらなかったはずなのに……。


 目を閉じると炎のイメージが浮かぶ。炎は黒く激しく燃え上がり、内に秘めた憎悪の象徴であるかのようだ。

 燃え上がる炎の向こうに、一番大好きだった人の懐かしい笑顔が揺れていた。

 

「冷ちゃん、いっしょに行こうよ」


 そう言っているように思える。

 暖かいものが溢れた。

 枯れ果てたと思っていた涙が頬を伝った。


 すべてが夢のようだった日々……。

 二度とは戻らない思い出……。

 はじめて出会ったときのあなたは、とても臆病で優しい男の子。

 成長するたび素敵な人になって、いつの間にかわたしの手を離れていった。

 そして、わたしは、そんなあなたに惹かれるようになった。


「待たせてごめんなさい。すぐにわたしもそっちに行くから!」


 今日ほど喜ばしいと思える日はないだろう。

 滝沢くんは何十年も待っていてくれた……。

 あの事故の日からずっと、わたしと一緒に学校へ行くために。


 別人のように老いさらばえた体が若返っていく。黒檀のように艶のある髪が蘇り、手の皮膚に瑞々しさが戻る。

 変に見えないだろうか。

 制服姿はちゃんとしているだろうか。

 何時如何なる時もカッコつけて女子をドキドキさせなさい、と口を酸っぱく注意していた当人がだらしないマネはできない。


 滝沢くんと話したいことが山ほどあった。ずっと謝りたかった。あなたと、あなたのお母さんを救えなかったこと……。

 許されるかはわからないけれど……たとえ責められたとしても、それでも彼に会いたい気持ちは変わらない。


 黒い炎は境界線でもあるようだ。

 炎の向こう側へ飛び越えれば、滝沢くんと同じ世界へ行けるに違いない。

 滝沢くんが早く行こうとわたしを急かす。

 俺を信じて飛び越えてきて、と。


 わたしはうなずく。

 地獄のような世界に留まるのはごめんだ。

 ためらう理由は、あるはずもない。

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