もう一度エンカウント②
「このへんで少し休憩しましょうか」
「そうだね」
時計は午後四時十分を回った。午後一時に冷河のマンションへ到着して冷河の部屋で勉強を開始してから丸三時間以上。
勉強熱心でスパルタ型の冷河にも疲れが見えた。
冷河は目頭を押さえながら。
「少し疲れちゃった……二十分くらい仮眠を取らせてもらうわ。ヒマだったら適当に本でも読んでて」
冷河が指さした本棚には、彼女愛読と思われるコミックやティーン誌がある。
「ありがとう。じゃあ待ってるから、ゆっくり休んでください」
恵太は、冷河のベッドの前を譲った。
「ここで休むわけないでしょ。あなたの前で寝てたら何されるかわからないんだから」
「ええ……そんなぁ」
勉強がんばったご褒美に、ちょっと寝顔が見たいだけなのに。鋼の理性を持つ男として定評があるのに。
「フンっ」
ドアが壊れそうな勢いで閉じられた。
手持ち無沙汰になり、何の気なしに本棚の表紙を下の段から流し見した。
冷河が小学生のころにあったような気がする少女漫画、ドラマ化されたこともある有名な探偵シリーズの小説多数、恋愛もののDVD&ブルーレイ数枚。さらに海外の邦訳小説、受験生向けの参考書、一番上は見慣れない英語で書かれた分厚い本でびっしりだ。
本棚ひとつ見るだけでも冷河の歴史が伝わってくるようで嬉しい気持ちになった。
適当に参考書を手に取ると、ドアがノックされた。
「恵太くん、疲れたでしょう。シュークリーム、好きだったわよね?」
冷河の母であるおばさんが差し入れを持ってきてくれた。
「覚えててくれてありがとうございます。ちょうど甘いものが恋しかったです」
ありがたく頂いていると、おばさんの頬がほころんだ。
「昔は女の子みたいに小っちゃくて泣き虫だったのに、たくましくなっちゃってぇ。学校だと女の子がほっとかないでしょう?」
「いやあ、そんなことないですよ。冷ちゃんの求めるようなレベルにはぜんぜん届いてなくて。まだまだ学ばなきゃいけないことばかりです」
「相変わらず恵太くんには苦労させてるわね。自分に厳しかった子だから、人にも厳しくしちゃうのかしら」
「はは。自分に厳しいっていうのは、今も変わってないですね。ほら、この参考書とか見てたらわかりますよ。来年は東大受験目指してるっていうし、目標持って全力でがんばれるのはスゴイです」
ボロボロになるまで使い込まれた赤本や参考書だった。自分なりの注釈がいくつも書き込まれ、それだけでも立派な教科書になりそうだ。
東大、という名を出したとたん、おばさんは目を伏せた。
「やっぱり、諦められないのね……」
「やっぱり? おばさんは、冷ちゃんが東大受験すること、乗り気じゃないんですか?」
親の立場だったら嬉しそうなものなのに。
おばさんは頷いた。
「恵太くんは知ってるかしら? 冷河が映画に出たことあるってこと」
「ええ、聞きました。たしかホラー映画ですよね?」
「そうよ。もちろん脇役で、台詞もほんの短いものだったけれど、一生懸命に練習してね。しっかり役をこなして、いまのわたしを見せつけたい人がいるんだって、はりきってたのよ」
「見せつけたい?」
「きっとあなたのことじゃないかしら。転校してからも、恵太くんのことを忘れたわけじゃないのよ。そこの机の中にも、昔あなたたちで作ったっていう手作りゲーム、入ったままだしね」
恵太は、部屋の隅にある机に目をやった。
おばさんの話だと引き出しには、昔作ってくれた人生ゲームの紙一式がしまわれてるんだろう。
人生ゲームの存在なんて、おばさんに言われるまで完全に忘れてたのに、冷ちゃんは覚えててくれたんだ。
しかも手作り人生ゲームという現物まで残して。
いかん。なんだか胸が滾るように熱くなってきたぞ。
正直いますぐにでも冷ちゃんを抱きしめてアイラブユー口撃をしたい……!
ほぼ確定で変態だのバカだの罵倒されたあげく殴られるだろうから、鋼の自制心で我慢しなくては!
