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デイ・ウォーク  作者: たかや もとひこ
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裏切りと破滅と

               12

 その存在は自分が何者であるのか、生まれ落ちたその時から十分に熟知していた。だが古来より人間は、その存在が長く器としてきた外見に対して貴族の称号や魔人の蔑称(べっしょう)()して呼び習わすことが多かった。畏敬や恐怖には形や名を与える方が自分たちに理解しやすいと考えてのことだろう。なるほど人間らしい浅はかな知恵だが理には()なっている。その存在は、その都度、自分に()された名称を楽しみ、人間のその性癖(せいへき)を嘲笑ったものだった。

 壮年男性の姿を借りたその存在は、いま冬眠(ロング・スリープ)から完全に目覚めようとしていた。冬眠(ロング・スリープ)とはいっても、たかだか五百年余り。しかしこの地を()いずり回る人間どもには、決して短い月日ではない。おそらくその間に人間は台所のシンクやバスタブの裏に巣くう(かび)のようにしぶとく、しかも無造作に繁殖し続けていることだろう。たとえ文明が崩壊し、世界が雪と氷に閉ざされたものとなっていようと……。

 その存在。いや、彼はひんやりとした御影石(みかげいし)(ひつぎ)の中で細身の長身を伸ばし、四肢の隅々にまで感覚が戻るのを待ちながら暗闇の中で人間と同じように目をしばたたいた。またほんの少しばかり世界を掃除してやらねばなるまい。だが、いつも通り一掃(いっそう)もするまい。なぜなら(かび)から出来るペニシリンが愚かな人間どもの病苦を治癒(ちゆ)してきたのと同じように、人類から()れる赤い生命の流れが、未来永劫(えいごう)(おのれ)の渇きを(いや)してくれるのだから。

 分厚く透明な強化セラミックの天窓から陽の光が差し込む崩れた摩天楼(まてんろう)の部屋の中。御影石(みかげいし)(ひつぎ)の中に横たわった彼の琴線(きんせん)に触れるものが(かす)かにあった。おやっ、と彼は思った。この感覚は久しく訪れ得なかったものだ。彼は棺の中で、微かなその揺らぎに心の手を伸ばし、難なくそれを(つか)みとり、そして味わった。

 (ねた)み……背信……(さげす)み……快楽に貪欲(どんよく)。それに自棄(じき)……。

 あぁ面白い。実に良いではないか。目覚めた彼の感覚は早くも自身にそう告げていた。彼の目覚めと同調するように事を起こす者が出始めようとは。ブラム氷期が世界を(おお)()くして千五百年余り。変化が(とぼ)しく、刺激が枯渇(こかつ)しかかったこの白銀の世もまんざら捨てたものではない。

 だが先ずは食事だ。一刻も早く狂おしいばかりの渇きを(うるお)さねば。

 彼は二トンを優に超える御影石(みかげいし)(ひつぎ)(ふた)を片手で難なく横に滑らせると優雅な身のこなしでフロアに両足を下ろした。黒い大理石の床は彼の体の冷たさに、下ろされた足の先から霜で白く変色していった。

 彼は壁全体を(おお)うアクリルガラスに近寄ると凍てついた右手をかざし、真っ黒な眼球に差し込む薄暮(はくぼ)の陽を忌々(いまいま)しそうに(さえぎ)った。やがて、そこから一歩下がると両手を大きく開き、深く息を吸い込んで自分の体を黒煙に変えた。粒子が荒く、まるで蠅の群れのように見えるそれは分厚く隙間のないドアにへばりつくと、そこから外へと染み出し、拡散して、たちまち見えなくなった。あとには(あるじ)の外出を見送る雪と氷をまとった、かつては高層建築群とよばれた幾何学的な瓦礫(がれき)の城だけが残っていた


               13

 ミソカに介抱され、意識を取り戻したナナクサは仲間の一人が永遠に失われたことを知った。触腕(しょくわん)(えぐ)られた太腿の深い傷と痛みは半時間もしないうちに完治するだろう。しかし何もできなかった罪悪感。そして喪失感からくる痛みは、この先ずっと付いて回るに違いない。

「準備はできたかい、ナナクサ?」と、タナバタの抑揚のない呼びかけが彼女の耳を()でた。

「えぇ」と力なく(こた)えたナナクサが見ると、タナバタは額に(にじ)み出た血をはたき落とし、武器になった金属棒を杖代(つえが)わりに(かか)えなおすところだった。

「さぁ、行くぞ」

 初めて愛した男が(のこ)した遮光マフラーを首に巻いたジョウシの声が淡々と流れた。ナナクサは先程のタナバタの時とは違った「えぇ」という生返事(なまへんじ)を返して、彼女の横顔を盗み見た。無表情でいるだけに、かえって泣き(わめ)きそうなほどの張りつめた傷心がビンビンと伝わってくる。

「急ご。タンゴが待ってるよ」と、小柄なミソカが身体に(いま)だ力が入らない様子のナナクサに肩を貸した。そして彼女の脇に手を回し、立ち上がらせると先を(うなが)した。

「そうね、タンゴが待ってるわね」

 ナナクサはそう(おう)じながら、タンゴのことをすっかり忘れていた自分に驚くと同時にミソカの手から伝わる力強さに、言いようのない不安を感じた。

「どうしたの?」とナナクサに歩調を合わせながらミソカが口を開いた。

「いえ、何でもないわ」

「痛むの、まだ?」

「うん。まだ少しだけね」

 嘘だった。身体の痛みなどほとんど()えていた。そんなナナクサにミソカが再び問いかけた。

幼馴染(おさななじ)みに隠し事はなしだよ」

「ちょっと……」ナナクサは言いよどんだ。

 私やタンゴ。助ける側の人間が身体の強くないあなたに助けられるなんて、という心無い皮肉がふと頭をよぎったが、ナナクサはその考えをすぐさま振り払った。あまりに(ひど)すぎる。いったい自分は何様なのだ。心の中で親友を軽んじたために起こった小さな後悔は、次にジンジツに対する受け止めがたい自責の念に移り変わった。チョウヨウから『瞳の中に星を飼う者』と言われて自分は特別だとでも思い込んでいたのだろうか。自分が決断した計画はすべてうまくいくとでも。それとも真面目に生きてきた自分の思いを始祖(ごせんぞ)さまが無視するわけはないと(たか)をくくってでもいたのだろうか。愚かすぎる。あまりにも馬鹿すぎる。親友や皆の顔がまともに見られない。でも言い訳を聞いてほしいという、弱い自分を抑えられない心も確かにそこに存在した。

「自分がね……」

 ナナクサの言葉に何も言わず、ミソカは静かに耳を傾けている。

「自分があまりにも情けなかっただけよ」

 ナナクサの脇に回ったミソカの手にぎゅっと力が入った。

「あなたのせいじゃないよ」

「わかってる」(うつむ)いたナナクサの眉間に(しわ)が寄った。「いえ、わかっているつもりよ。けどね……」

「誰のせいでもない」ミソカの小さな人差し指がナナクサの唇を制した。「いい。誰のせいでもないよ。だから急ご。でないと犠牲が無駄になる」

 犠牲という、ミソカの不容易な一言に、彼女らのすぐ前を歩き過ぎたジョウシの身体が雷に打たれたように一瞬、強張(こわば)った。そして立ち止まると、おもむろに後ろを振り返った。その視線はナナクサを通り越してミソカに注がれた。冷たい視線がジョウシとミソカの間に交錯(こうさく)した。

「おい」

 割って入ったタナバタの一声は、この場でさっきのような言い合いはもう御免だぞと告げていた。またそれは「死んだジンジツは仲間同士の争いを決して好まないぞ」という二人に対する毅然(きぜん)とした戒告(かいこく)をも意味していた。

 ジョウシとミソカの間に交錯(こうさく)した視線は、すぐに無機的なものへと変わった。

「そうじゃな」自分に言い聞かせるようなジョウシの声が三人に向けられた。「そんなことをしておる場合ではないな。早く戻ろう」

 一行はそれぞれが背負った重荷を早く降ろしたくてたまらないように、彼らを待つ仲間の所へ急いだ。


               14

 シェ・ファニュはその黒煙を見た時、雪嵐(ブリザード)で、はぐれた隊商がキャンプを張っているのかと浮かれそうになった。しかし近づくにつれ、それが昨日見た空を横切る黒煙ではなく、化物どもの飛行船の残骸から出ているものだと確認して震え上がった。こんな時、兄のように(した)っていたエブラハム・Hがいてくれたら、どんなにか心強いことか。しかし彼は一ヶ月前に立ち寄った町で、運悪く戦士の徴用隊に出くわし、第一指導者(ヘル・シング)の所へ連れて行かれていた。彼女は不安を追い払おうと、別れ際にエイブからもらった御守りの首飾りを無意識に握り()めた。

 それから二時間余り、ファニュは凍りついたように待った。しかし残骸の中に何の動きも見出せないとわかると、恐怖と驚きは思春期を迎える少女の中に、今度は抑えがたい好奇心を芽吹(めぶ)かさずにはおかなかった。とはいうものの彼女は軽はずみな行動には移らなかった。幼い頃から仕込まれたとおり、真昼の太陽が雪の大地を余すところなく照らし出す今の時間でも、用心深く雪の上に腹這(はらば)いになって辛抱強く観察をし続けた。

 彼女が隠れた小高い氷塊(ひょうかい)からは墜落現場がよく見渡せた。飛行船は完全に破壊されており、瓦礫(がれき)の残りはまだ所々で火が(くすぶ)り、黒煙を噴き上げていた。化物は太陽が昇っている間は活動できないとはいうものの十分に注意する必要がある。注意を(おこた)ったが最後、化物の餌食(えじき)になった話は何度となく聞かされてはいたし、その証拠に、ファニュの隊商でも立ち寄った町で戦士に緊急徴用され、一片の報告すらないまま、遂に(かえ)ってこなかった若い商人も何人かいたからだ。

 ファニュは残骸周辺で何も動きがないことを再度確認すると、意を決して瓦礫(がれき)の山へ向かった。そこに到着すると、その巨大さに圧倒された彼女は手袋に包まれた小さな手で(やり)をぎゅっと握りしめた。残骸の周りを抜かりなく一周したファニュは、安全を確認して元来(もとき)たところに戻った頃には適度な空腹感に襲われていた。幸いなことに(いま)だに火が(くすぶ)り続ける残骸もあり、その近くは暖かかった。また誰の仕業かわからないが、ダイオウイカの大きな触腕(しょくわん)千切(ちぎ)り取られたまま食われずに放置されているのも見つけることができた。とにかく食事と暖を取り、少しは身体を休めることができそうだ。隊商探しはその後で考えよう。隊商は徴用されたエイブの他は嫌な人間ばかりだが、今の彼女にとって、その集団が、唯一身を寄せることができる家だった。ファニュは雪の上に胡坐(あぐら)をかくと大きな外套(コート)に付いたフードを頭の後ろに払いのけた。中からは長い赤毛とそばかすで(いろど)られた十三歳の少女の顔が現れた。


               15

 チョウヨウはナナクサたちが留守にしていた半日間、タンゴをしっかりと守ってくれていた。石工(いしく)見習いの彼女は数人の人間が入れるくらいの棺桶穴(シェルター)を崖下に穿(うが)ち、そこにタンゴを保護していたのだ。これがどれだけ大変なことかは彼女のぼろぼろになった服の(そで)を見ただけでも十分に察しがついた。帰ってきた仲間たちも皆ぼろぼろだった。しかし再会した後に起こるであろうとナナクサが想像していたことは起こらなかった。チョウヨウは泣かなかったし、ジョウシや自分自身も彼女に涙を見せることはなかった。チョウヨウは御力水(おちからみず)探しに向かった一行の中に自身の幼馴染(おさななじ)みの顔がないことを認めると、一瞬だけ表情を曇らせた。そして子供にお使いを頼んだ母親のように、ただ一言「御力水(おちからみず)はあった?」とだけ静かに聞いた。ナナクサは黙って(うなず)くと薬師(くすし)としてすぐさま反応した。タナバタもナナクサに続いた。ナナクサは棺桶穴(シェルター)に入ると、大切に運んできた御力水(おちからみず)のアンプルの(ふう)を切った。アンプルからは、今まで()いだこともない刺激臭が辺りにたちこめた。ナナクサは目にしみる刺激臭に耐えながら、ドロリとした赤黒い御力水(おちからみず)を急いでタンゴの口に含ませ、残りの半分をタナバタと協力して脇腹に開いた大きな傷口から傷ついた内臓に塗り薬のようにやさしくすり込んだ。病人の看護は薬師(くすし)の仕事だ。処置を終えたナナクサとタナバタは浅い息をしているタンゴに寄り()った。

