霧生冷河は抗いたい②
「ごめん、レイカ。ここの問題がわかんなくて。良かったら教えてくれない?」
アシリアが数学の参考書をひっくり返して見せてきた。
三角関数の証明問題だ。
「ええ、わたしでよければ。遠山くんに聞いたほうが分かりやすいかもしれないけどね」
「アイツに聞くとイヤミもついてくるからヤなんだよ」
遠山は、アシリアの不満を無視して実技教科書のページをめくっていた。
「……つまり、相互関係を用いる証明は、左辺の式を変形して右辺の式と一致させてみるの。ここの例題が参考になるはずよ」
「すっご、超わかりやすいしー。もう先生と変わんないじゃん」
アシリアは、テレビで見ていた頃と変わらない笑顔で喜んでくれた。
「役に立ててよかったわ」
集中して問題とにらみ合う滝沢に目をやると、アシリアと同じ問題のところで躓いてるようだった。
残念ながら理解力という点ではアシリアに一歩リードされているみたいだ。
滝沢にはもう少しヒントを出す必要があるか。
集中しているといえば遠山も同じだ。
さっきから興味ありげに教科書を……。
うん? 遠山の読む本が変わってる? 東京大学理科赤本……?
よく見ると、畳に置いてた自分のバッグから、東大入試用の赤本が抜かれている!
「ちょっと遠山くん! それって」
遠山がはっとしたように赤本を閉じた。
「霧生は東大目指してんだな。バッグに青本まであったし、興味本位じゃなく」
「いいから返してよっ」
勝手に人のもの見るとか、なんてデリカシーのないヤツ!
「学部はどこ目指してんだ? やっぱ理三とか狙ってんのか?」
「冗談言わないでよ。そこまで自惚れてないからっ」
東大理科三類は、選ばれし真の天才しか入れない日本の超難関学部だ。
自分のような普通の人間が目指すことだっておこがましいくらいに。
「うーわ、マジだ! ヤバいな~、アタシみたいなバカが足引っ張っちゃダメなやつじゃん!」
「すごい……俺にはかろうじて日本語なことしかわからないや」
いつの間にか滝沢とアシリアが、冷河のバッグから青本(赤より解説の質が上)を取り出して読んでいた。
まるで古代文字を読むような顔で、驚愕と賞賛の眼差しを送ってくる。
「かなり読み込んでるみてーだし、そんだけやる気あるんなら、もう模試は受けてんだろ? 判定は?」
遠山は、穴が開くほど使い倒して傷んだ赤本をひらひらとさせた。
言いたくない! 誰にも知らせず受かった後で自慢しようと思ってたから、中途半端な状態で知られたくもない!
特に滝沢にだけは……!
そんな自分の気持ちなど露知らず、滝沢は瞳を輝かせるばかり。
「……C判定よ! 今のところは」
「じゃあ余裕だな。まだ一年以上ある。おめでとさん」
遠山の拍手が馬鹿にしてるようにしか聞こえなかった。
滝沢も最高の笑顔で拍手し始めた……意味わかっとんのかいコイツは!
