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デイ・ウォーク  作者: たかや もとひこ
1/8

出会いと死と

               1

  太陽の光を避け続ける(すべ)はない。

 だが、降り注ぐ光の矢は、この世界を覆う雪と氷を打ち負かすことは決してできない。たとえ、それがどれほど無慈悲な力強さを秘めていたとしても。しかし、その陽光は自分の身体をすぐさま焼け()げた一握りの(ちり)に変えてしまうだけの力は持っている。でもそんなことはさせない。いや、絶対にさせてはならないのだ。この御印(しるし)を手に入れたからには……。

「必ず村に持ち帰る。そして……」

 ボウシュは無意識にそう(つぶや)くと、巨大な廃墟の壁や天井に開いた穴から差し込む陽の光を(たく)みに避けながら薄暗く広大なフロアを駆け抜け、階下へ続く石造りの階段に身を(おど)らせた。

 身体を(おお)った分厚い遮光(しゃこう)マントは、彼女が小刻(こきざ)みなステップで陽の光を避けるたび、風に吹き散らされる雲のように勢いよく左右にたなびく。

 行く手を(はば)む陽の光は、彼女に幼き日の陣取(じんと)り遊びを思い出させた。鬼たちが両手を広げて彼女を捕まえようとすると、いち早くその手をすり抜けて、次々とやりすごす。鬼たちが体勢を立て直す間もなく、一目散に相手の陣地に駆け込んで、そこにある棒を倒しにかかる。しかし今ここには相手チームの棒も一緒に転げまわって遊ぶ友だちもいない。あるのは静寂と死の陽光、そして……。

 過去の思い出に意識を奪われた一瞬、目の前の踊り場の上をサーチライトのように(まばゆ)い陽光がなぎ払った。危ういところで、それを右へ避けたボウシュは、意識を過去からもぎ離し、両足に一層の力を込めて河の飛び石を渡るように石造りの階段を駆け降りた。

 ボウシュは走りながら(おび)えていた。それは、あらゆる方向から行く手を(さえ)り、自分を殺そうと待ち(かま)える陽の光に対する恐怖ではない。そんなものなど本当の脅威ではないからだ。デイ・ウォークを半ばまで乗り切った今となっては昼間の太陽光など、もう慣れっこだ。本当に恐ろしいのは、ただ一つ。それを(あやつ)り、自分を狩ろうとする(かたき)の存在なのだ。

 そう。言い伝えは子供たちを怖がらせるために大人が考え出した作り事(まやかし)ではなかったのだ。

 太陽の下で獲物を求めて徘徊する(いにしえ)からの(かたき)はこの世に実在したのだ。


               *

 石造りの階段は五階で途切れていた。

 ボウシュは()じ曲がった太い金属や崩れた壁で完全に(ふさ)がれた階段の行き止まりを一目見るなり、階段からの脱出を(あきら)め、そのまま方向を転じた。考える間などなかった。彼女は開けた薄暗い廊下を障害物に気を付けながら駆け抜けた。廊下の床は彼女の靴がそこを蹴るたび、細かな(ほこり)を舞い上げた。長い廊下を抜けると広大なホールが待ち受けていた。そこは一時間ほど前にいた何層も階上にあったホールとよく似た所だった。

 ボウシュは、そこで素早く辺りを見回すと地下へ続くエレベーターシャフト ―― 確かエレベーターという人間を上下のフロアに運ぶ古代の器械穴 ―― を探しはじめた。そこまで行けば、迷宮のようなこの広大な廃墟から一気に抜け出し、(かたき)から逃げきることができる。しかも言い伝えでは奴らは暗闇を嫌うので、その中まで追ってはこないはずだ。シャフトまでたどり着ければ、ひんやりと心地よい地下の避難場所にも手が届く。 

 ボウシュは机や椅子が乱雑にかためられているホールの一角まで到着すると(しば)し立ち止まり、雪のベッドで、傷つき疲れた身体を休ませる甘い幻想を振り払った。と同時に、胸の前で両手に抱えていた御印(しるし)を肩からたすきに掛けた鞄の中に急いでしまい込んだ。

 御印(しるし)を手にすることができる者など、そういるものではない。古代文字は読めなくても中に描かれた挿絵の数々は、それが(まぎ)れもなく一族の宝だと教えてくれる。階上でこれを発見した時の息も詰まるような興奮。震える指でめくった1ページ1ページの感触とそこから伝わる胸の高鳴り。服の切れ端を(しおり)の代わりに(はさ)み込んだ時の、もっと先を見てみたいというもどかしさ。そうだ。理解できずとも、この御印(しるし)に描かれたものを人々に伝えるのだ。私はそのために選ばれたのだ。

「落ち着け。落ち着くのよ」

 ボウシュは自分に何度もそう言い聞かせると、(はず)む呼吸を懸命に整えた。

 (まばゆ)い陽の光が、高い天井の壁面に埋め込まれた何枚もの大きなステンドグラスを()ぎ払い、そこに描かれた薄汚れた模様の数々を浮き上がらせた。時を同じくして、階上でボウシュを探し求める(かたき)の叫び声が響いた。

 その声にビクッと身を震わせたボウシュは(かたわ)らの机の(かげ)に素早く身を寄せてしゃがみこんだ。そして辺りの物音に耳をすますと恐る恐る頭を上げ、遮光(しゃこう)レンズを額にはね上げると、眼を細めて明るいフロアを見渡した。

 フロアの中は、階上と同じように雪と(ほこり)にまみれた多量の古代書物で埋め尽くされていた。史書師(かたりべ)であれば、さながら宝物庫のように感じることだろう。だが、今のボウシュにとって、ここは宝物庫どころか、黴臭(かびくさ)(ほこり)と雪が舞い散る屠殺場(とさつじょう)以外の何ものでもなかった。

 凍った金属の本棚や積み上げられた大きな机を押し倒す耳障(みみざわ)りな音が遠くの方に(とどろ)いた。

 奴らだ。いよいよ(かたき)が来る。どうする?……暗闇はどこ?……探している場所はここにもあるはずだ。階上のように金属の扉を固く閉ざしてなければ、自分にもわかるはずだ。エレベーターシャフトの穴が。あぁ、地下へ(つなが)がる穴はどこ……。

 ボウシュは(あせ)りが産みだす苛立(いらだ)ちからパニックに(おちい)りかける自分を必死に(おさ)えつけながらホール全体に意識を集中しようとした。しかし、荒々しい足音が聞こえ、先ほど自分が駆け抜けてきた廊下から二つの影、巨大な(やり)(かま)えた(かたき)のシルエットが現れると自然と小さく声が()れた。急いで口を手で(おお)ったボウシュは(いま)だ遠く離れた(かたき)と目が合ったような気がしたからだ。全身の毛が逆立った。反射的に床に身を伏せた彼女の心臓は胸の内で暴れまわり、耳の中では血管の中の血が濁流(だくりゅう)のようにゴーゴーと高鳴る音が聞こえる。

 身体中に分厚い衣服をまとった(かたき)は、大きく長い腕でフロアに転がる机や椅子を乱暴に押しのけながらボウシュの姿を捜しはじめた。奴らの(うな)り声がすぐ近くに感じられる。ボウシュは息を詰め、石のように固まって奴らをやり過ごそうとした。そうだ石になるのだ。

 フロアに足音が(こだま)する。(こだま)より足音の方が大きくなり、(うな)るような息遣(いきづか)いが、まるで耳の真横から聞こえるように感じられる。

 獲物を見失った(かたき)はボウシュの(ひそ)む長机の手前まで近づくと、くぐもった(うな)り声を発すると机の上に積まれた数脚の椅子を蹴り飛ばした。八つ当たりをされた椅子が更なる(ほこり)と雪を(ともな)って、ボウシュの背中に舞い落ちた。

 永遠とも思える時間が過ぎた。

 (かたき)(きびす)を返したそのとき、ボウシュは目の(はし)に鈍い輝きを放つ大きな欠片(かけら)(とら)えた。

「鏡?……」

 心の中で思わず、そう(つぶや)いた。

 おそらく(かたき)()ぎ倒した椅子と共に机上から床の上に落下したのだろう。床の上に割れた鏡が転がっていた。その中には汚れて(おび)えた自分の顔が薄っすらと垣間見(かいまみ)える。細っそりとした顔立ちの中に意志の強そうな漆黒(しっこく)の瞳が輝く顔。しかもその向こう側。鏡を通して見える(はる)か後方にボウシュの切望する暗闇が顔を(のぞ)かせていた。

 やっと見つけた。

 思わず声を上げそうになった彼女は鏡の(ほこり)を震える指でそっと(ぬぐ)うと、その中に目を()らした。

 見つからないはずだ。エレベーターシャフトは(はる)か後方に口を開けていたが、机や本棚が倒れかかって(ほとん)ど入口を(ふさ)いでいる。でも人間一人がやっとくぐり抜けられる程度の隙間(すきま)だけはありそうだ。ボウシュの疲れきった心に希望の火が(とも)った。問題は(かたき)に見つからず、また見つかったとしても奴らをやりすごして、そこに素早く飛び込めるかどうかだ。

 (かたき)は手に持った(やり)でフロアの黴臭(かびくさ)い空気をかき分けるようにボウシュの隠れている所とは別の方向を探している。時折、(すす)けたステンドグラス越しに、さっと横切る目も(くら)む陽の光が敵の(やり)の切っ先に反射してギラギラと輝く。見つかれば、(かたき)は情け容赦なく仲間たちにしたのと同じ仕打ちを自分にもするだろう。しかし、シャフトの穴までたどり着くことさえできれば必ず逃げ切れる。それどころか、もし地下の避難場所に奴らを誘い込めたら、逆撃(ぎゃくげき)を加えることだってできるはずだ……いや駄目(だめ)だ。死んでいった二人の仲間のためにも逃げきる方がいい。逃げて何としても生き残るのだ。ここで私を取り逃がせば、たぶん奴らも追跡を(あきら)めざるをえないだろう。暗いシャフト穴からの誘いはボウシュに考える時間と少なからぬ落ち着きを与えた。

 (かたき)はこのフロアをとことん探索するつもりのようだ。このまま時間を置けば、(かたき)の数が増える可能性だってある。

 ボウシュは決断した。

「闇が奴らを遠ざける。私は大丈夫。仲間がついているから大丈夫。皆が私を守ってくれる……」

 ボウシュは、今は亡き二人の仲間たちに加護(かご)()い、自分を鼓舞(こぶ)する言葉を(つぶや)きつづけた。そして床から若々しく引き締まった身体をそっと起こすと、被っていた遮光(しゃこう)マントを静かに脱ぎ捨てた。どのみちマントを着たままではシャフトの隙間(すきま)をくぐり抜けられないし、かさ()るマントがない方がより機敏に動ける。要は(かたき)と陽の光を出し抜けばいいのだ。逃げ切ったあとのことは、その時また考えればいい。奴らの動きを予測し、タイミングを(はか)って行動するのだ。

 荒々しい足音から(かたき)との距離が十分に開いたのを見計(みはか)らったボウシュは、呼吸を整えると意を決して隠れ場所から躍り出た。その拍子に積み上げられた椅子が倒れ、大きな音をたてたが、かまうものか。ボウシュの心と身体は前方の暗闇だけを目指していた。彼女は目の前に積まれた高い4段の机を軽々と飛び越え、マントの代わりに薄桃色(ピンク)の長い髪をなびかせながらエレベーターシャフトまで永遠とも思える距離を一直線に駆け抜けた。

 途中、一枚の大きなステンドグラスの割れ目から差し込む陽の光に下半身を()ぎ払われたボウシュは、ズボンを通してすら熱湯をかけられたような激痛を感じた。歯を食いしばって痛みに耐えた彼女の身体を(かす)めて二本の(やり)が飛び去ってゆく。(やり)に断ち切られた彼女の髪がぱらぱらと宙を舞った。ボウシュに気付いた(かたき)が先手を取られながらも追撃を開始したのだ。でも、もう遅い。シャフトの隙間(すきま)はあと少しだ。フロアをあと一蹴(ひとけ)りすれば指先が届く。

 しかしその瞬間、ボウシュは背中に大きなレンガの(かたまり)でもぶつけられたような衝撃を受けて息が詰まり、派手に転倒すると足元の水溜(みずたま)りにしたたかに額と顔を打ち付けた。遮光(しゃこう)ゴーグルのレンズが割れて頭から(はず)れ落ちた。

 彼女は(ひざ)をついて立ち上がろうとしたが、水溜(みずたま)りに足をとられて再び床に突っ伏した。不思議なことに水溜りからは鉄の(にお)いが感じ取れる。もう一度立ち上がろうとしたが、今度は身体に力が入らず、足は(むな)しく床を(すべ)った。

「あと、少し……」

 ボウシュは激しく()き込み、背中から胸にかけての激痛に顔を(ゆが)めた。陽の光を受けたときとは違った痛みだ。息が詰まるほどの激しい痛みに身をよじった彼女は、目の前の水溜りが真っ赤なのに気付いた。

「なに、これ?……」

「面倒かけやがって」

 ボウシュの頭の上からくぐもった声が聞こえた。

 (かろ)うじて頭をもたげた彼女の目の前に先ほど(やり)を投げてきた奴らとは違う第二の(かたき)の姿があった。しかも驚くほど大きな身体をしたこの(かたき)は私たち一族の言葉を流暢(りゅうちょう)にしゃべっている。ボウシュは混乱した。だが胸の激痛がその思考を(さえぎ)り、ただ一つの冷たい現実だけを彼女に突きつけた。

 捕まったんだ、わたし……。

 頭をもたげていられなくなったボウシュは目の前の血溜(ちだま)りに端正な顔を突っ伏した。鼻につくほど鉄の臭いは濃厚だった。彼女は(にお)いの元が水溜まりではなく、自分の身体から飛び散った血が作り出した多量のだと理解するのに、さほどの時間は要しなかった。彼女は震える左手で痛みの元を探り、自分の右胸から腕よりも太い(もり)の切っ先が飛び出ているのを知った。急所は(はず)れてはいるが、これだけ多量の出血と傷では御力水(おちからみず)があったとしても、おそらく助かるまい。この世に生を受けて、まだ百年余り。成人を目の前にして、半人前の子供のまま、ここで(むな)しく終わるのか。御印(しるし)を手にした自分が、なぜいま死なねばならないのだ。なぜ……。

 無念さと絶望に(とら)われ、死の予感にうちひしがれながらもボウシュは疑問を口にせずにはいられなかった。

「な…ぜ……」

 『なぜ、私はこんな目に遭うの? お前たちは、なぜこんな(ひど)いことをするの? 私たちがお前たちに、いったい何をしたというの?』。ボウシュは目の前の(かたき)にそう問いたかった。だが声になったのは、(かろ)うじてその一言だけだった。あとは口をパクパクと動かすのが精一杯だった。

 だが、その思いを察したかのように第二の巨大な(かたき)は、彼女にとどめを刺そうと回収した(やり)(かま)えた仲間を押しとどめて溜息(ためいき)をつくと、ボウシュの前に片膝(かたひざ)をついた。そして激痛に(ゆが)む彼女の顔を、分厚く(おお)った布の向こうからしげしげと(のぞ)き込んで、こう言った。

「理由は、お前たちが知っているだろう」と。

「わから…ない……」ボウシュは声にならない声を血と共に(しぼ)り出した。

「そうか」

 敵は分厚く(おお)った布を大きな片手で引き下げた。

 その中から(まぎ)れもない人間の顔が現れた。更なる驚きにボウシュの目は大きく見開かれた。そこにあったのは額から(ほお)にかけて大きな傷跡が走り、一族の者より浅黒くはあるが、自分と同じ人の顔だった。しかも自分と同じくらい若々しく精悍(せいかん)で四角()った男の顔だった。

 (いにしえ)からの(かたき) ―― 顔のある(かたき) ―― と彼女の目が合った。『なぜ……お前たちも私と同じ一族ではないの?……一族の人間がなぜ同じ一族の人間を殺すの?』。生命を失いつつある目は、必死にそう問いかけていた。だが、顔のある(かたき)は、それには(こた)えず「そろそろ終わりにするぞ」と、(やり)(かま)えた仲間たちに叫び、大きく割れたステンドグラスの向こうにむけて巨大な両腕を振り回した。

 その途端、ボウシュの上半身が(あやつ)り人形のように、ひょこっと持ち上がった。身体を貫いた(もり)の後ろに取り付けられた鋼鉄のワイヤーが巻き取られはじめたのだ。ワイヤーはボウシュのいるホールのすぐ隣に建つ、もう一つの廃墟の屋上まで細い糸のように(つな)がっている。更にその先には捕鯨(ほげい)砲のような射出器が黒々とした巨体を見せている。

 フロアに血の太い帯を引きながら自分の身体がズルズルとステンドグラスに出来た大穴までゆっくりと引きずられていくのをボウシュは感じた。

 彼女は真っ赤に染まった鞄を(かたき)から守ろうと最後の力を振り(しぼ)り、力の失せた腕で必死に抱きかかえた。

「そいつは何だ?」顔のある(かたき)はボウシュの鞄に目をとめた。「よこせ」

 引きずられるボウシュに合わせて歩きながら、敵はやすやすと彼女の鞄をその肩から乱暴に()ぎ取ると、中のものを無造作に引っ張りだした。

「何だ、これは?」

 取り出した御印(しるし)一瞥(いちべつ)を加えると、顔のある敵は小馬鹿にしたように、ふんと鼻を鳴らした。そしてボウシュの血が飛び散った御印(しるし)を汚らわしげに床の上へ投げ捨てた。それを見た瞬間、今まさに()こうとするボウシュの心は激しい怒りにうち震えた。それは力を失って、ただただ引きずられていくしかなかった彼女の身体に力を与え、立ち上がらせるほどに強く激しいものだった。