 焼けつく太陽が氷河の地平線に没し、明るい月が真っ青な夜空に顔を出す頃、タンゴの呼吸は静かに止まった。


               *

 タンゴの最期を看取(みと)ったナナクサは周りに集まった仲間たち一人一人の顔を呆然(ぼうぜん)と見やると、やがてふらふらと立ち上がった。そして彼女を心配して差しのべられた手を静かに払いのけると、その場から離れて人気のない所を探した。自身の無能を(ののし)り、無能ゆえに失われた二人の仲間のため、思う存分、涙を流すために。

 そうだ。やっと涙を流せるのだ。

 崖下の棺桶穴(シェルター)から少し離れた所に人が隠れられそうな岩棚があった。ナナクサはその陰に(ひざ)を屈すると声を殺して(むせ)び泣いた。


               *

 明るかった月が小さくなり、中天(ちゅうてん)に差し掛かるころ、ナナクサがいる岩棚から少し離れた所に来客があった。その気配にナナクサは薄いピンク色の涙の跡を(ぬぐ)いもせず顔を上げ、来客に視線を転じた。

「なぜ責めぬ。お前と同郷の友は我れを救わんがため、命を落としたのじゃぞ」

「なぜ責めなきゃなんない。奴は自分の意志で行動して死んだ。それだけだ」

「介護の甲斐なく、タンゴも()ってしもうた。ジンジツの死は無意味になったのじゃ」

「おい、チビ助」と張りつめた声。「無意味な死なんてねぇんだよ」

「いや」大きく息を吸い込む音がした。「無意味じゃ。少なくともジンジツは我れごときのためにそうなったのじゃ。我れを責めよ」

「いやだね」

「なぜ」悲痛な声が()れた。「なぜじゃ?」

「そんなの、あたいの(がら)じゃねぇからさ。それに、そんなことをしてお前の気持ちを楽にしてやる義理なんぞもないからな」

「『(がら)じゃない』か。そうじゃな。其方(そなた)に甘えておったやもしれぬ……無理を強いて悪かっ……」

「だから何なんだよ、その態度は!」チョウヨウの声が爆発してジョウシの声を(さえぎ)った。「一方的に自分の気持ちを人にぶつけといて、そいつが入れられなかったら、すごすご退散すんのか?!」

「すまぬ……」

「何が『すまぬ』だ。何なんだ、それ。一番小っちぇえくせに大人みたいに何でも悟りきった口を()きやがる。いつもみたいに『(ちり)(かえ)れ』とか毒舌を吐いてろよ。いいか。よく聞け。人は何かをやり()げて死ぬのが一番なんだ。何かをやり()げようとして死ぬのは、その次にいい。少なくともあのバカは自分らしく前を向いたまま()ったんだ。そうだろ。そうでなきゃ、本当に無意味になっちまうじゃねぇか」

「………」

「どうした。何か言ったらどうなんだ?」

「……ジンジツ」ジョウシがゆっくりと顔を上げた。「あのバカではない。彼の名はジンジツ……」

「そうだな、ジンジツだったな、奴の名は……」今まで聞いたことがないほどチョウヨウの声は優しかった。「単純で傲慢(ごうまん)で、それでいて力強くて仲間思いの、あたいのダチ。奴の名はジンジツだ」

「かような思いをしたのは初めてじゃ。なぜかのぅ。なぜジンジツは……」

「お前を助けたかった。お前も、奴の気持ちは言わなくてもわかってたんだろ?」

 重い沈黙が傷ついた娘たちの間に流れた。

「我れには病に伏しておる弟がおってな」ジョウシが静かに語りだした。「()き父の()わりに(おさ)(つと)める母は忙しく、我れは弟の生活の助けに明け暮れる毎日じゃった。村人たちは口に出しこそせなんだが、弟を無駄飯食いと白い目で見ておった。我れは、人を助くることはあっても、決して助けらるる側にはおるまいと固く誓って生きてきた。そんな我れを大切に想い、己が身を(ささ)げてくれる男が現れようなどとは、今まで微塵(みじん)も思わなんだ。なのに……なのに……」

「ジョウシ……」

「すまぬが、チョウヨウ。一刻(いっこく)……いや、半刻(はんこく)でもよい。我れを一人にしてはくれまいか?」

 わかったと、ジョウシに(うなず)いてその場から離れたチョウヨウは少し離れた岩棚の(かげ)にナナクサの姿を認めた。目と目が合ったが、互いに何も言わなかった。チョウヨウはナナクサの(そば)に来ると無言で横に座って(ひざ)を抱えると月を(なが)めあげた。ナナクサも黙ってそれに(なら)った。月は何事もなかったかのように透き通った光を二人の娘に投げかけていた。

 どれくらい()ったのだろう。しばらくして頭の上からミソカが呼ぶ声が聞こえた。

「タンゴが息を吹き返したよ」


               *

 ナナクサとチョウヨウが駆け付けた時、丁度、タナバタが脈を()たタンゴの腕を下ろすところだった。

「さっき息を吹き返した。まだ呼吸は弱々しいけど回復しているようだ」

 狐につままれたように互いの顔を見合わせるナナクサとチョウヨウの(かたわ)らをジョウシの小柄(こがら)な体がすり抜けた。そしてタンゴを()るタナバタに食いつかんばかりに顔を近づけた。その(ほお)には渇いた薄いピンクの筋が見て取れた。そして「タンゴは大丈夫なのじゃな」と、同村の薬師(くすし)見習いの仲間に何度も念を押し、自分の大切な男が守ったかのように思える仲間の生還を喜んだ。

 チョウヨウは呪縛(じゅばく)から解放されるや(いな)や、タンゴに駆け寄り、その手をしっかりと握った。彼女の口はわなわな震え、とめどない涙で、その頬は薄いピンク色に染まっていった。男勝りの娘が(かたく)なに抑えていた感情の(ふた)が一気に開いた瞬間だった。

幼馴染(おさななじ)みを取られちゃいそうだね」

 その場にへたり込んだナナクサの横で、いつの間にか合流したミソカがタンゴに寄り()うチョウヨウを見て屈託(くったく)なく笑った。


               *

 タンゴの回復は目覚ましく、御力水(おちからみず)の効果に、みな舌を巻いた。翌日、歩けるまでに回復したタンゴは姿の見えない仲間のことを一度だけ聞いた。交代で看護についていた一人が言葉を選んで、起こった出来事の一部始終を彼に伝えた。薬師(くすし)として彼の(そば)で多くの時間を割いていたナナクサは自分がそれをタンゴに聞かれずに()んで内心ほっとしていた。

 この日からタンゴは少しだけ無口になり、大食いではなくなった。

 崖下で足止めされていたパーティは、それから数日を経て、ようやくデイ・ウォークを再開した。


               16

「無理なことをおっしゃられても困りますなぁ」と隊商を預かる世話役が苦笑いを張り付けた顔で首を横に振った。

「人を差し出さないのは、第一指導者(ヘル・シング)に対する反逆だぞ」と隊商の行く手を(さえぎ)った戦士が淡々とした口調でそう告げた。二名の戦士を両脇に従えた、抜け目のない鋭い目をした徴用係りの卒長(そつちょう)である。

滅相(めっそう)もございません」と世話役は心外そうに両手を胸にやると(こうべ)()れた。「喜んでお手伝いさせていただきますとも。それが、この世に生きる者の(つと)めでございますから。ですが、村にいる間にしていただきたかったですなぁ。もしそうなら私どもの隊商も不足になった人員を募集できましたのに」

「村は村で、また戦士の徴用が行われる。どの道、村では隊商の募集も無理だろうよ」

「そんなことをおっしゃらず」

 世話役は卒長(そつちょう)(そで)を引いて(そり)の脇へ連れて行った。その時、雪走り烏賊(スノー・スクィード)馭者(ぎょしゃ)にそっと目配(めくば)せをした。馭者(ぎょしゃ)卒長(そつちょう)を含む三名の徴用係の戦士たちから目を離さず、彼らからは死角になる方の手をシートの横に備え付けた弩弓(ボウガン)の上にそっと滑らせた。その微かな動きを察した他の(そり)馭者(ぎょしゃ)や隊商の警護たちも各々(おのおの)が自分の武器が手近にあるのを確かめた。

「こうしませんか?」無駄と知りつつ世話役は最初で最後の交渉を試みた。「徴用を見逃していただけたら、一週間分の食糧の他に深海鮫(メガロドン)の肉も少々つけましょう。どうです?」

深海鮫(メガロドン)もか?」

「えぇ」

 卒長(そつちょう)の片眉が上がった。それを見た世話役は少なからぬ拍子抜けを感じた。戦士。特に徴用係りの戦士はまったく交渉に応じないと思っていたからだ。(おう)じなければ(おう)じないでいい。そうなれば半年前の戦士たちと同様、立派に殉教させてやった後、鮫釣りの餌にできたろうに。そう思うと世話役は心の中で舌打ちせずにはいられなかった。だが彼はそんな失望をおくびにも出さず作り笑いを浮かべた。

「取引成立ですな。では一週間分の……」

「全部だ」

「はぁ?」

「食糧は全部いただく」

 耳を疑った世話役は下腹に鋭い激痛が走るのを感じた。そして彼は雪の上に(ひざ)を屈した。(そり)馭者(ぎょしゃ)や警護は世話役が倒れるのと同時に攻撃を開始した。もちろん彼らの攻撃は三名の戦士にのみ向けられたのだが、馭者(ぎょしゃ)たちが二名の戦士を倒し、次の矢を弩弓(ボウガン)装填(そうてん)する間隙(かんげき)をぬって、雪原の中から彼らに向けて狙いすました矢が次々と放たれた。奇襲はあっという間に終わった。卒長(そつちょう)(たて)にした世話役の(むくろ)を離すと、雪原に掘った穴からを武装した男女の戦士が飛び出してきた。その中の一人が卒長(そつちょう)に詰め寄ると彼を非難し始めた。

「奴ら、食糧を出すと言ってたぞ」

「一週間分だけだ」

「でも死人が出た」彼女は無数の矢に貫かれた戦士二名の死体を指差した。「あの中の一人は私の腹心だ」

「食い扶持(ぶち)が増えて良かったと思え」

 なおも非難しようとする女戦士を突き飛ばした卒長(そつちょう)は、武装を解除された隊商の生き残りの商人たちを眺め渡した。武器を突き付けられ、みな一様に(おび)えている。

「こいつらは、どうする?」戦士の一人が卒長(そつちょう)(たず)ねた。「戦士が無暗(むやみ)に隊商の人間を殺したと噂になれば、あの指導者(ヘル・シング)が黙ってないだろ。追っ手が掛かるぞ」

「『戦士が』じゃなくて盗賊が、だろ」

 腹心を亡くした怒りから女戦士が(うな)るように歯を()いた。

「盗賊どころか」と、卒長(そつちょう)は女戦士を無視した。「俺たちは逃亡中の身だ。捕まれば並の極刑では済まん。だから(しゃべ)る口と食べる口は少いに越したことはないんじゃないか」

 そう言うと卒長は振り向きざまに近くにいた一人の商人に剣を力一杯振り下ろした。


               *

 その存在は、目覚めた時に必ずすることがあった。それは食事のように必要に()られての行為ではなく、ましてや優雅に嗜好(しこう)を満たすための欲求ですらなかった。()えて言えば、それは意地や挑戦に類するものといってもよかった。だから止めるという選択肢はないも同然だった。

 その存在は陽が照りつける白銀の世界を黒い疾風となって駆けると、人間たちで賑わう城塞都市(カム・アー)辿(たど)りついた。そして城門前の大岩の陰で壮年男性の姿をとると、様々な防寒着に身を包んだ老若男女の隊商が行き交う城門前までゆっくりと歩を進め、挑むべきその巨大な敵を見上げた。やがて城門から雪走り烏賊(スノー・スクィード)()かれて出てきた数台の(そり)から道行く人間たちに視線を戻すと城門に向かって歩きだした。だが、城門からほんの少し手前でいつものように足が停まった。いくら頑張っても彼は城門に一歩も足を踏み入れることができなかった。遠い昔には捕まえた人間を脅して城門内に招待させようと試みたこともあった。また、いつの世にもいる波長の合う(よこしま)な者を使ったり、催眠術で人の心を操って侵入しようとしたこともあった。しかし、厳しい生存環境に置かれた人間には多かれ少なかれ、彼とは正反対の存在を(あが)める信仰の断片が心の内にあった。そのおかげで彼のもくろみは頓挫(とんざ)し、いつも中に入ることができないのだった。