「からかうのはやめて。わかってるわよ。今のままじゃ合格なんておぼつかないって」
去年と比べたら順調に判定を上げてはいても、この先も同じように伸びるとは限らない。
勉強は時間さえかければいいというものじゃなく、計画と効率がモノをいう。
遠山のように才能あふれる人間には絶対にわからないことだ。
「そんなことないよ。冷ちゃんならできる! 俺に協力できることがあったら、なんでも言ってね」
滝沢が他意の無さそうな笑顔を見せた。
コイツはコイツで、愚直に努力さえ続ければ夢は叶う、とか子供みたいなことを思ってそうだ。
「そっか~東京の大学か~。冷ちゃんの夢って、それだったんだね。本当にすごい!」
「そんなわけないでしょ。大学なんてただの過程よ」
「てことは、レイカの夢はその先ってこと?」
アシリアが口をはさむ。
ここまで言ってしまったら、隠してもしかたないか。
「わたし……アナウンサーになるのが夢なのよ」
「女子アナ?」
「……そう。それもローカルじゃなくてキー局の」
「な・る・ほ・ど~。それで東大ってことか」
ちなみにキー局とは全国ネットワークの中心となる放送局のことだ。百局を超えるテレビ局でもわずか五つしかなくて、それらのアナ志望となるとめちゃくちゃ競争率が高い。
アシリアは芸能界の人間だったので、テレビ関係の事情がよくわかっているようだった。
「ねえ、冷ちゃん。アナウンサー志望だと東京大学必須だったっけ? そうじゃない人だっていっぱいいるような……」
滝沢がもっともな疑問を口にした。
「要するに、レイカが言ってるのは、全国ネットで流れるような番組の顔になりたいってこと!」
アシリアが自信満々に指を立てた。
「番組の顔?」
「そ。恵太だって報ステぐらい見たことあるっしょ? そういう番組の女子アナ見ててどう思う?」
「どうって……言葉遣いがしっかりしてて、落ち着いてて、きれいな人が多いかなって思うよ」
「まさにそういうことだし。ニュース番組も民放である以上、視聴率が命。数字稼ぐため、どうしても女子アナには容姿の良さが求められるし」
「……なんだかタレントさんみたいだね。でも、それと東大とどういう?」
「わかんない? テレビ局ってキレイな人いっぱい集まってくるじゃん。レイカって凛としてるからビジュアル面は問題なくても、容姿は良いことが前提みたいなもんだし。ってなると、あとは学歴盛ってエリート路線狙うしかない。肩書や実績って人より先んじるのに超重要。世の中ってそういうもんだし」
「へえ~。なるほど~。勉強になるなぁ」
滝沢が深く頷いたとき、ふすまがゆっくり開いた。
「みんな、お疲れさま~」
滝沢美夏が麦茶を載せた盆を持っていた。
「冷ちゃん、本当にありがとね~。恵太って物覚え悪いから、教えるの大変でしょう?」
美夏は冷河の隣へ座った。
「思ったよりは大丈夫。致命的ってほど悪くはないし、数学の苦手意識を克服するのが向上の近道ってとこかな」
「はい、全力でがんばります!」
滝沢が強く相づちを打っていた。
アシリアがペンを回しながら。
「良かったらミカも一緒に勉強していかない? ちょうどヒマを持て余した家庭教師もいるし」
ペン回しをやめて遠山を指す。
遠山が赤本を閉じた。
「俺は構いませんよ。美夏さんさえ良ければ」
「でも……わたし三年生だから、遠山くんとは習ってる範囲ちがうよ?」
「余裕っす。高校の履修範囲はガキの頃にやってたんで」
「さ、さすが学校一の秀才ねっ。じゃあお言葉に甘えて……」
美夏は、遠慮がちに勉強の用意を始めた。
「え、え~と……う~んと……」
「美夏さん、当たり前ですが、三年の微分積分は二年の内容覚えてること前提なんで。そこが抜けてたらいくら首ひねってもムダです。忘れたんだったら、二年の内容からやり直しましょうか?」
