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愛と憎しみの果てに

 梅雨が明け本格的な夏を迎えるころ、少女は道路の上で倒れていた。

 少女は登校中の事故に遭い、儚い人生を終えた。


 少女の恋人である少年は、大人たちから少女の死を知らされた。


 通いなれた道、朝の喧噪、行き交う車の数。

 魔が差す瞬間とは、知らない場所よりもよく知っている場所でこそ起こりうる。


 なぜなのだろう。なぜそのとき、少女のそばにいなかったのかと少年は深く悔やんだ。


 進学に先立ち少年はカウンセラーになることを心に決めた。

 悩みを抱えた人々のため自分の人生を捧げることに迷いはなかった。


 少女の三回忌、少年は彼女の母親から一冊のノートを手渡された。

 少女の机の奥にしまわれており偶然見つけたものだ。

 ぜひ受け取ってほしいという母親の強い希望で、彼はノートを譲り受けた。


 ノートのタイトルは『好男子改造プラン(決定版)※持ち出し禁止!!』とあった。

 ゆっくりとページをめくる。

 そこには幼いころ少女と過ごした思い出が事細かにつづられていた。


『宝石は時間をかけ愛情注いで磨いたらきれいな輝きを放つ。ほったらかしでは輝かないから困りもの』

『内気な男の子を大胆にする作戦──』

『軟弱な男の子に自信をもたせる方法──』

『口下手な男の子を結婚詐欺師並みにする話術──』

 ……………………


 どの項目も少年が少女に教えられたことだった。

 実現できたこと、できなかったことは漫画の吹き出しのように書き足され、几帳面な性格がうかがえる。

 一日かけて読み進めた最後のページには、丸みを帯びた字で少女の祈りが込められていた。


『世界で一番 恵太くんが大好き

あなたならもっとずっと素敵になれるよ』


 少年の感情が堰を切って溢れだした。

 抱きかかえたノートの裏表紙には『霧生冷河』の名があった。




◇ ◇ ◇ 




 十年ぶりの空気かのように、大きく息を吸いこんだ。

 蒸し暑く、体中にいやな汗がびっしりだ。


 枕が濡れていた。

 眠っているうちに泣いていたようだ。

 なにかひどく悲しい夢を見た気がする。


 自室のベッドから起き上がって真っ先にカレンダーを確認した。

 八月一日 日曜日。

 まちがいなく運命の日であった。


 こんな日に熟睡できた自分に驚いてしまう。

 だいぶ神経が太くなったのかもしれなかった。


「恵太ー、起きてるー?」


 ドアが開かれ、制服姿の美夏が顔を見せた。あまり眠れていないのか目の下にクマができている。


「ちゃんと起きてるわね。よしよし」

「姉さん、疲れてそうだね。眠れなかったの?」

「ちょっとイメトレで忙しくて……ってそんなことより」


 美夏はうなずきながら。


「今日は学校終わったらはやく帰ってきなさいってママが言ってたわよ」

「え、なんで?」

「旅行の準備。夜行列車に乗るからそのつもりでだってさ」

「ちょっと待って。夜行列車? 俺なんにも聞いてないよ」

「でしょうね。わたしだって昨日の夜はじめて聞いたし」

「急すぎるでしょ。しかもどこに行くの?」

「北海道」

「……なんで北海道?」

「ママの親戚がいるんだって。楽しみよね~。北海道はでっかいどー。なんちゃって」


 ペロっと舌を出された。気が抜けそうなくらい緩んだ顔だった。


「おもしろくないしネタが古いよ。ていうかそもそも俺たち昨日旅行から帰ったばっかりなのに」

「ママも夏休みに旅行したかったんでしょ。いいじゃない、今度は家族三人だけなんだし気楽なもんよ」

「そりゃそうなんだけどさあ」


 どうなってるんだ。

 前世では家族旅行なんて計画されてなかったのに。(といっても記憶が完全ではないので抜け落ちてるだけかもしれないが)

