表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
66/80

霧生冷河は乗り越えたい

 冷河は、美夏が穂高を部屋に連行していく様子を見て、胸をなでおろした。

 メス豚らしいゲスな計画は阻止してやった。


 カラダで釣ろうとは大企業のお嬢様なのに思い切ったマネをする。そこまでする価値があると思わせた滝沢の魔力だろうか。


 彼は子供のころから変わっちゃいない。女子の性善説を信じるようなバカだから始末が悪い。少しは相手を選べ。中には強引な手で迫ろうとする厄介な子もいるってのに。


 いつになったら気付いてくれるんだ。笑顔の素敵なコミュ強になっても肝心なところがダメなままだから嫌なんだ。

 いつまでも自分が教えたことを愚直に守ってるだけじゃないか。


 冷河は、美夏の部屋へ戻った。まだ仁美がいたのを忘れてた。あの子を起こして自分たちの部屋に戻ろう。

 穂高はソファに不貞腐れた様子で仰向けになっており、美夏は部屋の隅で謎の銀色棒を持ったまま固まっていた。


「仁美、起きて。自分の部屋に戻るよ」

「え……、うん」


 てっきり眠り込んでると思っていたら狸寝入り。

 仁美はすっと起きてきた。


「じゃ、ふたりとも。あとはごゆっくり……」

「あ、ちょっと待って」


 退室しようとする冷河を美夏が呼び止めた。


「なに?」

「冷ちゃんあんまり眠くなさそうだよね。もしよかったら、今夜は恵太の様子見ててくれない?」

「え? なんでわたしが?」

「ほら、わたし穂高を見張ってなきゃだし、今日だけで色々あったから恵太も思うところあるんじゃないかな~って」


 美冬の転落事故を危ないところで救出したり、慌ただしい一日ではあった。

 滝沢本人はケロっとしていたが、内心穏やかではいられないだろう。


「冷ちゃんがいっしょなら、あのバカもきっと安心できると思うから」

「いや、でも……。今日は水城舟先輩がわざとたくさん運動させて栄養価の高いもの与えまくってたわけでしょ? 気力も体力もあり余ってるんでしょ? そんな男の部屋にわたし一人でいったら身の危険が……」


 ただでさえ女の寝こみにイタズラしかけるやつなのに。


「じゃあひーちゃんもいっしょに。お願い! 一生のお願いだから。二人いっしょならなんのまちがいも起こ……」


 美夏の視線が空中を漂う。


「…………………………………………らないと思うよ?」

「疑問形!」


 冷河は、逃げるように部屋を後にした。仁美を連れて部屋へ戻ろうとしたとき、彼女が口を開いた。


「冷ちゃん、行かないの?」

「どこに?」

「滝沢くんの部屋」

「やめてよ、あなたまで」


 夜中、女だけで滝沢の部屋に行くとか、彼にまちがったメッセージを送りかねない。


「遠山くんから聞いたよ。昼間大変なことがあったんだよね? 滝沢くん、ぜんぜんそんなふうに見えなかったのに、もう少し遅かったら最悪の結果になってたかもしれないって」

「危なかったのは事実だけど……」


 危険度でいったら運命の女神のお墨付きだ。本来死ぬはずの美冬を、滝沢が救出して事なきを得た。


「大丈夫よ。最悪の結果になんかならなかったんだから」

「よくないよ」


 仁美は悔しそうに唇を噛みしめていた。


「冷ちゃん……知らないよね。滝沢くん、去年マンションの火事に巻き込まれて一ヶ月も昏睡状態だったの。わたしは、もう二度と滝沢くんに会えないかもって思った。冷ちゃんには、おんなじ思いしてほしくないの」

「昏睡って……そんなに悪かったの?」

「わたしは、滝沢くんをずっと見てきた。滝沢くんはずっと冷ちゃんのこと思ってた。他の誰と付き合っていても、それは相手を元気づけるためだって割り切ってたように思うの。決して冷ちゃんが考えてるような軽はずみな気持ちじゃないんだよ」


