霧生冷河は抗いたい①
二〇二一年六月二日 水曜日
自分を女神だと名乗る悪霊みたいな存在と暮らし始めて一ヶ月たった。
彼女の名はアトロポスという。
アトロポスの姿はわたしにしか見えておらず、他の人には声も聞こえていない。
背後霊みたいに、常にわたしの側にくっついているのだ。
その姿はわたしとまったく同じで、お気に入りの青いフレアスカートを穿いたデート時のものである。
夜、トイレで灯かりをつけると真っ先に青っ白い自分の顔が見えて心底怖かったが、さすがに一月も経つとだいぶ慣れた。
アトロポスにはいくつも質問をぶつけ、彼女は一つ一つ丁寧に答えてくれた。
とても信じられないような内容が多い。
順番に追っていこう。まずはアトロポス自身についてだ。
本人曰く人の魂(運命の糸と呼んでる光る変なヒモ)を異界に運ぶことが仕事だという。
「異界ってなんなの? 天国? それとも地獄?」
辺り一面お花畑の楽園か、血と針と臓物をぶちまけたような荒野か。
どっちにしろ行きくないな。
「言葉通り層の異なる世界だ。異次元といってもいい。天国や地獄など貧弱な想像力の産物に過ぎない。世に蔓延している拝金主義の胡散臭い宗教の教えなど真に受けないほうがいい」
「……仮にも女神様だったら、そういう発言、人にはしないほうがいいわね。ぜったい怒る人いると思うから」
「心配しなくともわたしに話し相手などいない」
「悲しいことさらっと言わないでよ……」
アトロポスはけっこうネガティブな女神だ。あまり自分では意識してないみたいだが。
まあ、死と未来の運命なんて、普通の人だったら鬱になりそうな役職についてるんだから無理もない。
次に尋ねたのはアトロポスの目的だ。死の女神なんていうから、わたしはてっきりこう思った。
「わたしは、もうすぐ死ぬってこと? だから、あなたが迎えに来たってことなの?」
「……違う。そうではない。問題なのは、お前の想い人である少年のほうだ」
「想い人? 少年? 誰のこと言ってるの」
嫌な予感……。
「個体名はタキザワケイタだ。わたしは、その少年を救いにきたのだ」
「ちょっと待ってよ。もっと詳しく話して。滝沢くんが死ぬっていうの?」
「死ぬだけならまだよい。このまま放っておけば、死よりも悪い未来が待っている。あの少年は、人類を含む生きる者たちのとっての爆弾なのだ」
「ますます意味不明だって……」
あまりに荒唐無稽すぎる話しだったが、要約するとこうだ。
普通の人であれば、運命の糸(魂)はキレイな球体を保ち、糸に刻まれた寿命の通りに生きて、そして死んでいくものだという。
女神であるアトロポスの仕事の一つは、糸を切って人の寿命を確定させることだ。
通常であれば、彼女の仕事に問題はないはずだった。
「何事にも例外はある。少年の糸にはエラーがあった。糸のエラーは揺らぎだ。すなわち、あの少年は本来死ぬべき時期に死ねないということ」
「……それのなにが問題なの? そんなのわたしに言わせれば、死ぬ時期なんてわからなくて普通じゃない。別に不死身の怪物になったってわけじゃないんでしょう」
「例えば、お前たち人の子の母星である地球がそうだが、複雑な流動の上に成り立っているものだ。宇宙が生まれて百八十億年ほど経ったころ太陽系が誕生し、さらに気の遠くなるような年月を要して地球を含む惑星が作られていった。地球には大気ができ、海ができ、やがて有機物のスープである海から生命が生まれた。太陽の光と熱の恵みを受けて生命は自己修復と複製を繰り返し、進化していった。わかるか。あらゆるものは、止むことなく流動してきた。川の水が上流から下流へ流れるように、現世には流動を続けなければならない必然がある。途中で水を強引に塞き止めては、川は氾濫し決壊するだろう。人間の生と死も同じだ。来るべきときに生まれ、去るべきときに死ねなければ、現世は流動を欠いて維持できない」
「……もしかして、その生と死の流動を塞き止めてるのが、滝沢くんって言いたいの?」
「そうだ。現時点では、塞き止める可能性だが、放っておけばそうなるだろう。実際にそうなった未来も見てきたのだ。だから、その前に、わたしが介入した」
「なんだか漠然としているけれど……、とにかく非常事態だって言いたいのね。まったくもう……、あの軟弱者に不相応すぎる運命を背負わせないでよ。そんな大それたタマじゃないんだから」
「すべてはわたしの責任だ。全身全霊を尽くして少年を救うと確約する」
「ま、まあ……、女神様に任せれば安心よね? 助けてくれるっていうのなら、頼りにしてるからね? ところで、わたしにできることってあるの? わざわざわたしに話したってことは、やってほしいことがあるからよね?」
「その通りだ。今を生きるお前でなければできないことがある。とても重要な役目だ。わたしもサポートは惜しまない」
女神の祝福と思えば心強い気がした。
といっても死の女神だからね……誰かに死の宣告とかしないでよ。
「しかたないか。命がかかってるなんて言われたら、協力しないわけにいかないわ」
どうしようもない男とはいえ、死なれたら寝覚めが悪いからね!