 それに母方の祖父母が住んでいるのは九州のはず。北海道に親戚がいるというのは初耳だし、なんだか北の大地へ夜逃げするみたいだ。


「とにかく、ちゃんと伝えたから。さっさと朝ごはん食べなさいよね」


 人差し指を立てて念押ししてきた。


「わたし友だち待たせてるんで先に出てるから~」


 美夏は大急ぎで階段を駆け下りた。


「あ、姉さん」


 下手したら美夏に会うのはこれで最後になってしまう。

 弟の危機をなんとなく察しているようだが、それが今日だとは微塵も思っていないのだろう。

 彼女は、今夜出発する家族旅行のことで頭がいっぱいになっている。

 そんな人に水を差すようなことはいえなかった。


「……車に気をつけてね。姉さん、そそっかしいから」

「それはあなたでしょうが。んじゃ、行ってきまーす!」


 バタンと玄関扉の閉まる鈍い音が聞こえた。



 ほどなくして、恵太は自宅を出た。

 マンションで出迎えた冷河は少しむっつり顔になっていた。


「おはよう、冷ちゃん」

「……ホントに来たわね。どうせ学校で会えるのに。たかが登校日にいちいち迎えになんて来なくていいのに」


 ともにマンションを出て、自販機の横を通り過ぎると、冷河は会話する意思がないとばかりにワイヤレスイヤホンを取り出した。


「なにを聞いてるの?」

「英語のリスニング。この一週間ろくに勉強できなかったから、少しでも遅れを取り戻さなきゃ」


 先を行く冷河の後ろ姿を見ながら恵太は、思った。

 昨日のキスもどこ吹く風。そっけない冷河の態度が今はありがたい。

 処刑台の階段をゆっくり上がる死刑囚のように、少ない時間であってもこの先の出来事に対して構えることができる。


 冷河のために死ぬ覚悟はできている。

 偽りの自分じゃない本当の覚悟だ。

 しかし、本当にそれでいいのかとも思っている。

 最後まであきらめるなという迷いは捨てきれない。


 もう一度確かめたい。

 アトロポスにはもう一度会えるチャンスがあるはずだ。

 最終的な決断は彼女に会ってからでも遅くはない。


 そうして、運命の交差点まで数十メートルという距離に来た時だった。


(時は満ちた。旅立つ覚悟はできているか)


 相変わらず怖気をふるう声だった。

 頭の中に語り掛けてくるこの時を待っていた。

 

「その前にもう一度答えてください。これは取り引きなんですよね。俺が死を受け入れれば、あなたは冷ちゃんの命を保証してくれる。それでまちがいないんですよね?」

(そうだ)

「もうひとつ。俺は一週間前、ある女の子の命を救いました。俺が気づかなかったら助からなかった女の子です。アトロポスさんは、去年俺が同じ行動を取ったとき止めようとしたのに、どうして今回はなにも言わなかったんですか」


 あれから何のリアクションもないことが気になっていた。

 運命の女神は、運命に反することを好まないのだ。

 人の生と死はスケジュールであり、宇宙の構造として定められている。そこに干渉することは宇宙の崩壊を招く危険があると。


 自分とアトロポスは対等ではない。

 彼女はその気になれば冷河を人質にもできるのだ。

 冷河を助ける約束を反故にすると言われたら、問答無用で従わざるをえなくなる。

 だからこそ何も言わなかったことが解せなかった。

 これでは立場が逆だろう。

 冷河を助けるから、その代わりあなたは死を受け入れてくださいと、まるでお願いしているみたいに。


(仮にわたしが止めたところで、少年は救うことを止めたのか)

「いえ……止められなかったと思います」

(それが少年の本質なのだろう。宇宙に破滅をもたらす存在でありながら、誰かを救うことをやめられない。自らの命も厭わずに。その結果が先に見せた地獄だ)


 地獄とは、生命の無い無機質な世界を創ってしまったことだ。

 死の運命を無視して生き残った場合は、神の粛清が待っている。

 もちろんこちらも大きな問題だろう。

 しかし……。


「俺が死ぬことで解決する問題があるのなら、生きてることで解決できる問題もあるんじゃないかって……」

(解決だと?)

「俺のせいでめちゃくちゃになった世界の人たちに、命で償うから許してくれというのはあまりに無責任だと思います。まず謝って、何がまちがっていたのか。どうしたら同じまちがいを防ぐことができるのか。できることを探さずに死を選ぶことが正しいとは思えない。だから……ごめんなさい。あなたとの約束は守れません。俺はまだ死ぬわけにいかないんです」

(目の前の少女を見捨てることになってもか)

「冷ちゃんは死なせません。どんなに道がないように思えても、救うための余地はかならず残されてるはずです。たとえこの先なにが起こっても俺が守ります。守り続けてみせます」


 運命の交差点についた。赤信号で立ち止まっているが、数秒で青に変わるだろう。そして、数メートル先にある角から青い車が止まらずに突っ込んでくるのだ。

 ここはやり過ごさなくてはならない。

 恵太は決意を込めて冷河の手を握った。


「ちょ、ちょっと。なんで手なんか握るのよ」

「ごめんね。どうしてもこうしたいんだ。学校につくまででいいから」

「……しかたないわね」


 羞恥に染まった表情だったが、冷河は手を握り返してくれた。


(謝罪の必要はない。お互い様だからな。約束を守れないという点において、わたしのほうこそ罪深いといえる)