 いつになく目に力が宿っている。「ひとみ」の名前に負けないくらいに。


「二人だけがいやならわたしも一緒に行くから。それならいいでしょ?」

「……はあ。わたしの負けね。わかったわよ。少しだけだからね? ちょっとあいつの様子を見たらすぐ戻るからね?」

「うん!」


 まったく殊勝なこと。

 仁美も滝沢のことが好きなんでしょうに、わざわざ他人の仲を取り持つなんて。

 人生で損するタイプの人種ね。


「ねえ、聞いてもいい?」

「なに?」


 滝沢の部屋に向かう廊下で仁美が尋ねてきた。


「冷ちゃんが滝沢くんと距離を置くようになったのって、小学四年生のときだったよね?」

「……そうだったかしら?」

「そうだよ。ねえ、新田さんって憶えてる?」

「さあ。憶えてないわ、そんな子」


 忘れるわけない。フルネームは新田ユメノ。当時のクラスカースト頂点にいた虚栄心まみれのクソ女。

 新田は頭が良くて、顔立ちも美しかった。あたしのパパは県議会の偉い人なんだから、があいつの口癖だ。

 恵まれすぎた反動なのか、なんでも一番じゃないと気の済まない厄介な性格だった。


「新田さんが滝沢くんと仲良くしだしたあたりから、冷ちゃん人が変わったみたいになった。ある時、額に大きな絆創膏つけてたことあったよね。どうしてケガしたのか教えてくれなくて……」

「よく憶えてるわねそんな昔のこと」

「ねえ、もしかして冷ちゃん、新田さんになにかされたんじゃない……?」

「関係ないわ」


 仁美がどんな想像を巡らせたかよくわかる。

 嫉妬に狂った悪い姉に虐げられるシンデレラ的なストーリー。

 仁美の言いたいことはこうだ。

 昔のいやな思い出は忘れて滝沢くんと仲良くしてよ、と。


 ……できるわけがない。

 新田になにをされたかなんて関係ない。

 わたしが滝沢と距離を置いてきたのは、他の誰でもないわたし自身の意思。

 課した目標に届くまで昔の自分には戻らないと決めたのだ


 滝沢の部屋に近づくと仁美が背中を押してきた。


「じゃああとはよろしくね」

「ちょっと、仁美は来ないわけ?」

「わたしがいたら邪魔になるよ。滝沢くんだって冷ちゃんとふたりきりのほうが嬉しいと思う」


 そういうと仁美は自分の部屋へ戻っていった。

 まったくあの子はなにを考えてるのやら。

 どうしてそこまで自分と滝沢を引き合わせようとする?


「それはお前の幸福を願っているからだ」

「ひっ」


 背筋の凍るような低い声が響いた。


「いい友人を持っている。これもひとつの愛の形か」

「あ、あなたねぇ……!」


 突然背後に立ってびびらせてくれたのはいい。もはや慣れっこだ。

 アトロポスの数ある欠点のひとつは、事前通達しないこと。

 呼び鈴鳴らさず他人の家に土足で上がり込むようなものだ。


 今日は新たにアトロポスの欠点が更新された。

 最悪のマナーを地で行くくらいヒドすぎる!


「なんで服着てないのよっ」


 アトロポスの姿は自分のコピーである。生まれたままの裸が目の前にあった。


 勝手に人の裸を投影すんな。

 いつもは青いスカート姿で固定だったのに。

 洋館の豪華な廊下で裸の自分がバカみたいに突っ立ってる。

 メス豚令嬢を笑えないくらい滑稽だ。


「さきほどまで温泉に浸かっていた。服を着たまま風呂に入るバカはいないだろう」

「お風呂上がりに素っ裸でうろつくバカもいないって! いや、そもそもあなたまぼろしみたいなものじゃない。本物の体じゃないんだから温泉に入れないでしょ」

「考え方の問題だ。汚れを落とすなら生身でないとムダだが、精神疲労を癒すならマネだけで済む。女神というものは多忙だ。気疲れのひとつもしようというもの。温泉はじつに素晴らしかったぞ。デフラグメンテーションの一環として非常に有効だと判明した」

「そう……それは良かったわね」


 頭がくらくらしてきた。

 なんでもいいからまずは服着てくれ。堂々と仁王立ちすんな。せめてムネ隠せ!