「返せ……」

 立ち上がったボウシュの口から血とともに再び声が(しぼ)り出された。

「ほぅ、まだそんな力が残ってたのか」

「返せ……御印(しるし)を……」

 純粋で激しい怒りは、ワイヤーに一歩、また一歩とステンドガラスの大穴へ誘われながらも、ボウシュの爪と犬歯を喧嘩(けんか)をした時のように鋭く伸ばさせた。

御印(しるし)だと?」

 ボウシュの身体の変化にも無関心だった(かたき)は、捨てた御印(しるし)を拾い上げると、巻き取られるワイヤーに引っ張られてヨタヨタと後ずさるボウシュに(いぶか)しげな視線を向けた。

 彼女は御印(しるし)を取り返そうと手を伸ばした。だが肩から先は指先まで、力なくゆらゆら揺れるばかりになっている。そんなボウシュを無視して、(かたき)はスタスタと彼女を追い抜くと、ステンドグラスに開いた大穴に近づいた。そして躊躇(ためら)いもせずに斜めに差し込む(まばゆ)い陽光の中に一歩を踏み出すと心地よさそうに一身にそれを浴びた。背中越しに(かたき)に目をやったボウシュは、それを見た途端、怒りの心を少なからず麻痺(まひ)させた。

 陽光を浴びた後に始まる皮膚や内臓組織の大破壊と()え難い苦痛の叫びの()わりに、この(かたき)(いと)おしそうに太陽を見上げている。陽に……あの太陽に(さら)されて無事でいるなんて……。

 ボウシュは理解した。姿形は同じでも、こいつは一族じゃない。それどころか人間でもない。昔よりの敵(いにしえよりのかたき)は、やはり……。

「か・い・ぶ・つ……」

「どうした、懺悔(ざんげ)でもしたいのか?」と、顔のある(かたき)は聞き取れなかったボウシュの言葉を探ろうと、御印(しるし)から目を上げると残忍そうな笑顔を向けた。

「さぁ、何だって。何が言いたい?」

「怪物………」

「怪物だと。ふん。怪物は、お前らだろ」

 言うや(いな)や、顔のある(かたき)はイジメっ子がするようにボウシュが御印(しるし)と呼ぶ本をステンドグラスに開いた大穴から勢いよく外へ放り投げた。

 ()(すべ)もないボウシュが、この(かたき)に何らかの印象を刻み付けたとすれば、この瞬間をおいて他になかったろう。彼女は最後の力を振り(しぼ)って大切な御印(しるし)を追って廃墟の外へ身を躍らせたのだ。

 しかしボウシュは投げ捨てられた御印(しるし)に追いつくことも、それを確保することもできなかったし、若々しい身体を雪の地面に激しく叩きつけられることもなかった。

 廃墟の外で燦々(さんさん)と照り輝く陽の光は、雪の大地に抱かれる前に彼女の身体を燃やし()くし、一握りの(ちり)に変えたのだ。

 (ちり)は、大地に落ちた本の上に、粉雪のように舞い降った。

 ボウシュの身体を貫いていた(もり)は廃墟の外壁に当たって鐘のように(さび)しげな音色(ねいろ)を響かせた。


               2

 明るく青々と晴れ渡った夜空を一つの流れ星がふいに横切った。

 雪の上に敷かれた遮光マントの上にゆったりと仰向けに寝転んでいたナナクサは頭を少し起こすと、星が流れた方角を見やった。しかし流れ星は光輝く天の川に溶け込んで、もう見えなくなっていた。ふと隣に視線を移すと、同じキサラ村出身のミソカが両手を胸の上で交差させ、目をつむっている。彼女が眠っていない証拠に微かに口が動いている。彼女は、この地球(しんじゅぼし)が雪と氷に閉ざされる遥か以前にあった古代の習わしのとおり、流れ星に向かって願い事をしているのだろうか。

「やっぱり、始祖(ごせんぞ)さまは偉大だね」

 ナナクサは大きく息を吸い込み、再び夜空に視線を戻すと隣に横たわる親友に声をかけた。

「なぜ?」と目をつむったままのミソカ。

「星が空を横切るあんな短い間に、願い事を十三回も(とな)えることができただなんて、私たちにはできるわけないわ」

 (こた)えるかわりにミソカは満足げな表情で横たわっている。それを見たナナクサは上半身を()ね上げると、ミソカに(おお)いかぶさらんばかりに顔を近づけた。サラサラした薄墨(うすずみ)色の髪が細っそりとした(ほお)からミソカの小さな鼻に触れんばかりに流れ落ちる。

「まさか、あんな短い時間に願い事ができたの、ミソカは?」

 祈ることができたからといって、願いが叶うわけなどない。そんなことくらい大人になろうとしているナナクサも承知している。しかし自分ができなかったことを友人だけができたとすれば話は別だ。迷信を信じてはいないが、ゴクリと唾を飲み込む音を聞かれたんじゃないかと少し恥ずかしくなった。(しば)しの沈黙のあと、ミソカはおもむろに口を開いた。

「できるわけないじゃないの」静かにそう応じるとミソカは笑った。「できたら、もっと元気な身体になってるよ、わたし」

 小さな頃から身体が弱く、遊ぶ時もいつも息を切らせて、必死に仲間の後を追っていたミソカを思い出したナナクサは何も言わずに、彼女の横に再び寝転がった。そんなナナクサの耳にミソカの声が流れ込む。

「願い事は簡単には届かないよ」

「そうね。そうそう届いてたら、願い事を叶える始祖(ごせんぞ)さまだって、たいへんだものね」

 ナナクサはミソカが、また笑っているのに気づいた。今度は楽しそうに声をあげている。

「どうしたの?」

「だって、願い事が届いたからって、始祖(ごせんぞ)さまが叶えてくれるかどうかだって、わからないじゃない。人生はそんなに都合よくなんていかないわよ」

「生意気だぞ、小娘」

 互いに信仰心がそれほど(あつ)いわけではないが、願い事のすぐあとで、始祖(ごせんぞ)さまの力を否定するようなことを言うなんて。不安を抱える私同様、このデイ・ウォークが彼女にそんなひと言を言わせるのだろうか。ナナクサは紫がかった髪に隠れがちな親友の白い顔を見つめた。

「『陽は我れから星々を隠し

  夜は我れにそれ(星々)を与えたまふ

  夜こそ我が無二の友人(はらから)なれば……』」

「『されど』」と、ナナクサは親友が口ずさんだ昔の詩の後半を引き取って空んじた。

「『陽もまた星々の同胞(はらから)なれば

  我が想い誰ぞ知りたまふや』……ツェペッシュの詩ね」

 遥か昔に生きた一族の若き詩人、史書師(かたりべ)見習いだったツェペッシュは、青々と澄み渡る満天の星空を見上げて何を思ったのだろう。彼もまた自分たちと同じように不安と(よろこ)びを(かか)えながら生き、そしてデイ・ウォークへの第一歩を踏み出したのだろうか。旅の途中で命を落とさなければ、その後、彼はどんな詩を()んだのだろうか……。

「あの青い夜空を見上げながら何を思ったんだろうね」

 ナナクサは自分の心を代弁したかのようなミソカの(つぶや)きを聞きながら、自身の心に問いかけた。「あなたは、この空を見上げながら何を思うの?」と。

「おぉい。みんな!」

 その時、ここが山なら雪崩(なだれ)でも起こしそうなほど大きな銅鑼(どら)声が辺りに響きわたった。昨日から、このデイ・ウォークのリーダーを気取る、ミナヅ村から来たというジンジツだ。

「聞いてんのか。出発の時間だ!」

「あいつ、何なんだろうね」

 ナナクサは若き詩人の失われた未来の旅を思う静かなひとときから引き戻された。彼女の溜息(ためいき)混じりの反応に、ミソカもこくりと(うなず)いた。

「でも、まだ二人足りないのにね」

 ミソカの言うように、出発人数が(そろ)っていない。出発準備が遅いと銅鑼(どら)声を張り上げている(たくま)しい身体つきをしたジンジツ。そしてナナクサとミソカに村からくっついてきた感がある大柄だが頼りなげな、気の良いタンゴ。それに皆と離れたところで一人、黙々と出発の準備を始めているジンジツと同じ村から参加した……確かあの()はチョウヨウ。今この小高い雪原で出発を待っている若者は五人。残りの二人がまだ来ていないのだ。これから、あれを始めようというのに。


 デイ・ウォーク。

 死と隣り合わせの過酷を極める成人への通過儀礼。


 二週間前の夜。村を出る際に村長(おさ)から、今期は近隣の三村から合わせて七人もの未成年者が参加すると教えられた。これから往復で百八十日余り。パーティを組む参加者は助け合いながら遥か彼方の聖なる目的地(モール)(おもむ)き、記念品をそれぞれ持って自分の村に(かえ)らなくてはならない。これができなければ、たとえ百歳を越えていようが一人前の成人とは認められず、もちろん帰村すら許されない。それは実質的には、故郷からの追放に等しい。凍てつき渡り、食糧が手に入らないこの氷の世界で、そんなことになれば間違いなく餓死する。夭折(ようせつ)した詩人ツェペッシュを筆頭に、今までどれほど多くの若者が、この成人の儀式で命を落としたことか。

 ナナクサは隣で半身を起こしたミソカに目を転じると、今は亡き不運な若者たちに思いをはせた。ある者は道半ばで力尽き、半冬眠(ハーフ・ダイイング)もままならず凍てつく洞窟に(むくろ)を横たえた。またある者は記念品だけを残して雪原の太陽の下、一握りの(ちり)(かえ)った。儀式の重圧に耐えられず、儀式を途中放棄した者は身体に決して消えない刻印を銀で穿(うが)たれた上で故郷を追われ、ほどなくして野たれ死んだ。そして空腹から仲間同士が食糧を奪い合い、凄惨(せいさん)な死闘を繰り広げて全滅したパーティもあると聞く……。

 ナナクサは身震いすると、不吉な想像を頭から払いのけた。いくら追い詰められても一族の(ほこ)りだけは捨てるまい。生き残るためとはいえ幼馴染(おさななじ)みと争うなど、およそ考えられるものではない。だが、ミソカとタンゴ以外、パーティの参加者はどんな人物かもわからない。彼らは極限まで追い詰められても信頼に()る者たちだろうか。単細胞のジンジツはまだしも、あの無口で人を寄せ付けない雰囲気を(かも)し出しているチョウヨウは、どんな為人(ひととなり)だろうか。いや、それよりも心配なのは集合の刻限(こくげん)すら守れない、まだ見ぬ二人の参加者の方か。それに七人という人数も、いささか多過ぎるのではないだろうか。通常は合同するなら二村まで。人数だってせいぜい四人まででパーティは構成されてきたはずだ。幼馴染(おさななじ)みのミソカとタンゴだけなら、どんなに安心で心強いだろう。ナナクサはこれから、より深く知り合うはずの他の者たちに漠然(ばくぜん)とした不安を覚えずにはいられなかった。

「参加者だ!」

 耳元で突然、声がしたのでナナクサは飛び上がって我にかえった。

「脅かさないでよ、タンゴ!」

「だって、ほら。参加者。仲間だよ」

 いつの間にかナナクサとミソカの横に来ていたタンゴが指差す(はる)か地平線の向こうから、二つの小さな影がこちらに近づいてくる。ジンジツもそれに気づき、雪原にどっしりと腰を落ち着けた大きな岩塊(がんかい)に駆け上り、「早く来いよ」と毒づいた。

 ナナクサは腰を上げると、そんなジンジツを尻目にチョウヨウの側まで行くと、思い切って彼女に声をかけてみた。

「どんな人たちかな、彼ら?」

 声を掛けられ、一瞬、ギョッとした顔をナナクサに向けた彼女は、すぐにポーカーフェイスを取り戻すと、予想通り無言の(こた)えをナナクサに返してきた。何とか打ち解けようと恐る恐る声をかける可憐(かれん)な村娘と、冷たい視線でそれに応える旅仲間。何て素晴らしいパーティだろう。ナナクサはうんざりした気持ちを顔に出すまいと、黙ってその場を離れた。離れる口実を考えねばならぬほどチョウヨウに気を(つか)うのも馬鹿らしいし、気を(つか)ったところで相手が心を許して、(しゃべ)りかけてくれるとは思わなかったからだ。しかし、その考えは見事に(くつがえ)った。ナナクサの背中にチョウヨウがぶっきらぼうに声を投げかけたのだ。

「一人は村長(おさ)の子どもだな」

「えっ?」

 チョウヨウが声をかけてきたのも以外だったが、それ以上にチョウヨウの言った意味が心に引っかかった。

 ほとんどの仕事が世襲(せしゅう)で決まる今の世の中では、村長(おさ)の子どもは単独でデイ・ウォークを成し()げなければ、将来のリーダーとは認められないからだ。もし村長(おさ)の子どもがデイ・ウォークでパーティを組むとしたら、二つの意味しかない。パーティの面々が低い能力しか持ち合わせていないため、ずば抜けたリーダーシップを持つ者が村長(おさ)たちの協議で選ばれたか、それとも逆に、その人物自身が村長(おさ)の子として(いちじる)しく適格性を欠くかのどちらかだ。適格性を欠く場合、そのパーティの面々は、嫌が(おう)にも半人前をカバーする重荷を背負わされることになる。ナナクサは今この場にいる旅の仲間の一人一人に視線を移し、最後に親友のミソカを見た。ミソカは私たち一族の平均より少し小柄で身体もあまり強い方ではないが欠落者というには程遠い。だとすると。

 今では二つの人影は小石くらいの大きさから、親指くらいの大きさになり、ようやく顔が見分けられる程度に近づいてきた。目深に(かぶ)ったフードで顔は見えないが背中のリュックの他に肩から大きなバッグをかけている一人は、その身体つきから男だとわかる。その隣では男の歩幅に合わそうと(けわ)しさを顔に()り付けた娘が足元から粉雪を()き散らしながら、時おり小走りで付いてくる。ただ手ぶらであるところを見ると、男が持っている荷物の一つが娘の持ち物に違いない。これから助け合わねばならない仲間。しかも同じ村の人間に自分の荷物を持たせるとは。出来の悪い村長(おさ)の子どもなら、そんな暴挙(ぼうきょ)に出ることが考えられなくもない。

「あたいたち、どうやら貧乏くじを引かされたな」

 『あたいたち』とチョウヨウが自分に向かって仲間と認めるような発言をしたことはナナクサの中に嬉しい、ある種のくすぐったさをもたらせたが、『貧乏くじ』という不吉な単語によって、それはあっと言う間にかき消された。

 やがて遅れてきた二人はナナクサたちがいる大きな岩塊(がんかい)のところまでやってくるとピタリと止まった。いつの間にか一かたまりになった五人と遅れてきた二人。当たり前のこととはいうものの両者の間に互いを値踏みする視線が沈黙を(ともな)って交錯(こうさく)した。(にら)み合いとはいかないまでも初めての出会いとしては良い兆候とはいえない。

「遅かったな」

 (たま)りかねたジンジツが(つい)に声をあげた。筋肉質の身体から(おさ)えた怒りが自然とにじみ出るような口調だ。遅れてきた二人のうち、小柄な娘の方がその言葉に反応して、ジンジツをキッと(にら)みすえた。そして口を開きかけたが、機先を制するように隣の男の方が(こた)えた。

「すまなかった」よく通る()んだ声がナナクサたち五人に向けられた。「途中の道が雪崩(なだれ)でふさがってたんだ」

「で、三日も遅れたってわけか」

「すまない。迂回(うかい)するのに手間取ってしまって。これからパーティの中で埋め合わせができればと思ってる」

 ジンジツの矛先(ほこさき)を、やわらかな物言いでかわしながら、それでいて毅然(きぜん)とした態度も崩さない。男がフードを脱ぐと薄茶色の髪の中に(おだ)やかな眼差(まなざ)しが現れ、ジンジツに微笑(ほほえ)みかけた。

「タナバタ。ヤヨ村の薬師(くすし)の息子だ。遅くなって本当にすまなかった。これからよろしく」

 そう言うと、タナバタは右手を軽く左胸に()えて(こうべ)()れた。敬意を表す我々一族共通の挨拶(サルート)だ。敬意には敬意をもって(こた)える一族の(なら)わしを無視することなど誰にもできない。やや遅れてジンジツもそれに(なら)った。

「あぁ。俺はジンジツ。方違へ(かたたがえ)師の子。ミナヅからだ」

 それを契機に少し場の空気が(ゆる)んだ。タナバタは同行の娘の機先を制しただけでなく、ジンジツのそれをも制したのだ。ジンジツの強引さに内心では辟易(へきえき)するところもあった先着隊も、彼をやり過ごしたタナバタの対応にある種の爽快(そうかい)感を憶えた。