「万全を期して臨んでも、やっぱり付け焼刃だったみたいで。本番では緊張してまったく通用しなかったから、あの子しばらくの間落ち込んじゃってね。自分の不甲斐なさよりも、恵太くんに見せたいものを残せなかったのが悔しかったと思うのよ」
もちろんおばさんの想像だから、冷河の悔しさは別にあったのかもしれない。
ただ、彼女の苛立ちの理由が自分にあったとすると、どんな言葉をかければいいんだろう。
「今は毎日のように塾通いして、夜遅くまで勉強漬けよ。母親としては、無理をしてまで東大目指してほしいとは思わないの。色々理由を並べ立てていても、本心では恵太くんに自慢したいってことだと思うから。それが叶わなかったら、あの子はまた……」
おばさんは懇願するような眼差しを向けてきた。
「わたしが言ってもいつも喧嘩になるから。恵太くんの言葉だったらあの子も聞くと思うの。どうか無理しないでいいって、それとなく伝えてみてくれないかしら?」
「おばさんの気持ちはよくわかりました。俺にできることだったらなんでもやります」
「ありがとうね」
無理をしないでいい。
それは娘を思う故の親心なんだろう。
「ただ、もう少しだけ待ってもらっていいですか? おばさんが言ってダメだったのに、いきなり俺が水を差してもやっぱりダメかもしれませんし、それに……」
冷河がどんな気持ちで東大を目指してるのか少しわかった気がした。
努力しても報われず、失敗するかもしれないという怖さを彼女は知っている。
それでも困難な道に踏み込んでいるのだ。本当にすごいなと思う。誰にでもできることじゃないはず。
「映画出演の時とはまた状況が違うかもしれないんですよ」
「……そうかしら?」
「だって、今の冷ちゃんはひとりじゃないですから。学校でも友だちがたくさんできましたし、映画で共演してた子とも仲良くなれたんです。おばさんは知ってますか、妙成寺アシリアって子」
「アシリアって……数年前に引退した子役のこと?」
「そうです。実はこの近所が地元だったらしくて、同じ高校に通ってるんです。すごい偶然だって思いません? 冷ちゃんにとって苦い思い出のある相手だったはずなのに、今は違うんですよ。いつの間にかマイナスからプラスに変わってることもじゅうぶんあり得るんです。だから、もう少しだけ冷ちゃんのこと見守っててほしいんです」
恵太は頭を下げた。
今はおばさんの期待に沿えません、と言ってるようなものだ。
「……そうね。昨日の今日で恵太くんから否定的なこと言われるほうが、良くないかもしれないわね」
「すみません。でも、できるだけのことはするつもりです。冷ちゃんの助けになれるように。なんとか……してみせます!」
おばさんは安心したように小さく笑った。
それから数分して、おばさんは娘を起こしてくるといって扉を開けた。
「あら冷河? いつからそこにいたの?」
おばさんは意外そうに尋ねた。
「……三分一二秒前から。お前たちの会話が切れなかったので、機会を伺っていた」
「あ、あらそう? だったら悪いことしたかしら。恵太くんが待ってるから、どうぞ」
おばさんは冷河と入れ替わるかたちで部屋を出た。
「待たせた。さあ、続きをやるぞ」
「う、うん」
恵太は、うまく表現できない違和感を持った。
冷河の口調がいやに固い。歩く仕草も足と手が同時に出たりして、油の切れたロボットみたいな動きだった。おまけに鋭い目は凍てつく氷のように冷たさを放ち……ってこれはいつもか。主に自分に対して。
苦手な数学を重点的にやるよう冷河に言われていたので、続きもやはり数学だ。
恵太が問題集を開くと、冷河は普段のパーソナルスペースを無視するように距離をつめて問題を覗き込んできた。
「どこかわからないところはあるか?」
「い、いや、今はだいじょうぶだよ。こないだの授業の復習ばかりだし……」
「そうか。ところで、調子はどうだ?」
「調子? 良いんじゃないかな」
「そうか。長く座っていると体を動かしたくならないか。相手が欲しいなら協力するぞ」
「協力?」
「適齢期の男女が狭い部屋に閉じこもっているのだぞ。息遣い、視線、首筋を濡らす汗。よく観察すれば、女の機微を推し量る材料に気づくはず。そうでなくともお前は男だ。全身の血が沸騰し、欲望は下半身へ充填され、蠢き滾るものを解き放ちたくなるだろう?」
と言いつつ恵太の太ももをゆっくり撫でてきた。
「そ、ソーダネ!!」
超ビックリして語尾あがっちゃった!
早とちりじゃなければ、まさかの誘惑を受けてるのでは?
いや、冷ちゃんに限ってそれはない!
きっと気分転換に運動したいってだけのはずなんだ。
でも、二人でやれる運動とかスポーツってぱっと思いつかないんだよなあ。
「無理のある誤解をするな。女に恥をかかせるのは感心しないぞ」
「ええっ!?」
今のってやっぱりそういうお誘いだったんですか!
え、今すぐ? ここで? 別室におばさんがいるんだよ?
だいたいさっきはめちゃくちゃ警戒してたじゃないですか!!
下卑た冗談は嫌いな人だったはずなのに!