「それよりお前の友人たっての希望だ。いまこそわたしの教えを活かしてほしい。さっさと"接続合体"してこい」

「やっかましいわ、この裸族! ちょこっとだけ世間話してくるだけよ!」

「お前は着物の少女を見習ったらどうだ? 正しいと信じることを全力でやれ、だ」

「おめでたいお嬢様のなにを見習えって? からだで迫るなんて能無しのやることじゃない」

「手段はなんでもいい。あの少女は考えうる最短の道を選んだだけのことだ。重要なのは、目的を達成しようとする意思と意志。少年とつがいになりたいという少女の意思に対し、お前がやってきたことはなんだ。まちがいだと知りながら過去に縛られ、学歴や肩書を得ることに注力している。貴重な時間の浪費にすぎん」

「浪費? わたしのやってることが浪費だっていうの」


 仁美といいアトロポスといい、今日はお節介ばかり焼かれる。


 ……どうしてあんたみたいなつまんない子が滝沢くんといっしょにいるの?


 いやなことを思い出した。あのクソ女とは昔滝沢を巡ってトラブった。新田のことばが自分に影響を与えていないといったらウソになる。あの女に言われたことも一理あるのだ。


 滝沢は、当時クラス女子のあこがれの的だった。物語から飛び出してきたような美少年の爽やかな笑顔にだれもが心惹かれたものだ。その彼とほとんどの時を一緒に過ごしてた冷河をよく思わないものもいた。

 嫉妬といらだちを真っ向からぶつけてきた人間が新田ユメノだ。

 新田に言われた「つまんない子」ということばは、今も楔のように胸に刺さっている。


 滝沢より見劣りすると思われたくない。彼のように羨望と注目を集められる存在になってみたかった。

 歪んだ夢は膨らみ続け、あるとき形となった。……女子アナはどうだろう。キー局の女子アナなら存在自体が優秀さの証明だ。見劣りなどするわけがない。わたしだって輝けるということを証明してやる!


 滝沢は、臆病な自分を変えたくて努力した。苦渋の果てに生まれ変わったのが現在の滝沢恵太だ。今となっては病的なほどモテていてセクハラ常習の最低なクズ男と罵倒したくとも、根暗のいくじなし時代を知っている身としては少しだけ尊敬する。

 人間は生まれ変わることができるんだって、あいつを見ていると実感できるから。


「思い描く夢に届いてからか。それは本当に必要なことなのか。学歴、肩書、夢……。どれも少年と結ばれてからで構わないではないか。お前を愛しているという少年の言葉は真実だ。互いの愛は知れているのに、いったいいつまで待たせておくつもりだ」


 うるさい。あいつの気持ちはわかってるの。でも、それは愛じゃなくて気の迷い。人との付き合い方を教えたわたしへの気持ちを好きだと誤認してるだけ。そんな彼の想いにつけこむようなマネはプライドが許さない。わたしは滝沢にとって途方もない苦労を強いてしまった。そのわたし自身が苦労を受け入れないでは虫が良すぎるじゃない。