 今回も彼の挑戦は失敗に終わった。自分が完全であると信じるが(ゆえ)に、その苛立(いらだ)ちは尋常(じんじょう)ではなかった。しかし完全なる存在を自負するが(ゆえ)に、彼はまたその苛立(いらだ)ちを懸命に飲み込んだ。彼は自嘲するように少しだけ首を左右に振ると、再び身体を薄く溶け広がる黒煙に変えて大空へと姿を消した。そして苛立(いらだ)ちに(ほど)よく刺激された食欲を満たすため、あてどなく雪原上を移動していたところで人間どもの殺し合いに出くわし、その甘美さに我れを忘れて魅入(みい)ってしまった。なぜなら恐怖や痛み、特に神の似姿(にすがた)とされる人間同士が(かも)し出す憎悪の波動は、食欲はおろか、何ものにも増して彼の苛立(いらだ)ちを癒すだけでなく、心の空虚を埋めてくれる妙薬だったからだ。

 その突発事態が起こるほんの少し前、存在は黒煙に変えた身体を人間の目には(とら)えられない薄さに広げ、狙いをつけたその集団を魚網のように包み込んでいた。そして五百年ぶりの悦びに身を震わせた。(いくさ)でも起こらない限り、決してありつくことができない幸せに酔いしれた。しかし思わぬ事態が最高のショーを台無しにしてしまった。突然の闖入者(ちんにゅうしゃ)だ。その存在は戸惑いつつも、それを察知できなかった(すき)だらけの自分に腹が立った。

 突発事態が起こったのは隊商と複数の戦士集団に対してだった。隊商の世話役を謀殺した卒長(そつちょう)が、先ず闖入者(ちんにゅうしゃ)に襲われた。闖入者(ちんにゅうしゃ)の姿は人間のスピードでは到底(とら)えることができず、戦士と生き残りの商人たちは、事態を把握できないままに次々と切り裂かれた喉から血煙を上げて倒れていった。

 その存在は我れに返ると、この無粋(ぶすい)闖入者(ちんにゅうしゃ)と、そいつが繰り広げる行為に激怒した。生き残りの商人たちに最大の恐怖と痛みをもたらす戦士たちを殺されて怒り狂った。しかもそれを(うば)った闖入者(ちんにゅうしゃ)が自分の子孫であることを感じ取るや、怒りの炎はさらに激しく燃え上がった。その存在は残った人間に襲いかかろうとした闖入者(ちんにゅうしゃ)を薄く溶け広がった黒煙の身体で(から)め取ると、大地に目一杯に叩きつけた。そして黒煙の身体をいつもの痩せた壮年男性の姿に変えると、乱れた黒髪をそのままに邪魔者を(にら)みつけた。たとえ子孫でも、この暴挙を許すことはできない。どうしてやろうか。先ずはその精神をズタズタに引き裂き、次に細胞の一片一片に忘れえぬ苦痛を与えて滅ぼしてくれようか。残虐な怒りにうち震えながら、彼は倒れている子孫を見下(みおろ)した。そして自分の心を子孫のそれにナイフのようにズブリと(えぐ)り込ませた。(えぐ)り込ませた心の切先(きっさき)からは目覚めた時に感じた、あの時の揺らぎが、どっとあふれ出たことに彼は驚いた。自分のものに勝るとも劣らないドス黒さが彼の身体を隅々まで満たした。

「これは、これは」

 彼は思わずそう(つぶや)くと、あれほど怒り狂っていた心を一挙に冷まし、三日月のように目を細めた。

「これは、これは」

 彼は楽しげに、そうつぶやき、大きく広げた両腕に迎え入れるかのように一歩一歩、踊るように倒れ伏した子孫に近づいていった。


               17

 もう少し遅ければ気付かなかっただろう。

 雪嵐(ブリザード)の中を進んでいたナナクサたち一行は雪に埋まりかけた一人の人間を助けた。ほかの村からの追放者かもしれないから無分別に手助けをしていいものかとの意見も上がったが、それにしてはその遭難者はあまりにも幼く見えた。それに旅程が遅れているとはいえ、仲間を失ったばかりの喪失感と罪悪感の(いく)ばくかは埋められるかもしれないとの思いも、彼らの心には確かに存在した。

 彼らは昼間に唯一行動できる雪嵐(ブリザード)の恩恵を見送ると、近くにあった氷塊に十分な棺桶穴(シェルター)を掘り抜き、その中に意識のない遭難者の体を運び込んだ。そしてその遭難者をよく観察するために緊急用にと各村から持たされていた貴重な植物油を石の器に入れ、それに(しん)をひたして火を(とも)した。穴の中は(まぶ)しいほどの光で満たされた。

「まだ幼いな。七十歳くらいかな?」

 遭難者の顔を(おお)う分厚いマフラーとフードをまくったタンゴが皆に意見を求めた。

「直接、この娘に触らないほうがいい」薬師(くすし)見習いのタナバタが雪焼けの人間の顔には珍しくもない少女の顔のそばかすを慎重に指差した。「この斑点(はんてん)は見たことがないし、聞いたこともない。何らかの病にかかっている可能性がある」

「伝染病か?」と、仲間の中から不安の声が上がった。

「いや、わからない。でも用心に()したことはないよ」

「そうだな」と、次にチョウヨウが遭難者の燃えるような赤毛に注意を(うなが)した。「それに、この髪の色も見たことがねぇよ」

「とにかく」心配そうなタンゴの視線が遭難者の幼い顔に注がれた。「こんな七十歳にもならないような少女が一人でこんなところに行き倒れてるなんて普通じゃないよ」

「そうだな。確かにそのとおりだ」とタナバタ。

 幼い上に、顔に追放者の刻印が彫り込まれていない限り、行き倒れであると判断するしかない。遭難者や傷病者を遺棄(いき)する文化を持たないナナクサたちは、少女から行き倒れの経緯を聞き出すのが一番だと判断した。

「じゃぁ、いいね。起こすよ」

 タナバタの言葉が合図であったかのように少女の肩を揺すろうとするチョウヨウをタンゴが制した。

「今はそっとしといてやろうよ。気が付くまで、もう少し待ってやろう」

「タンゴよ」と、今度はジョウシが深刻さを声に(にじ)ませた。「そうは、ゆかぬやもしれぬぞ」

 皆の視線がジョウシと彼女の手に注がれた。ジョウシの右手の指先は薄っすらとではあるが凍傷のように黒く変色していた。横にいたナナクサはそれを見て顔色を変えた。彼女は床から氷を一つかみ削り取るとジョウシの壊死(えし)しかけた指先をそれできつく包み込んだ。

「いったい、どうしてこんな?」

 ナナクサの問い掛けにジョウシは少女の鞄に(あご)をしゃくった。

「中には大海獣(ン・ダゴ)触腕(しょくわん)。他にも不可解な物が色々とあったが」

 ナナクサはジョウシ言葉の途中から少女の鞄の中を手袋越しに慎重に調べ始めた。そして小さな布袋を手に取ると、そこから(かす)かに臭い立つ甘い猛毒の微粒子をすぐさま感知するや(いな)や、すぐさまそれを鞄に戻した。それは薬師(くすし)なら見習いであっても間違いようのない猛毒の実である雪ニンニクから発する毒香(どくか)であった。

「猛毒を所持しておるだけではない。取りわけこの書物。恐らくは絵地図の(たぐい)と思うのじゃが」ジョウシは負傷していない方の手で、既に取り出していた四つ折りの分厚い(かわ)を皆に見えるように差し上げた。

「読めぬのじゃ。これに書かれておるは、我れらがルルイエ文字にあらず」ジョウシは自分の言葉が皆に理解されるのを待って再び口を開いた。「じゃが、()き父上の古き書物を盗み見たとき、目にしたものによく似ておる。これは恐らく失われし古代文字じゃ」


               *

 意識を取り戻す時、シェ・ファニュは胸の奥に疼痛(とうつう)を覚えて咳きこんだ。薄っすらと開いた瞳の前に人の良さそうな男の丸顔が見えた。エイブか……いえ、彼じゃない。暖かそうな薄明かりの中にぼおっと浮き上がった、まるで死人のように血の気がない顔。死人……。そうだ、私は死んだのだ。ファニュは思い出した。もう三、四日待てばよかったのだ。(あせ)って隊商を探そうとしたのが運の()き。だから雪嵐(ブリザード)の中で行き倒れて死ぬ羽目(はめ)になったのだ。しかし、それもいいかもしれない。天国からちゃんと天使が迎えに来てくれたんだから。そう思った矢先、再び胸の奥が傷んで咳きこんだ。死んだら痛みや苦しみはないんじゃなかったかと思ったとき、首の後ろを力強い手に支えられて上体が起こされた。

「気が付いたんだな。さぁ、これを」

 (あらが)うまでもなくファニュの口の中にとろみのある液体が流し込まれた。味がなく、生臭い油を飲んでいるような食感にむせたファニュは喉の奥からそれを吐き出した。

「やめて、天使さん……」

「ごめんよ」

 丸顔の天使が(あわ)ててそう言った。

「無理に飲ませない方がいいよ、タンゴ」と、桃色のショートヘアの大柄(おおがら)な女天使が端正な顔で丸顔の天使に注意した。

「なぁ、天使ってなに?」

「知り合いか何かの名前だろ」と、ファニュのつぶやきに反応したタンゴを見やったチョウヨウが即答した。「まだ混乱してんだよ、きっと」

 そう。まだ混乱している。大柄(おおがら)な女天使の言う通りだとファニュは思った。だが混乱から解放されつつある頭の中では、目の前にいる人間たちは天使ではなく、自分もまだ死んではいないのだという思いも徐々に頭をもたげてきた。では、この人たちは何者なのか。どこの隊商なんだろう。行き倒れなど珍しくもない世界で、もし自分を助けてくれたのだとしたら、よほどの酔狂者(すいきょうもの)か変わり者だ。だが事実、助けてくれたのなら決して悪い人たちではないはずだ。でも、私を囲むこの人たちの死人のような顔はどうだ。血の気のなさそうな顔。寒い中で(しゃべ)っても口から水蒸気の煙がほとんど出ない。これでは天使どころか、まるで死人だ。死人でなければ……そこまで考えた瞬間、ファニュは恐怖とパニックに襲われ、そこから抜け出そうと頭の中を必死に回転させた。アドレナリンが分泌され、体中の毛穴からどっと汗が吹き出したかと思うと胸が前後に揺れるほど心臓がドンドンと高鳴った。ぼぉっとした頭の中は、あっという間に覚醒した。そして絶対に取り乱しては駄目だという冷静な第三者の意識も心の片隅で叩き起こされた。もし自分の推測が正しければ、この人たち……いや、こいつらはまさか……。

「混乱しているのね」と薄墨(うすずみ)色の髪をしたほっそりとした若い女が話しかけてきた。「でも、少しだけ教えてくれない?」

 ファニュは一言も発せず、目の前の女を凝視した。優しそうな顔だ。しかも、どこかで聞いたことのある懐かしさを持った声だ。だが、物心がついてからというもの、絶え間なく教え込まれてきた『まず観察せよ』という言葉を思い出し、実行に移した。

「ねぇ、あなた名前は。どこの村から来たの?」

 それでも黙っているファニュを安心させるように女は優しげな笑顔を崩さず根気よく続けた。

「わたしはナナクサ。そしてこっちが、あなたを見つけたタンゴ。私と同じ村の出身よ」

 ファニュは女の横にいる丸顔の天使に視線を転じた。心配そうに自分を見ている。観察したところ、いま取りたてて危険はなさそうに見えた。おそらく名乗るくらい差し支えはないだろう。殺す気なら、自分はとっくに殺されて、餌食(えじき)にされていたはずだ。

「ファニュ……」蚊の鳴くような声で彼女は(おう)じた。

「えっ、なに?」

「ファニュ……シェ・ファニュ」

「そう。あなたの名前は、ファニュね」

 ファニュはナナクサと名乗った優しく懐かしい声の主にこくりと(うなず)いた。

「じゃぁ、次だ。君はどこから来たんだい?」

 タンゴからの質問にファニュは出かかった言葉を咄嗟(とっさ)に飲み込んだ。彼らがファニュの予想通りなら、情報は手に入れても、決してこちらの情報を与えてはならない。少女はまたもや口を真横に引き結んだ。しかし、そんなファニュの態度に(ごう)を煮やしたジョウシがナナクサとタンゴの間に割って入った。