 タナバタに対して、ある者は親しみを込め、またある者はまだ恐る恐る、そして別の者は少しぶっきら棒になりながらも、それぞれが声を掛けはじめ、時々笑い声もあがった。

「へぇ、君は史書師(かたりべ)になるのか。身体が大きいから、てっきり……」とタナバタはタンゴに笑顔を向けた。

石工(いしく)の子と思ったんだろ。よく言われるんだ」

「見た目で判断しないこったね、()ぃさん。でないと大失敗するよ」と、チョウヨウが離れた所から、割って入ると、「そうそう。見た目じゃなく、態度や言葉(づか)いで判断しなきゃぁな、()ぇさん」と、ジンジツが()かさず混ぜ返す。

 まだ遠慮がちながらも、若者たちの間に再び笑いが起こった。そんな中、タナバタの視線がナナクサのそれを(とら)えた。彼が薬師(くすし)の子なら自分と同じ職種だ。これからの旅でもいろいろ得ることもあるだろう。

 ナナクサがそう思って、彼と話そうした矢先、今まで皆の会話の外にいたタナバタの連れの娘がナナクサとタナバタの前をさっと横切り、岩塊(がんかい)に登るやいなや、体が触れ合わんばかりの近さでジンジツに向かい合った。真っ赤な髪留(かみど)めで頭の左端にまとめられた濃い水色の髪の中に気の強そうなツンと()ました小さな顔が見える。

 突然のことにジンジツが気押(きお)されて一歩(あと)ずさる。娘はそれを当然のことのように満足げに見やると、タナバタを囲む輪に振り向いた。話し声が収まるまで待つ必要はなかった。沈黙がぎこちなさと気まずさを(ともな)って瞬時にもどってきたからだ。

「ヤヨ村のジョウシ。親は村長(おさ)じゃ」

 朗々(ろうろう)と歌い上げるように名乗りを上げた娘は、そう宣言すると眼下の聴衆を満足げに見わたした。しばらくその雰囲気を楽しんだ後、再び口を開こうとしたとき「それに態度がデカすぎ」とくぐもった揶揄(やゆ)の声が輪の中から起こり、タナバタのときとは違った笑いがさざ波のように広がった。

「だ、誰ぞ、いま言うたは?! 何が可笑(おか)しい?! 我れを(あなど)りおるか?! 許さぬぞ!」

 ジョウシは声を荒げた。見る見る(ほう)がピンクに染まり、犬歯が伸びているところを見ると本気で怒っているのは確かだ。しかし、その表情とは正反対に、駄々(だだ)っ子のように大きな外套(コート)をばたつかせて、まくしたてる姿が何とも滑稽(こっけい)で、いっそう皆の笑いを誘った。

 タナバタは、その場を冷たい敵意が支配しきる前。滑稽(こっけい)さに皆がくすくす笑っているうちに自らも笑いに耐えながらジョウシを制した。

「もう、やめとけよ」

「何じゃと?!」

「やめとけって、ジョウシ」

「侮辱を受けたのだぞ!」

「軽い冗談さ。村でもよくあっただろ」

「冗談で()ませらるるものか!」

「やめないのか?」

「やめぬ!」

「それなら、もうこれからは荷物持ちジャンケンはなしだな」

「な、何を突然……」

「じゃ、やめた。君とは金輪際(こんりんざい)しない。旅の息抜きにでもなればと思ったんだが残念なことだ」

「ま、待て、タナバタ……」

「じゃぁ、いいな」

(いた)(かた)あるまい、お前の顔を立てて、無礼は(めん)ずることにする……」

「見ての通りだ。付き合いにくいところもあるけど、なかなか面白いところもあるんだ」それは、もうわかってるだろと言わんばかりにタナバタは肩をすくめてみせた。「さっき、久しぶりにジャンケンに勝って気が大きくなってたんだと思う。ここらへんで、許してやってくれないか、みんな」

「おい、そこまで下手(したて)に出ることはなかろう!」と、ジョウシが再び声を荒らげたとき、ジンジツが口を開いた。

「俺はジンジツ。村長(おさ)の子じゃねぇが、方違へ(かたたがえ)師の見習いだ。このデイ・ウォークの後、三十年ばかし修行して政府(チャーチ)飛行船乗り(サブマリナー)になるんだ」そう言うと、ニヤニヤ笑いをたたえた()りの深い顔を必要以上にジョウシのそれに近づけた。

「な、何じゃ……何用じゃ?」

「お前、なかな可愛いな。これが終わったら付き合ってやってもいいぞ」

 怒りと恥ずかしさで、またもジョウシの白い顔がみるみるピンク色に染まっていった。

「…おっ……お前……」と、ジョウシはわなわなと口を震わせた。

「どうした?」

「お前は……」

「んっ?」

(ちり)(かえ)れ!」

 一瞬の静寂(せいじゃく)の後、どっと笑いが起った。

 出発予定の日から三日。何とか七人の仲間が顔を(そろ)えた。凍てつきわたる真っ青な空は薄っすらと明ける(きざ)しを見せはじめていた。


               3

 雪原の所々に造られた集落は、多い所で三十前後、少ない所でも十前後の分厚い氷で造られた半地下住居(シェルター)で構成されていた。その各集落は大小様々な隊商を相手にした交易で、(かろ)うじてその命脈を保っていた。

 人々の間で取引されるものは集落が収獲する家畜の雪走り烏賊(スノー・スクィード)の餌となる雪中菌類や深海生物を中心とした保存食糧。それに隊商が文明崩壊後の廃墟から持ち帰ってきた(わず)かな手工産品と情報。中でも他の地域の情報は特に貴重な交易商品となっていた。なぜなら、それは直接彼らの生存にかかわってくるかもしれない内容を含んでいる可能性もあるからだ。だが残念なことに、いつの世も情報は無責任な憶測や嘘によって、いとも簡単に()じ曲げられていく。そして生まれ出た誤情報は不安という尾鰭(おひれ)をつけて、その都度、隊商に返ってきた。例えば、「ブリンズリの集落が無くなったって?」と隊商の誰彼かまわず、食料を差し出した住人から質問が浴びせられる。

「誰から聞いたんだい?」と、それを受け取った隊商の誰かが必ず質問で返す。

「去年来たロダの隊商だったかなぁ……なぁ、あんた、詳しいことを聞いてないか?」

「あぁ、まだだ。聞いたら、今度教えるよ」

「もしかして、化物どもにやられたのかな?」

「まさか。今どき何を言ってるんだい」という具合に。

 ただ、この日の情報だけは、年若いシェ・ファニュが身を寄せる隊商と住民の中で限りなく事実に近い形で共有された。

「ブロトンの集落で、また戦士の徴用があったんだって?」

「またかどうかは知らないが、その通りだ。うちの隊商もそこで二人も若い者を()られたよ」

「二人もかい?」

「その前の地域じゃ、三人だ。これじゃ商売上がったりだ」

「何で、そんなに……」

(いくさ)でも、おっ始めるんじゃないか、あの第一指導者(ヘル・シング)様がよ」

「おいおい、滅多なことを言うもんじゃないよ」

「へぇ。じゃぁ、あんたはどう思うんだ?」

「どう思うったって……」

「まぁ、遅かれ早かれ、戦士の徴用は、この集落にも来るぜ。覚悟を決めておいたほうがいい」

「おい、やめてくれよ」

 身振り手振り、時には首を振ったり、すくめたりで人々と隊商の情報交換という名のお(しゃべ)りは続いていく。

 シェ・ファニュは、隊商の(そり)を引く雪走り烏賊(スノー・スクィード)の大きな胴を撫でてやりながら、そんな大人たちの目を盗んで、住民の一人と交換した深海魚の干し肉をいつものように若々しい食欲で頬張(ほおば)った。(しばら)くしたら、休む間もなく、また次の集落に移動だ。

 空は今にも雪嵐(ブリザード)になりそうなほど厚い雲が広がりはじめていた。


               4

 昨夜は七人の仲間のそれぞれが時間を忘れるほど楽しくお(しゃべ)りに(きょう)じた。だが、時間を忘れるということは朝日を浴びる可能性がある。ナナクサたちにとって、それは死と隣り合わせの危険を意味する。すんでのところで助かったのは、先着の五人が二日間にわたってここで過ごしていたからだ。

 彼らは到着と同時に岩塊(がんかい)の下の雪をかき分け、凍てついた土を掘り進んで、そこそこ快適な棺桶穴(シェルター)を造り上げていた。真っ白に()てついた(はる)か東の大海に太陽の光が突き刺さるころ、五人で快適だった棺桶穴(シェルター)は狭い空間に変貌(へんぼう)し、そこに潜りこんだ七人は自分たちが小さな鞄の中に押し込められた荷物のように感じた。

 棺桶穴(シェルター)の中は仲間の体温でむせ返るほど暑かった。その中でナナクサは眠ることも、満足に寝返りをうつこともできずに悶々(もんもん)としていた。元々、考え事をすると眠れなくなる性質(たち)なのに、この蒸し暑さだ。それでも軽い寝息を立てている仲間がいるのには、(うらや)ましさとともに(かす)かな苛立(いらだ)ちもおぼえた。とにかく眠ろうと壁の方を向いていると、ナナクサは背中にふと視線を感じた。そして視線を感じた方に何とか寝返りをうつと暗闇に目を()らした。てっきり親友のミソカだと思った視線の主は以外にもチョウヨウだった。ミソカは二人の間でピクリともせずに眠り続けている。

「暑いな」

「そうだね」

 秘密の会話を楽しむにしては、まだよそよそしい。ヒソヒソ声にヒソヒソ声で応じる向かい合った二人の顔の間にはミソカの頭頂部が見える。

「何度くらいあるんだろ?」

「さぁ、でもきっと氷点下は超えてると思うわ」

「うへぇ。太陽に焼かれなくても、ここで蒸し焼きになっちまうな」

 暗闇の中で声を押し殺して笑うチョウヨウの大きな瞳が闇に浮かぶ月のように光っている。同じ女から見ても魅力的だ。

「お前の目、綺麗(きれい)だな。闇の中で星がいくつも輝いてるようだ」

 相手の目が綺麗(きれい)だと思った途端、その相手から同じ所を()められたナナクサは内心ドギマギした。

「婆ちゃんが言ってた。『瞳の中に星を飼う者は、すべてを手にする』って。だから……」

 一瞬、チョウヨウの言葉が途切れた。

「だから、なに?」

「気をつけな」

「えっ、どういうこと?」

 それには(こた)えず、チョウヨウは仰向けになって何もない棺桶穴(シェルター)の天井を見つめた。

「何でもない。無理せず、旅ではお互いに気を付けようということだ」

「一度口にしかけて言わないなんて無しだよ、仲間でしょ?」

 ナナクサは、そう口に出してから後悔した。話をし始めたからといって、まだ心底仲良くなったわけではない。それに言わないには、それなりの理由もあるはずだ。もし言う機会があれば、また聞くこともあるだろう。

「ごめん、ちょっと図々しすぎたわ」

 楽しい会話は終わりだというようにナナクサはチョウヨウの横顔にそう語りかけた。そして自分の迂闊(うかつ)さからでた好奇心を責めた。こんなことで今後の関係がストップするのは馬鹿げている。

 だが、会話は終わらなかった。

「いや。あたいが言い出したんだ」チョウヨウは天井を見つめながら口を開いた。「姉ちゃんもお前と同じ瞳をしていた。綺麗(きれい)で、やさしくて、あたいの(あこが)れだったんだ」

 ナナクサは話の帰着点がどうなるか薄々ではあるが予想がついた。私たちが過去形で家族を語るときに、よくありがちな嫌な予想だった。

「でも、デイ・ウォークで死んだ。六十年も前の話だ」

「そう……」

 実際、こう言う以外に何が言えただろう。ナナクサは過去に想いを()せるチョウヨウの横顔を見ながら、再び自分の好奇心を責めた。

「ごめんね、私……」

「いや、いいんだ。姉ちゃんは石工(いしく)の子なのに、史書師(かたりべ)になりたいって、石工(いしく)の修行そっちのけで、村長(おさ)の子供を追っかけ回しては、古代の本を見せてもらったり、長老のとこに話しを聞きにばっか行ってた。そうそう、どこで聞きかじってきたのか、薬師(くすし)みたいに球根の話もしてくれたな」

「球根、(こけ)じゃなくて?」

「うん。岩肌じゃなく、土の中にできる、あの丸っこいやつ」

「へえ。それじゃぁ、薬師(くすし)見習いの私より、あなたの姉さんの方が薬用球根には(くわ)しかったかもしれないわね」

 凍てついた世界では形のある植物はほんの一握りの土地でしか採取できない。それに()れたとしても、量が非常に少なく薬にするにしても多大な困難を(ともな)った。そんな小さく細々(こまごま)したものだけを相手にする薬師(くすし)の仕事に、土の上の大きな岩や石を相手にする石工(いしく)の子が興味を持つなんて。

「でも、あたいは史書師(かたりべ)薬師(くすし)の仕事なんかに全然、興味なくてさ。『ちゃんと石工(いしく)の勉強もしなきゃ、デイ・ウォークの年になる前に村を追ん出されちゃうよ』って、姉ちゃんに」

「で、お姉さんは?」

「『私は欲張りなんだ』って、笑ってたよ。本当にすべてを手に入れようとしてたみたいだった……」

 今は薬師(くすし)の仕事に魅力と責任を感じてはいるが、ナナクサも幼い頃にミソカの親のように方違へ師(かたたがえし)になりたいと言って村長(おさ)を困らせ、父母を(なげ)かせたことがあった。どうやら似ているのは瞳だけではなかったらしい。ナナクサはチョウヨウの亡き姉に、ますます親近感を覚えずにいられなかった。

「変わり者だったんだね、お姉さん」

 怒るかなと思ったが、ナナクサの言葉にチョウヨウは(かす)かに笑い声を上げた。

「そう。変わり者だったよ」

 私たち一族の仕事は代々世襲(せしゅう)が常なので、それ以外の仕事に興味を持ち続ける者は極めて少ない。もし、そんな者がいれば村の中でも孤立するはずだ。チョウヨウの姉もきっと孤立していたに違いない。もちろん、そんな姉を持つチョウヨウ自身も姉と同じだったろう。

「ありがとうチョウヨウ。私、気をつけるわ。あなたの姉さんの……」

「ボウシュだ。姉の名は」

「ボウシュのためにも」

「しっかり、そうしてくれ。好奇心旺盛な瞳に星を飼う者よ」

 明日の日暮れから本格的に始まるデイ・ウォークのことを考えると憂鬱(ゆううつ)になる。しかし心を開いて語り合える友人を、村の垣根を()えて得ることができるのも、この成人の儀式ならではなのだろう。ただしチョウヨウの姉、ボウシュのように死なずに()めばだが……。

「なぁ、ナナクサ?」

「なに?」

「あんた、このパーティの男どもをどう思う?」

「えっ、男ども?」

「そう」

「タンゴとか、タナバタとか?……」

「うん。もちろんジンジツなんて問題外なのは、わかってるよ。あいつは村一番のバカタレだからな。で、どう?」

「『どう?』って、そんな……」

 からかっているのか真剣なのか、はたまた彼女の性格なのかはわからなかった。男の品定めなど、姉が亡くなった話の後で出てくる話題ではないだろう。でも、とにかく会話は続いた。ナナクサはチョウヨウの質問の意味を考えてみた。

「『どう』って……。好きとか嫌いとか?」

「うん」

「『うん』って……そんなこと急に言われても……」

 ナナクサが、そう言って沈黙したことで、今度はチョウヨウがナナクサの考えを察して(あわ)てて言い足した。

「違うぞ。なに考えてんだ。婚儀(こんぎ)の相手とか、そんなんじゃなく、デイ・ウォークの仲間としてだぞ」

「あぁ、なんだ。そうなの」

「当たり前だろ、そんなこと」

 チョウヨウの声が少し上ずった。 

「まずはタンゴ。彼は気のいい奴だよ」

 ナナクサとチョウヨウの(あご)の辺りからミソカの細っそりと優しい声が響いた。その声にナナクサは目を見張り、チョウヨウは口をつぐんだ。

「起きてたの?」

「『起きてたの?』じゃなくて、起きちゃったのよ」

 ナナクサの視線の先にチョウヨウの不安そうな目が光っている。新たな友人に対する配慮から、ナナクサは「わたしたちの話を始めから聞いてたの。チョウヨウの姉さんの話も?」とは聞かず、「いつから?」と親友に声をかけた。

「男の子の品定めの時からよ。私だってもうすぐ百才。男の子にだって興味くらいあるわ」ミソカは暗闇の中で、チョウヨウに顔を向けた。「で、あなたは誰が好き。タナバタ。それともタンゴ?」

 気の強いチョウヨウが思わずたじろいだ。

「な、なに言ってる。そんな話をしてたんじゃないぞ。それにタンゴもタナバタも会ったばかりだろ!」

 思わず声を上げたチョウヨウにミソカは屈託(くったく)のない笑いを投げかけた。優しいくせに、時々思いもよらないことを言うところがミソカらしかった。天井にミソカの声が小さく響く。

「タナバタやジンジツのことはまだわからないけど、私たちはタンゴが好きだよ。もちろん男としてじゃなく、村の仲間としてだけど。ねっ、ナナクサ」

「そうね。でも頼りになるかな、あの大食い男が」

「大食い?」とチョウヨウが(いぶか)った。

「そう、すごく大食いだよ。びっくりするよ」二人の間でミソカは窮屈(きゅうくつ)そうに伸びをした。

「大食い……信じられないな」

 興味をひかれたチョウヨウは狭い中を、身をよじってミソカの方を向いた。他人の警戒心を苦もなく解いてしまうミソカの人徳、いや彼女が(かも)し出す雰囲気の賜物(たまもの)だろうか。