「あのさ、一応聞いておきたいんだけど、滝沢くんが流動を塞き止めると、具体的にどうなるの?」
まさか、この世とあの世のバランスがおかしくなって、お墓から死者が蘇ってくるとか?
それに、滝沢が本来死ぬべき時期っていったい何時だったのだろう。
アトロポスは時間や空間を超越して、未来を見通せるという。
死と未来の女神が現れたということは、もしかして彼は今年中に……?
女神の救済を得られそうだから助けてもらえても……怖くなる。
亡くなったお婆さんを見たときのような悲しい思いはもうたくさんだ。
「運命に逆らう代償は大きい。主に四つのパターンがある。まず一つに、人類が絶滅する未来だ」
「は……?」
いやいやいやちょっと待って。いったい何がどう狂えばそうなるの?
なんかこういうの映画や小説でもあるな……個人の行動が人類の運命を左右するという、昔流行ったセカイ系。
「詳しいメカニズムは長くなるので割愛する。人類絶滅で済むなら良いほうだ。悪ければ地球も消滅する。もっと悪ければ太陽系ごと消し飛ぶ。最悪なのは時空間の法則が乱れて、今の宇宙がゼロになるまで収縮する。そうなれば終わりだ」
「一気に胡散臭くなったわね!」
大真面目な顔して、実はからかってるだけな気がしてきたぞこの女神!
滝沢との勉強会も今日で一ヵ月とちょっと。滝沢家の和室を借り、広めの座卓を使って、冷河は彼の隣で教えていた。
勉強自体はスムーズなもの。滝沢の得意不得意ははっきりしていて、数学は特に苦手としている。中間テストの点数なんてヒドいもんだ。
滝沢の理解力は決して低くはないけれど、高二教科ともなると地頭の良さだけでは通用しない設問も増え、読解力・応用力が必要だ。冷静に教科書を熟読したらなんてことないはずなのに、苦手意識を持つと知識の吸収は妨げられる。
「苦戦してるみたいね。ほら、そこの計算は教科書の三十ページを参考に……」
「……あ~、なるほど! ありがとう、冷ちゃん」
滝沢が素敵なスマイルで返した後ろから。
「勉強などどうでもよいではないか。ただの口実でいつまでもたついている? もう三十日間を越えたぞ。すでに七百二十時間も費やしたのだぞ。女の平均寿命を八十六歳として、約0.09パーセントという貴重な時間だぞ。ところで、お前はいつになったら、この少年と"接続"し合うのだ?」
(うっさいわ! ていうか接続っていうな!)
「ならば"合体"といえばいいのか。早く衣服を脱いで愛し合ってしまえ。お前が求めさえすれば、この少年は迷いなく受け入れるぞ」
(いちいち生々しいわ!)
「でははっきり言おう。性的な粘膜接触を早急に」
(死ね! 死んでしまえ!)
「死と未来の運命が死んでしまっては笑い種ではないか」
(ちっとも面白くないっ!)
ずっとこの調子である。
一ヶ月もするとだいぶフランクに……というかぞんざいに扱える仲になってきた。
初対面での不気味さはもはやどこ吹く風。
何もかも期待して損したわ。
この自称女神、真面目なフリしてるだけのポンコツじゃない!