「聞くがよい、小娘。我れらはデイ・ウォークの途中じゃ。これがいかに危険で過酷なものかは、(なんじ)も存じておろう」

 ファニュは水色の髪に真っ赤な髪留めをした自分とさほど体の大きさが違わない女が言う、デイ・ウォークの意味はさっぱりわからなかった。だが知っているかのように(うなず)いた。

「我れらはその旅程を()いてまで、行き倒れておる(なんじ)を助けたのじゃ。それもわかっておろうな?」

「おい、ジョウシ」

 思わず身を乗り出したタンゴの肩にチョウヨウの手が掛かった。

 口をつぐんだタンゴに一瞥(いちべつ)をくれると、ジョウシは一つ一つ事実を確認するように、中断された言葉を()いだ。

「見返りを求めようとは思わぬ。じゃが、沈黙をもってその礼に()つるは、いささか無礼ではあるまいか?」

 それでも口をつぐんだままのファニュにナナクサが再び声を掛けた。

「私たちが知りたいのはね、ファニュ。あなたがどこから来て、なぜあんな所に一人で行き倒れていたのかってことだけなのよ?」

 不安を(かか)えたミソカにするのと同じように、ナナクサはファニュの(ほお)に優しく手を差し伸べた。しかし少女は(おび)えたようにその手からビクッと身を引いた。

 それを見たジョウシは(あきら)めたように溜息(ためいき)をつくと、自分の(かたわ)らに置いたファニュのバッグを引き寄せると再度中身を検分しようとした。ファニュは自分のバッグがジョウシの手にあることに気付くと、(はじ)かれたようにそれを引ったくった。バッグを胸に(かか)えた少女は、目の前の男女の視線が一斉に自分に注がれるのを感じた。それとともに、これ以上の沈黙は自身の益にならないことを、その場の雰囲気から敏感に察知した。ファニュは恐る恐る口を開いた。

城塞都市(カム・アー)で、私は保証書付きで隊商に下げ渡された」

「『城塞都市(カム・アー)』……『保証書』?……」

 思わず口を開いたタンゴの(ひざ)にチョウヨウの手が置かれ、少女の話の腰を折るなと揺すった。タンゴの口をつぐませたチョウヨウは先を(うなが)すように無言の視線を目の前の少女に向けた。ファニュはごくりとつばを飲み込むと、ゆっくりと確認するように言葉を続けた。

「でも隊商とはぐれてしまったの。はぐれた隊商を探していると、山のような残骸に出くわした。山のように大きくて、見たことがないくらい、たくさんの残骸。まだ燃えていた。そこで一休みして、また隊商を探しはじめた。でもまた雪嵐(ブリザード)()った。あとは覚えてない。それだけ」

「それだけ?」とナナクサが(うなが)した。

「そう。それだけ」

 意味不明な単語が所々に顔を(のぞ)かせはしたが、少女の遭難に至る過程に嘘はなさそうだとパーティの一行は理解した。

「わかったわ。たぶん、あなたが見た残骸の山は私たちも知ってる物だわ。ねぇ、もう一つ聞きたいんだけど、いい?」

 ナナクサに同意を求められたファニュはしぶしぶ(うなず)いた。

「あなたの鞄の中にあった色々な物、特に書物……絵地図だと思うんだけど、あれはなに?」

「『なに』って?」

 ナナクサが何を質問しているかわからないファニュは怪訝(けげん)そうに聞き返した。喉がカラカラに乾き、かすれ声しか出てこない。

「絵地図のようなものが入ってたわね、折り畳まれて。中には細かな模様と古代文字が書かれてた」

「『古代文字』?……」と、ファニュは小首を(かし)げた。

「そうよ。あれを、どこで手に入れたの?」

 ナナクサは考え込む娘に助け舟を出した。

村長(むらおさ)だって持ってないようなモノをあなたの年齢で持ち歩いているわけはないわ。それに猛毒の実まで。もしかして、どこかで拾ったの?」

 ナナクサは娘を傷つけないよう慎重に言葉を選んだ。「まさかとは思うんだけど。その……もしかして、誰かのを黙って持ってきてちゃったとか?」

「『誰かのを黙って持ってきた』?……」ナナクサの質問をオウム返しにしたファニュは自分が盗みを疑われていることに反応して目を細めた。

 今まで生きるために仕方なく戦って奪うことはあっても、コソコソ盗みを働くなど決してなかったからだ。そんなことをすれば、奪われたことを知らない者の生死に関わる。戦って奪われたなら、また戦って奪い返せばいいだけだ。ファニュは思ってもいない侮辱(ぶじょく)(いきどお)った。

「もしかして」とチョウヨウがタンゴの横でナナクサに加勢した。「死んだ仲間の形見を家族に返さず、そのまま持っているとか」

「あれは私の地図よ!」ファニュの若い自制心が吹き飛んだ。「私は薄汚い盗人(ぬすっと)なんかじゃない。他人の物を黙って盗ったことなんかない!」

「ごめんね」激烈な反応にナナクサは(あわ)ててファニュをなだめた。「私もチョウヨウも悪気はなかったの。謝るわ。でも私たちが驚いたのは確かよ。史書師(かたりべ)でもない子供が古代文字が書かれた絵地図……そう、地図を持って、こんな所で行き倒れてるなんて、普通は考えられ……」

 まだ幼い心に収まりきらない怒りはファニュの口を、さらに軽くした

「あの字は古代のじゃない。そんなに大きいくせに知らないの?!」

「『古代のじゃない』?……」今度はナナクサがオウム返しをする番だった。

「それに私は子供なんかじゃないわ。身体だけ大きなあなたたちとは違って立派な大人だわ。今年で、もう十三歳になるんだから!」

「じゅ……十三……」

 ナナクサは、そう(つぶや)くと信じられないという顔をして、『少し待っててね』と言い残し、狭い棺桶穴(シェルター)の端に仲間を集めてひそひそと何かを相談し始めた。(しばら)くしてファニュは何か不味(まず)いことでも言ってしまったのだろうかと少し不安になったが、後の祭りだった。もどってきたナナクサはファニュをいたわるように声を掛けた。

「まだ疲れているようね、ファニュ。きっと、まだ混乱してるのよ」

「うん、たぶん……」と少女は言葉を(にご)した。

「じゃぁ、最後に一つだけ。それが終わったら休みましょう。いい?」ナナクサはファニュを傷つけないように、さっきよりも慎重にゆっくりと言葉を()いだ。「あなたの言う、その地図というものだけど。あなたは、あの中に書かれてた文字が読めたりするの?」

 少女が正直に(うなず)くと、目の前の若い男女が息を飲みこむ音が聞こえた。すると、その中からタンゴが進み出てファニュの目の前の雪の地面に指を突っ込んだ。

「じゃぁ、この記号はわかるかい。君の地図だったかにあった記号だったんだけど」

 (しゃべ)りながらタンゴは雪の上に一つの記号を書きだした。中心の小さな円を囲むように配置され、互いに背を向けるように組み合わされた六つの三日月。

「僕らはこの古代文字……あぁ記号だったか。これだけは小さい頃からみんな習ってるんだ。僕らの『政府(チャーチ)』を示す文字さ」

 いや違う。それが城塞都市(カム・アー)だ。私の故郷。思い出したくもない出生地を示す記号だ。こいつらは、いったい何を言っているんだろう。雪の上に描かれた記号を見ながら、今度はファニュが小さく息をのんだ。


               18

 ファニュは逃げ出した。

 彼女はまんじりともせず、その後の長い夜をやり過ごすと、予想通り彼らは夜明けとともに、入り口を雪で(ふさ)いで眠りはじめた。

 足音を忍ばせ、眠り込んだ彼らの枕元をそっと抜け、モグラのように氷穴を掘って外に出てみると、(さいわ)いにも雪嵐(ブリザード)は止んで燦々(さんさん)と太陽が照っていた。陽の光を見て安心した少女は出てきた穴を慎重に雪で埋め戻すと、後ろを振り返りもせず歩み始めた。行く(あて)はなかった。隊商を探そうにも自分が今どこにいるかがわからなかったからだ。しかし一刻も早くここを離れるに()したことはない。どこでもいいから、とにかくここを離れるのだ。

 夜明けとともに石のように眠るなんて、人の形はしているが、彼らは話に聞いていたあの化け物に違いない。その中にあって、よく無事でいられたと少女は自分の運の強さに(あき)れると同時にその悪運に感謝した。少女は昨夜のことや隊商のことなど色々なことを考えながら左右の足を前に出し続けた。だが深い雪に足を取られて遅々として進む速度は上がらない。それでも彼女は一所懸命(いっしょけんめい)に移動し続けた。

 夜明けから数時間移動したところで少女は激しい疲労から睡魔に襲われた。昨夜、徹夜したツケが回ってきたのだ。振り返ると一夜を過ごした氷塊が地平線の彼方に、まだ(かす)かな姿を留めている。『まだ、頑張らなくちゃ』と自分を鼓舞(こぶ)するが、もう一歩も歩けそうにない。ここで休息を取ってから、また移動するか、それとも倒れるまで歩き続けるか。どちらも良い案ではないように思えた。

 その時、氷塊とは反対方向に雪煙をあげる小さな動きが見えた。疲れで幻覚が見えているのかとファニュは頭を振り、目を(こす)ってみたが、その雪煙は視界から一向に去らなかった。見覚えのある雪煙。でもそんな奇跡はあるはずがない。世話役が持っていた双眼鏡(とおめがね)があれば確かめられるのに。

 少女は突然、呼子(ホイッスル)を持っていることを思い出した。化け物に盗られてなければ、まだカバンの中にあるはずだ。彼女はカバンの中身を雪上にぶちまけるようにして呼子(ホイッスル)を探した。それはすぐに見つかった。大きく息を吸い込むと一気に息を吹き込んだ。空気を送り込まれた呼子(ホイッスル)は鋭い音を二度、三度と発して、何もない広い雪原の空気を震わせた。少女は、それでも足りないとばかりに何度も呼子(ホイッスル)を吹き続けた。やがて呼子(ホイッスル)から放たれた音を(とら)えた雪煙は、それを頼りにどんどん近づいてきた。ファニュは体中にアドレナリンがみなぎり、眠気が吹き飛ばされるのを感じた。

 雪煙は少女の目の前まで来ると一声、いなないて大人しくなった。大人しくなると大きな胴をブルブル震わせ、白い体表にネオンのような青い光の波を明滅させた。雪の上を走ってきた十本の(たくま)しい触腕(しょくわん)の両横に付いている大きな二つの目も安心したのか、とろんとリラックスしている。雪走り烏賊(スノー・スクィード)だ。しかも野生ではなく、胴体に手綱(たづな)()い付けてあるところをみると、明らかに人に飼い慣らされていた一頭だ。

 少女は雪走り烏賊(スノー・スクィード)の明滅する胴を愛おしく()でた。雪走り烏賊(スノー・スクィード)は雪に埋もれた柔らかな口吻(こうふん)から雪を跳ね上げて、嬉しそうにまた一声、いなないた。胴を撫でている少女の手が焼印の所で、はたと止まった。まさかと思った。少女は目を()らしてよく見てみたが、やはり間違いはなかった。

「どこかの隊商の先遣(スカウト)からはぐれたのかと思ったのに」

 少女の口から自然と声が漏れた。その焼印は十三才のファニュ本人が所属する隊商のものだった。

「なぜ、お前が馭者(ぎょしゃ)もなく一頭だけでいたのかわからないわ」不安と(あせ)りから、ファニュは(せき)を切ったようにその動物に話しかけた。「でも賢いお前なら隊商の所まで、きっと、あたしを戻してくれるでしょ。休むのは、その後よ。さぁ、出発しましょ」


               19

「どこに行ったんだろ?」

 タンゴの苛々(いらいら)した声がチョウヨウの怒りに火をつけた。彼女は『あんな不気味な小娘にうつつを抜かす暇があったら、目的地まで先を急いだらどうなの』と、今にもタンゴに食つかんばかりに両方の拳を腰に当てて、その巨漢(きょかん)の背中を(にら)みつけた。

 ナナクサは月明かりの雪原に少女の姿を探すタンゴから少し離れた所で、頭を寄せ合うタナバタとミソカの姿を認めて言葉を飲み込んだ。死を()した過酷さゆえにデイ・ウォークで親密になる男女はいるのだろう。でも、どうしてだろう。二人を見て心穏(こころおだ)やかではいられない自分に気付いてナナクサは戸惑った。