「だって見たでしょ。棺桶穴(シェルター)に入る前の食事」

「見たけど、みんな急いでたからなぁ。そんな変わったことが、奴にあったかなぁ?」

「思い出してごらんよ」

 ミソカの言葉に考え込むチョウヨウが、ナナクサには面白かった。

 食事ともなると、仲間のそれぞれが自分の食事容器を取り出す。金属で出来たそれは代々その家で受け()がれたもので、大きさはみな30センチほどの円筒形で(ふた)がついている。違うのは、その見た目で、傷だらけで緑一色の表面に所々から地肌が露出しているもの、それとは反対に磨き上げられ、元が何色だったかわからなくなっているもの、絵画のように派手な絵柄や古代文字が付いたもの。そして回りが(へこ)んでガラクタにしか見えないものなど。七人七様にそれらは持ち主同様、個性的な品々だった。

 食事容器にはあらかじめ雪が詰められ、使うころには程よい冷水になっている。そこに我々一族の命の(かて)である黄色い錠剤を投入する。小指の爪ほどのそれは容器の中で水に混じるとすぐに極上で唯一の食べ物である精進水(しょうじんすい)に変わる。難を言えば、この食料が政府(チャーチ)からの完全支給制で、村ではいつも絶対量が不足しているということだ。だから、どの村落でも満足に食事が足りている者など一人もいない。そんな中で大食いの者が存在するなど信じられないとチョウヨウが言うのも無理のない話だ。

「あいつ、頼まれもしないのに後片付けはしっかりやってたでしょ」とナナクサは助け舟を出した。「みんなの分まで」

「うん。次の食事用にみんなの食器に雪を詰めてたな。でも、それって大食いじゃなくて、気が利く感心な奴ってことだろ」

 クスクスと笑うミソカに、チョウヨウは少しムっとした視線を向ける。それに対してミソカは種明かしをするように一つ一つの事実をなぞっていく。

「みんなが棺桶穴(シェルター)(こも)りはじめても、タンゴは食器に雪を詰めてたでしょ」

「うん」とチョウヨウ。

「食器に雪を詰めるのって、そんなに時間がかかる?」

「そういえば、せかせかしてる割には時間がかかってたな」

「七人分だとしても時間がかかりすぎよね」

「だから?」まだ合点がいかない様子のチョウヨウがイライラと先を(うなが)した。

「始めに少しの雪を入れて食器の中に付いた精進水(しょうじんすい)の残りをシャカシャカ洗い流すの」とミソカ。「そして、それを……」とナナクサ。

「全部、飲んじゃうのか!」チョウヨウが小さく叫び声をあげた。「だから、あいつだけ口元がいつまでも汚れてたのか」

「そうそう」

 笑いをかみ殺しながら(おう)じるミソカの横でナナクサも笑い出しそうになるのを必死に(こら)えた。そんな二人にチョウヨウが真面目な口調で反論を(こころ)みた。

「でも、それって」

「なに?……」と今度はミソカが(いぶか)る。

「別に大食いってわけじゃないだろ」

「えっ?」今度はナナクサもミソカと声をそろえた。

「それって、大食いじゃなくて、意地汚いってだけなんじゃないのか?」

 ナナクサとミソカの笑い声が(つい)に爆発した。引き金を引いたチョウヨウも、やがて()られて笑い出した。その声に何事かと目を覚ましはじめたタンゴとタナバタが不機嫌そうにもぞもぞ動き出す。その時、狭い棺桶穴(シェルター)にジンジツの銅鑼(どら)声が響いた。

「おい!」眠ったまま低い天井に人差し指を突き立てている。「早く来いよ、お前。遅れてるぞ!」

 一瞬後、ジンジツの大きな寝言に仲間たちは腹を抱えて笑い転げた。そしてその笑いの渦は彼ら夜の一族が目覚める日暮れ前まで延々と続いた。だが皆で何も考えず心ゆくまで楽しく笑ったのは、この日が最初で最後だった。

 九週間後。一人目の犠牲者が出た。


               5

 清殉隊(ピューリタクス)の戦士は目覚めたとき、自分が何をしているのか、またどこにいるのかもわからなかった。目が()えてくるにつれ、徐々に頭の中もハッキリしてきた。頭が()えてくると不覚にもまた寝入ってしまったのだと気付いた。もし眠っている間に化け物どもに見つかっていたらと思うと、背筋が凍りついた。彼は身体を鞭打(むちう)ちたくなるほど自身の迂闊(うかつ)さに腹を立て、深く()いた。やがて自ら懇願(こんがん)して、やっと許された任務を思い出した。任務は単純だが非常に重要だ。それは思い出すだけで、()せて小柄な彼の身体中にアドレナリンを駆け巡らせ、心を鼓舞(こぶ)した。

 そうだ。俺は清殉隊(ピューリタクス)に任命された正真正銘の戦士だ。祈り続けても戦士徴用に引っ掛かったことすらない男は、おのれの願望を成就(じょうじゅ)するためだけに、彼の集落だけに伝わる門外不出の古い絵地図を盗み出し、それで徴用係に話をつけたのだ。その狡猾(こうかつ)さと行動力があったからこそ、今ここにこうしていられるのだし、この任務が口火となって、かつてないほどの一大攻勢の炎が燃え上がるのだ。それは間違いなく、自分の貧弱な体躯(たいく)を笑い、(さげす)んできた村の連中を見返すことになるだろう。

 彼は満足気に引き()った笑みを浮かべると、曲がった背中を伸ばし、敵地に潜り込むために払ったとてつもない苦労の数々を思い出した。戦士たちの護衛があったとはいえ、禁断の地である化け物どもの村落に達するまで十カ月もの長い時間を(よう)した。途中、雪崩(なだれ)や事故で多くの護衛戦士を失ったが、今となっては、それも十分(むく)われる。そして化け物どもの巨大な飛行船がやって来るまで息を(ひそ)めて、さらに二ヵ月待った。やっと現れた飛行船からの配給で奴らの気が(ゆる)むまで、それから、また一日。化け物どもが疲れから寝静まる夜明けを待って行動を起こすのに、また半日。(うらや)ましそうに見送る護衛戦士たちに別れの挨拶(あいさつ)をして、やっと潜りこんだ巨大飛行船。その機関室は窓もなく、昼か夜かの区別すらつかない。化け物どもの声が(かす)かにでも聞こえてこないのは、奴らのほとんどが寝静まっている昼間だからだろう。だが自分の時間感覚を過信してはならない。

 彼は身を潜めていた区画から頭を出して注意深く周りを見回した。見回すと再び身を潜め、ほっと息をついた。彼がいるボイラーの裏側は非常に暑く、熱に弱い奴らは夜でも滅多に見回りにも来ない。エンジンの騒音の中、彼は第一指導者(ヘル・シング)から直々に手渡された貴重な時計をコートの内ポケットから取り出した。

 もうすぐだ。この時計の数字がすべて(れい)を示した瞬間がその時だ。そのための準備はできている。これからは物も食わず、(わず)かな排泄すらも我慢するのだ。第一指導者(ヘル・シング)から(さず)けられた聖なる薬(ドラッグ)眼窩(がんか)へ落とし、身体から疲労が抜けていくのを感じながら、今度こそは意識を失うまいと強く自分に言い聞かせた。あとはただ、ゆったりと時が来るのを待てばいい。もし奴らに見つかることがあれば、その時は自分でスイッチを入れればいいだけの話だ。そして化け物どもに痛撃を味あわせて、自分は英雄になる。認められ、歴史に名を刻むのだ。彼は第一指導者(ヘル・シング)からの聖なる薬(ドラッグ)より、自分の底深い願望に心身共に酔い()れた。

「時よ、早く来い」

 彼はそう(つぶや)くと体に巻き付けた化け物への贈り物から伸びたコードの先にある古びた液晶画面を(いとお)しそうに()でた。その手の甲には自分で彫った勇気と魔除けの不格好な十字架の模様が刻まれていた。


               6

 日暮れから夜明けまで七人のパーティは雪と氷の中を延々と移動し続けた。小高い山を越え、深いクレバスを渡って歩み続けた。

 時には氷を踏み抜き、深淵(しんえん)の底に身を落としかけた者もいたが、途中で何とか氷壁にしがみついて()い上がり、助け合いながら、ひたすら前進し続けた。吹きすさぶ疾風ほどの速さは出ないにしても、パーティは大地を吹き渡る風に負けないくらいの速度で、来る日も来る日も、ただひたすらに移動した。だが、それでも一晩で三十キロも進めればいいほうだろう。いずれ慣れてくれば睡眠時間すら削り、完全遮光で昼間の ―― 曇りや雪嵐(ブリザード)で陽の光がなければどんなにありがたいことか ―― 移動も視野に入れなくてはならなくなる。

 当初は軽口をたたきあいながら元気に移動していた一行だったが、時折襲いくるアクシデントを除き、何の変哲もない真っ白な世界を歩き続けるだけの行程は彼らから体力と気力をみるみる削り取っていった。

 そんな中、パーティの男子たちは、空に厚くて大きな雲があろうものなら、夕方前にこっそり早起きして危険な雪潜りレース(スノー・ダイブ)陽踏み地獄(ヘル・シャイン)のような子供の頃から禁止されている遊びを女子に内緒(ないしょ)で行ったし、女子は女子で、疲れ切った男子が寝静まるころには、年ごろの娘らしく、ちょくちょく朝更(あさぶ)かしどころか、昼更(ひるぶ)かしまでして長い雪語り(ロング・ブレイク)を開いては、楽しいヒソヒソ話に(きょう)じることもあった。だが、それらも辛い日々の行程の微々(びび)たる息抜きにしかならないというのが動かし(がた)い現実だった。


               *

「そう言えば、最近は雪潜り(スノー・ダイブ)はやらねぇのか、男どもは?」

 日暮れから、そう時間が()たないうちから、チョウヨウが仲間に無駄口をたたくのは珍しい。

「どうなんだい、タンゴ?」

「な…何だよ、唐突に……」と、チョウヨウに(きょ)を突かれたタンゴが、どぎまぎして応じた。

「先週、誰かさんは怪我(けが)をしてたみたいだからな」

 言われたタンゴは無意識に右手で布切れが巻かれた左手の甲をさすった。

「僕は、そんなドジじゃないよ。あれは陽踏み地獄(ヘル・シャイン)で……」

「ほぅら、やっぱり」と、ミソカが顔をタンゴに向ける。

「だって霧氷(むひょう)が崩れて陽がさし込むなんて思わなかったから……」

 曇の日中を利用して軽装で行われる雪潜りレース(スノー・ダイブ)は二十歳以下の幼児や、それより年長の子供たちに人気の遊びだった。ただ目標地点を(あやま)って雪上に急浮上した時、厚い雲が途切れでもしていると大火傷を負うことがあるので村々では禁止されていたし、それよりも危ないとされている陽踏み地獄(ヘル・シャイン)に至っては遮光物を使って行われる肝試し(チキン・レース)、のようなもので、実際、ナナクサの村でも失明者を二人も出すほど禁断の遊びだった。しかし、だからといってスリルを味わいたい若者の心を大人たちが納得させることは、どの村でも(いま)だに出来たためしはなかった。

「馬鹿じゃねぇのか」

「もういいだろ」タナバタが我慢しきれず、チョウヨウに言葉を投げつけた。「今日はやけに突っかかるんだな、君は」

「突っかかるなんて、とんでもない。あたいたちは、あんたら馬鹿な男どもの心配をしてるだけ」

「『あたいたち』って、ナナクサとミソカも、そう思うのかい?」と、タンゴ。

「僕は『馬鹿な男ども』というのが引っ掛かるな」タナバタが意味ありげな視線を隣で歩を進める薬師(くすし)仲間のナナクサに投げかけた。チョウヨウは(こた)えに(きゅう)するナナクサに一瞥(いちべつ)をくれると、タナバタを(にら)んだ。

「一番分別のあるはずの、あんたまでが皆を止めずに馬鹿なことをやってるなんてねぇ。そう言いたかったんだろ、ナナクサ?」

「わたしは、ただ……」と、口を開いたナナクサが言葉を発する前に、溜息(ためいき)混じりのタナバタの声がチョウヨウに向けられた。

「嫌味かい?」

「ただの忠告だよ」と、チョウヨウの挑発は続いた。

「ふん。あいにく僕はタンゴやジンジツの保護者じゃないんでね」

 タナバタがむっとして(おう)じると、チョウヨウの声が更に大きくなった。

「あぁ、確かにな。ガキじゃ、保護者は無理だわな。せめて、ここに本当のリーダーでもいりゃぁなぁ!」

「何だ! リーダーがどうかしたか?!」

 星を見ながら、(はる)か先を先行(スカウト)していたジンジツが、その言葉を耳にして大声で(おう)じた。

「あんたは馬鹿みたいに、よく働くって言ったんだよ!」

 チョウヨウの即答に、片手を振って白い歯を見せるとジンジツは自分の仕事に戻った。(つか)の間の沈黙の後、今度はミソカが消え入るような声で話し出した。

「やっぱり、みんな危ないことは、しちゃいけないよ。デイ・ウォークはただでさえ危険なんだから」

「じゃが」と、ジョウシがはじめて口を開いた。「我れら一族の生涯(しょうがい)に危険は付きものぞ、ミソカ」

「だからって、(おか)さなくてもいい危険を(おか)す必要があんのか?」と、詰問(きつもん)口調のチョウヨウ。

「それは、その通りじゃが……」

「だったら男どもを(かば)うなよ、チビ助」

(かぼ)うてなどはおらぬ。じゃが、たまには息抜きも必要であろう。我れら女も男どもとは違った形で息抜きをしておることじゃ」ジョウシがチョウヨウをキッと見据(みす)えた。「それにしてもじゃ、チョウヨウ」

「何だよ?」

「我慢してやってはおったが、我れに対する『チビ助』との、お前の日々の物言い。やはり気に入らぬぞ」

「我慢してもらってたなんて、そりゃ、悪かったな」

 チョウヨウが更にジョウシを挑発しようとするのを直感したナナクサは、再び彼女の『チビ助』という揶揄(やゆ)が出る前に話を差し戻した。

「ミソカが言ったとおりよ、みんな。危険と背中合わせの旅をしてるんだから、怪我でもしたら仲間全体に影響が出るわ。パーティ優先で考えなきゃ。私たちはそれを知ってほしかっただけよ」

「悪かったよ。でも退屈さを君たち女の子のように朝更(あさぶ)しのおしゃべりで気持ちを(まぎ)らすことができなかったんでね」

 さすがに単調な日々は、冷静沈着なタナバタの心をも(むしば)んでいたのだろうか。ナナクサが(おさ)めたはずの話を、こともあろうにタナバタがまた()ぜ返した。彼は言わなくていいことを口にしてしまったことに気付かなかったのだ。それは鎮火しつつあったチョウヨウの苛立(いらだ)ちに再び火が付ける結果となった。

「賢いお兄ぃさんは、明け方の盗み聞きが趣味なわけかい。か弱い女の子の?」

「『か弱い』なんて言ってないよ。それに、君をか弱いなんて思ったことは、これっぽっちもないね」

「へぇ。あんた、あたいに喧嘩(けんか)売ってんの?」

「どっちが喧嘩(けんか)を売ってるんだか」

「何だって!」

「よし! 荷物持ちジャンケンじゃ。さあ、みな止まるのじゃ!」

 突如、タナバタとチョウヨウの間に割って入ったジョウシが誰にも有無を言わさない口調で皆に宣言した。

「何をしておる。みな早くせぬか!」

「突然、何を言い出すかと思えば………」と、(きょ)を突かれたタナバタ。

 チョウヨウも事の成り行きに目をパチクリとさせている。

「荷が重いのじゃ」立ち止ったジョウシが、その場にどさりと荷物を投げ落とした。「二月(ふたつき)前と同じように、そなたに荷物を持ってもらおうと思うてな。さぁ、皆も何をしておる。今日は皆でやるのじゃ。さぁさぁ、チョウヨウも入れ!」

 ジョウシの強引さに多少なりとも頭を冷やされたタナバタとチョウヨウに続き、仲間たちは一人、また一人と彼女の元に集まると自然と円陣(えんじん)を組んだ。

 そして「どうかしたか?!」と、皆のところに駆け戻りかけたジンジツには「そなたは道を間違わぬよう、星をしっかり見ながら皆を導いてくりゃれ!」と叫ぶと、荷物持ちジャンケンが開始された。

 結果は、仲間の中で一番体力のないミソカの一人負け。しかし、気まずい空気に凍りついた皆の中で一番最初に動いたのもミソカだった。彼女は荷物の数々に視線を落とすと、一瞬顔を(こわ)ばらせたものの、手近にあった一番大きなバッグに手をかけ、大きく息を吸い込んで一気に肩に(かつ)ぎ上げた。そして荷物の重さでバランスを崩さないように二番目の荷物に手を掛けた。その時、その荷物をジョウシが横から奪い去った。

「やめて、何するの?!」

 デイ・ウォークを始めて二か月。大人しいミソカの悲鳴に近い非難の声を仲間たちは初めて聞いた。それは幼馴染(おさななじ)みのナナクサも聞いたことがないくらい激しいものだった。