「罪?」


 冷河が驚いたような表情であたりを見渡し始めた。

 恵太の手を振りほどき、イヤホンを外し耳を塞いでうずくまった。


「ウソつき! 信じてたのに……助けてくれるって言ったじゃない!」


 冷河の叫びに似た声に、同じ学校の生徒が振り返っていた。


「冷ちゃんっ」

「やめて、来ないで! ああ……」


 冷河は頭を抑えてその場に立ち尽くした。

 信号が青に変わったと同時。


「……第一段階を開始、憑依オーバーダイブ


 冷河は、微笑みひとつない顔を向けた。


「人間の悪癖なのだろう。ムダだとわかっていても一縷の望みにかけようとする。幾百幾千幾億、どの世界においても愚かさは変わらぬものだ。未来を垣間見た人の子よ」

「アトロポスさん……」

「少年にできることなどありはしない。なにも守れるものか。お前たちは今この場で死を迎えることが幸福なのだ」


 冷河の声には氷のような冷たさがあった。

 彼女はゆっくりと右手を伸ばすと恵太の首を掴み、女子とは思えない怪力で持ち上げ始めた。


「かはっ……、冷ちゃんっ……」

「自ら黄泉の闇へ降ってほしかったが……致し方あるまい。第二段階へ移行。わたしが死の場面を演出する」


 万力のように食い込む指を外すことができない。

 アトロポスが何かを仕掛けた。

 いつの間にかそこら中に青い火花が飛び散っている。

 行き交う車が停止し、周りにいる生徒たちも異常な事態に反応を示さない。

 まるで時の止まった異空間だ。


「憎悪のエコーがレイカに到達する前にカタをつけなくては……」


 アトロポスは空いた左手を数メートル先の角に向けた。

 手繰り寄せる仕草をすると、ブロック塀の向こうに隠れていた青い車が大きな力で引っ張り出されていく。

 車を交差点の前へ設置し、恵太を引きずりながら、横断歩道の中心へ移動した。


「準備完了。あとは停滞ステイシスを解除するだけだ。これでお前たちは真の幸福を得ることができる。比類のない憎悪を断ち切ることができる」

「くく…………うぅ」


 青い車は目前だった。時が動き出したら、前世と同じように轢かれてしまうだろう。しかもアトロポスには動く気配が見られない。憑依された冷河を巻き込むつもりだ。


「なにを……」

「第三段階……最期にこれだけは伝えておきたい。悠久と思えるほどの長い時間苦しい思いをさせてすまなかったな。レイカを救いたいという一心で孤独な戦いをよく耐え抜いた。しかしそれももう終わりだ。二度と目覚めることのないよう、愛する者とともに安らかに眠ってくれ」


 意識が遠のき抵抗する力が萎えていく。

 もうダメなのか。

 なんとかしなければ……なんとか!

 冷河を巻き込んでしまう前に。


 アトロポスが左手を天高く掲げたとき、空中から叫び声が聞こえた。


「こおぉぉぉぉらああぁぁぁぁぁぁ!」

「……女の声?」


 落雷のような轟音のあと空中に大きな穴が開いた。


「わたしの弟にいいぃぃぃぃぃぃぃ」

「アタシのカレシにいいぃぃぃぃぃ」


 穴の口から美夏とアシリアが飛び込み台をジャンプするような勢いで飛び込んできた。


「「なにしてくれてんのおおぉぉぉぉ!!」」

「イレギュラー!?」


 頭上から飛び込んでくる美夏たちを避けようと、アトロポスは首から手を離して人間離れした跳躍をみせた。

 空中で体を回転させると、背後に立つ信号機の上に飛び乗った。


「がはっ……げほ」

「恵太、だいじょうぶ?」


 解放された恵太に、アシリアが駆け寄る。


「だ、だいじょうぶ……それよりも」


 恵太は厳しい表情で、頭上に立つアトロポスに問いかけた。


「騙したんですね。最初から、あなたは冷ちゃんを救う気なんてなかった」

「救う気はあるとも。少年とは方法が異なるだけだ」

「いい加減なことを……」


 アトロポスがふわりとそよ風に乗ったように飛び降りた。


「……去年うちの弟にちょっかい出してたヤツのようね。冷ちゃんの体から変な光が見えるわ。まるで観音様から後光がさしてるみたい。それにこの妙な空間といい、あなた何者なの?」