               *

「あの時みたいに皆より早く見つければいいのよ」と、優しげにミソカがタナバタの耳元で(ささや)く。

「いいや、駄目だよ。そんなこと」

「今さら何言ってんの」

「やっぱり、駄目だ」

「もう決めたでしょ、私たち。さぁ元気を出して」

 チョウヨウには二人が何について話しているかなどわからなかった。大人びたタナバタが、か弱いミソカに元気づけられているなど、それだけで見物だ。それに年ごろの娘として二人の秘め事に少なからぬ興味もある。だが、それに嬉々として首を突っ込む悪趣味も彼女は持ち合わせてはいなかった。女子だけで、また秘密の雪語(ゆきがた)りをした時にでもミソカから二人の関係は話してくれるだろう。その時には興味津々で根掘り葉掘り聞いてやろう。

 でも、よりによってタナバタとミソカとは意外だ。以前はナナクサの方がタナバタと親密に話をしていた姿を見掛けていただけにチョウヨウの心は複雑だった。


               *

 ナナクサは心を侵食する苛立(いらだ)ちの陰で、幼馴染(おさななじ)みの小さな手のひらが頭一つ分は高い薬師(くすし)見習いの(ほお)()えられるのを見た。彼らは二人とも自分にとって大切な存在だ。でも心の中では(おさ)えがたい感情も(うず)きはじめた。

 体の強くないミソカを小さな頃から姉のように見守ってきただけに彼女に(おも)(びと)ができたのなら、それはそれで嬉しい。でも、博識で礼儀正しいタナバタに自分が()かれていたのも確かだ。旅を続ける中で言葉に出さなくともタナバタもその気持ちは察してくれていたのではないか……彼との関係は薬師(くすし)見習い同士の単なる職業的なものだったのか……いえ、そもそも彼を想う気持ちがそんなに強かったのだろうか……ナナクサは自分でもはっきりとしない自身の心の中にそう問いかけ続けた。

 ジョウシにはジンジツがいた。チョウヨウにはタンゴいる。そしてミソカにはタナバタ……でも私には。一体この気持ちをどう理解すればいいのだろう。嫉妬。(うらや)ましさ。それとも……取り残され感。そうだ。自分の心を支配しているのは、きっとそれらが渦巻いた負の感情なのだろう。真面目に生きてきた自分が今そんなものに振り回されている。そう考えると何もかもが味気なく、無性に(わずら)わしく思えてくる。取り残された疎外感が(さみ)しさと敗北感に苦く味付けされる。それが理解できただけに、一層落ち込んでもくる。それでも表面的には何事もないように演じ続けてしまう自分が(たま)らなく嫌だった。自分自身を嫌いになってしまいそうで、どうしようもなかった。まったく最悪な気分だ。

「ナナクサ、話があるんだ」

 感情の負の連鎖を断ち切る突然の呼び掛けにナナクサは飛び上がりそうなほど驚いた。

「タ、タナバタ……」

 ナナクサは声の主を確認すると、思わず周りに視線を走らせた。

「大事な話なんだ」

 タナバタはそう言うとナナクサの二の腕をしっかりと(つか)んで自分に引き寄せ、人気のない氷塊の裏まで彼女を引っ張って行った。ナナクサはタナバタに引っ張られながら、彼の手の感触を楽しんでいるもう一人の自分がいるのを感じていた。

「で、話って?」ナナクサは氷塊の裏まで来ると、素っ気なさを装おって口を開いた。

「手伝ってほしいんだ。君にしか頼めない」タナバタはナナクサの返事を待たずに言葉を()いだ。「あの少女を。ファニュを誰よりも早く見つけなきゃならない。いや、本当は見つけない方がいいのかもしれない。僕が間違ってたんだ、あぁ、そうだ。今ならそれがわかる。本当に馬鹿だったよ……」

「あなた何を言ってるの?」

 まるで自問自答するようなタナバタに、ナナクサは戸惑(とまど)いを感じた。

「お願いだ。君にしか頼めない」

 タナバタはナナクサの両肩を(つか)んだ。ナナクサは体の(しん)がカッと火照(ほて)り、戸惑(とまど)いから生じかけた疑問の言葉を飲み込んだ。

「その時が来たら、驚くかもしれない。でも……でも僕を信じて助けてくれ、いいね」

 冷静さが売りのタナバタの目が熱を帯びているのに気圧(けお)されたナナクサは思わず(うなず)いた。それを見たタナバタは(さみ)しそうに微笑(ほほえ)むと他の仲間の所へそそくさと戻って行った。

 ナナクサは呆然(ぼうぜん)とその後ろ姿を見送った。


               *

 ファニュの捜索は最大で三日と決められた。タンゴは異議を(とな)えたが、デイ・ウォークの旅程をこれ以上、逸脱(いつだつ)できないことはタンゴもわかっていたので、これがパーティ全員の了解事項となった。捜索はデイ・ウォークの目的地に向け、雪嵐(ブリザード)のように半径二十キロ程の円を描くように進められた。

 一日目は何も発見できなかった。二日目も同じだった。タナバタとミソカは夜明け前の数時間、二人で仲間の前から姿を消すことがあったが、みな何も言わなかった。そして三日目の夜も過ぎようとしていた。

 この日の当番で棺桶穴(シェルター)に入る準備を一人でしていたナナクサは、月明かりを(さえぎ)る影に気付いて顔を上げた。そこには真っ青な夜空にシルエットを浮かび上がらせたタナバタが立っていた。

「早かったわね」自分の心とは裏腹にナナクサは、素っ気なく声を掛けた。「皆はまだ帰ってないわ」

「来てくれ、ナナクサ」

 逆光となって表情はわからないながらも、その声は緊迫していた。

「『来てくれ』って、どこへ?」

「少し北東へ行く」

 わけもわからず立ち上がったナナクサは今まで目の前にいたタナバタがいつの間にか自分の背後に回っているのに驚いた。振り向いて声を掛けようとしたとき、タナバタの両腕がナナクサを背後からしっかりと抱きしめた。細いながらも引き締まったタナバタの胸と腕の感触を感じながらナナクサは嬉しさと羞恥(しゅうち)で頭の中が真っ白になった。

 しかし次の瞬間、体がふわりと浮きあがり、思わず声をあげそうになった。

「大丈夫だ、しっかり(つか)まえてるから」

 頭の後ろから聞こえるタナバタの緊迫した声は、決して安心と言えるものではなかった。質問をしたかったが、質問すればするほどパニックを起こしそうな自分がいることに気付き、ナナクサは口をつぐんで成り行きに身を任せた。

 青く透き通った星空へ駆け上がり、その中を矢のように滑空するナナクサとタナバタの影が、遥か下に流れる雪原のスクリーンに映し出される。ありえない状況に戸惑(とまど)いながらも、そのシルエットに見惚(みほ)れていたナナクサは村の風車小屋の羽のような影がタナバタの身体の左右に大小二枚ずつ見えるのに気付いた。高度が低くなると時折、わさっとそれらが羽ばたき再び夜空に高く舞い上がる。

 そう。これは翼なのだ。幼い頃に(おさ)老女(おばば)が子供たちに話してくれた古代の大絶滅(ハルマゲドン)前に生きていた多種多様な生き物の中で、確か……鳥とかいう動物が空を渡る時に使うものだ。それをタナバタが持っている。伝え聞いていた始祖(ごせんぞ)さまも持っていたのだ。それをタナバタが持っている。

 凄い。正直なところ、そうとしか言えない。

「今まで嘘をついていた」と、風を切る音に混じってタナバタの声が耳元に聞こえ、ナナクサの注意をひいた。「あの飛行船(サブマリン)の墜落現場で、僕は自分自身に御力水(おちからみず)を使ってしまった」

 首を振り向けたナナクサは背中から真っ黒な翼を生やしたタナバタが痛々しい表情なのに気付いた。彼はナナクサの背後で懺悔(ざんげ)し続けた。

「あれは僕たちが使っちゃいけないモノだ。瀕死(ひんし)の者の他は使っちゃいけないモノだったんだ。でも僕は誘惑に勝てなかった。もし健康な者が使ったら、どうなるか試したくって我慢ができなかったんだ。そのチャンスが目の前に転がってた。でも間違いだった。あれは死にかけた者を呼び戻す強烈な力を持っている。ただ、それだけに普通の者が使うと始祖(ごせんぞ)の力を身体に呼び覚ましてしまう」

「力を呼び覚ます?」

「そう。今のぼくみたいに。でも……」

 そこまで言うと急に押し黙ったタナバタに(ごう)を煮やしたナナクサは彼の腕の中でするりと体の向きを変えるや、互いに向き合う姿勢を取った。今度はタナバタが驚いて失速しかけた。ナナクサは落ちないようにタナバタにぎゅっとしがみついた。彼が(あわ)てて体勢を立て直すと、ナナクサは無言で答えを(うなが)した。

 二人は抱き合ったまま(しばら)く空を滑空し続けていた。月明かりで逆光になったタナバタのシルエットが口を開いた。

「副作用があったんだ」

「えっ、いったいどんな?」

「とても悪い副作用さ。凄く悪い。あれは不幸な力を呼び覚ます。だから、だから、早くあの少女を探さなきゃ」

「悪い副作用があったのはわかったわ。でも、なぜファニュを探すことと副作用が関係あるの?」

「それは………」

「ファニュが解毒剤を持ってでもいるの?」ナナクサはタナバタの首が力なく横に振られるのを見て、なおも(まく)したてた。じゃぁ、解毒剤に関する知識を持ってるの。まさか、あのニンニクの実が?」

「どれも違うよ。解毒剤なんて無いさ。ただ、それをある程度(おさ)える方法を考えついたんだ」

「抑えられるのね?」

「たぶん、ある程度ね」

「『ある程度』……」と、ナナクサはオウム返しにその言葉の重みを噛みしめた。

「劇薬を制するには劇薬を使う。そのためには品質の良い、(けが)れのない純粋なものでなければならないと思うんだ。だから、あの娘が鍵さ。彼女からほんの少しだけ分けてもらうだけでいい。ほんの少し……」

「いったい何を言ってるの?」

「僕だって薬師(くすし)の端くれだ。信じてくれ」

 話を切り上げると、タナバタはナナクサを両手で抱いたまま空を大きくバンクすると、ふわりと雪原に降り立った。

 地上に着いた二人は抱き合っていた互いの腕をぎこちなくほどいた。ナナクサが見つめる中、タナバタの背中の黒くて大きな翼は塵が吹き飛ばされるようにサッと()き消えた。タナバタは黙って自分を見つめ続けるナナクサの目を見つめた。青い夜空に星を散りばめたような綺麗な瞳だった。だがその瞳の中には、さっきの話の続きをしようと呼びかける無言の問い掛けがあった。タナバタはそれには答えず、視線を外した。

「この辺りに、あの少女の気配がする。さぁ、早く探そう。あまり時間がない」


               *

 ナナクサは行方知れずの少女の名前を叫んで何もない雪原を歩き回った。始祖(ごせんぞ)さまの力を発現したタナバタが言うのだ。ファニュはこの近くにいるのだろう。でもどこに。しかも肝心のタナバタは降り立ったあと、その場所で両手を握りしめたまま(うつむ)いて突っ立っているだけだ。

 ナナクサは再び少女の名を叫んで歩き出した。歩いていると前方で雪が円形に盛り上がったところが、もぞもぞと動いたように見えた。彼女はその場に立ち止ると、しばらくその動きを注視した。気のせいかとも思ったが、確かにその円形の小山は一度動いたのだ。周りが平坦で動きがないだけにかえって、それはナナクサの注意を引き続けた。彼女は思い切って、その小山まで行くと、その端をブーツの先で突いてみた。雪とは違ったブヨブヨとした弾力がある。いや、正確には雪の中にその弾力がある。次に靴底全体で強く踏んでみた。今度は(あらが)うように押し返す感触があり、ナナクサは思わず後ろへ飛び退(しりぞ)いて身構(みがま)えた。小山は薄っすらと青白い光を明滅させたかと思うと、()で卵が殻を脱ぎ去るように雪と氷をその表面から振るい落として白い身体を(のぞ)かせた。タンゴより大きい雪走り烏賊(スノー・スクィード)だった。雪走り烏賊(スノー・スクィード)は全部で四頭。一頭が顔を(のぞ)かせると、次々とその白い胴体を雪の中から揺り起こした。話には聞いたことがあったが、初めて見る雪走り烏賊(スノー・スクィード)はジンジツの命を奪った肉食の大海獣(ン・ダゴ)とは違い、体を青白く明滅させて大人しくしている。この分では害はなさそうだ。

