熱帯夜と幽霊と、見えない海の波の音
夜が余りに暑いので、僕は布団を抜け出して街へ出た。
蒸し暑い熱帯夜。僕の肌はじっとりと汗ばんで不快指数が上がっていく。カエルのようにじとじとしながら、僕は一歩一歩歩いていく。夜の街灯も暑さに嫌気が差したようで弱弱しくぼんやりと光っているだけだった。
粘り気のある闇をかき分けるように前に進んでいると、そのうちに一人の女の子に行き当たった。青い髪に白いワンピース。幽霊みたいに浮いた存在感のある彼女は、足こそ二本あるけれど、汗はちっともかいていないようだった。
まぁ夏だしな、幽霊くらい出るか。
僕はそう納得して、幽霊相手に人生初のナンパを敢行してみることにした。もちろん頭が茹だって、正常な思考ができなくなっていたからだ。その時なら僕は誘蛾灯のコガネムシにだって求婚したに違いない。
「やぁ、一緒に歩かない?」
「……いいですよ」
コガネムシよりは難易度が高いであろう幽霊へのデートの誘いは、けれど意外にも成功した。蒸し暑い夜闇の中でうっすらと浮かび上がる彼女は、僕が右に行けば右に、左に行けば左についてきた。RPGのパーティーメンバーみたいに。
ここで愛のあるホテルだとか人気のない路地裏とか、色気のある所に誘い込める度胸があれば、僕も幽霊相手に長年の貞操を捧げようとした上で無惨に祟り殺されるというB級ホラー雑誌に載れそうな最期を遂げられたのかもしれないが。
あいにくと僕には度胸はなかった。単に頭が茹だっているだけだった。茹だった上に可愛い幽霊のお伴ができたことにのぼせ上がった僕は、うっかりそこに足を向けていた。
潮臭い生風。塩からい空気。そして何より、なんにも見えない真っ暗な海。
江の島というやつがいかに世間からもてはやされる海辺だろうと、こんな深夜には何が見れるわけもないのが当然だ。当然のこともわからない茹でダコな僕は、浪漫の欠片もない光景に心底がっかりした。デートスポットというやつは、女心も時と場合も考えられないアホには役に立たない知識らしい。
でも。幽霊にとっては、そうでもなかったらしかった。
「綺麗」
「え?」
「綺麗な……おと」
目を閉じて。青い髪の幽霊は、波の音を聴いているらしかった。
江の島なんかに出るような幽霊が今更波の音なんか聴いて楽しいのかと思ったが、それを言うなら、そもそも海なんかに連れてきた僕だってそうだ。
彼女がいいなら、まぁいいか。と思って、僕はちらちらとたまに幽霊の女の子の横顔を眺めながら、真っ暗な何も見えない海を見つめていた。
目を開けると、昼過ぎの蝉が鳴いていた。
明るい世界に波打ち際はなく、遠くでうっすらと波の音らしき何かだけが響いている。熱帯夜に幽霊と真っ暗な海を眺めた、あれは夢だったのだろうか。自分の足で家まで帰って来たような気もするし、記憶が曖昧だった。頭が茹だっていた。
僕は冷えた麦茶を浴びるほど飲んで、クーラーをつけて、冷蔵庫のようにキンキンに部屋を冷やした。あまりに寒くて長袖を着たので、母親に怒られた。
それから母親は、昨日遅くにこっちに着いて、とりあえず一晩ビジネスホテルに泊まっていた親戚がうちに来ること。親戚は夏休みの間はしばらくこちらに泊まることを言った。
ふうん、と呟いてから、僕は慌てて駆け出した。玄関まで辿り着いた時、見計らったようにインターホンが鳴った。開けたドアの向こう。明るい昼の世界から。
幽霊ではなかった彼女の、夏の匂いがした。