 美夏は、恵太をかばいながら言う。


停滞ステイシスを打ち破ったか。どこまでも、どこまでも、気まぐれの女神どもが邪魔をしてくる」


 アトロポスは美夏とアシリアに目を配ると不敵に笑った。


「ようやく再会できたな。予想通り、人間の目であればお前たちの姿を見ることができる。個体識別信号、照合…………一致。茶髪はクロト、後ろの黒髪がラケシスだな」

「ああん? 誰よそれ。わたしの名前は滝沢美夏。美しい夏と書いて美夏っていう立派な名前があるんだから」

「アタシの名は妙成寺アシリア。あんま好きな名前じゃなくても誰にも文句は言わせないし。しっかり覚えとけー!」

「……まさかキサマら」


 アトロポスは舌打ちしながら右手を前に出した。


「ミカ、避けて!」


 轟音とともに見えない何かが疾走し、巨大な鉄球を転がしたかのようにアスファルトを抉る。

 アシリアの声に反応した美夏は、辛うじて避けた。

 アトロポスは衝撃波を二発、三発、四発と連続で撃ってくる。

 美夏はすべての攻撃をすんでのところで避けていた。

 抉られた石の欠片は細かい粒となって舞い上がり空中に固定されていく。


「わたたたっ、あっぶな! ちょっと、なにすんのよ」

「文句を言う資格がお前にあるのか。この救いようのない馬鹿姉め。度重なる職務放棄や妨害だけに飽き足らず、自らの記憶まで消してしまうとは。そんなことで人間になったつもりか。筆舌に尽くしがたいほどの愚かさには反吐が出そうだ」

「人を妖怪みたいに言わないでくれる? それにね、あなたみたいに妙ちくりんな親戚はいませんから!」


 恵太は、美夏に声をかけた。


「姉さん、詳しく説明してるヒマがないんだけど、冷ちゃんには運命の女神が憑りついてるんだ。しかも彼女の命を道連れにしようとしてる」

「運命の女神って……、そんなファンタジーな存在マジでいるんだ。女神っていうか、アタシには物の怪のたぐいにしか見えないし」


 アシリアの顔から血の気が引いていた。


「ようするにタチの悪い悪霊ってことよね。オッケー、お姉ちゃんに任せなさい。さあさあ、かかってきなさいなギラギラ光る不審者! わたしの必殺ソードで、冷ちゃんの体から追い出してやるんだから」

「ミカ、くれぐれもレイカの体を傷つけちゃダメだよ」

「わかってるって。みねうちでいくわ」


 美夏はポケットから銀の棒を取り出し、木刀を突き出すように構えた。

 アトロポスは見下し睥睨するような目で吐き捨てる。


「我らが創造主の授けた神器を下らぬ武器のように扱うとは……不敬者め。もはやわずかばかりの憐れみも消え失せた。記憶を捨て、役目も果たせぬ女神など存在価値のないゴミだ。破壊し、蹂躙し、原子ひとつ残らぬよう消去してやろうか」

「ごちゃごちゃうるさいわよ。うちの弟に付きまとい、冷ちゃんに憑りついて迷惑かけまくるその狼藉、泣いて謝ったって許さないからね。大人しく除霊されちゃいなさい。やあーーーっ」


 剣道の大上段のごとく切り込む美夏を、アトロポスは再度大きく後ろに飛んで躱す。


「あれ? なんで? 練習だともっとこう、バァーっと出てきたのに」

「姉さん、油断しないで!」


 スマホの電源が入らないかのような調子で、美夏は首を傾げている。

 恵太は、悔しさのあまり地面を叩いた。美夏とアシリアが助けに来てくれなかったら、確実に殺されていただろう。できることなら美夏たちを巻き込みたくなかった。これまでと変わらない日常を生きていてほしかったのに。俺は無力だ。口では偉そうなこと言って一人じゃなにもできない。

 アトロポスに騙され、殺されかけ、冷河の体を奪われても手をこまねているしかないのか。


「少年よ」


 いつの間にかアトロポスの右手には、冷河の身長ほどもある大きなハサミが握られていた。

 その鋭利な切っ先は美夏に向けられている。


「先に済ませなければならない用事ができた。いましばらくお前に時間を与えよう。わたしは以前、少年が死なねばならない理由を説明したが、次はレイカが死ぬべき理由を教えてやる」

「死ぬべき理由だって?」

「運命を破壊する少年は宇宙にとって害悪であり、破滅の危険を孕んだ爆弾に等しい。それは本当だ。しかし、爆弾は単体で起動することはない。憎悪の意思をもってスイッチを入れるものがいなければな」


 恵太の足元から光の粒子が立ち昇っていく。


「なにをしてるの。やめなさい!」


 美夏が声を張り上げた。


「異常事態対応のため一時対象を隔離する──」

「光の…………柱?」

「遭えばきっと考えも変わるだろう。激しい憎悪に囚われたものに……レイカに逢って真実を確かめてくるがいい」


 恵太の目に星の瞬きが飛び込んできた。無数にも思える星々は動き始め、彼を中心に回転を始める。やがて星は光の帯となり、恵太の目を圧倒的な光量で埋め尽くしていった。


「恵太ああぁぁぁーーー!」


 閉じ込められた光の牢獄の中で最後に聞こえたのは、美夏とアシリアの叫びだった。

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