 雪走り烏賊(スノー・スクィード)の一頭が一声いななき、ナナクサの目の前でぶるっと体を震わした。そして丸めた胴体と、その下に折り畳まれた触腕(しょくわん)をほどき始めた。ほどかれたその下には(おび)えた表情のファニュがいた。

「ファニュ!」

 緊張から自然に高まったナナクサの声は雪走り烏賊(スノー・スクィード)かまくら(シェルター)で休んでいた娘をすくみ上らせた。ナナクサは大きく息を吐き出すと、努めて優しい声を少女に投げかけた。だがファニュを(おび)えさせた原因が自分でないことを、娘が凝視する先に視線を転じたナナクサはすぐに理解した。

「タ、タナバタ?……」

 驚きで(つぶや)きしか出なかった。しばらくして、やっと気を取り直したナナクサはタナバタの名を再び呼んでみた。それでも返事がないので、今度は大声で叫んだ。突っ立ったまま、両手で赤いシャーベットを(むさぼ)っていたタナバタが反応して振り向いた。ナナクサはその赤黒く光る視線を(とら)えた瞬間、背中に冷たいものが走るのを感じた。直感的にタナバタが正気ではないと(さと)ったのだ。その顔は理知的であったことが嘘のように醜く歪み、大きく裂けた口からは喧嘩の時のように犬歯が鋭く伸びている。やがてタナバタは()かれたように、一歩、また一歩と二人の方へ近づき始めた。

「タナバタ、どうしたの?!」

 これが副作用か。そう直感したところでナナクサには何もできなかった。だからといって手をこまねいていることなどできない。ナナクサはタナバタに走り寄ると、彼を正気に返らせようとその二の腕を(つか)んで激しく揺すぶってみた。

「タナバタ。しっかりしてよ、タナバタ!」

 それでもタナバタの前進は止まらない。彼の目は既にナナクサを見てはいなかった。彼女を通り越して雪走り烏賊(スノー・スクィード)触腕(しょくわん)にくるまれた少女を凝視していた。なおも、すがり付くナナクサが数メートルも突き飛ばされた。遂にファニュの口から月夜を切り裂く悲鳴が上がった。ナナクサは立ち上がりながら、ファニュに近づくタナバタの姿を見て、さっき彼がファニュのことをしきりに言っていたのを思い出した。あれだけ固執(こしつ)していたのはファニュに何かをする気だったからか。

 ナナクサはタナバタの前へ出ると彼の(ほお)を力一杯、平手で叩いた。それでも正気に返らないタナバタを後ずさりながらも叩きつづけた。気持ちを抑えきれず、つい伸ばしてしまった爪が、タナバタの(ほお)を切り裂いても彼女は叩くのを止めなかった。ナナクサはまた突き飛ばされた。それでも(あきら)めずに今度は彼の後ろから腰に両手を巻き付け、渾身(こんしん)の力で引き戻そうと試みた。しかし、雪の中を引きずられるだけで歩みは止まらない。ナナクサを引きずったまま、タナバタは逃げようとしたファニュに躍り掛かかった。彼は激しく抗う娘を容易に押さえつけると、長く鋭い犬歯で娘の首を貫こうと顔を近づけた。咄嗟に腰に回した腕をほどいたナナクサは、今度は後ろからタナバタの薄茶の髪の毛を両手で(つか)んで力一杯後ろに引きはじめた。彼の髪の毛が何十本も頭皮ごとメリメリ引きはがされる嫌な感触が両手に伝わる。牙の進撃は鈍ったが、ほんの少しだ。もう駄目だ。ナナクサがそう思った瞬間、電撃に貫かれたように半身を起こしたタナバタが悲鳴を上げてナナクサを振り払った。そして両手で顔を(おお)い、ファニュから離れると、くぐもった苦痛の叫びをあげながら雪の上に倒れ込んで、のた打ち回りはじめた。

 雪の上に投げ出されたナナクサには何が起こったのかわからなかった。ただ考えられるのはファニュが何か対抗策を講じたのだろうということだけだ。でも何をやったのだろうか。それほどタナバタの苦しみ方は尋常(じんじょう)ではなかった。ナナクサは凍てついた大気中を漂う甘ったるい(にお)いの微粒子を感じ取ると、反射的に息を止めてその場から飛び退(しりぞ)いた。何てことだ。あろうことか、ファニュはタナバタに猛毒を使ったのだ。薬師(くすし)の見習いとして毒物の知識がなければ、自分も不用意にそれを肺一杯に吸い込んで重態に(おちい)るか、下手(へた)をすれば死んでいたところだ。

 雪の中にうずくまり、肩で息をするファニュの傍らまで行くと、ナナクサは娘からまだ毒物の微粒子が漂っているのに顔をしかめた。

「何てことするの、ファニュ。ニンニクを使うなんて、タナバタが死んだらどうするの?!」

 ナナクサは怒りに任せてそう吐き捨てると、立ち上がれないでいるタナバタに目をやった。そして彼が生きていることに少し安堵(あんど)した。

 だが次の瞬間、安堵(あんど)は強い驚きに吹き飛ばされた。

「タナバタも存外(ぞんがい)、情けないわね」

 それはナナクサの幼馴染(おさななじ)みの声だった。


               20

 漆黒(しっこく)の羽を優雅に羽ばたかせて真っ青な月夜の空に浮かぶミソカの姿は美しかった。見惚(みほ)れるほど高貴で美しかった。だが、そこには優しげで、どこか(うれ)いを含んだ幼馴染(おさななじ)みの顔は微塵(みじん)もなかった。人をあざ笑うかのような口元。そこから(のぞ)く鋭い牙と赤黒く光る目。変化したタナバタと同じように見えるが、そこにはタナバタに欠けていた強い意志があった。明確で妥協を許さない負の意志だ。ナナクサはミソカから発せられる、その後光(オーラ)に射すくめられて息もできなかった。

「ナナクサ」ミソカの声がナナクサの頭の中に語りかけた。「あなたにも始祖返(ごせんぞがえ)りの機会をあげるわ」

 戸惑うナナクサの頭の中に再びミソカの声が響いた。

「そこの御力水(おちからみず)を飲みなさい」

 声の指し示す所にはファニュがいた。ミソカが何を言いたいのかわからないと思った途端、また頭の中に声が響いた。苛立(いらだ)ちを隠そうともしない声だった。

「鈍いわね、ナナクサ。その娘の血。人間の血を(すす)るのよ。そいつらが私たち一族の本来の食糧。そして(いにしへ)からの(かたき)

「ミソカ、あなた何を言ってるの?」思わず声が出た。

 しかしナナクサの声が聞こえないかのようにミソカは自分の言いたいことを彼女の頭の中に(まく)し立てた。

「あの飛行船(サブマリン)の墜落現場でタナバタと御力水(おちからみず)を飲んだわ。その時わかったの。あれは薬でも何でもない、大昔から保存されてた人間どもの血そのものなんだって。だって飲んだ瞬間、頭の中に眠っていた私たち一族の歴史があっという間に紐解(ひもと)かれたんだもの。歴史は記憶よ。それが夜空を飛び去る流れ星よりも速く、私の中を駆け巡ったわ。一族がどのようにして生まれ、どう過ごし、そして今の(みじ)めな暮らしをしなければならなかったのかを」

(みじ)めな暮らしって何よ」と、ミソカの言葉の最後がナナクサの心に引っ掛かった。

「私はすべて見たの。今までどんな史書師(かたりべ)だって知ることがなかった知識よ。あらゆる命の頂点にいるにもかかわらず、陽の光を恐れ、政府(チャーチ)から支給される精進水(しょうじんすい)に頼って細々と生きなきゃならない(みじ)めさ。それは、みんなこいつら人間たちのせいなのよ」

 ミソカが黒みがかった四枚の羽を一閃(いっせん)させると(すさ)まじい疾風が起こり、辺り一面の雪と氷を引き()がした。

 雪埃(ゆきぼこり)が収まって視界が戻ると、ファニュの悲鳴が起こった。

 ナナクサが振り返ると震えるファニュの周りには(おびただ)しい数の人間の死体が転がっていた。武器を持ったまま引き裂かれた死体や、ありえない方向に身体を折り(たた)まれたもの。果ては体液のすべてを失って幼児の大きさにまで縮んで(しわ)くちゃになった大人の身体まで。その様子は、まるで死体の見本市だった。目を(そむ)けることすら出来ずにいたナナクサは引き裂かれた一つの死体が作る赤黒い血だまりが(いびつ)な形に(えぐ)りとられているのに気付いた。タナバタが狂ったように口にしていた赤いシャーベットの正体だった。

「これ。私とタナバタがほとんどやったのよ。(すご)いでしょ?」

「嘘よ!」

「そして、二人で味わったの」

「やめて!」

 ミソカの言うように、アレを口にすれば、きっと自分もタナバタのようになるだろう。そんなのは嫌だ。ナナクサは吐き気がした。

「さぁ、あなたも……」

「嫌よ、絶対にイヤ!」

 その瞬間、目の前にミソカが立っていた。どんなトリックを使ったかわからなかったが、一瞬でナナクサの目の前に現れたのだ。

「断るってことね。いま目にした信じられない力が()らないのね?」

 ミソカの口から直接発せられた言葉は、ゾッとするほど冷たかった。

「だって……」

「あなたの言おうとしていることは、わかってるわ」と、ミソカはナナクサの考えを読んで先回りした。「空腹に耐えられないとき、ちょっとだけ気分が変になるだけ。本当にそれだけよ。それに、これは残酷なことでも何でもないのよ。現にこいつら人間どもも海の生き物を殺して食糧にしてるわ。同じことよ。自然なことなの。ねぇ、わかるでしょ?」

 言葉の最後は、いつもの優しい幼馴染(おさななじ)みを彷彿(ほうふつ)とさせるものだったが、やはり違った。自分の知っている大好きなミソカは今のようなことは決して口にしないのだとナナクサの心が知っていたからだ。

 ナナクサの心を読み取ったミソカは(かす)かに目を伏せると、決心したように口を開いた。

「そう、わかったわ。あなたがわかろうとしないんだったら、友達のよしみよ。無理にでもわからせてあげる」

 ミソカの赤黒い視線がファニュに注がれた。ナナクサはミソカがファニュを殺して、その血を無理やり自分に飲ませ、仲間に引き入れようとしていることを瞬時に悟った。しかし同時に、圧倒的な力を発揮するミソカを前に、非力な自分には何も出来ないのだという無力感に心を支配された。だから咄嗟(とっさ)に身体も動かなかったし、「やめて」とも口に出来なかった。

 このときのナナクサは単なる人形だった。頭は()えているのに心が麻痺した存在。助けを()うファニュの視線を(とら)えても、ただその目を見つめ返すしか出来ない氷の人形。それゆえに彼女が殺された後、自分が何者に変えられてしまうのかも、どこか他人事のようにしか感じられなかった。

 ナナクサの目の前からミソカが一瞬にして消え失せ、直後にファニュの目の前に現れた。彼女は、すくみ上がるファニュを邪悪に光る赤黒い目で品定めする。人間の娘はすぐに殺されるだろう。だが突如現れた黒い影が、ミソカを(はじ)き飛ばし、ファニュの危機を救った。タナバタだった。

「ナナクサ。娘を。ファニュを守れ!」

 端正な顔の右半分がニンニクの強い毒気で(ただ)れたタナバタは、ズボンのベルトから長い金属棒を素早く引き抜くと、半身を起こしたミソカに打ち下ろした。風を斬るその一撃は鈍い音とともにミソカの左肩に深々と喰いこんだ。だが、骨が砕け、内臓が(つぶ)されても不思議ではない衝撃を平然と受け止めたミソカは、その凶器を子供の手から玩具(オモチャ)を引ったくる年長のイジメっ子のように易々(やすやす)と奪い取り、その場に投げ捨てた。武器を奪われたタナバタは、襲いかかるミソカの鋭い爪の斬撃を(かろ)うじてかわすと、その両手に自分の指を組みつかせ、力比べの態勢をとって彼女の進撃を食い止めた。

「ナナクサ。早くファニュを。彼女が殺されるぞ!」

 タナバタの叫びは、今度こそナナクサの呪縛(じゅばく)を解き、彼女を現実に立ち返らせた。ナナクサはファニュに素早く駆け寄ると、自分の身体で娘を守るように(おお)いかぶさった。

「邪魔するな!」

 ミソカはそう叫ぶと、自分より頭一つぶん大きなタナバタが組み合わせていた指を手首の骨ごと難なくへし折った。骨が折れる乾いた音に苦痛の叫びが重なった。タナバタはその場に(ひざ)を屈した。