「プライドか。……お前は自分に厳しすぎるぞ」


 アトロポスが滝沢の部屋を指した。


「では目的を変えよう。少年の弱った心に寄り添ってほしい。少年は今、幼子を救った自分の行動を疑っている」

「疑う? 人助けをしたのに?」

「本来は死ぬはずだった幼子だ。それは少年にもわかっていた。異界のエコーを受け、運命を変えていくことに一抹の不安を感じてもしかたあるまい」

「異界……それって平行する世界ってことよね」


 考えるだけでおかしくなりそうだ。平行世界は無数にあるもの。そこにある歴史、文明、国、人、すべてがまったく同じ異世界。きっと別のわたしがいる異世界もあるのだろう。

 異世界では、美冬の死は規定事項だった。

 滝沢は、死ぬ運命にあった美冬を救った。滝沢の行動によって、この世界では美冬が生存するという差異が生まれた。


 冷河はそこまで考えると、滝沢の存在が宇宙の崩壊をもたらすという与太話を思い出した。


 ……わたしたちの世界は、水中の気泡みたいなもの。


 アトロポスはそう言っていた。

 泡とは、重力、気体粒子、液体膜、さまざまな要素が均衡して維持される。外から、もしくは内から他の力が加わらないと崩れないだろう。

 滝沢が美冬を救った行動は、泡を内側から崩す行為といえそうだ。

 泡を維持する力こそが運命であり、運命とは人間の寿命であり、人間の寿命は泡の維持に深く関わっているのかもしれない。


「……ねえ、だいじょうぶなのよね? 美冬ちゃんが助かったからって、世界が壊れるとかないんだよね?」


 滝沢は、人を助けただけだ。

 人を救うことが最悪の結果に繋がるなんて絶対におかしい。


「消滅が嫌なら少年に希望を見せてやれ。お前の存在がなによりの支えだ」

「……まったく、本当に面倒なやつなんだから。体ばっかり大きくなっても気が小さいのは変わってないじゃない。世話のやけること」


 ドアノブを握って深呼吸した。美冬とともに転落したとき、滝沢はなにを思ったのか。文字通り命がけで怖かっただろう。元々臆病でいくじなしなやつなのだ。今日だけは褒めて甘やかして元気づけてやるか。……もちろんエロいことは抜きで。万が一滝沢がエロ方面にヒートアップしたらどうしよう。


「しっかりやれ。後悔しないように」


 ノックしたときに言い放ったアトロポスの言葉がやけに耳に残った。




 膝の上で泣きじゃくる滝沢の髪を撫でていると、小学生のころに戻った気分になった。

 自分の腰にしがみついて泣いてばかりのやつだったなと再確認できて安心した。

 泣き虫でダサくて女々しい男の子。いっそこういうやつなんだって皆に暴露したほうが滝沢は王子様役から解放されるかもしれない。


 冷河は、滝沢が泣き止んで落ち着きを取り戻したころに声をかけた。


「スッキリした? こんなに泣いたのって小学生以来なんじゃない?」

「……うん、そうかも。考えてみたら、冷ちゃんが転校して以来泣いた記憶がないかな」


 滝沢が冷河の顔を覗き込んだ。


「冷ちゃん……、おでこの上にキズが残ってるね」

「ああこれ。昔の古傷よ」


 新田ユメノに突き飛ばされて壁にぶつけたときのキズ。

 滝沢にだけは気づかれたくなかったな。


「小学生のときのやつだよね?」

「そうよ。しかもあなたのせいでついた」

「ええ!? そ、そうだったの。なんていったらいいか……本当にごめん」

「気にしなくていいわ。髪で隠せる位置だったのが不幸中の幸いだったし」


 合わせる顔がなさそうに、滝沢は太ももに顔を埋めてきた。

 すると滝沢はゆっくり味わうように息を吸っていた。


「ちょっと! 股の臭いをかがれてるみたいだからやめて」

「だいじょうぶ。冷ちゃんの臭いでイヤなところなんてないから」

「バカいわないで」


 滝沢の頭を持ちあげてむりやり横に向かせた。


「ねえ、冷ちゃん」

「なに?」

「今さら言っても遅いかもしれないけど……、ユメノさん、ごめんって言ってたよ。突き飛ばして悪かったって」


 ユメノの名前を聞いた瞬間、体が硬直した。

 言葉がとっさに出てこない。

 まるで心を読まれたみたいだった。このタヌキめ。とぼけたふりしてぜんぶ知ってたんじゃないか。


「本当はさ、謝ろうとしてたんだよ。でも、気位の高い子だったからさ。どうしても自分から言いだせなかったんだと思う。ユメノさん、今は中高一貫の女子高に通ってるから、機会があったら会ってみて。根はいい子だから」

「……フン。気が向いたらね」


 誰が行ってやるかバカ。謝りたかったなら他人の口から言わせるなよクソ女め。

 謝罪のやり方もわからないほどクソアホだったのか。

 わたしがどれだけ気を揉んだと思ってる。

 ……でもま、本人がいない場所でグダグダいうのもアンフェアか。

 心なしか胸のつかえが取れたような気もするし、いまのわたしは気分がいいから出血大サービスで水に流してあげるわ。


「冷ちゃん」

「なに?」

「大好きです」

「またそれ? 二度目は効かないわよ。思ったよりワンパターンでがっかりね。バカのひとつ覚えってかんじ」

「バカでごめんね。長い間、いろいろ考えてきて、これ以上に気持ちを伝えられる言葉が見つからなかった」

「じゃあもっと考えて。気持ちを伝えるのって言葉だけなの? それ以外に思いつかないのなら、やっぱりあなたのこと好きになれない」

「冷ちゃんは……俺のこと嫌い?」

「だってあなた、小学生のころからずっとわたしの期待を裏切ってるんだもの」

「裏切ってる? 冷ちゃんに教えてもらったことで、できてないことがあるってこと?」

「守破離って知ってる? 剣道や茶道の修行段階を示した言葉よ。師の教えを守る”守”、他の教えを取り入れる”破”、そして”離”は新しいものを生み出す。守破離で言ったら今のあなたは破のレベル。じゅうぶん時間はあったはずなのに、まだ離のレベルに進めてない」