「ご、ごめんなさい~。わたし、バカでした! 恵太のこと、ちっともバカにできませんでしたー! 正直いって、一年の終わりごろには数学かなり怪しくなってきてましたーっ!」
「ぜんぜん大丈夫なんで。……頼むから拝み倒すの勘弁してくださいよ!」
遠山の寛大な態度に感激したのか、美夏はおいおいと泣き始めた。
「おいこら。アタシんときとずいぶん態度が違うし! なんでミカには優しく教えてんの?」
アシリアが遠山に蹴りを入れている。
「うるせえよバカ! 相手によるわそんなもん」
その様子を見て冷河は思った。
まあこんなことだろうなとは予想できたわ。昔から弟に構ってばかりで勉強に取り組むような性格じゃなかったものね。
珍しく遠山がやる気を出しているし、美夏のことは彼に任せるとしよう。
それから午後七時になるまで勉強会は続き、本日はお開きになった。
玄関口の窓からみえる外はまだ明るい。夏至はもうすぐそこまで来ている。
「今日は遅くなってごめんね。本当に送ってかなくてだいじょうぶ?」
滝沢と美夏が心配そうな眼差しで見送りに来てくれた。
「大丈夫よ、子供じゃあるまいし。じゃ、また明日ね」
「うん。また明日」
「気をつけてね~」
玄関から出たところで、下世話な女神が声をかけてきた。
「お前は、少々我が強すぎるようだ」
「いきなりなによ」
勉強会の途中からすっかり姿が見えなくなったと思ったら、唐突に青いスカートのわたしが現れた。アトロポスは時折姿を消すことがある。消えているときはなにをしているのかと尋ねたら、「リソースを振り分けている。女神というものは忙しい。なにせ全人類の面倒を見ているのだ。延々と一人に掛かり切りというわけにいかない」と言われた。
地球人口の数を考えると、彼女の仕事が尋常じゃなく忙しいのはなんとなくわかった。
「なぜ勉学に励むのか理由を話していたな。お前は夢のためだと答えていたが、そうではないだろう。なぜ、夢を抱くようになったのか。なぜ、その夢でなければならなかったのか。お前が答えるべきはそれだ。あの少年に、胸の内を聞かせるべきだった。もっと自分の感情を吐露してみよ」
「うるさいわね。そんなのはわたしの勝手よ」
まるで子供に言い聞かせるみたいだ。
母を彷彿とさせ、なんだか反発したくなる。
言われなくたっていつかは聞かせようと思う。
しかし、それは今じゃない。
「明日も太陽が昇っているとは限らない」
「なに?」
「人は明日も太陽が昇っていると確信はできない。明日も太陽は昇っているだろうと予測しているだけだ」
「それがどうしたの?」
どこかで聞いたようなことを言う。
「いつかとは何時だ? 今この瞬間スイッチを切るように、太陽が消え失せて世界が終わるかもしれないぞ。お前は、やり残したことがあると嘆き、後悔したりしないのか。あるいは、突然に大切な者を奪われたとしたら? あの時ああしていたら良かった、こうしていたら良かったと後悔したときには遅いのだ。人には運命があり、生命には限りがあり、永遠は存在しない。あらゆるものには必ず終わりが訪れる。だから、その前に、太陽が昇っているうちに、人の子らには幸福になってほしいと、わたしは願っている」
「……今日はお説教の日ってわけ? 幸福になってほしいっていうなら、あなたが人を運命で縛るのをやめたらいいんじゃないの? 道端で亡くなったお婆さんだって、妙な運命背負わされた滝沢くんだって!」
釈迦に説法か。運命の女神に運命を否定しろというのは無駄かもしれない。それでも言ってやりたい。全部あなたのせいじゃないかって。
あの時亡くなったお婆さんに、どんな幸せがあったというのか。もっとましな死に方があったはずなのに。家族に看取られることもなく、苦痛を与えながら死なせといて幸せになってほしかったって?
滝沢なんて色々言われたあげく、宇宙を破滅させかねない爆弾扱いだ。本当いい加減にしてほしい。人に説教する前に、運命の女神なんて廃業したほうが絶対にいい!