「くそっ。もう嫌だ。もう十分だ……」

「十分なんかじゃないわ、タナバタ。あんたも御力水(おちからみず)をここから持ってきてればよかったのに」ミソカがタナバタの顔を両手で(はさ)んで(のぞ)き込む。「邪魔をした罰に、あなたには、もっと、もっと苦痛を与えてあげる」

「苦痛なんて、どうだっていい」

「はぁ?」と、ミソカが首を(かし)げる。

「僕が欲しかったのは、こんな力じゃない。いろんなことが知りたかった。僕はただの学徒(がくと)だ。ただ、それだけだったんだ。でも……でも、もう十分だ。こんなの(かか)えきれない……。力を得ることが、こんな嫌なものまで背負(しょ)いこむことになるなんて……」

「嫌なものですって?」ミソカは自分たちが手にかけた人間の戦士や商人の死体に一瞥(いちべつ)をくれた。「あぁ。この人間どもの血に宿った記憶ね」

「邪悪で呪われた暴力の記憶だ!」

(ねた)み。怒り。猜疑(さいぎ)。憎しみ……そんなこと、始祖(ごせんぞ)さまの力の前には何でもないわ」

「君の心は麻痺してるんだ」

「いいえ。麻痺してるのは、あなたの弱い心。支配者の心は、そんな下らないことなんかで惑わされたりなんかしないわ」

「『支配者』だって。笑わせるな!」タナバタの声は悲鳴に近かった。「自分が乗っ取られるんだぞ。雪崩込む邪悪な記憶に押し流されて、自分が吹き飛ばされてしまう。自分が怪物に変わってしまうんだ!」

 (ひる)むことなく投げつけられる言葉に、ミソカは穴の開くほどタナバタの顔を見つめ続けた。

「君だって健康になりたかっただけで、こんな力なんか求めてなかったはずだ。本当は(かか)えきれないんだろ。僕と同じで?」

「黙れ……」

「君も本当は怖いはずだ。一族の(おきて)に反して、生き物の命を奪わないと生きていけなくなる生活が。自分が得体の知れないものになってしまうのが。自分が自分でなくなってしまう。それって、すごく……すごく怖いし、惨めだ」

「うるさい!」

 ミソカは、そう叫ぶとタナバタを突き放した。手には、いつの間にか彼女がタナバタから奪い取って投げ捨てたはずの金属棒が握られている。

「私は、もう決心したの。今さら後戻りなんて出来ない」

 半ば自分に言い聞かせるように、そう(つぶや)くとミソカの目が今まで以上に赤黒く光った。

「痛くて苦しいのは最初だけ。すぐに始祖(ごせんぞ)さまの力を味わえる。だから、お願い。あなただけは情けないこと言わないで、私についてきてよ、ナナクサ」

 言うが早いか、ミソカは金属棒を二人に向かって投げつけた。

 ナナクサは目を見開いた。自分に向かって飛んでくる金属棒がまるでスローモーションのように、ゆっくりと大きくなってゆく。渾身(こんしん)の力で投げつけられた金属の(やり)はナナクサと彼女が(かば)うファニュの身体を楽々と刺し貫くはずだ。そしてファニュは死に、自分は怪物になる。死から呼び戻された後に自分が自分でなくなることになるのだ。

 しかし金属棒はナナクサも、また彼女が(かば)う人間の娘の身体も貫くことはなかった。タナバタが疾風(しっぷう)となって二人を(かば)い、背中からその洗礼を受けたのだ。ナナクサは自分の両胸の間に(かす)かな痛みがあるのを感じた。金属棒の切っ先はタナバタの体を貫いて彼女のコートを破り、そこで止まっていた。顔を上げると、穏やかなタナバタの顔がそこにあった。あの悪鬼のような形相は影を(ひそ)め、ナナクサが密かに()かれた理知的で優しげな顔が「僕は僕自身だ。何者でもない」と微笑(ほほえ)んでいた。その口元からは一筋の鮮血がゆっくりと流れると、ナナクサの顔に夜露のように(したた)り落ちた。(まぶた)が静かに閉じられ、タナバタの身体はぐらりと傾いてゆく。だが、自分を取り戻し、静かに死を迎え入れる決意をした者を強引に揺り起こすように、その髪の毛をミソカの手が引っ(つか)んだ。

「どこまでも馬鹿な男」

 タナバタを愚弄(ぐろう)する言葉に、ナナクサは生まれて初めて目の前の幼馴染(おさななじ)みに怒りを覚えた。

「タナバタを離して!」

「ダメよ。だって私の邪魔をしたんですもの」

「ミソカ」怒りと悲しみでナナクサは喉が詰まった。「本当のあなたはどこに行っちゃったの?!」

「ふん」ミソカは醜く顔を歪めた。「無知なあなたに、もう少し教えてあげるわ。始祖返(ごせんぞがえ)りは高々(たかだか)、三百五十年くらいしかない私たちの寿命を無限にしてくれるの。健康で力強い身体に変えてくれる。空だって飛べる。それにねぇ。知らないでしょうけど、あの憎ったらしい太陽の下だって焼け死なずに歩けるのよ。信じられる。ほんと嘘みたいじゃない。まぁ、あまり気分は良くはないけどね。でも、本当に素晴らしい力よ。それをさっきから『(みじ)め』だなんて。どうかしてるわ」

 ナナクサは立ち上がって、ミソカに対峙(たいじ)した。

「まだわからないの。タナバタが『(みじ)め』だと言ったのは、力を得る代わりに失ってしまうものが大きすぎるからよ。自分をコントロールできない怪物になってどうするの。それで永遠に生き続けてどうなるの。そんなの生きてるって言えるの。あとには(みじ)めさしか残らないじゃない」

 ミソカがナナクサを(にら)みつけた。

「あなたに何がわかるの。子供の頃から私がどんな思いで生きてきたかわかってるの。身体が弱い子供が遊び仲間に置いて行かれまいと息を切らせながら付き従っていく苦痛を知ってるとでも言うの。健康なあなたたちには決してわからないことよ。その私が力を求めて、何が悪いの。何が(みじ)めだっていうのよ!」

「わたしは」

 この場に不釣合な苦い過去を吐露(とろ)するミソカにナナクサは一瞬たじろいだ。

「あなたは、そんな私を嘲笑(あざわら)ってたのよ」

「そんなことない!」

「あら、そう。『ミソカは身体が弱いのに方違へ師(かたたがえし)になれるなんてズルい。わたしの方がスゴい方違へ師(かたたがえし)になれるのに』って、子供のころ、そう言って御老女(おばば)さまを困らせたの、いったい誰だっけ。私、あれを聞いて笑ってたけど、本当はもの(すご)く傷ついてたのよ。私が何も感じないとでも思った。あの時のあなたは私にとって十分に怪物だったわ」

「そんな……」

「人の心を土足で踏みにじる怪物。でも、何とも感じなかったでしょ?」

「あれは」ミソカに対する後ろめたさがナナクサの言葉を鈍らせた。「あれは、わたしも幼かったから……でも」

「幼かったから正直な気持ちが出ただけよ。嘲笑(あざわら)ってなかったとしても優越感があったのは確かよね。だから、あんなことが平気で言えたのよ。でも、気にすることなんてないわ。だって今は私の方が(はる)かに上の存在なんだから。あなたのように中途半端な ヴァンパイアじゃなくてね」

「ヴァン……パイア……」

 ミソカは右手を夜空の月に高々と差し上げると、朗々(ろうろう)(うた)いあげた。

「高貴なる一族の名すら失った者たちに、今一度、チャンスをあげるわ。でも、これが最後のチャンスよ」


               *

 ミソカの言葉が合図であったかのように、空けゆく彼方の夜空に瞬く間に分厚い雲が()き立った。それは、すぐさま渦巻く雪嵐(ブリザード)へと姿を変えると、ナナクサたちの方へ一直線に突き進んできた。ナナクサが見守る中、目の前まで来た雪嵐(ブリザード)()き消すように忽然(こつぜん)と消滅した。これが何を意味するのか、ナナクサにはすぐに理解できた。ミソカの力の誇示だ。なぜなら消滅した雪嵐(ブリザード)からパーティの仲間たち。チョウヨウ、タンゴ、ジョウシの三人が次々と雪上に落下してきたからだ。

 運動神経の良いチョウヨウは咄嗟(とっさ)のことであったにもかかわらず、優雅な着地姿勢で。タンゴは空中でくるくる回りながら、最後はどさりと尻餅(しりもち)をついた。ジョウシはそんなタンゴをクッションにして着地の際に小さく叫び声をあげた。自分の意志と関係なく合流させられた三人は、我れに返ると周りの状況を見て絶句した。生まれてこの方、これほど(おびただ)しい数の、しかも常軌(じょうき)(いっ)した死体の山を見たことがなかったためである。

「おのれ! 何を()おる?!」

 驚きも冷めやらぬジョウシが最初に怒りの声を上げた。彼女が叫んだ先には幼馴染(おさななじ)みであるタナバタの首筋に喰らいつくミソカの悪鬼のような姿があった。ミソカはタナバタの喉から顔を上げると、その身体を突き離し、真っ赤な舌先で牙についた血を(いと)しそうにこそげ落とした。

「あら。()らないと言うから返してもらっただけよ、こいつが味わった人間の血を」

 理解しがたい状況を目にしたタンゴは半ば(あえ)ぐように、そしてチョウヨウは顔を固く(こわ)ばらせながらミソカに説明を求めた。それに対してミソカは、出来の悪い生徒を(さと)す教師のような鷹揚(おうよう)さで冷たく言い放った。

「これが本当の私たちよ」

「な、なに言ってんだよ、ミソカ?……」

 戸惑うタンゴをミソカは赤黒い邪悪な視線で射抜いた。

「ヴァンパイア」

 ミソカは一歩、また一歩と自信に満ちた足取りで二人に近づきながら言葉を()いだ。

「高貴なる種族。(いにしえ)からの(かたき)と恐れられた人間どもの生命を力に変え、すべてを支配する絶対者」

「『(いにしえ)からの(かたき)』……『人間』?……」

 ミソカは驚きながらも、いぶかるチョウヨウに視線を転じた。

「そうよ。こいつらが私たちを脅かす怪物の正体」ミソカは人間の死体の山を(あご)で指し示した。「でも、もう恐ることはないわ。あなたも私の力を見たでしょ。感じたでしょ。この力が欲しいと思ったでしょ、チョウヨウ。この力さえあれば、あなたの姉さんだって今でも元気でいたはずよ。ジンジツだって死ななかった」

「お前、いったい何を言ってる?」

「この力は私たち一族を救うものだって言ってるのよ。(おさ)えられていた能力の解放は未来への扉をこじ開け……」

 そのときチョウヨウの鼻先を銀色の斬撃(ざんげき)(かす)めさった。彼女は今まで目の前にいたはずのミソカが魔法のように消え失せ、怒りに燃えるジョウシが銀のナイフで空気を()ぎ払う姿を目の当たりにしてたじろいだ。なぜなら、まるで自分がジョウシに襲いかかられたかのような錯覚に(おちい)ったからだ。

「遅い遅い」

 二人の真横から聞こえる嘲笑(ちょうしょう)にジョウシは即座に反応した。彼女は再び斬撃(ざんげき)を加えようと振り向きざまに銀のナイフを横殴りに一閃(いっせん)させた。だが、ジョウシの得物(えもの)を握った右手はミソカに難なく(つか)まれ、締め上げられた手首の骨が情けない悲鳴を上げる。苦痛に耐えていたジョウシの手から銀のナイフが抜け落ちて雪上に刺さった

「痛い?」

 ミソカがそう聞いた途端、骨の折れるゴキンという鈍い音が響いて、ジョウシの口から悲鳴が上がった。

「ヤヨ村の者は腕を折られるのが、よほど好きなようね」

「この()れ者が!」

 言うが早いか、ジョウシは空いている左手の爪を伸ばし、目の前のミソカに斬撃(ざんげき)を見舞った。だが、ミソカは避けなかった。表情も変えず、瞬きすらせずに真正面から鋭い爪のを受け止めた。ミソカの顔面はざっくりと裂け、そこから鮮血が飛び散った。しかしその醜い傷跡は、浜辺に書いた文字が波にさらわれるようにすぐに消え去った。二回目の斬撃はなかった。というより、再び攻撃しようとしたジョウシは腹部に強烈な逆撃を受けて雪上に(はじ)き飛ばされたからだ。だがジョウシは苦痛に身をよじらせながらも必死に立ち上がろうとした。そんな彼女にミソカは虫を見るような視線を投げかけた。