「わたしだって、これくらい持てるのよ! これくらい……」

「じゃが……」

 口を開きかけたジョウシをミソカは怒りを隠そうともしない視線で見据(みす)えた。

「わたしも、デイ・ウォークの参加者よ」

 小柄な二人の間の沈黙は永遠に続くかと思われた。

「こんな時」と、タンゴが溜息(ためいき)混じりに口を開いた。「始祖(ごせんぞ)さまの加護があればなぁ。荷物なんて全部担いで、さっと目的地までひとっ飛び……なんてことはないか、やっぱり……」

 もちろん、当のタンゴは意識していなかったに違いないが、彼の幼子(おさなご)のような一言はミソカとジョウシの思わぬ反目(はんもく)だけでなく、その場にいた他の仲間たちの気持ちを少なからず軽くするきっかけとなった。

「子供みてぇなこと言ってんじゃないよ、タンゴ」

 ほっとした表情を見せたチョウヨウは、さっさと自分の荷物を雪上から拾い上げると、タンゴを軽く小突(こづ)いて歩き去った。

「そうそう。空をひとっ飛びなんて迷信さ」タナバタもタンゴに声を掛けると、自分の荷物を担ぎ上げ、ジョウシの荷物を手に取って彼女の身体に押し付けた。「もう行くぞ、チビ助」

 タナバタとジョウシが輪から抜けるとナナクサはミソカが握り()めている自分の荷物に手を伸ばした。そして少し毅然(きぜん)とした調子で幼馴染(おさななじ)みに言葉を掛けた。「私の荷物をちょうだい」と。

 ミソカの瞳が一瞬、揺らめいたように見えた。しかし、(あらが)うことなく彼女は荷物をナナクサに手渡した。ナナクサは心配そうな視線をミソカにちらっと送っただけで、先に歩き始めた三人の後に黙って従った。やがてミソカも自分の荷物を拾い上げると大きなバッグを担いでいた方とは反対の肩にそれを背負い、少しよろけながらも歩きだした。何かぶつぶつ(つぶや)いていたタンゴも、少し遅れて皆の後を手ぶらで追いはじめた。次の休憩まで彼の人一倍大きなバッグはミソカが一所懸命(いっしょけんめい)に運び続けた。


               7

 移動しては休み、また移動を再開する。そんな単調な日々の連続では、グループ全体を活性化するどんな些細(ささい)な変化でも大歓迎なのだが、そんな時に限って何日間も何も起ることがないのが常だ。ただ、リーダーを気取るジンジツだけは、出発と休憩の大号令のリズムを変えてみたり、方違へ師(かたたがえし)として、皆の進む方向を星座から得たりと、パーティが抱く疲労と退屈からくる鬱屈(うっくつ)とは無縁の存在に見えた。事実、自分の都合で速度を(ゆる)めて空を見上げ、仲間を(かえり)みずに、またさっそうと歩き出すその姿は、見ようによっては頼もしく(うつ)らなくもないが、どちらかといえば皆を引っ張って行くというより、皆の元気を吸い取っては、それをエネルギーに変換して動き続けているかのようにすら見える。チョウヨウなどは「空回り」。「空気を読め」など。さもうんざりといった調子で、溜息(ためいき)交じりの嫌味を彼の背中に再三にわたって投げつけてはいたが、それでパーティの移動速度が変わるものでもなかった。

「大丈夫、ミソカ?」

 だが、同じ方違へ師(かたたがえし)でも、こっちは違った。

 荷物持ちジャンケンの一件以来、無理をする傾向にあったミソカは、時々歩行速度を(ゆる)めては荒くなった呼吸を整えた。遅れる彼女を見るたび、ナナクサは先頭を行くジンジツに大声で止まるように呼びかけるようになった。その気遣(きづか)いの声に一人、また一人と、これ(さいわ)いに一行が足を止める中、それでも止まらないジンジツのコートの(すそ)に手をかけて引っ張り戻すのが、いつの間にかジョウシの仕事になっていた。

 かつて大海だった大氷原まで、あと少しに迫ったある日。この夜だけ、ジンジツはジョウシの手を(わずら)わすことがなかった。突然、立ち止まった彼の背中に後続のジョウシが勢いよくぶつかった。

「おい、急に立ち止まるでない。鼻が(つぶ)れでもしたら如何(いかが)する?!」

飛行船(サブマリン)だ!」

「なに?」

 空を見上げるジンジツの視線の先を探すようにジョウシが空に顔を向ける。疲れ切った仲間たちも、延々(えんえん)と続く雪と氷の大地から視線を引き()がしては青く明るい夜空を見上げはじめた。

 星々が散りばめられた天の川のカーテンの中にその巨体はあった。それは月食のように輝く月や星々を飲み込みながら、低い高度でこちらに向かってどんどん迫ってくる。そのあまりの大きさに圧倒されて(しばら)く誰も口をきけなかった。

 やがて飛行船(サブマリン)は、ポカンと口を開けて見守る一行の頭上に(おお)(かぶ)さると、その視界一杯に広がった。真っ暗な船腹以外なにも見えない。ただ、ゆったりと回転する大きなプロペラが空気を切り裂く音と、それが作り出す強風だけが上空から彼らに吹きつけてくる。

 長い時間をかけ、飛行船(サブマリン)は彼らの頭上をゆっくり通り過ぎた。

「船体が四つ……四胴、いや六胴船か。初めて見るな……」

 タナバタが誰に言うともなく(つぶや)いた。その言葉にジンジツは、ジョウシが口を開く前に反応した。

「あぁ、そうだ。どうりでデカいはずだ。凄いな。俺も初めて見たが、近くで見るとやっぱりもの凄いもんだな……」

「タナバタ。ジンジツは何を興奮しておるのだ?」

 ぶつけた鼻をいじりながら、ジンジツと巨大な飛行船を交互に見上げていたジョウシはタナバタの正面に立った。

「陸地のごとく大きいのは、我れも凄いとは思うが、かような機械(からくり)に、なぜあそこまで興奮することがあるのじゃ? 飛行船(サブマリン)など、そう珍しくもあるまいに」

「通常とは大きさも形も違ってただろ?」

「あいにくと、ああいったものには興味がないのでな。つぶさに見たことなどない」

「なんだ、そうだったのか、ジョウシ」

「そうだったのじゃ、タナバタよ」

 さも、うんざりした様子のジョウシを(さと)すようにタナバタが言葉を()いだ。

「あれは指揮船(マザー・シップ)だからね」

指揮船(マザー・シップ)?」

飛行船(サブマリン)の親玉みたいなものさ。大きさは通常の四倍ある四胴船の一・五倍。桁外(けたはず)れの大きささ。しかも空の上で他の飛行船(サブマリン)への補給もできるらしい」

「補給のぅ。それで?……」

 タナバタは自分を見上げるジョウシを保護者のように見やった。

「村でも、小さな男の子は親が持つ道具や機械(からくり)が好きだろ。その思いが、どんどん(ふく)らんで、より複雑なもの、より大きなものに興味を持つようになる。ジンジツの反応はそれと同じようなものさ」

「ふむ」と興味が失せたように生返事(なまへんじ)をしたジョウシは、飛行船(サブマリン)を見上げ続けるジンジツに視線を転じた。

「男はわからぬな……」

「他の飛行船(サブマリン)に補給ができるってことは、余分な食糧を持ってるってことだよね」

 タナバタの話を聞きかじったタンゴが能天気な声をジンジツに投げかけたが、返ってきたのは沈黙だった。

 だが次の瞬間、ジンジツは指揮船(マザー・シップ)の後を追いはじめた。初めはゆっくりと、そしてだんだんと小走りになっていく、目は片時も指揮船(マザー・シップ)から離そうとはせずに。

「凄いぞ」誰に言うともないジンジツの独り言は、興奮の色を濃くして徐々に叫び声に近くなっていく。「見たか、あの曲面の(なめ)らかさ!」

「見たよ!」と一緒に走り出したタンゴが(おう)じる。

「船体のルルイエ文字の大きさなんか、一文字で村の倉庫の何倍もあるぜ!」

「おい、待ってくれよ。余分な食糧の話は。ここで狼煙(のろし)を上げたら余分な食糧を落としてくれるかな?」

 飛行船を追いはじめたジンジツに置いていかれまいと彼と並走をはじめたタンゴに、チョウヨウとジョウシの冷ややかな視線が注がれた。

「まるでガキじゃねぇか……」

「やはり、男はわからぬ……」

 ミソカを(ともな)ったナナクサが仲間たちのいる切り立った崖の端にたどり着いた時、それは起こった。

 真っ青な夜空に溶け込んだ飛行船は小指の爪ほどの大きさになった時、目も(くら)むばかりのオレンジ色にパッと包まれた。そして一拍(いっぱく)遅れて広大な空に轟音が(こだま)した。何が起こったか理解できずに空の惨劇(さんげき)呆気(あっけ)にとられて(なが)めていた一行が口を開こうとしたとき、破損を免れた飛行船の巨大な胴体の一つが、ゆっくりと回転しながら元来た空路を戻り始めた。一行には、それが見えていた。しかし注視していたのではなく、ただ見えていただけだった。判断力が麻痺(まひ)した彼らは、胴体の巨大な影が目の前一杯に溶け広がったとき、次に何が起るかを、やっと理解した。そしてそれぞれが身構(みがま)えると同時に二度目の爆発が起こった。凄まじい衝撃波は、暴風と手を取り合うと、一行をその場から激しく(はじ)き飛ばした。

 七人の身体は宙を舞い、降り積もった分厚い雪の中に深々とめり込んだ。永遠とも思える静寂(せいじゃく)がその場を支配した。やっとのことで正気を取り戻した彼らは次々と雪の中から()い出すと、()(すべ)もなく互いの顔を見回した。

「みんな、大丈夫かい?……」

 数百歳の老人のようにしわがれたタナバタの声に、ようやく仲間たちは、その場で立ち上がると声もなく(うなず)きあった。

「雷が近くに落ちた時みたいだ」とタンゴ。

「雷は、こんな()げた臭いまで運んでこないよ。まったく嫌な臭いだ……」

 タナバタは、そう(おう)じると、未だに雪の上に膝をついて支え合っているナナクサとミソカに手を伸ばすと、二人を立ち上がらせた。

「怖い……こんなこと初めてよ……」

 ミソカは自身の両手を華奢(きゃしゃ)な両肩にまわして、震えながら(つぶや)いた。

「誰だって初めてさ」ミソカに向けられたチョウヨウの(とげ)のある言い方は、むしろ事態を理解できない自分自身に向けられた苛立(いらだ)ちそのものだった。

「で、これから僕たちどうするの?……」

「決まってるだろ」と(しば)しの沈黙の後にタンゴの疑問に応じるジンジツの声。

 彼は早くも自分の荷物の中から細く()まれた丈夫なロープを引っぱり出して自分の身体に一方の端を結びつけはじめていた。

「何をする気じゃ、ジンジツ?」

 ジョウシの呼びかけを無視してロープを身体に巻き付け終わったジンジツは崖の端まで走り寄ると、ロープの片方を近くに突き出た大岩の根元に(くく)りつけた。

「おい、ジンジツ!」ジョウシがなおも声を荒げた。「我れを無視するでない。(こた)えよ。そなた、何をする気じゃ?!」

「決まってるだろ。助けに行くんだよ」

「この崖から落ちたら、僕たちだって助かんないよ」ジンジツの(かたわ)らに片膝をついたタンゴが崖下を(のぞ)いて不安そうな声を上げた。

「何もお前に行けなんて言ってないだろ」

「おい」とチョウヨウが感情を(おさ)えた声をジンジツに投げつけた。「リーダーみたいに振る舞ってんだから、軽率な行動はすんなよ!」

「何だと」

「あたいはパーティの仲間のことを考えろって言ってんだよ、この単細胞」

「助けに行くなってことか?」

「あたいたちはデイ・ウォークの最中なんだ。この儀式がどんなに重要だか、お前もわかってるだろ」

「だからってあれに乗ってた船員を見殺しか。まだ生きてる者がいるかもしれないんだぞ」そこまで言うと、嘲笑(あざわら)うかのようにジンジツの口の片端が上がった。「お前は冷てぇ女だな。ボウシュが聞いたら何て言うか?……」

 チョウヨウの顔が強張(こわば)った。

「何てった……」

「はぁ?」

「だから、てめぇ今なんつった?……」

「ボウシュが聞いたら……」

 言い終わらないうちにチョウヨウは山猫のようにジンジツに飛びかかった。しかし膂力(りょりょく)(まさ)るジンジツは難なくチョウヨウをその場に組み伏せ、馬乗りになった。

 タナバタとタンゴが犬歯を()いて取っ組み合う二人を引きはがそうとするが、チョウヨウの鋭く伸びた爪はジンジツの左(ほお)に深く食い込んで鮮血を噴き出させた。対するジンジツの大きな手はチョウヨウの眼球が真っ赤に充血して毛細血管が破裂するほど、その喉をグイグイと()め上げた。このまま何とかしなければ確実に死人が出る。

 次の瞬間、パァンと乾いた音がジンジツの()いている(ほお)に鳴り響き、そこにいる者すべてを凍てついた空気の中に()いつけた。いつの間にか割って入ったジョウシは、振り上げた片手を静かに降ろすと、喧嘩(けんか)の当事者はおろか、無力な仲裁(ちゅうさい)者まで冷ややかに見つめながら口を開いた。

「デイ・ウォークでの人死(ひとじに)は避けられぬ時があると、()き父上から聞き(およ)んでおった」いつの間にかジョウシの手には鈍く光る三十センチ余りのナイフが一本握られていた。(はる)か昔には『観賞展示用ナイフ』という意味不明な名で呼ばれていたらしい逸品(いっぴん)だ。「理由はどうあれ、共倒れになられてはパーティの力も半減というものじゃ。これ以上、()り合うならば、これを使うがよい。損失は一人で()むでな」

 誰も(こた)えない中、ジョウシの声がなおも(たたみ)み掛けた。

「さぁ、どうした。どちらでもよい。これで思う存分、本懐(ほんかい)()げるがよい。心配せずとも、これは純銀製じゃ。少々、急所を(はず)れても難なく相手を(たお)せようぞ」

 重苦しい沈黙が場を支配し続けた。

 遠くの墜落現場の炎の中から時折、小さな爆発音が(こだま)する。

「なぜ、どちらも武器を取らぬ。我が家の家宝では不足かや。ほれ、何をしておる?」

 ジンジツもチョウヨウも目の前に突き付けられた金属の切っ先に機先を制されていた。

「チョウヨウ、お前はどうじゃ。ジンジツ、そなたは?」

「ジョウシ……」

「なんじゃ、方違へ師(かたたがえし)見習いのミソカか。今は取り込み中じゃ」

「もういいよ。私たちは仲間よ……」

 ミソカは、ジョウシが握りしめていた銀のナイフの(つか)を両手で(おお)うように包み込んだ。

 ミソカとジョウシの視線が混じり合った。

 (しばら)くして「ふん。面白ぅないのぅ」とうそぶいて、その場を離れるジョウシの言葉が合図であったかのように、仲裁(ちゅうさい)者は肩の力を抜き、喧嘩の当事者たちはバツが悪そうに爪や犬歯を(おさ)めると互いに距離をとった。

「先ほどの話の続きじゃが」銀のナイフをコートのポケットに(おさ)めながら、ジョウシが一同に声を掛けた。「我れはチョウヨウに賛成じゃ」

「でも助けを求めてる人がいるかもしれないよ」ミソカが消え入るような声で(おう)じた。「あの炎の中で」

「あんた、タンゴの言ってたこと聞かなかった?」と喉をさすりながらチョウヨウがミソカに反論する「この崖から落ちたら、あたいらだって死ぬよ」

「そうじゃな。無益な死を招く恐れがある。それに、あの激しい事故じゃ。生き残っておる者は誰もおるまい」

「そうかい。そうかい。でも俺は行く」(すで)(ふさ)がりはじめた(ほお)の傷から、粉のように凍った血をはたき落としたジンジツは隣にいる気のいい巨漢(きょかん)に声を掛けた「タンゴ、お前は手伝ってくれるよな」

 そう言い放つと黙々と作業を再開するジンジツ。そして、それを手伝うタンゴ。その行動に明確な拒否の態度を示すチョウヨウとジョウシ。ナナクサは何も出来ない自身の非力さに腹が立った。でも、こんな時、どうすれば。

二手(ふたて)に分かれよう」

 突然のタナバタの提案がナナクサの心を戸惑(とまど)わせた。しかも、一行の中で一番判断力に優れていると思っていた彼の口から出た言葉だけに落胆も大きかった。やはり、七人のパーティはバラバラになるしかないのだろうか。()てもたってもいられず、ナナクサはタナバタに問いかけた。

「分かれるって、皆の協力なしじゃ、わたしたちのデイ・ウォークは……」

「大丈夫」と、ナナクサの心を見透(みす)かしたようにタナバタは優しく(おう)じると皆に向かって声を()った。「みんな聞いてくれ。パーティを解散するんじゃなく、崖を降りて、すぐに救助に行く者と、迂回(うかい)して安全な道を探したうえで崖を降りる者に分けるんだ。後で合流すればいい」