以降追及はされずに、冷河は、無言で恵太を観察していた。
恵太が逃げるように問題集と格闘していると。
「お前に一つ聞きたいことがある」
「なに?」
恵太は手を止めた。
「簡単な心理テストだ。お前と恋人を含む五人の仲間がいた。五人は旅行先のとある館で悪人に捕まってしまう。悪人は恋人を人質にとり、お前にこう言った。『この中の誰か一人を殺せば、死んだ者以外は解放してやる』。悪人は一発の弾丸が込められた銃をお前に渡す。お前は何としても恋人だけは助けたい。殺せる人間は仲間三人のうちの一人で、お前にとって好ましい人物A、好ましくない人物B、特に興味のない人物Cだ。さあ、どうする?」
「へ、ヘンな問題だね……」
恋人を助けるために誰かを犠牲にしなきゃいけないってわけか。
銃を渡されているのだったら、悪人を制止して解決できたりは──
冷河が三本の指を立てた。
「三つ条件を加えておく。一つ、悪人は約束を必ず守る。二つ、悪人は煙のような身体の持ち主で銃弾では殺せない。三つ、悪人の命令故に罪は悪人が背負うものとする」
なにその二つ目のモクモクの実設定。
う~ん、先に釘を刺されてしまったぞ……なんて答えよう。
悪人を倒すのは不可能で、殺す人間は一人だけで、殺人の罪は問われない。
ここまで条件を足されて、さも殺していいですよという風に設定されたBとCがすごく可哀想だ。
あ、よく考えたら、一つだけ抜け道があるかも……。
「そうか。それがお前の答えか」
「え? まだ何も言ってないよ」
ちらっと考えただけだ。
「地獄への道は、人の善意で舗装される……」
冷河は、眉一つ動かさず続けた。
「通常、人は自らの世界を守ることを考えるものだ。生活、将来、幸福。手の届く範囲さえ守れれば他はどうでもよい。利己的で打算的だが、悪というわけではない。他者を殺せば全てを取り返せる、全てを守れるとわかっているのに、お前の選択はいつも不合理と矛盾に満ちているな」
「れ、冷ちゃん?」
「お前の愛は純粋なものだ。そして、純粋で危険な愛でもある。……お前のその愛が、危うさが、この娘に地獄すら生ぬるいほどの虚無と絶望を与えることになる」
冷河は胸に手を当てた。
彼女の小さな唇が恵太の鼻先に触れそうなくらい近づいた。
「未来を垣間見た人の子よ。だから、お前は愚かなのだ」
「未来をって、まさか……」
去年の火災のときに言われたことだ。
思い出してみたら似ている……話し方がすごく似ている。
感情を感じさせず、人の命を軽んじてる淡々とした態度。
ずいぶん前から、冷河が"声"を聞いているのは見当がついていた。
死神……死の女神……クロトさんから聞いたアトロという名前。
まさかこんなタイミングで、しかも冷河の口を通して話をするとは思わなかった。
今の冷ちゃんは死の女神の──
「そうだ。少年がわたしの存在に気づいているのはわかっていた。そして、クロトとも接触したようだな」
冷河は顔を話して立ち上がった。
恵太は、彼女の顔を見上げる格好で尋ねた。
「……冷ちゃんをどうしたんですか?」
「案じなくていい。身体を借りているだけだ。あの娘はまだ眠っている」
冷河は指でトントンと頭を叩いた。
「……お願いですから、今すぐに冷ちゃんを返してください」
「要件が済んだらそうする。少年の前に現れたのには理由があるのだ。……その前に、自己紹介しておこう。すでに知ってのとおり、わたしは運命の女神。死と未来を司る運命であり、名はアトロポス。お前の知っているクロトは、わたしの姉にあたる」
「姉? アトロポス? ……これはご丁寧にどうも。滝沢恵太と申します」
一応相手が礼を尽くしてる以上、自己紹介は返す。
「知っている。それこそお前が生まれる前からだ」
冷河は部屋の窓を開けておもむろに外を眺めた。
「人間の眼というのは、改良の余地があるな。今の未熟な眼ではたった百メートル先でさえ満足に見通せないぞ。五感を通して得られる情報は限られる。せいぜい人々の喧噪、鳥のさえずり、肌に触れる風、生きた匂いで察する程度……。しかし、それでもこの世界の美しさは捨てたものではない。運命の女神とは、人を幸福に導くため存在する。わたしの役目に感傷など不要であっても、手の届く範囲は護ってやりたいという衝動に駆られる」
独り言なんだろうか。
単に肉体を得て外の風景を楽しみたいわけじゃないだろうに……。
「少年よ。お前は、自分が何者なのか、考えたことはあるか」