「レベル……守破離の離……かあ。それってどうすれば?」

「自分で考えなきゃ意味ないでしょうが。課題といっしょよ」

「……うん。わかった。考えてみるね」


 あきれるくらい素直なこと。本当は滝沢にやってほしいことはたったひとつだけなのだ。それさえやってくれたら、もうなにも文句はない。

 冷河は滝沢の体を起こした。慰め役は終わり。また明日からはいつも通りの日々が待っている。


「ねえ、冷ちゃん」

「うん?」

「あの……、今夜はいっしょに寝ない?」

「……いっしょに?」


 滝沢の耳が真っ赤になっていた。

 言葉通りに受け取るほどウブじゃない。誘い方としては下の下といったところだろう。ひねりが足りない。女性誌を読み込んで傾向と対策を考えればもっと女性の好むセリフがわかるでしょう。


「あ、もちろん変なことはしないよ。本当に寝るだけだから」


 ウソつきめ。目が泳いでるし唇も引きつってる。これだから男は……。ぜったいそれ以上考えてるでしょ。


 中学二年のとき、葉山という男子と付き合ったことがある。学業優秀な人で女子を気づかう優しさも持っていた。

 将来は渡米してNASAに行きたいという夢を語り、子どもっぽいながらも付き合ってて楽しい毎日を送れた。

 しかし、休日にデートしていた昼下がり、盛りのついた猿みたいに迫ってきて「霧生さんがいけないんだ。そんな目でぼくを誘惑するから!」などとマゾい主張をしてきた。

 人より強めの目力に興奮するなんて、きっと葉山は特殊性癖の持ち主だったんだろう。

 そうとわかってからは丁重にブン殴ってお付き合いを解消させていただいた。


 エロ猿となった葉山と滝沢の表情が重なった。滝沢のはもっとキモいが。イケメンすぎるからこそ気持ち悪さが際立つのだ。好きだった相手が振り向いた瞬間に気持ちが冷めるという蛙化現象に通ずると思う。


 今夜はいっしょに寝ない、だと? 女にへりくだっていいのはフツメンまで。こいつは自分をなんだと思ってるんだ。女子の夢を体現する王子様役という自覚を持て。王子様なら四の五のいわず抱きしめて「今夜は、帰したくない」と傲慢に命令してみせろ。なにも学んでいない! 恵まれた素質を活かさないなんてなんたるムダ、わざわざ女にお願いするのはただの甘え! あなたは主導権握らなきゃダメでしょう!

 まだまだ離のレベルにはほど遠いみたいね。


「あの……あの! なんだったらベッドは冷ちゃんが使っていいから! 俺は床でいいから!」

「ちょっ……やめなさいよ」


 まさかの土下座までしてきた。しかも地面に頭をこすりつけるガチなやつだった。ここまでプライドのないやつもなかなかいなさそう。ある意味滝沢なりの"離"か?

 でも残念ながら拝み倒しは不正解だ。


「土下座なんて軽々しくしないの。いいから立って」

「あ、いや、ちょっと、今はマズくて──」


 無理やり立たせようと腕を引っ張って、冷河は滝沢が土下座した本当の意味に気づいた。

 ……滝沢の履いているスウェット。その股間がこんもりとテントを張っていた。

 それを見た瞬間、冷河の中にマグマのような怒りが湧いた。


「信じらんない! ちょっと優しくされたらすぐ盛るとか! ヤることしか頭にないんじゃないの。そんなふうに育てた覚えはないわっ!」

「これは違くて! ぜんぜんまったくイヤらしいこと考えてたわけじゃないんだ。冷ちゃんに膝まくらしてもらえたのが嬉しくて、安心したとたん自然にこうなって……」


 滝沢は顔を真っ赤にさせてクッションで下腹部を抑えていた。


「安心したらボッキするなんて聞いたことないわよ! さっきまでブルってたくせに下半身だけ勇敢ってなんなの? 安心=エロに直結してる脳ミソなの? 脳内シナプスの連結から地道にやり直せ! こんなんじゃあわたしが好きだってセリフも怪しいものよね。どうせ誰にでも同じこと言ってるんでしょ。最近アキポンって子とも付き合いだしてるのも知ってんだからね!」