「何を言いだすかと思えば、(らち)もない……」とジョウシが口を(とが)らせた。

「考えがまとまらずに動けなくなるくらいなら、行動に移した方がましってことさ。夜が明ける前にね」

 天空の星座が素人目(しろうとめ)にも、大きく動いていたのがわかる。不承不承(ふしょうぶしょう)ながらも誰もがタナバタの案に(うなず)かざるを得なかった。

「で、お前はどっちなんだ?」準備を終えたジンジツがタナバタに声を掛けた。

「君と行こう。生存者がいたら薬師(くすし)も必要だろ」


               *

 ジンジツに続いてタナバタが目も(くら)む崖下へと降下した。驚いたことに自分も人助けがしたいと、三番目にミソカが降りると言い出した。身体が強くなくてもデイ・ウォークの参加者だ。その意志は尊重しなければならない。

 ナナクサは、遠くに見える墜落現場の炎を両腕を組んで(いま)だに見つめ続けるチョウヨウに声を掛けようとしたが、どう声を掛けていいものかわからなかった。しかし、そのためらいの間隙(かんげき)()って声を掛けた者がいた。さっきの喧嘩(けんか)を見事に仲裁(ちゅうさい)してのけたジョウシだ。

「おい、チョウヨウ」

 だが、チョウヨウはジョウシを無視した。

「その反応は予想しておった。我れも降りようと思う。タナバタの言うことを聞いて二手(ふたて)に分かるるは(しゃく)(さわ)るでな。で、もし降るるなら皆の荷を降ろしてから、お前も続くがよかろう」

「あたいにも降りろってか、チビ助?」

「そうじゃ」ジョウシはチョウヨウの挑発には乗らず、ナナクサに目を転じた。「お前を一人にするのは心配なんじゃろうな。ナナクサが迷っておる。可愛そうに……」

 静かに振り向いたチョウヨウの目がナナクサのそれを(とら)えた。数瞬の沈黙の後、チョウヨウはテキパキと降下の準備を始めるとロープが結ばれた岩に取り付いているタンゴに声を掛けた。

「あんたは一番デカいんだから、最後だよ」

 チョウヨウに続いて、ナナクサが崖を降りる前、「民草(たみぐさ)をなだむるは何とも骨の折れることじゃ」というジョウシの愚痴(ぐち)を聞いたような気がした。

 結局パーティは二分(にぶん)されず、全員で崖を降りることになった。


               *

 一行は崖の途中の大きな岩棚で小休止した。崖があまりにも高く、手編みロープの長さが崖下まで、到底、届かなかったからだ。岩棚からでも崖下がどうなっているか、雪煙で(かす)んでいてはっきりとは見えない。何とか降りられると思ったのが甘かったのかもしれなかった。それぞれに言葉には出さないものの、一行の中にそんな雰囲気が漂ってきた。丁度、そのとき、最後尾のタンゴが岩棚に降下してきた。彼の到着と同時に先着の面々は、第二の降下を実施すべく、黙々と準備を始め、再びジンジツから降下しはじめた。そしてチョウヨウに続いてナナクサが降下を始めようと後ろ向きに岩棚から半身を乗り出したところで、タンゴが小さな声で話しかけてきた。

「なぁ、ナナクサ」

「なに?」

「声が大きいよ」

「わかったわ。で、なに?」と、声を(ひそ)めてナナクサが(おう)じた。

「さっきの話だけどさ」

「皆で降りることになったじゃない。今さら……」

「違うって」

「『違う』って何が?……」

「その……」

「グズグズするんなら、もう降りるわよ」

「チョウヨウが……」

 その言葉に、ナナクサのロープを握る手に思わず力が入った。

「チョウヨウが、どうしたの?」

「だから、声が大きいって」

 ナナクサは、いま一度小さく「わかった」と(おう)じた。

「チョウヨウがジンジツに飛びかかる時に言ってたろ、ほら?」

「チョウヨウが?」

「違うよ、ジンジツがさ」

「ジンジツが?」

「そう。ジンジツが言ってたのが、その……気になって……」

 ポカンと口を開けたナナクサの鈍さに、(つい)にタンゴはイライラとまくしたてた。

「『ボウシュ』って誰?」

「えっ?」

 意外な問いに、ナナクサは自分の耳を疑った。

「だから、ボウシュって誰だよ?」

「それが聞きたかったの?……」

「い……いや、何でもないよ。いいよ。知ってるわけないもんね、ナナクサが。忘れてくれ。何でもないんだ」

「知ってるわよ」

「えぇっ!」

「声が大きいよ」と、今度はナナクサがタンゴをたしなめる番だった。

「気になる?」

「いや、その、気になるとか、そんなんじゃなくてさ……」

「気にならないんだ?」

「からかうなよ」

「じゃぁ、気にしなくてもいいじゃない」

「いつから、そんな意地悪になったんだよ」

「ボウシュはね」ナナクサは笑い出しそうになるのを必死に(こら)えながら言葉を()いだ。「チョウヨウの姉さんよ」

「姉さん……」

「そう。彼女の姉さん」

「な……なんだ、姉さんかぁ……」

「チョウヨウが婚儀(こんぎ)(ちぎ)りでも(かわ)わした相手とでも思った、大食(おおぐ)いさん?」

「なに言ってんの。馬鹿なこと言わずに早く降りなよ!」

「はいはい。今度は『早く降りなよ』か」軽く(おう)じたナナクサは急に真顔になるとタンゴの目をまじまじと見詰(みつ)めた。「ボウシュはね、亡くなったのよ。六十年前、デイ・ウォークの最中に。とても尊敬できる人だったらしいわ」

「そうなのか……」

 陽気な大男のタンゴが急に小さく(しぼ)んだように思えた。

「だからってわけじゃないけど、私たちは皆でデイ・ウォークを乗り切るわよ」

「あぁ、もちろん!」

「その後でチョウヨウを誘うなり、彼女に告白(こく)るなりしなさい」

「うん、わかった……って、なに言ってんだよ、ナナクサ!」

 二度目の降下の最後。残り百二十メートル足らずの所でロープが切れ、タンゴが滑落(かつらく)した。本来なら死ぬほどの高さではなかったが、崖下の切り立った岩場に散々に叩きつけられ、彼は内臓と背骨を大きく損傷した。仲間が駆けつけたときには、もう虫の息だった。


               8

「誰が悪いのでもない」

 月並(つきな)みなジョウシの言葉に、タンゴの横にひざまずいて彼の手を握るミソカが言葉もなく顔を上げた。ピンク色の涙に染まった視線はジョウシに注がれているはずなのに、なぜかジョウシの後ろに(たたず)む自分が注視され、責められているかのように感じて、ナナクサは目を伏せて、彼女の視線から逃れた。

 ミソカは仲間たちの顔に懇願(こんがん)の視線を投げ掛けた。だが誰も動かなかった。実際は何もできることがなく動けなかったのだ。助けを求めるようなミソカの視線を受けとめたジョウシは意を決して、うなだれているナナクサの(ひじ)をつかんで一緒にその場から離れた。皆に声が届かないところまで離れるとジョウシはナナクサの手の中に純銀製のナイフをそっと(すべ)り込ませた。その冷たい重みが意味するものに、ナナクサの手は小刻みに震えだした。

「このままではタンゴは苦しみ続けるぞよ」

 その声には思いやりが(にじ)んではいたが、ナナクサの心は反発していた。だが反発しながらも「私には出来ない」という言葉だけは何とか飲み込んだ。もし声に出してしまったら、本当にできなくなるとわかっていたからだ。だから、ただ一言、消え入るように「わかってるわ」とだけ(こた)えた。しかし、決心したからといって簡単に行動に移せるわけはない。タンゴは同じ村で生まれ、子供の頃から百年近くも姉弟のように一緒に成長してきた幼馴染(おさななじ)みなのだ。だが、薬師(くすし)の見習いとして、タンゴの状態を()て彼の命が一日どころか半日すらも()たないかもしれないという事実も痛いほど理解していた。幼馴染(おさななじ)みの自分が楽にしてやるしかない。

 目を上げると、目の前にチョウヨウが立っていた。ナナクサは何も言わず、再びタンゴの命を奪う道具に目を落とし、そして決然と顔を上げた。だが、次の瞬間、銀製のナイフはナナクサの手から消え、少し離れた氷の上に深々と突き立った。チョウヨウが叩き落としたのだ。

(あきら)めるな、ナナクサ」

 (しぼ)り出すようなチョウヨウの声だった。

「でも……でもね……」

「事故現場に御力水(おちからみず)があるかもしれない。あたいが探してくる」

 そう言うとチョウヨウはナナクサの両肩をつかみ、その漆黒(しっこく)の瞳を凝視した。

 彼女が言う御力水(おちからみず)飛行船(サブマリン)には必ず装備されているといわれている村では絶対に手に入らない強力な万能治療薬だ……だが。

「あの事故だもの。あったとしても、もう……」

「そんなことはない」

 ナナクサは自分を鼓舞(こぶ)するチョウヨウの両手をもぎ離すと吐き捨てるように言い放った。

「たとえあっても、収納容器からどうやって出すの。出し方だって船員じゃないからわからない。それに……それに、あっても助からないかもしれない」

「弱気になるな。頼むから弱気にならないでくれ」

「でも……」

「お前は、瞳の中に星を飼う者だ。すべてを手にする者だ。なっ、そうだろ!」

 チョウヨウが骨も砕けるほどの強さでナナクサの両肩を再び握った。ナナクサはチョウヨウの目が(うる)んでいることに初めて気がついた。しかし彼女の目は(うる)みながらもナナクサをきっと見据(みす)え、万が一の可能性を信じて疑わない力を投げかけていた。彼女は前を向き、自分は限りなく消極的に後ろを向いて進もうとしていたことに初めて気がついた。ナナクサの心に小さな火が(とも)った。決意の(ともしび)だった。今やるべきことは、タンゴを楽にしてやることじゃない。どんなことをしてでも助けてやることだ、ほんの少しでも希望があるのなら、可能性に()けてみることだ。

「わかった」

 ナナクサが自分自身も驚くくらい大きな声でそう(おう)じると、チョウヨウの両手が離れた。ナナクサは仲間に呼びかけた。いや呼びかけたというより自分の心を鞭打つために宣言したという方が、この際は正しいかもしれない。

「私、今から事故現場に行く。船に積まれた御力水(おちからみず)を探しに。破損したり、無くなってなければ、タンゴにもチャンスがあるかもしれない。いえ、きっとあるはず!」

 みな何も言わなかった。ナナクサは続けた。

「だから私は行く」

 吹きすさぶ風にナナクサの薄墨(うすずみ)色の髪が逆巻(さかま)いた。

「わかった」タナバタがようやく口を開いた。「じゃぁ、ぼくがタンゴに付いていよう」

「いえ。御力水(おちからみず)を探す薬師(くすし)の目は多い方がいい」ナナクサは仲間の一人に視線を転じた。「チョウヨウ。あなたはタンゴに付いていてあげて、お願い」

 行くと言い張るかと思ったが、チョウヨウはあっさりと(うなず)いた。その代わりにミソカが一緒に行くと言い出した。決して足手まといにならないと言う彼女の幼馴染(おさななじ)みを思う決心は揺るぎそうになかった。残ったジョウシも名乗りをあげた。ここにいても何も出来ないという理由だったが、ミソカに助けが必要だからというのが本音で申し出てくれたのだろう。ミソカも薄々それと気付いていたようだが、特段に気分を害する様子はなかった。もっとも気分を害そうがそうでなかろうが、今のミソカは決して後へは引かないように思えた。人選は終わった。

「じゃぁ、行ってくるぜ」

 ジンジツを先頭に彼の合図で仲間は氷の上に()まった粉雪を蹴立(けた)てながら、所々、氷が裂けて海水の浅い水溜りができた所を避けつつ、懸命に駆け続けた。彼らは事故現場までの道のりを、ひたすら駆け抜けた。


               9

 事故現場は地獄だった。

 巨大な炎から噴き出される熱気と黒煙は五人の若者を寄せ付けまいと(いま)だに居座り続けていた。そして見渡す限り散乱しているねじ曲がった大きな構造材や金属の破片は、手分けをして生存者を捜す彼らを(こば)みつづけた。

「おぉい。そっちはどうだ?!」

 捜索から四十分あまり、時々起こる小爆発にかき消されながらもジンジツの銅鑼(どら)声は仲間に成果を(たず)ねる。その左側では火勢を避けながら進むナナクサが首を横に振り、ミソカとはぐれたジョウシは、それよりも(はる)かに離れた所で船の竜骨(りゅうこつ)の下や瓦礫(がれき)の隙間を(のぞ)き込んでいる。

「タナバタとミソカは?」

「わからない!」

 ジンジツの呼びかけに苛立(いらだ)ちを隠そうともせずにナナクサはそう(おう)じた。ミソカのサポートに付くと言っていたのに、ジョウシはいったい何をしていたのだろうか。苛立(いらだ)つ心を押さえつけたナナクサは、更に歩を進め、船室と思われる比較的大きな残骸にたどり着いた。そしてその側面にできた大きな穴から恐る恐る身体を(すべ)り込ませて中を見渡した。

 船室の中は大暴風が吹き荒れたような有様で、散乱する道具や食器、衣類の燃え残りが、乗組員たちがいたという痕跡(こんせき)(かろ)うじて(とど)めている。これ以上の探索を(あきら)めて外に出たナナクサは、そこにいたジンジツにぶつかりそうになった。彼は焼け焦げた船員の制服を丸めて大事そうに(かか)えている。

 小首を(かし)げたナナクサの無言の問いかけに、「遺体だ」と短く(こた)えたジンジツは(きびす)を返すとジョウシのいた辺りに進みはじめた。ナナクサは黙って後に付き従った。

 事故現場を時計回りに半分ほど進んだとき、大きな竜骨(りゅうこつ)の残骸が、むせび泣きをはじめた。ナナクサもジンジツも初めて聞く、低く長々としたその悲しげで不思議な音に思わず顔を見合わせた。

「あぶない!」

 叫び声の主が真後ろにいることを認めた二人は、ようやく我れにかえった。

「何をしておるのじゃ。早う、そこを離れぬか!」

「何だって?!」

「聞こえぬのか。早う!」

 疾風のようにジョウシが二人に駆け寄るのと同時に、竜骨(りゅうこつ)のむせび泣きが、今度はもの凄い悲鳴に変わりはじめた。

「早う、離れるのじゃ!」

 激しい振動が三人を襲った。氷に大きな裂け目ができ、足元が崩れはじめた。足を取られそうになりながらも彼らは必死に走った。火事場の(はる)か後方まで逃れた三人が振り返ると、竜骨(りゅうこつ)が大きく傾き、周りの構造材を道連れに轟音とともに氷の下へ飲み込まれていく姿を目の当たりにした。事故の衝撃と火災の熱で海を(おお)った氷が溶け、(もろ)くなっていたのだ。

 凍った海にその場のすべてが()みこまれる最後の衝撃で足元が大きく揺れ、ナナクサとジンジツはバランスを崩して尻餅(しりもち)をついた。ジョウシはジンジツの広い胸をクッション代わり、上体を(あず)けるように倒れ込んだ。

「ありがとうよ」ジンジツは、さっきまで巨大な竜骨(りゅうこつ)がそびえ立っていた場所を凝視したまま、胸の上のジョウシに礼を述べた。「お前がいなけりゃ、死んでたところだ」

「礼には(およ)ばぬ」ジョウシは(かす)かに表情を(ゆる)めると、何事もなかったかのようにジンジツから離れて視線を外した。「無事で何よりじゃ」

「しかし、あそこが崩れんのが、よくわかったな」

「二十歳にもならぬヨチヨチ歩きの頃、村外れの湖の氷が割れて溺れそうになってのぅ。その時と同じ氷の悲鳴が聞こえたのでな」

「そうか。お前は(すげ)ぇな」

(がら)にもないことを言うでない」

「あぁ、わかった。それにしても死ななくて良かったな、俺たち」

「そうじゃな」

「でも、あんなことは、もうなしだ。一緒に死んじまったら意味がない」

「心得た」

「だから、もし」ジンジツは自分の胸の高さくらいしかないジョウシに微笑(ほほえ)みかけた。「こんなことが、またあったら」

「あったら、何じゃ?……」

 目の前にいるジンジツの顔をジョウシは背伸びするように見詰(みつめ)め返した。

「声を掛けてもわからないだろうから、石でもぶつけて気づかせてくれ」

「……石か。そうじゃな。手頃な石があらば、次はそうしよう」

「改めて礼を言うぜ、ジョウシ」

男子(おのこ)たるもの、何度も礼など言うものではない」

 二人の間に心の化学反応が起こっているのをナナクサは敏感に感じ取った。しかし、それを楽しむ余裕など誰にも許されてはいない。

「ジョウシ」

「おぉ」(きょ)を突かれたように、ジョウシがぎこちなく(おう)じる「ナナクサ」

「探さなきゃ」

 生存者をというより、ミソカたちと御力水(おちからみず)をという言葉を飲み込んだナナクサは、不安そうに今なお残る瓦礫(がれき)の山を()かして火災の向こうに目を(すが)めた、さっきの崩落に巻き込まれてなければいいが。

「そうじゃな、探そうぞ」ジョウシはナナクサに(おう)じると、ジンジツの手元を指差した「んっ、それは何じゃ?」

「遺体だ」ジンジツは大事に(かか)えているボロボロの制服に目をやった。「一部だけどな」

左様(さよう)か。ミソカとタナバタのところにも、船乗りどもの遺体があった」

「ミソカたちのところ?」

「そうじゃ」

「どこにいるの?」

「心配するでない」ナナクサの気持ちをなだめるようにジョウシは言葉をつづけた。「()ったぞよ、あの燃ゆる瓦礫(がれき)のずっと向こうにな」

 聞くが早いか、ナナクサはジンジツとジョウシを後目(しりめ)にミソカの姿を求めて、今なお残る黒煙と炎の中を駆け抜けた。黒煙の網をかき分けるにしたがって、その向こう側のシルエットが見慣れた仲間の姿をかたどりはじめた。