アトロポスに頼まれた指示とは簡単なもので、滝沢のそばにいてやってほしいということだった。
なんでも滝沢の"運命の糸"が壊れているので、修復のため近くで彼を精査したいらしい。
修復さえできれば、滝沢と宇宙の両方を救えてハッピーエンドというわけだ。ものすごく胡散臭いが。
……ただ、最近はそれ以上に面倒くさいことがある。
このコミュ症の天然女神は、特に大した理由もなく、自分と滝沢をくっつけようとしてくるのだ。
いや、なにか理由はあるのかもしれないが、アトロポスはいつも適当なことばかり言う。
聞きたくもない夜の所作をエンドレスで講義してきたときは、それだけで死にたい気分になったものだ。
「わたしは、少年を救うといったが、女神の力も絶対ではない。自身の幸福を考えてみよ。万一の場合、せめて美しい思い出の一つ、残しておいたほうが良いだろう。甘く、切なく、儚い官能に身を浸すのも悪くはないぞ」
(このエロ女神……! その美しい思い出とやらが、なんで滝沢くんと……、か、か、関係持つことになんのよ!)
「それが男女に行える最大の愛情表現だからだ」
(どこで、何時何分何秒、わたしが滝沢くんを愛してるだなんて言ったのよ!)
「わたしに偽証は無意味だぞ。自分でわかっているはずだ。お前が心の奥に押し込めているものは、純粋で汚れのない愛だ」
(いちいち恥ずかしいこと言わない! ……だいたい、愛は愛でも、色々あるってこと、あなたわかってないわ)
脳裏に言葉として思い浮かべると、アトロポスに読み取られてしまう。
サポートは惜しまないなんて言っといて、後ろから口出ししてくるだけでなんの役にも立ちゃしない。
しかも、滝沢くんの近くで観察したいだけなら、わたしなんて別に要らなかったでしょ。
まったく厄介な存在に憑りつかれたもんだ。下世話なことばっかり言って仕事してるように見えないし、心の底から女神がうっとうしくて嫌だ!
「よお、霧生。笑ってんだかキレてんだかわかんねえ顔してっけど、平気か?」
「そうそう。アタシもけっこう気になってたし」
遠山が声をかけ、アシリアが反応した。一週間前から、滝沢の家で勉強会を開いてるという話を聞いて、ふたりも便乗してきたのだ。
遠山は壁に寄りかかって自動車工学の分厚い本を読み込んでるだけで、アシリアは滝沢と向き合うかたちでちゃんと数学をやっていた。
「なんでもないから気にしないで! 滝沢くんに、どう説明すればいいか考えてただけよ。そんなことより、遠山くんは関係ない本ばかり読んで、今度の中間テスト大丈夫なの?」
「やる気がしないんだ。せめて宝多がいてくれりゃあ、気が向いたかもしれねえが」
「下心丸出しとか、ヤラシーやつ」
アシリアが手を止めて不快な顔をした。
「仁美も誘ったんだけど、邪魔したら悪いからって遠慮されたのよね」
「そうか……。ま、どっちにしろ今の俺には、コイツの仕組みを完璧に理解するほうが大事なんでな」
遠山が本を掲げた。自動車整備実技教科書と書かれた本には、付箋がびっしり貼られている。
「珍しく熱心だし。アンタ将来、整備士にでもなりたいの?」
「タツってそうだったんだ。てっきりランク上の大学目指してるのかと」
アシリアが尋ねて、滝沢が言った。
「どっちも違う」
「ふ~ん。ねえ、だったら遠山くんは、将来なにをしたいの?」
冷河は好奇心から尋ねた。遠山は、学校では居眠りの常習犯で、授業はまともに聞いていない。にも関わらず、先日のテストでは全ての教科で満点を達成していた。
努力という言葉とは無縁のように見える遠山は、少なくとも点数をもぎ取ることに関しては本物だ。
もちろん影で切磋琢磨しているのだろうが、常人と違い聡明な星の元に生まれたのはまちがいない。
彼のような人を見ていると、必死になって勉強しないと順位をキープできない自分が情けなくなる。
「予定はある。俺は高校を卒業したら、世界一周の旅に出るつもりだ」
「「「え?」」」
三者三様に唖然とした。
「……日本一周じゃなくて? なんでまた急に世界一周? どうやって?」
滝沢がいち早く聞いた。
「もちろん俺だけじゃなくて、親父も一緒にだ。一年後にはクルーズ船の購入を決めてるからそいつで出る。親父の知り合いに船の販売専門のディーラーがいるんだが、この人が海の冒険家みてーな生き方してんだよ。自慢話聞かされるうちに、親子そろって影響受けちまったってわけだな。だらだら旅しててもしょうがないから、期間は一年限定にした」