「い、いや、明乃さんはあくまで友だちで、好きな人にどうアプローチしていいかわかんないから教えてほしいっていわれて。俺はデートの練習相手しただけだよ」

「そんなの方便じゃない! ……ちゃんと人の目を見て話しなさい。いつまで下半身バカになってんの」

「こ、これは、いつもはこんなことないのに、なんかぜんぜん収まらなくてぇ……」


 下半身のコントロールを失った王子様役……。

 素の滝沢は骨の髄までダサくて見てるこっちが耐えられない。


 これが研磨された理想の王子様の姿か?

 死の淵にある女の子を救ったヒーローか?

 はたまた運命の女神が恐れる運命の破壊者か?

 お前の行いひとつで宇宙丸ごと大崩壊するっていわれてんだぞ。

 幸い今ぶっ壊れてるのは滝沢のバカチンコだけね!


 ああ……長い時間と情熱をかけて並べてきた力作ドミノが勝手に他人の手で倒されたような気持ちになってきた。

 宝石のように透き通った涙を流し終わったと思ったら、今度は下が暴発しそうとかないわ。

 ボッキが収まらないのはメス豚に一服盛られたからとわかっちゃいるが、出ていく前ににこれだけは言っておかなきゃ。

 相手に真剣に受け止めてほしいとき、強調したいときというのは、耳元で甘く優しく囁くように言ってあげるのがコツだ。


「スッキリしたいの?」

「え?」

「スッキリしたいのか、て聞いてるの。したいの、したくないの? どっち?」


 右に左にと滝沢の目がせわしない。

 脳をフル回転させて聞かれたことを吟味しているのか。


 え、ウソ? 本気で? 本当に? 手伝ってくれるんですか?


 無意識に呼吸を止め、冷河のしなやかな指先を凝視しながら真剣に悩んでいた。

 普段の勉強会で見せたことのない異常な集中力だった。

 逡巡ののちゆっくり正座してきた。

 滝沢は「結婚したのか? 俺以外の奴と……」とでも言いだしそうなシリアス顔を決めて──


「…………………………………………したいです」

「ひとりでトイレに籠ってスッキリするまで垂れ流せばいいじゃないっ。この……バカチンコっ! ドクズ! ド変態ぃっ! おやすみ、明日から陰茎イラ立ちマンって呼んであげるわっ!」

「待って、今のナシ! ああっ見捨てないで、ワンモア! もう一度敗者復活のチャンスを! なにかのまちがいなんです! いつもはこんなんじゃないんですうぅぅぅぅぅぅぅ!」


 前かがみの滝沢の絶叫が館中に響いた。




「昨日はどうだった? ちゃんと滝沢くんとお話できた?」


 朝食に向かう廊下の途中で、好奇心をあらわに仁美が尋ねた。


「話ができたかどうかでいえばできたわよ。昔のこととか。あいつがいかにダサくていい加減かを再確認できたわ。極めつけはチン……ってこれはどうでもいいか」

「チン……?」


 ファック。せっかくのバケーションなのに、滝沢のアレが脳裏に焼き付いてしまった。

 十年二十年と遠ざかるほど、どんな思い出も美しいものに変わるらしい。

 この思い出もいつか美しいものに昇華されるんだろうか。いまのところ滝沢のアレしか思い出せない。マジファッキン。


「わたしのことはもういいでしょ。それより仁美はどうなのよ? 滝沢くんのことが好きなんじゃないの」


 自分が転校して以来、彼らは同じ中学高校と進学してきた。

 人付き合いの苦手な仁美を滝沢はずっとフォローし続けたらしい。そんな彼に想いを寄せるのはごく自然な成り行き。

 それなのにどうして自分と滝沢を取り持つようなことばかりする?