 ようやく見つけた幼馴染(おさななじ)みの足元には人が横たわっていた。そして(かたわ)らには(ひざまず)いて、その人の手を取るタナバタ。しかし何かがおかしい。その違和感が何からくるのか、はぐれた仲間と合流したナナクサは、ようやく理解した。横たわっている人には胸部から下と右腕が肩口からごっそりと無かったのだ。

「僕が着いたときには、まだ息があったんだが」タナバタはそう言うと、顔を上げてナナクサに視線を転じた。「御力水(おちからみず)は見つけたよ。この人が持っていた」

 真っ青な上級船員の制服を襟元(えりもと)まで寸分の隙なく着こなしたその遺体は、下半身と右腕がないだけで、まるで壊れて捨てられた人形のように見えた。ただ人形と違うのは、爆発で千切(ちぎ)り取られたであろう部分が凍りついた血で赤黒く染め上げられていることだった。

「苦しんだのか、この人?」

 ナナクサの後から合流したジンジツがタナバタに声をかけた。

「いや」タナバタは首を振ると雪原に置かれた御力水(おちからみず)の黒い収納容器を指差した。容器は墜落の衝撃でひしゃげ、分厚い(ふた)がほとんど取れかけていた。「最後まで船員仲間の安否を口にしていたがな。残念だ。御力水(おちからみず)もこれほどの重傷には()かなかったようだ」

()かなかった。二本も使ってるのにか?……」と、意外な結果にジンジツは驚いた。

「あぁ、()かなかった」

 ナナクサは十センチほどの茶色いアンプルが二本とも空になって転がっているのを見て目の前が真っ暗になった。

「誠に彼が飲んでおれば()かぬのはおかしいのぅ」

 予想もしないジョウシの言葉に、みな言葉を失い、互いの顔を見回した。彼女は(ひざ)をつき、ルルイエ文字で『御力水(おちからみず)。緊急時以外の使用を厳禁。罰則は極刑のみ』と書かれた容器の文字から目を離し、船員の遺体を検分した。

「どういうことかな?」と、タナバタが口を開いた。

「いや、ふとそう思うただけじゃ」ジョウシはタナバタに視線を移した。「されど、見事じゃな。これほどの傷を受けながらも、さすがは船乗り。御力水(おちからみず)で口元を汚してもおらぬとは。我れらもそのマナーだけでも見習わねば」

「何が言いたいの?」と、ここにきて初めてミソカが口を開いた。相変わらず静かな物言いながら、その中には彼女には似合わない(かす)かな悪意の(とげ)が含まれていた。

 うっすらと白み始めた空に立ち上る黒煙が、皆の心に広がっていくような瞬間だった。そんな険悪な雰囲気を破ったのはジンジツだった。

「俺の曾々婆(ひいひいばあ)さんが駆け出しの見習い下級船員だったころのことだ」彼は壊れた容器から残った一本のアンプルを取り出すと、中身を透かし見ようとするかのように遠くの炎の明かりにかざした。皆の視線が、それに注がれた。「荷役作業中の事故で半身を(つぶ)された仲間がいたそうだ」

「昔話か?」とタナバタ。

「まぁ、そんなところだ」

「今、こんな時に?」と、ミソカが彼女らしくない仕草で両腕を胸の前で組んだ。

「そうだ」

「で、その人はどうなったんだ?」

 ウンザリしたように先を(うなが)すタナバタの(かたわ)らを抜けてジンジツは言葉を()いだ。

「船長が収納容器を開け、御力水(おちからみず)の一本が取り出され、その半分が怪我人(けがにん)の口に含ませられ、残りが一番ひどい傷口に直接すり込まれたんだと」

 ジンジツとタナバタの視線が交錯(こうさく)した。

「助かったと言いたいわけか」

「当たりだ」

「単なる作り話だな。見習い薬師(くすし)の目から見てもナンセンス極まりない」と、(あざけ)るようにタナバタが端正な顔を(ゆが)めた。

「そうかもしれん。だが、俺はこいつの力を信じるぜ。いや信じるしかなかろう」そう言うとジンジツは、皆の顔を見回すとナナクサに視線を(とど)め、アンプルを差し出した。「だから、お前も()らぐんじゃねぇ。タンゴが助かることだけを信じろ。()いちまった御力水がどうなっちまったかなんてどうだっていい。そうだろ?」

 それぞれに(うなず)く仲間の中にあって、それでも不安を隠しきれないナナクサにジンジツが何とも(すご)そうな笑顔を向けた。

「助かった船員は、やがて曾々婆(ひいひいばあ)さんと婚儀(こんぎ)を交わし、その後、二百七年間()()げた。曾々爺(ひいひいじい)さんの奇跡は我が家じゃ、今でも語り草だ。こいつはどうだい」


               *

 一行は事故現場で(つい)に危険な朝を(むか)えることになった。もちろんタンゴとチョウヨウが待つ崖下まで急いで戻らねばならないが、一族の(おきて)として死者を葬らずに出発することも、またできなかったからだ。

 彼らは手早く船員の葬儀を()り行うことにして、皆その準備に入った。夜明けに追いまくられてはいたものの準備自体は簡単で質素なものだ。これはどの村、どの場所でも行われる一族共通のもので、遺体を太陽が昇ってくる所に安置して荼毘(だび)に付す。ただそれだけなのだ。

 夜明け前に準備を終えた五人は、体中を(おお)った遮光マントの中で、その時が来るのを待った。彼らから少し離れた雪上には、集められた船員たちの遺体や、その一部が整然と置かれている。

 遺体は斜めから雪原に差し込みはじめた太陽光にさらされた途端に青白い炎を吹き上げて次々と(ちり)(かえ)っていった。その荼毘(だび)の様子は遮光ゴーグルを通してさえ目を細めなければ、(まぶ)さに目を傷めそうなほどだった。

 五人は(こうべ)を軽く()れ、右手を軽く左胸に()える一族の挨拶(サルート)で敬意と弔意(ちょうい)を死者たちに伝えた。一握りの(ちり)となった船員たちは世界中を吹き渡り、そしてしかるべき土地で、しかるべき時期に、始祖(ごせんぞ)さまの加護によって、また新たに一族としての生を受けることだろう。

 短いながらも(おごそ)かに葬送の儀は終わった。いや、終わるはずだった。しかし荼毘(だび)に付されながらも、終わりを告げなかった遺体が一体あったのだ。遮光マントで顔が(おお)われていなければ、一様(いちよう)に息をのむ音がそれぞれの耳に届いたことだろう。

 ジンジツが船員服に包んで回収していた千切(ちぎ)れた腕だけが少しの炎も上げず、燦々(さんさん)と照りつける太陽の下で甲に刻まれた十字模様とともにその身を(いま)だ雪の上に横たえたままだったのだ。

「何の冗談なんだ、こりゃ?……」

 ジンジツの言葉は異口同音に、その場の葬列者たち共通の意見だった。

 一向に変化を見せないその腕に先ず近づいたのはジョウシだった。しかしさすがの彼女も、その腕を見下ろしはするが、気味が悪いのか、決して手に取って見ようとはしなかった。意を決して、直接それに触れて調べたのはタナバタだった。彼は、恐る恐る手に取ったそれの重さを確かめ、次に顔を近づけて薬師(くすし)の目で詳細(しょうさい)に調べ始めた。

「どう見ても、僕らと同じ人の手だ」とタナバタ。「作り物じゃない。太陽の光をまともに浴びても(ちり)(かえ)らないなんて……」

 ナナクサもその事実を認め、タナバタの横に(ひざまず)くと不可解な腕を凝視(ぎょうし)した。

「と言うことは、どういうことだ?」とジンジツのイライラとした声。

「僕にはわからないよ」と、タナバタ。

「お前、薬師(くすし)だろ?」

「タナバタに当たっても仕方なかろう、ジンジツ」ジョウシがやっと口を開いた。「事実を事実として受け止めるのみじゃ。これは、もしや……」

「じゃぁ、あなたも、そう思うのね。これがアレだって」と、ミソカが離れた場所から誰もが口にしない、その単語を(うなが)すように語を()いだ。

「子供を怖がらせる他愛もない伝説と思っておったが……」と、不安を隠せない声でジョウシが言葉を濁す。

(いにしえ)からの(かたき)……怪物……」

 ミソカがそうつぶやくと、五人は幼い時に大人たちから聞かされた昔話をそれぞれに思い出して身震いした。古代に行われたというガプラー・シンの大戦(おおいくさ)。|(いにしえ)からの(かたき)に壊滅寸前にまで追い詰められた一族は、始祖(ごせんぞ)さまの加護でこの(いくさ)に勝利を(おさ)めて怪物どもを一掃(いっそう)したと伝えられている。その後、この大戦(おおいくさ)の記憶は、風化してゆくのと反比例して数々の英雄(たん)や子供たちが眠る前の夜明け方に親から聞かされる怪物話に変容していった。(いわ)く、(はる)か彼方の土地には、この怪物の生き残りがおり、奴らに狙われた者は決して助からないと。また、奴らは太陽が輝く昼に活動し、眠っている一族の人間を串刺しにしたり、太陽の下に引っ張り出して喰らうこともあると。そして事故死が確認されず、行方不明になったデイ・ウォーク参加者の中には、不幸にも奴らと出会い、その餌食(えじき)になった者もいるらしいと。

「でも、これは(まぎ)れもなく、私たちと同じ人の手よね?」

「あぁ」と、タナバタがナナクサに(うなず)く。「確かにそうだ。もしかしたら、この(かたき)は……」

「我れら人の姿を借りるのやもしれん……」

 後を引き取ったジョウシの不吉な推測に誰も言葉がなかった。もしそうなら、奴らは仲間のように一族の人間に溶け込むことだってできるかもしれない。

「もしそうなら、報告しなきゃいけないな」

「報告?」と、ジンジツが発言者のタナバタに顔を向けた。

「ここには僕たち人間のモノとは明らかに違う腕がある。そしてそれが政府(チャーチ)の船の残骸から発見された。政府(チャーチ)の中に怪物が(まぎ)れ込んでいるかもしれない。この事故だって……」

政府(チャーチ)と言うても、その在所(ありか)すら知らぬぞ、我れらは」ジョウシは、そう言うとジンジツに視線を向けた。「そなたは家の者から聞いてはおらぬか。そなたの家は代々、船乗りであったのじゃろ、ジンジツ?」

政府(チャーチ)の場所は最高の秘め事だ。船員は家族であっても漏らすことは一切ない。もし漏らせば家族ともども太陽の下で火あぶりだ」

「でも」と沈着冷静なタナバタにしては珍しく食い下がった。「この事実は伝えないと。僕たちだけの問題じゃないよ」

政府(チャーチ)在所(ありか)がわからぬのじゃ、先ほど言うたであろう。(いた)(かた)あるまいに……」

 終わりそうにない議論に(ごう)を煮やしたナナクサがついに立ち上がった。(おさ)えてはいるものの声にはイライラとした気持ちが(にじ)み出ている。

「ねぇ。いま話していることの重大性はわかってるわ。でもタンゴのことも思い出して」

「でも、ナナクサ……いや、すまなかった。君の言うとおりだな。許してくれ」

「うむ。我れも最も大切なことを失念(しつねん)しておったようじゃ。許せ」と、タナバタに続いてジョウシも目を伏せた。「ここに怪物の腕があったとて、奴らが政府(チャーチ)の船を沈め得たとは限らぬしな。軽々(けいけい)に答えを出すものでもなかろう」

 皆、ジョウシの言葉の前半は真摯(しんし)なものだと感じたが、後半は彼女がそうあってほしいとの願望が口を突いて出たものだということを暗黙のうちに了解した。

「そうだな。だが奴らは実際にいると思っていた方がいいだろうな」と、ジンジツはジョウシを見やり、そして皆の顔を見渡した。

「この先、奴らに出会うことがあるかもしれん。いや、必ず出会うと思っておこう」

「出会ったら如何(いかが)する?」

「その時は……」

 ジョウシにそう答えると、ジンジツは怪物の腕とされるモノをタナバタから取りあげ、(いま)だにくすぶり続ける残骸まで持って行って炎の中に力一杯投げ入れた。

「そうね」と、ミソカが彼女らしくない予測を口にした。「闘うしかないかもね。少なくとも奴らも傷付くことだけは確かだわ」


               10

 ずきずきと脈打つ苦痛に苛立(いらだ)ちながら、新たな第一指導者(ヘル・シング)に就任した大男は部下たちに(うなが)されて闘技場までの長い回廊(かいろう)を無言で歩いていた。陽光が降り注ぐ透明な強化アクリル張りの回廊(かいろう)は空調を使わなくても温室効果で心地よい暖かさに包まれていた。第一指導者(ヘル・シング)は、そんな光の中を歩きながら何度も自分に言い聞かせていた。「この傷は歴史だ。これから歴史になるのだ」と。

 前の指導者も、その前任者も、その前の者も、過去の第一指導者(ヘル・シング)たちは、皆、()るべくして第一指導者(ヘル・シング)に就任しただけだが、自分は違う。始めの第一指導者(ヘル・シング)化け物(クリーチャー)どもと闘って受けた傷と同じものを、今日のため 、聖痕(スティグマータ)として自らの顔に刻み付けたのだ。彼にとってこれは今まで、だらだら続いてきただけの歴史に対する挑戦だった。自分の存在を全人類の記憶に深く焼付け、永遠に忘れえぬ英雄として君臨してやろうという揺るぎない決意の表れだった。だから誰に対しても一切の弱味を見せてはならないのだ。並の人間どもが持つ痛みなどもっての外だ。しかし人工子宮(ホーリー・カプセル)生まれであっても彼も人である以上、苦痛を全く(はい)することなどできはしない。ただ幸いなことに顔の大部分を分厚く(おお)う包帯が、ともすれば苦痛に(ゆが)もうとする顔を隠してくれる。しかし、(せわ)しなく前を歩く補佐長のコツコツという靴音は彼の心を逆撫(さかな)でし、その苛立(いらだた)たしさは意識の外に放り出そうとする苦痛を再び自分の(もと)へと呼び戻す。

 歩くたびに漏れそうになる(うめ)き声と、その苦痛に対する(ののし)りを押し殺すのに、彼は少なからぬ忍耐を必要とした。


               *

 第一指導者(ヘル・シング)を先導するレン補佐長は、今にもこの巨人に踏み殺されるのではないかという不安を(ぬぐ)い去れないでいた。なぜなら、その大股で容赦のない足音が怒りに満ち満ちていたからだ。おそらく顔に深々と刻み込んだ傷の痛みのせいだろう。必ず……いや、きっとそうに違いない。人の心を察知する敏感さに()けて補佐長にまで上りつめた自分でなくとも、それくらいの想像はつく。それほど新たな第一指導者(ヘル・シング)の体中から噴き出す痛みと怒りの激しさは彼の分厚いローブの上からもピリピリと感じられた。もし自分がこんな傷を身体に刻み込まれたら。そんなことになるくらいなら、清殉隊(ピューリタクス)に任命される方が何倍もマシだ。少なくとも死に伴う痛みは一瞬で終わるはずだからだ。

 レン補佐長は第一指導者(ヘル・シング)を護衛する屈強な戦士たちにチラリと目をやった。みな無表情な双眸(そうぼう)と岩のような体躯(たいく)を持ち、それでいて命令を盲信する熱意を体中から発散させている。こいつらは目の前の第一指導者(ヘル・シング)から清殉隊(ピューリタクス)に任命される日を指折り夢見ている、まさに狂戦士。まったく正気の沙汰(さた)ではない。

 彼は第一指導者(ヘル・シング)に気付かれないよう(かす)かに身震いすると、彼らから逃れるように歩く速度を速めて距離をとった。


               *

 広大な城壁に守られた城塞都市『カム・アー』。その中でも、この円形闘技場を内包する巨大な建物は、石とローマ式コンクリートで幾重にも包まれ、(いま)だに荘厳(そうごん)な美しさと堅牢(けんろう)さを誇示(こじ)し続けていた。その迷路のように入り組んだ内部。ちょうど中心区画の入り口に分厚い門扉(もんぴ)が三か所あり、その両側に大きな(やり)を持った二人の門衛が(ひか)えていた。回廊(かいろう)を渡って闘技場の前に到着した先導役のレン補佐長は、門衛に第一の門を開けさせると第二の門の前で、第一指導者(ヘル・シング)に向き直り、(うやうや)しく(こうべ)()れた。

「皆、あなた様をお待ちしております」

 包帯から一つだけ(のぞ)く左目で、第一指導者(ヘル・シング)は目の前にいる補佐長をギロリと一瞥(いちべつ)した。彼がびくりと首をすくめると、巨人は満足気な表情を左目に一瞬宿らせた。そして門衛が動くより早く丸太のような両腕を突き出し、目の前のドアを勢いよく開くと大股で闘技場の中へ一歩足を踏み入れた。