「そ、そうなんだ。本当に、素敵な夢だとは思うけど……、なんだかもったいないわね。遠山くんくらいの能力があれば、選択肢は多いでしょうに」
進学は考えず、かといって就業するわけでもない。冷河にしてみれば、人生から逃げてるように感じた。
「生まれてこの方、日本から出たことなかったしよ。自分の目で外の世界を見てみたいんだ。旅に出てみりゃ世界での自分の立ち位置ってもんがわかってきそうだろ? きっと俺の将来とやらにも役に立つはずさ」
「……アンタさ、マジで言ってんの? お金は? 船舶免許は? パスポートは? 中古の小型クルーズ船でも数百万単位で、日々の生活費とか燃料代だって必要でしょ。それに陸と海とじゃ危険性も大違いだろうし。安全を保証してくれるものなんて何にもないんだよ? ヤバイときはリアル海賊にも遭遇するっていうじゃん。なんなの? アンタら親子、自殺志願者なの?」
アシリアが素早くスマホで調べていた。
「経験を買ってると思えば安いもんだって、親父は言ってたな。なーに、死ぬかもしれんリスクなんざ覚悟の上よ。出発前にちゃんと遺書は書いとくぜ。大体、怖がってばかりじゃあ人生損しちまうわ。想像してみろよ、どこまでも続く鮮やかな青、輝きに満ちた大海原ってやつを。単なる巨大な水たまりとは思えない素晴らしき世界が俺を待ってるんだぜ」
滝沢が感心したように瞳を輝かせていた。
「タツってそんなこと計画してたんだ。本当にすごいな。俺も行ってみたくなってきた」
「あ~あ、恵太までその気になっちゃったじゃん」
「俺は構わねえぞ。一人ぐらい増えたってよ。旅は道連れさ」
「やった! ……できればみんなで行きたいよね。冷ちゃんはどう? アシリアは船旅って興味ない?」
男子ふたりの盛り上がりを打ち切るように、冷河は手を打った。
「はいはい。冒険夢見るのはそれまで。たった一度きりの人生で寄り道が許されるのは能力のある人だけよ。滝沢くんはなによりも学力・お金・仕事が第一! 一つずつ埋めていかなきゃいけないことがたくさんあるでしょ?」
「うぅ……でも、たった一度きりの人生なんだから、好きなことをしていきたいなって。人生が二回あるわけじゃないし……」
「どうあがいても一度きりなんだから、潔く諦めなさい」
現実に引き戻されて、滝沢はがっくりと肩を落としていた。
まったく、どうして男の子って無類の冒険好きなんだろう。意味わからないし、子供っぽさが抜けきらない。アシリアの言うとおりだと思う。一年の大半を船上に費やすような旅は危険がつきまとう。得られるものがないどころか、最悪命を落としかねない。旅なんかに貴重な時間を使うようなら、もっと未来の役に立つような技術なり資格なりを習得すべきだ。
一つの可能性が思い浮かんだ。もしかして、滝沢が本来死ぬべき時期というのは、このことだろうか。遠山と一緒に船の旅に出かけて何かのトラブルに巻き込まれて二人は……。
この想像が正しければ遠山まで危ないことになる。確かめなきゃ!
幸い今のわたしには、未来を知った存在がいる!
(ねえ)
「拒否する。質問には答えられない。他者の運命を知りすぎるのは、弊害が大きいと判断する」
きっぱり断られた。こういうところ、アトロポスは頭が固い。
「頭部の硬度は関係ないぞ。どんな未来であったとしても、その時が来たら自然にわかることだ。仮に誰かの死を予知して回避させたところで意味はない。死が形を変えて追いつくだけ。それが運命というものだ」
(そんなのって)
何度聞いてもぞっとする話だと思う。
生まれるのも運命、死んでいくのも運命、人は運命によって支配されていると女神はいった。
あまりに虚しすぎやしない? 自分が必死になって勉強するのも運命、アシリアが役者として大成できたのも運命、滝沢と遠山の二人が楽しそうに未来を語るのも運命で決められていると? 運命を切り開きたい一心で重ねる努力にも意味はないっていうの? 人の内に宿ってる糸に、すべて最初から刻まれてることだって?
知ることがなければ気に病むこともなかったのに……。
なんで運命なんてものがあるんだろう。
アトロポスは、人の幸福のために存在するんじゃないの?
どうして彼女は、運命なんかで人を縛ろうとするんだろう?