 仁美を手をもじもじさせて。


「た、たしかに、滝沢くんが好きは好きだけど……そういう好きじゃなくて……わ、わたしは……」


 背筋がぞくぞくした。気配を感じる。この感じはまちがいなくアトロポスだ。

 人と話してるときはできる限り声をかけるなと言ってあるので待機してるのだろう。

 きっと仁美がいなくなったらまた説教される。絶好のシチュエーションだったのにエロイベント未達成とはどういうことだ。失望したぞ、と。

 アトロポスは運命の女神より猥褻の女神に改名したほうがいいと思う。


 どうせいつものように死んだ魚のような目で見てるんだろうな、と思いながら冷河は振り返ってみた。


 ……あれ? 違った?


 後ろにいたのはアトロポスではなく、柱の影に隠れていた美夏とアシリアだった。


「美夏ちゃんたち……なに遊んでるの?」

「…………見つかっちゃった。尾行のプロであるこのわたしの気配に気づくとはさすが! う~ん、鈍感な恵太とちがって冷ちゃんは一筋縄ではいかないようね」

「いや、ミカの尾行って正直あんまり……。そもそも今の時点で影から見守ろうってのにイミなかったと思うし」


 アシリアのツッコミをよそに、「よくぞ気付いたアケチくん!」とばかりに美夏は親指を立てた。

 なにがやりたかったのかさっぱりわからない。


「レストランに行くならいっしょに行きましょう」

「うんうん。それがいい。みんなでいこー!」


 アシリアが元気よく率先した。


「男子連中はまだ起きてこないの? アタシ起こしてこようか」

「放っといていいわよ。お腹が空いたら勝手に来るでしょうし」

「レイカはキビしいねー。たまには優しくしてやんなきゃいくら恵太でも落ち込んじゃうよ?」

「優しくしないほうがいいのよ。滝沢くんは褒めたり甘やかしたりしたらダメになるタイプだから」

「あー……それちょっとわかる気がするし」


 レストランに着くと滝沢と遠山がすでに待っており、後から穂高もやってきて全員が揃った。

 滝沢は力なく肩を落としていた。遠山や穂高が声をかけてもどこか上の空。昨夜の出来事がだいぶ効いているようだった。


 滝沢のことも気になるが、冷河には別の関心事があった。

 両脇に座った美夏とアシリアが妙だ。なぜか自分を見張っている気がする。ご飯を口に運ぶ一挙手一投足にすら注目していた。


「あの……、二人ともどうかしたの?」

「いーえ、べつに!」

「今日も冷ちゃん、とってもキュートだなって!」


 二人は速攻で顔を逸らした。

 何なんだ。美夏はともかくアシリアまで?

 変に気を回すのはやめてほしい。

 自分なんかに注目するのはアトロポスだけでたくさんだ。


「どうした? ヘビににらまれたカエルのように動きが止まっているぞ」


 来るぞ来るぞと身構えてたら中々来ないやつがついに来た。

 アトロポスが背後に降臨したらしい。

 一応確認してみたらちゃんとデート時の青いスカート姿に戻っているようで安心した。


(いま話しかけないでよ。あなたの声に反応したら不審がられちゃうでしょ)

「了解した。ならばこれだけ確認させてくれ。お前の近くに例のイレギュラーの二人はいるか」


 例のイレギュラー、とは美夏とアシリアのことだ。

 どういうわけかアトロポスにはこの二人の姿が確認できないらしい。


(そうよ。どうしてか二人に挟まれてるの。しかも見張られてるっぽくて……)

「そうか。とうとう本腰を入れたようだ」

(ねえ、ずっと気になってたこと聞いてもいい? なんであなたには美夏ちゃんたちが見えてないの?)

「彼女らは例えるなら本に挟まれた栞。または割り込まれた異物。本来の時空に含まれていない存在だ」

(わたしにわかるように言ってくれる? つまりどういうこと?)

「わたしの姉どもだ」

(………………は?)