アトロポスの目に寂しげな色が浮かんで見えた。
「否定はもっとも自然な反応だと理解している。人の子であるお前に、わたしの仕事をわかってもらうのは難しいだろう。だが、これだけは言っておく。女神が人に課した運命とは、生まれてから死ぬまでの軌跡ではない。何時、何処で生まれ死んでいくかということだけだ。その間をどう生きるかは完全な自由意志に委ねられる。幸福になれるかも各々の受け入れ方次第」
「つまり、スタートとゴールだけは決定されてるけど、コースは好きに進んでいいって?」
「そのとおりだ」
アトロポスにはわたしの心がすべてお見通し。人の努力、喜び、悲しみ、怒り……その全てが決められているわけじゃないと言いたいらしい。
彼女なりに励ましてるつもりなのかもしれない。
「わたしが嫌われ者の女神なのは承知している。それでも、好んで嫌われたいわけではないのだ。だから、そう……機嫌を直してくれ」
「…………」
返す言葉も無くしそうになる。
偉そうに説教したかと思えば、許しを請う子供のように弱気になったりと。
奇妙な共同生活を初めて一月近く経つけれど、なんだかんだで嫌いにはなれなかった。
口うるさくてうっとうしい女神だと思っているのに……。
「わたしからも言っておきたいわ。あなたが嫌われてるっていうの、死の女神だからじゃなくて、たぶんTPOをわきまえてないからだと思う」
特に、所かまわず滝沢とイチャつけというアドバイスを改めなさいよ。
「そうかもしれない。姉にもよく注意された。仕事バカで、周囲に無頓着だと」
「え? あなた……お姉さんいるの?」
なにその唐突な新情報。
「運命の女神は三神だ。人間社会でいう三権分立のように、現在・過去・未来を相互に抑制、均衡を保つ関係にある。すなわち、長女である生と現在の運命クロト、次女である導きと過去の運命ラケシス、そして三女である死と未来の運命アトロポス」
「え~~~……ウソぉ……」
こんなのがあと二人もいるの?
事前予告なしにいきなり現れたりしないでしょうね。
アトロポスだけでもかなりのポンコツ……いや衝撃だったのに。
「心配せずとも、奴らはいずこかへと消えた。責任感のないいい加減な姉共だ。忘れていい」
「あなたちょっとドライすぎるでしょ……」
一応家族じゃないの。っていうかそもそも女神って簡単に消えていいわけ?
「ところで、今日はお前向けの情報を精査していたのだ」
「……? なにを?」
「端末を見てみよ」
端末ってスマホのこと?
女神にとって、念じるだけで機械を操作するのはお手の物だという。
アトロポスは、家ではテレビやパソコンの電源をつけずに画面をじっと見つめてばかり。
しかも、その最中は全身から静電気らしきものがバチバチと散っている。
彼女曰く、「現世の一般常識にアップデートしている」らしい。
電源を入れるまでもなく、送られてくる信号を受信してあらゆる番組・情報を読み取れる、とかそんなノリみたいだ。
この女神、情報収集に家電製品やスマホなどのツールを使うのでかなり違和感がある。
女神と機械って相反してるような気がするのにね。
開いたスマホの画面には、生まれたままの女性の巨乳をアップに【♡♥全国のオススメ♥♡ ΨΨラブホテルベスト10ΨΨ】と表示されていた……!!
「たしかに、自宅や学校で少年と"合体"しろというのは無理があったようだ。お前の場合、場所と状況さえ整えてやれば性欲を解放しやすいだろう。わたしが勧めるのは三番目の『訓練部屋』という宿泊所だ。この街の近くで営業しており、年齢の確認も問われず、安宿のような場末感もない。大いに気分を高揚させてくれるだろう」
「やっかましいわ! エロいことばっか調べてないで、マジメに仕事しなさいよっ!」
ファッキン! やけにしおらしくしてると思ったらこんなオチだよ!
「むう。これもダメか」
「当たり前よっ」
汚らわしいので履歴を消した上でタスクキル!
クソが。できればこのスマホも踏んづけてブッ壊したい!
「お前にひとつ聞いておきたいことがあるのだが」
数ブロック歩いたあたりでアトロポスが言った。
「今度はなに?」
「以前からそうだった。少年の家にいる時、お前が誰と話しているのか認識できない瞬間がある。今日、あの場にいたのは、お前を含めて三人ではなかったのか?」
「三人?」
「個体名キリウレイカ、タキザワケイタ、トウヤマタツヤの三人だ」
「何言ってるの? あなたには妙成寺さんと美夏ちゃんが見えてなかったの?」
「……個体名ミョウジョウジアシリア? タキザワミカ? どちらも女の名称のようだ。そうか……あと二人いたのか」
わたしの心からしっかりフルネームを読み取っても釈然としてないようだった。
女神でもド近眼だったりするのかな?
アトロポスは確認するように、何度も自分の言葉を反芻していた。