「初めて、あなたに()ったとき、自分と同じ境遇の仲間が出来たと思った。生意気だけど、体が小さくて体力が無いのもすぐにわかった。互いに通じるものがあると思った。でも違った。お前は、この旅の中で誰の助けも借りようとしなかった。いや。むしろ助けを借りることを恐れるかのように仲間が差し伸べる手を(かたく)なに(こば)み続けた。(おさ)の子だから。もちろんそれはあったでしょう。皆から認められたいから。それもあったでしょうね。負けず嫌いな性格。やっぱり、それが一番かな」

 ミソカはジョウシに指を突きつけた。

「だから、私はお前が憎かった。誰の助けも借りず、仲間の中に自分の居場所を勝ち得た、お前という存在が!」

 折れた右手首を左手で押えながら、ジョウシは苦痛とも(あざけ)りともとれる複雑な表情で小さな顔を(ゆが)めた。

「そうか。それゆえ我が友を(あや)めたのか?」

「あら、お生憎(あいにく)さま。さっきも言ったでしょ。あの弱虫が力を()らないというから、返してもらっただけって言ったでしょ」

利口(りこう)なタナバタが妖異の力など(ほっ)しようものか」

「理由はどうあれ、私たちが力を得たのは事実よ。もっとも、それは偶然だったけどね」

「なんじゃと?」

「あの墜落現場で私たちの目の前に、たまたま御力水(おちからみず)があった。お前が感じたとおり、あの船員が自ら用意したものだけど、彼はもう死んでたんだもの。だから二人で分け合ったの。そして抑えられてた力が解放された。ただ、それだけ」

「おのれは最悪じゃ」

「そうね。でも、お前には、もっと最悪な話があるわ」

「このうえ最悪なことなどあるものか」

「そうかな?」ミソカは意地の悪い笑みを浮かべた。「あのとき、お前の感の鋭さが後々面倒になると私の血が直感したわ。それにお前の存在が気に入らなかったから。だからね……」

「何が言いたいのじゃ?」

「だから、お前を襲わせたのよ。あの大海獣(ン・ダゴ)に」

 ミソカの告白は、そこにいた全員の心を刺し貫いた。しかし、その場に居合わせたデイ・ウォークの仲間一人一人の心の奥底に浸透するまで(しば)しの時間を要した。なぜなら、その言葉は目の前でタナバタの命が奪われるのを目撃した者にさえ、たちの悪い冗談としか思えなかったからだ。一丸となって仲間の命を救おうとしていたとき、打算と憎悪から仲間を謀殺しようと考えていた者がいたという事実。そして、それによって実際に引き起こされた惨劇(さんげき)。一族の者であれば、誰も考えはしないし、決して実行しようともしない唾棄(だき)すべき(いま)わしい悪徳。

 裏切りによる仲間殺し。

(いつわ)りじゃ……」

「そう思いたければ、思えばいいわ」

「おのれは(いつわ)りで仲間を……我れれを翻弄(ほんろう)しようとしておるのじゃ」

 ジョウシの自身に言い聞かせるように(あえ)ぐ姿が、ミソカの気を良くした。

(いつわ)りなもんですか。私の力は覚醒していた。それを使ってみない手はないと思ったのよ。まぁ、大海獣(ン・ダゴ)所詮(しょせん)は賢くない動物だった。操ってみたけど、失敗しちゃった」

「ふざけるな!」チョウヨウが二人の間に割って入った。「失敗だぁ。何が失敗だよ、ミソカ! あんたの下らない(ねた)みのために、あたいのダチは大海獣(ン・ダゴ)に殺されたってか。そんなこと信じられるか!」

「信じるも信じないも事実よ。さっきから、そう言ってるじゃない」ミソカはこともなげに言い切った。「それに、『あんな馬鹿、さっさと消えればいいのに』って口癖みたいに言ってたの、あなたじゃない?」

「そんなの冗談に決まってるだろ。本気で、そんなこと望むわけない!」

「本気であろうが無かろうが、言葉には命が宿るのよ。だから言った通りになった。そうでしょ。ふふっ、あなたにも世界を動かす力があるのかもねぇ」

 うそぶくミソカに絶句するチョウヨウの(かたわ)らからジョウシが言葉を(しぼ)り出した。

「おのれは……」

「なぁに?」

「おのれはジンジツの(あだ)じゃ」

「いえ。ジンジツはお前の身代わりになったのよ。忘れないで。死ななくていいのに死んだの。お前が殺したも同然よ」

詭弁(きべん)(ろう)するな。おのれは、もう(あだ)以外の何者でもない」

「いいえ。それでも(あだ)はお前自身よ。わたしを追い詰めたからジンジツは受けなくていい、とばっちりを受けた。やっぱり、お前はお前自身を裁くべきよ。どう。少しは責任を感じないの?」

 大海獣(ン・ダゴ)に用いたのと同じ力がジョウシとチョウヨウの心に使われたのかどうかはわからなかった。ただ、ジョウシの怒りは無理やり自責の念に()じ曲げられ、チョウヨウの直線的なそれは次元の違うミソカの考えにかわされた。だが、立ちすくむ二人を尻目に怒りの刃をミソカに深く投げつけた者がいた。タンゴである。

 彼は無言でミソカにズカズカと詰め寄ると、その二の腕を両側から伸びた爪が食い込むほどガッチリと(つか)んだ。そして小さな身体を自分の目の高さまで持ち上げると力(まか)せに揺すぶって声を荒らげた。

「何でだよ。何でなんだよ。ジンジツは仲間だろ。タナバタは一緒に旅してる友達だろ。何でそんな(ひど)いこと出来るんだよ。僕たちは同じ一族だろ。目を覚ませよ。何とか言え。ぜんぶデタラメだって言えよ!」

 もちろん今のミソカの膂力(りょりょく)をもってすれば、この大男ですら難なく()じ伏せることができただろうが、さすがのミソカも、この優しく気の良い幼馴染(おさななじ)みが眼球の毛細血管を破裂させ、真っ赤な涙を流しながら、激しく責め(さいな)む姿にたじろがざるを得なかった。

「離せ……離してよ、タンゴ」

「ダメだ。離さない。いつものミソカに戻るまで駄目だ!」

「離さないなら、あなたでも(ひど)い目にあわすわよ!」

「やれるもんなら、やってみろ!」

「離してって言ってるでしょ!」

 遂にミソカは、その見えない力でタンゴを遠くへ(はじ)き飛ばした。しかし大男は直ぐに立ち上がり、なおもミソカに詰め寄ろうとする。

 そんな仲間を、我れにかえったチョウヨウが必死に引き止めた。

「やめな、タンゴ。こいつは、あたいたちの知ってたミソカじゃないよ。殺されちゃうよ、あんたまで!」

 タンゴはすがり付くチョウヨウに引き倒され、雪の上でやり場のない悲しみと怒りの声を上げ続けた。

「もういないんだよ、ミソカは!」

 タンゴをなだめるチョウヨウの叫びはミソカにも十分すぎるほど届いただろうか。しかし彼女は眉ひとつ動かさず、その真っ赤な目をすがめて彼方の空を見やった。

「物分りが悪いわねぇ、みんな。ほら。もうすぐ朝日がさしてくるわ。でも、そんなの私はへっちゃら。見せてあげる、あの忌々(いまいま)しい太陽に打ち勝つ姿を。一緒に力を手にするかどうかは、それから考えてくれてもいいわ」

 ミソカが言い終わらないうちに地平線から太陽が顔を出し始めた。(さえぎ)るもののない氷原は、風が吹き渡るように白い光で埋めつくされていく。

 (あわ)てたチョウヨウは遮光マントの前を締めるとフードを素早く被り、宇宙服のように身体を外界から遮断して、悲嘆にくれるタンゴにも同じことをしてやった。しかしジョウシの体からは見えない手で遮光マントが()ぎ取られた。ミソカの仕業だった。ジョウシは本能的に目の前を舞う遮光マントを追い求めた。

「お前だけはダメよ、ジョウシ。お前だけは始祖(ごせんぞ)の力を与えたげない。あの陽の光を浴びて私は残るけど、お前は(ちり)にか……」

 ミソカの(はず)むような声がふいに途切れた。彼女は信じられない表情で自分の背中から胸の中央に突き出た一本の金属棒を凝視した。そして首を回すと、その視線は背後からの襲撃者を(とら)えた。

「ごめんね……」

 そう言うと、ナナクサはタナバタの身体から引き抜いた金属棒でミソカの体を更に(えぐ)った。(えぐ)りながらナナクサは自分の心をも深く(えぐ)り続けた。ナナクサの手はねっとりとしたミソカの血で濡れていた。しかし、その顔は涙で濡れてはいなかった。あったのは始祖(ごせんぞ)の呪縛から友人を解き放ってやりたいという痛々しい一途(いちず)な思いだけだった。だが、そんなナナクサをミソカはせせら笑い、胸から突き出た血塗られた金属棒に右手を()えた。

「まったく。こんなもので私の力を奪えるとでも思ってるの?」

 ミソカは金属棒を握ると難なくそれを体から引き抜き、雪上に投げ捨てた。そして背後にいるナナクサの(えり)を左手で(つか)んで彼女の体を力(まか)せに前方へ投げつけた。投げられるさい、フードごとむしり取られたナナクサの十数本の薄墨(うすずみ)色の髪の毛は、風にさらわれ、陽の光を浴びて線香花火のように美しい火花を空中に躍らせた。息を詰まらせながら顔を上げたナナクサはミソカの力から解放された遮光マントがジョウシの手に拾い上げられ、その体に(まと)われるのを視界の端に(とら)えた。

「そこまで逆らうなら、あんたも(ちり)(かえ)ればいいわ」

 ミソカは攻撃目標をナナクサに切り替えた。が、見えない力をナナクサに駆使しようとした瞬間、伸ばした彼女の腕に弩弓(ボウガン)の矢が深々と突き刺さり、その傷口から薄く煙が立ち上った。体の真ん中を貫くほどの槍撃(そうげき)にも(ひる)まなかったミソカの口から苦痛の(うめ)きが漏れでた。

 矢を放った人間の少女は命の恩人の名を叫びながら、その頭部に自分のコートを被せるのと、押し倒すのを同時にやってのけた。

「人間が……虫けらの分際で、この私に」

 ナナクサから身を離して素早く立ち上がったファニュは、死んだ商人が持っていた弩弓(ボウガン)に再び矢をつがえると、その陽光を反射し始めた矢じりにニンニクの実を刺し、再びミソカに狙点(そてん)を定めるや(いな)や、それを射ち放した。寒気を切り裂いた矢はミソカに当たったかに見えた。しかし、それは彼女の残像を(むな)しく刺し貫いたにすぎなかった。一瞬後、ファニュは眼前に迫るミソカの鋭い牙を凝視していた。ファニュは本能的に固く目を閉じた。迫る苦痛と死の恐怖から顔を(そむ)けた。だが、どれほど待っても死は訪れなかった。固く強ばった自分の肩を抱く手に、ふと気付いた。恐る恐る目を開けると、さっき自分を守ってくれたのと同様にナナクサがファニュの(かたわ)らにいた。ファニュの肩を抱く手に痛いほどの力が入った。手は(かす)かに震えてもいた。頭からファニュのコートを被ったナナクサの表情は見えなかったが彼女が泣いているのがわかった。

「こ、こんな……」

 陽の光をまともに受けたミソカの皮膚は焼けて(ちり)になるそばから再生し、また(ちり)になることを繰り返していた。それは終わることのない競争に見えた。

「タナバタがね」ナナクサの声がコートの奥から静かに流れた。「最後にミソカを止めてくれたのよ。毒を飲んで自分の血を武器に変えてね」

 ナナクサが握っていた手を開くと、手袋越しにニンニクの粒がぱらぱらと雪上に滑り落ちた。同時にミソカは両(ひざ)を屈して多量の血を吐いた。

「なぜ、なぜなの?……私には力があるはず……わ、私には明日が……永遠がぁ…ナナク……」

 ミソカがナナクサに手を伸ばした。手が届かないことがわかっていながら、ナナクサもその声に手を伸ばそうとした。


 陽の光が勝利した。


 身体中から青白い炎を勢いよく吹き出したミソカは、最後の瞬間、漆黒(しっこく)の煙になって爆散して地上から消え失せた。燃え()きた彼女の身体はひと握りの(ちり)すら残らなかった。(わず)かに残った黒煙も、やがて静謐(せいひつ)な大気に飲み込まれるように薄れ、それが人の顔を形作るかに見えたときには、もう陽光の中に()き消えていた。

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