 いまなんて言ったの。


「生と現在の運命クロト、導きと過去の運命ラケシス。この両名の仮の姿なのだ」

(姉? お姉さん? 前に言ってた仕事をほっぽりだして消えたっていう……)


 美味しそうにサラダを頬張る美夏を見ながら思う。

 ちょっと待って。どう見てもこの二人は人間でしょう。今を生きてる一般的な女子高生じゃない。アトロポスみたいな死んだ魚の目をした怪しさ満点の存在とはぜんぜんちがうじゃない。

 なにを言い出すかと思えば。

 唐突に爆弾ぶっこんでくるのよねこの女神。


「人を人たらしめるものは外殻の有無だけだ。肉体という外殻を纏っていればそれは人間だと認識される。肉体を調達する方法はいくつかある。自ら生成してもいいし、現地住民の体を借りることもできる。そしてそれは我らにとって難しくない」

(だからって……わたしは昔の美夏ちゃんを知ってるのよ。子役時代の妙成寺さんとも会ったことあるし……)


 頭が混乱してきた。

 自身の記憶が疑わしくなってくる。

 一応人知を超えた女神さまなわけだし、不思議な力で人間に化けられるのかもしれない。

 それでも受け入れがたいのだ。

 本来の時空に含まれない? 本来ってなんだ? 自分の知ってる世界は異常だったのか?


 弟に構ってばかりだった美夏。なぜか彼女に気に入れられ辟易していた小学生時代。

 アシリアとは彼女主演の映画で共演した自慢の過去もある。

 当時のアシリアは光り輝いていた。メディアを通して多くの人が彼女を知っていたのに。

 すべては虚構だったというの?


「個体名タキザワケイタの母親であるタキザワアキには、別の第一子を生み出せた可能性がある。本来生まれ出なかった生命に仮の運命を与え創られた存在……それがタキザワミカだ。ミョウジョウジアシリアも同様。よってお前の記憶は正しい。彼女らは突如ゼロから発生したり、他の人間たちの記憶を改ざんしたわけではない。現実の母体から通常の方法で生産され今日にいたっている」

(いや、わたしが気にしてるのは、そういうことじゃなくて……)

「どしたの冷ちゃん? 食欲ないの?」


 美夏が席の間隔を詰めてきた。


「い、いえ、そんなことない……よ。というか美夏ちゃんさ、今日は一段と近くない?」

「え~、そう? いつもこんな感じだよ~」

「いつもこんな感じっていわれるのもどうかと思うわ……」


 アシリアが鶏レバーを差し出してきた。


「ほらほら、箸が止まってるし。食が細くても朝はちゃんと食べなきゃね」

「あ、ありがと……」


 子役時代のCMで見たときと変わらない天真爛漫な笑顔。

 ……この二人がアトロポスの姉? 中身は運命の女神? 純粋な人間じゃなくて?

 ウッソだあ。ありえない。

 アトロポスが耳元で囁きだした。


「存在証明は人類永遠の哲学。宇宙のすべてを疑ったとしても、それを疑う自身の存在までは疑えない。事実を疑うお前という真実さえあれば問題あるまい」

(もうなにがなにやら。……仮によ? 仮にこの二人があなたと同じ存在だったとして、わたしたちの世界でなにをしてるわけ?)

「奴らは奴らなりに使命を完遂しようとしているらしい」

(使命……って?)

「人の子らの幸福を護るということだ。バカな姉どもの好き勝手にはさせておけない。わたしも本格的に行動を開始しよう」


 アトロポスが背中にぴたりとくっつきそうなくらい近づいてきた。

 しかも耳を塞がれたようだ。

 物理的に塞がれてるわけじゃないのに、耳のあたりがチリチリと熱く感じる。


(ちょっと! よけい窮屈じゃない! しかも凄まじくウザったい!)

「気にするな。耳栓のようなものだと思え。こうして異界からのエコーを遮断してるだけだ」

(頭にアルミホイル巻かれてる気分なんだけど!)


 どうしてわたしばっかり構うんだ。

 女神の最優先事項は滝沢のはずなのに!

 だいたい異界のエコーってなんだ。滝沢みたいに死に瀕した人の声でも聞こえるのか。

 そんなの今までの人生で一度も聞いたことないぞ。


 本物女神一人と疑惑女神二人に取り囲まれたみたいだ。

 なんなんだろうこの状況……。

 よってたかっておしくらまんじゅうか。


 バケーション二日目の朝は、迷路の袋小路に追い込まれたネズミのような気持ちで始まった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
小説家になろう 勝手にランキング
リンクをクリックしてもらえるとやる気が出ます。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