 一瞬の静寂(せいじゃく)の後、闘技場に歓声が(とどろ)いた。

 円形闘技場の中央に位置する天頂の明かり取りから一筋の太陽光が差しこんでいる。第一指導者(ヘル・シング)は歓声の中を、レン補佐長を(ともな)って太陽のスポットライトまで時間をかけて、ゆっくりと進んでいった。そして明かりの中に到着すると片手を上げて喧騒(けんそう)を制した。静まり返った闘技場を一通り満足気に見渡した彼は次に大理石のような両腕を(かか)げて猛獣のような声を張り上げた。

「いよいよ時が来た!」

 再び起こった歓声が収まるのを待って、第一指導者ヘル・シングは再び口を開いた。その包帯の中の隻眼(せきがん)は、集会場の壁一面に()め込まれた無数の巨大モニター画面の中で固唾(かたず)を飲んで待っている遠く離れた辺塞(へんさい)の一人一人にもゆっくりと向けられた。

「時は来たのだ。この世界を再び神の子の手に。再び人の手に。俺たちの時代に全ての決着をつけるのだ!」

 闘技場内に、彼の呼び掛けに(こた)える者たちの歓声と唱和(しょうわ)の波が充満した。

「武器もある!」

 第一指導者(ヘル・シング)の叫びに、モニター内の各所にも剣を振り上げる姿が踊った。

「究極の武器もだ!」

 その叫びが合図となって闘技場の床が大きく開き、巨大な凹面鏡(おうめんきょう)――アルキメデスの(ヒート・レイ)――が二台と巨像が三頭も入りそうな大きさの鳥籠(とりかご)状の(おり)。そして何かの品物が()ったテーブルがせり上げられた。歓声が一層大きくなると、(おり)の中のモノが興奮して暴れだし、丈夫な鉄格子を壊す勢いでガンガン叩いて揺すり始めた。一通りのお披露目(ひろめ)を終えると、第一指導者(ヘル・シング)は片手を上げて歓声を一挙に沈めた。

「そして俺たちには勇気がある!」

 第一指導者(ヘル・シング)は激痛をものともせず、顔面の半分以上を(おお)()くした包帯を片手で引きちぎった。闘技場全体に無言のどよめきが、さざ波のように走った。その反応を見た第一指導者(ヘル・シング)がニヤリと笑うと赤黒い瘡蓋(かさぶた)()がれ、血が床にぼたぼた(したた)り落ちた。彼は小柄な補佐長に呼び掛けた。

「レン補佐長」

 愚か者にしては大した扇動だ。第一指導者(ヘル・シング)はこうでなければならないという良い見本だな。だが、やりすぎては早晩(そうばん)、身の破滅に繋がるのだがな。と、第一指導者(ヘル・シング)の脇に(たたず)むレン補佐長は感情を押し殺してその光景を冷ややかに見つめ続けた。

「レン補佐長!」

 第一指導者(ヘル・シング)の怒声に我れを取り戻した彼は自身の迂闊(うかつ)さを呪いながらも、即座に自分の役目を思い出して、行動に移った。彼はテーブルの上から一抱(ひとかか)えもありそうな白い陶器(とうき)(ぼん)を持ち上げ、第一指導者(ヘル・シング)の前まで小走りで持ってゆくと、顔を伏せたまま(うやうや)しく、それを持ち上げた。第一指導者(ヘル・シング)は、陶器にかけられた布を勢いよくまくった。盆の上には、紛れもない化け物の腕があった。人間の腕とそっくりなそれは、だいぶ以前から暗所保存されていたためか、その色は狩られた時からますます青白くなっており、その表面に付いた霜がキラキラと輝いて青い宝石(サファイヤ)のように見えた。

「奴らを滅ぼせ!」

 言うや(いな)や、第一指導者(ヘル・シング)は化け物の腕を(つか)んで天窓から差し込む陽の光に(さら)した。(さら)された腕は、その表面全体から魔法のように水蒸気を噴き出し、次いで青白い炎に包まれた。指導者はその熱に耐えられなくなる前に腕を光の外へ出すと、(いま)だに(くすぶ)り続けるそれを振り回して声高らかに宣言した。

「行動を開始するのだ!」


               *

 大歓声の中、モニター画面が次々と消えてゆき、(ねめ)らかな鏡面へと変わっていった。集められた数百の戦士たちも次々と闘技場を後にし、三十分もすると闘技場は天窓から差し込む陽の光と静寂に包まれた。第一指導者(ヘル・シング)はレン補佐長や護衛たちに向き直った。レン補佐長は、この巨人がまた()にもつかないことを考えているのだろうと心の中で舌打ちした。彼は化け物の腕の匂いを()ぐと、にやりと笑ってそれを差し出した。補佐長は吐き気に()えた。聴衆もほとんどいないにもかかわらず、第一指導者(ヘル・シング)が何を望んでいるのか、すぐさま察しがついたからだ。補佐長は弱々しく首を横に振って拒絶の意志を伝えると深々と(こうべ)()れた。こんなことは蛮行であって、断じて勇気の発露(はつろ)ではない。ましてや何のパフォーマンスにもなりはしない。だが、それを伝えて彼の機嫌を損ねる愚行を犯す勇気もなかった。なぜなら、さきほど彼の呼び掛けを失念(しつねん)した失態があったからだ。

 第一指導者(ヘル・シング)は未だ水蒸気を発する腕にかぶりつくと、その肉を勢いよく噛み千切(ちぎ)った。角張った屈強そうな(あご)で、その肉を噛み砕いて()み下す間、護衛たちは(おそ)れと羨望(せんぼう)の入り混じった視線を彼に向け続けた。

「今度は我々が奴らを喰らう番だ。奴らの汚れた肉を我々の身体の中で浄化してやるのだ。そして古代の戦士のように、神に賞賛されるのだ」

 レン補佐長とすれ違いざま、第一指導者(ヘル・シング)は頭五つ分も低い位置にある彼の耳元まで身体を折り曲げると不快を(もよお)す声で(ささや)いた。

「好き嫌いはいかんな」生臭い匂いが、その口から漂ってくる。「ダイオウイカよりはイケるかもしれんぞ、こいつらの肉も」

 レン補佐長の後ろでは、巨大な(おり)の中で第一指導者(ヘル・シング)に投げ与えられた腕を硬い骨ごと噛み砕く、最終兵器の胸の悪くなる晩餐(ばんさん)が繰り広げられていた。


               11

大海獣(ン・ダゴ)だ!」

 自分の足よりも太くてしなやかな触腕(しょくわん)に巻きつかれたジンジツが、声を張り上げた。話に聞く大人しい雪走り烏賊(スノー・スクィード)とは違って大きさも凶暴さも桁外(けたはず)れだ。

 突然盛り上がり、ささくれ立った足元の氷は船員たちの荼毘(だび)の炎を飲み込んだかと思うと、次の瞬間、大量の海水と何本もの巨大な触腕(しょくわん)を地上に噴き上げた。若者たちの中で、この襲撃に即座に反応できた者は皆無だった。彼らは雪と氷の中に叩き伏せられたと同時に何本もの触腕(しょくわん)触腕に襲われた。

 ジンジツは犬歯と爪で、自分の首に巻きついた(とら)えどころのない紫色のぬめぬめとした触腕(しょくわん)に反撃を試みようとしたが、手袋と遮光マフラーが邪魔になって思うように攻撃ができずにいた。その(かたわ)らでは家宝のナイフで足首を絞め上げる触腕(しょくわん)の先端を、やっとのことでズタズタに切り裂いたジョウシが、その(くびき)から逃れたところだった。格闘しながらもジンジツは、刻一刻と氷の大地にぽっかり開いた巨大な(あな)に、じりじりと引き寄せられていく。もちろん(あな)の奥の海中には飢えた大海獣(ン・ダゴ)の本体が獲物を待ち構えているのだ。

 一行を襲った大海獣(ン・ダゴ)は遠い祖先のダイオウイカより何倍も大型で狂暴だった。本来、深海に()むこの頭足類は食料の(とぼ)しくなった棲家から(まれ)にではあるが海上に現れて獲物を襲うことがあった。おそらく昨夜、海中に没した飛行船(サブマリン)の残骸に残った遺体に味をしめたのだろう。より多くの食糧を得るため、ここぞとばかりに襲ってきたのに違いなかった。

 ジョウシは千切(ちぎ)れてもなおのたうつ触腕(しょくわん)の先端を遠くへ蹴飛ばすと、青く光る血の付いたナイフを握りなおして更なる攻撃に備えた。ジンジツはよく踏みとどまって善戦していた。(つか)んだ指先から手袋を突き破って、鋭い爪を直接相手に深く食い込ませ、その膂力(りょりょく)をもって相手を()じ切ろうとしている。

 離れたところで悲鳴が上がった。

 戦いながら誰もが、か弱いミソカのものだと直感したが、それは二本の触腕(しょくわん)に巻きつかれたナナクサのものだった。彼女は戦うどころか首と太腿を絞め上げられながらも両手を胸の前で固く組んでいる。しかも、その太腿は触腕(しょくわん)が持つ歯のある吸盤で(えぐ)られ、出血が(はなは)だしい。

「我れとしたことが、なんと迂闊(うかつ)な」

 ジョウシはナナクサが胸の前で守っている御力水(おちからみず)のことに思いが(いた)るなり、自身を(ののし)り、脱兎(だっと)のごとく駆け出した。ナナクサは自分のことより仲間のための希望を必死に守り抜こうとしていたのだ。ナナクサの横では、飛行船(サブマリン)の残骸にあった金属の棒を(やり)代わりにしたタナバタが彼女の首に巻きついた一本の触腕(しょくわん)をやっとのことで撃退したところだった。しかし後ろから襲ってきた新たな一本に(たた)き伏せられ、不利な体勢での防戦を余儀なくされていく。そんな中、抵抗も(むな)しく、ナナクサは今しも海の中に引きずり込まれようとしていた。ジョウシは彼らの後方に突き刺さる構造材の上にミソカの姿をチラリと認めたような気がした。

()(よう)か?!」と、走りながらジョウシが、彼女と同じく駆けつけたジンジツに武器のナイフをかざす。

「遠慮しとく!」と、引き千切(ちぎ)られても、のたうち続ける触腕(しょくわん)を投げ捨てたジンジツが勢いよくジョウシに応じる。

「さすがはリーダーじゃ!」

 戦闘の興奮からか、みな遮光マントを通してさえ感じられる太陽光がもたらす肌を(さいな)む痛みすら感じないようにみえる。特に戦闘本能を()き出しにしたジョウシとジンジツのコンビは(すさ)まじい破壊力を見せはじめた。彼らは息の合った連係プレイでナナクサを襲う触腕(しょくわん)に飛び掛かった。二人の働きで相手はあっという間にボロ雑巾(ぞうきん)のようになって撃退され、残った触腕(しょくわん)も不利を悟って次々と海中へ没し去った。そこへ金属棒を(つえ)代わりにしたタナバタが合流した。負傷した頭部からフード越しに血が(にじ)み出ていた。

「みんな無事か?」タナバタが呼吸を整えながら安否を確認した。「大丈夫かい、ナナクサ?」

 ナナクサは上体を起こすと、声にならない声で自分の周りに集まった仲間の顔に礼を述べた。しかし顔が一つ足りないことに気付くと足の痛みも忘れてその瞳に不安を宿らせた。

「ミ……ミソカは?」

「わたしは、ここよ」

 円陣の外から、すぐさまミソカの声がした。彼女はずっと前からそこにいたかのように超然と(たたず)んでいる。

「ほぅ、無事であったか」

「無事だよ」ジョウシの言葉をミソカは平然と受け止め、静かに反駁(はんばく)した。「何だか残念そうね?」

「残念どころか、清々(せいせい)しておる。これからお前には助けは()らぬであろうからな、方違へ師(かたたがえし)の子よ」

「助けが必要なんて、あなたに頼んだ覚えはないけど」

「確かにな。闘わずに退()いておるだけなら、そうじゃろう」

「ジョウシ」

 言葉が過ぎたジョウシはジンジツにたしなめられ、ばつが悪そうに引き下がった。

「さぁ」タナバタが雪の上のナナクサの横に(ひざまず)いた。「もういいだろう。ナナクサには助けが必要だ。君らには()らなくてもね」

 ジョウシはタナバタの嫌味に小さく溜息をつき、タナバタに手を貸そうとした。その時、その小柄な体をものも言わず、ジンジツがいきなり後ろから突き飛ばした。何が起こったか、ジョウシが理解できないうちにジンジツの体に太い構造材が打ち付けられ、その巨体がナナクサとタナバタを伴って瓦礫(がれき)の山に吹き飛んだ。雪の中に倒れこんだジョウシは強烈な力で胴が絞めあげられ、背中全体に鋭い痛みが走るのを感じて後ろを振り向いた。

 退散したと思っていた大海獣(ン・ダゴ)が執念深く、再び襲ってきたのだ。しかも今度は(あな)から胴体の一部を乗り出し、人のように道具を使ってずる賢く立ち回っている。触腕(しょくわん)の付け根の胴には人の頭ほどもある軟体動物特有のヌメヌメした四つの目玉と、硬い岩も難なく噛み砕くことができるような鳥の(くちばし)にも似た巨大な口吻(こうふん)が若者たちを喰い殺そうとガチガチ音を鳴らしながら待ち構えている。

 ジョウシは触腕(しょくわん)の吸盤に付いた無数の歯に背中を(えぐ)られながらも家宝のナイフを取り出したが、別の触腕(しょくわん)に叩き落とされ、強烈に絞め上げられて息もできずに意識が遠のいてゆく。そんな絶体絶命の彼女を救ったのは、またもジンジツだった。彼はジョウシに(とど)めを刺そうと大きくしなって振り下ろされた触腕(しょくわん)の一撃を、彼女を(かば)って背中で受け止めた。肋骨が何本も折れる痛みをものともせず、彼女のナイフを拾うとジョウシの胴に巻きつく触腕(しょくわん)に深々と突き立てると相手の青い血にまみれた顔で彼女に(うなず)いた。ジンジツの意図(いと)咄嗟(とっさ)に悟ったジョウシは力の入らない両手で突き立ったナイフを(つか)むと、お返しとばかり、右に左に(えぐ)りはじめた。

 だが腹を空かせた大海獣(ン・ダゴ)も必死だった。それでもジョウシを離す気がないと悟ったジンジツは触腕(しょくわん)に食い込ませた爪を引き抜くと最後の手段に訴えた。彼は左右の爪を自分の両方の上腕部に掛けると、分厚い服の(そで)を一気に引き裂いたのだ。太陽の光に(さら)された、しなやかで(たくま)しい両腕は一気に炎を吐き出した。苦痛の叫びがジンジツの食いしばった口から()れた。

「何をするのじゃ。やめろーー!」

 ジョウシの叫びを無視して、ジンジツはジョウシに巻きついた触腕と、彼を再度打ち据えようと振り下ろされたもう一本のそれを空中で(つか)むと、その両方を(かか)えこんだ。炎の中で触腕(しょくわん)が焼ける音と水蒸気が舞い上がった。

 大海獣(ン・ダゴ)口吻(こうふん)から激痛の咆哮(ほうこう)があがり、空気を震わせた。それは生まれて初めて経験する身を焼く炎に対する驚愕(きょうがく)の叫びであり、同時に恐れの表明でもあった。大海獣(ン・ダゴ)は傷めた触腕(しょくわん)とその巨大な体を水の中に引き込む時、四つの目で炎を上げる獲物に駆け寄るもう一匹の獲物を見た。駆け寄った獲物が自分の体でもう一匹の獲物の炎を包み込んで消し去り、互いに固く抱き合う姿も見た。

 凍てついた大海原を支配してきた大海獣(ン・ダゴ)の心は打ちのめされた。だが、そのとき生存本能よりも(はる)かに強い何かが心の奥底に入り込み、海の王者の自尊心(プライド)逆撫(さかな)でた。その何かはお前は今も広い世界の支配者だと(あらが)いがたいほど(あお)りつづけた。


               *

 ジンジツとジョウシは向かい合って(ひざ)を折り、黙って見つめ合っていた。今や仲間以上に敬愛し、互いを必要とする気持ちは遮光ゴーグルの分厚いレンズ越しにすら容易に伝わっていた。身を焼き焦がす激痛にもかかわらずジンジツの目がジョウシに微笑(ほほえ)みかけた。ジョウシも正直にそれに応えて微笑(ほほえ)み返した。

 二人の目の中には互いの姿の他は何も(うつ)らなかった。(うつ)る必要すらなかった。空気も音も止まった、そして時間も……。


 その瞬間、ジンジツの身体が風に(あお)られた綿雪(わたゆき)のようにふわりと浮きあがり、(あな)の中に引き込まれていった。

 それはほんの数秒の出来事だった。

 連れ去られる寸前、触腕(しょくわん)に捕まったジンジツの両手をしっかりと握って離すまいとしたジョウシは、自分の手の中で太陽に焼かれた若者の両腕が砂のように(もろ)くも崩れ去る感触を味わった。両腕を失ったジンジツは、彼の名前を叫びながら(あな)(ふち)まで追いかけてくるジョウシを見た。そして奈落(ならく)の底へ引き込まれて何も見えなくなるまで、好意を寄せた娘の瞳を黙って見つめ続けていた。ジョウシもまた初めて心を許した青年の瞳が深い海の底に消えてゆくまでずっと見つめ続けていた。

 暗く冷たい海面に、ジンジツが巻いていた遮光マフラーが揺れていた。

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