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浩之の実家、駒井家ではある事件がきっかけで、浩之が子供の頃は、金銭苦に陥り、ノートを買う金もなく、新聞広告の裏を一週間かけて使い勉強していた。
小学校入学時には学校指定の教材を買わなければならなかったが、その金を捻出するのにもかなりの苦労があったようだ。
それもそのはず、浩之の父親である和義は現在浩之が社長を務めている、駒井運送の創業者で社長であったが、社員の金銭横領が発覚し、浩之も同様に疑われ、信用はガタ落ち。
その事件後、和義は社長の座から退いた。
その後を継いだのは和義の父である光一郎であった。浩之からしたら祖父にあたる。
浩一郎は、大手製薬会社の常務取締役を任されていたが、和義が社長を辞任する半年前にその製薬会社を勇退していた。
光一郎は自身の身体に鞭打ってあまり知識の無い宅配における信用回復に奔走した。
大手製薬会社の常務取締役時の自身の評判と顔の広さも併せ、各方面から協力者が集まり、駒井運送の幹部には雑誌紙面に何度も載るようなやり手のメンバーが集結した。
光一郎が正式に社長に就任したのは年の瀬の迫った十一月末日。世間では決算等で今期の集大成だとラストスパートをかけている時期である。
そして年が明け、各社員が気持ち新たに出勤し、社内の大会議室に集まると、光一郎は新年の挨拶の後、皆に話した。
「皆に言っておきたいことがある。昨年末に私は社長に就任したわけだが、私の前代にして息子である和義の代に大きな問題が勃発し、今尚その影響を受けたあることは、皆が体感していることである。しかし、私は和義を責めるのではなく、賞賛したいと思う。周りの社員の顔を見てくれ。当時の社員がほとんど残っているではないか。数人は私の右腕になるであろう、気心の知れたメンバーを招いたが、総合的に考えると我が会社は和義の代よりもパワーアップしているではないか。事件を起こしてしまった当事者は決して許されるべきではない。そして発覚するまで気付かなかった会社の体制にも問題があることは明白だ。しかし、その中で私がこの会社の社長に就任しようと思ったきっかけはこの退職者の少なさだ。他社では考えられんよ。大きな問題が起き、先行き不透明になっている会社に居続けるのは並大抵の気持ちではない。皆はそのくらいこの会社に対して愛着があり、助け合いの精神、誇り、そして目の前の問題から目を背けず、逃げない強い人間の集まりということだ。自信を持とうではないか。この会社は立ち直る。私は確信している。今後、更なる困難が待ち構えているかもしれない。しかし、今のその気持ちを忘れないでほしい。そうすれば必ずや復活するであろう。そしてその時は事件以前よりも遥かに大きな運送会社になる」
しかし、その裏で駒井家では社員の給料捻出のため、自身の給料を極限まで減らし、ご飯を食べるのに精一杯であった。
その急転直下の生活の中、浩之、そして浩之の母親である美里は何一つ文句を言わず、父親である和義と祖父の光一郎を支え続けるのであった。
ある日、里美は浩之に言った。
「人生お金だけじゃないからね。確かに他の家に比べると貧しい生活をしているかもしれない。けどね、お父さんもお爺ちゃんも家では苦しい顔何一つ見せないでしょ。それは何故か分かるかい?」
「分からない。仕事が楽しいからかな。でも、仕事が楽しく思えるなら、会社がうまくいってるってことだよね。そしたらもう少し家にお金あるよね」
「そこなんだよ。目先のお金ばかり考えているとね、その周りで起きている変化にきづかなくなってしまうんだよ。今、お父さん達はその小さな変化を見つけたんじゃないかな」
「だから楽しいの?」
「直接的には違うけどね。朝起きて、仕事して、夜ご飯食べて、お風呂に入って、家族とお話しして寝る。こんな幸せなことはきっと他には無いよ。お金お金と言っている人は、この幸せに気付かず一生を終えるの。家族とご飯を食べることもお話しすることもせずにね」
「でもそれって、お仕事が忙しいからじゃないの?」
「確かに仕事が忙しいと家族との時間は取りづらくなるよね。でも、その中で家族との時間を少しでも取りたいと思えるかどうか。幸せを知っている人は、その幸せのために五分でも十分でも家族との時間を欲しがるの」
「そうなんだね。そういえばお金があってもその幸せを知らない人は、お金の使い道も無さそうだね」
「そうね。その考え方が出来るのなら、浩之も将来安心だよ」
「お父さんとお爺ちゃんを見てるからね」
浩之はこの幸せというものを一番念頭に置いて人生を歩んでいくことになる。
そして、光一郎その後、数々の思い切った策をとりながら、周りからのサポートも有り、会社を徐々に立て直していった。
そして、会社が再び軌道に乗り始めた頃、前社長で光一郎の息子の和義が部長職として駒井物産に復帰した。
自ら、社長、そして会社を退いた中で、再び同じ会社に復帰するのには、なかなかの覚悟が必要だったはずだが、和義は光一郎との話し合いを何度も重ねていくうち、覚悟を決めたようだ。
和義は社長を退いた後、光一郎が以前勤めていた大手製薬会社のLC製薬にて社長補佐として一から経営を学んでいた。
それもLC製薬社長の水村の心意気によるところが大きい。
警察沙汰があった会社の社長を自らの会社、しかも自分の右腕として会社に招くなどなかなか出来るものではない。
当然会社幹部から反対の意見も聞こえたが、水村は会議の中で幹部皆に言ったのである。
「彼が直接何かしたのかね。確かに社長として部下に会社の金に手をつけさせてしまったのは社長の責任もあるかもしれない。そういう意味では和義君の実力不足であろう。しかしだ、社長たるもの失敗をしなければ強くはならない。そして失敗をした人間は失敗を知っているから更に強い。そして光一郎さんを見ていたら分かるであろう。和義君はただでは起きんよ。何倍にも何十倍にも成長して起き上がるだろう。私はその手助けをしたい。そして和義君の頭脳、和義君という人間を私は借りたい。これは皆も聞いていることだと思うが、駒井運送さんはあの事件の後、退職者が事件を起こした当人だけだったそうだ。これには私は驚いたよ」
ここで一度、水村は幹部皆の顔を見渡すと続けた。
「正直現在の我々の会社の社員にそこまでの愛が会社にあるだろうか。もしかしたら、我々幹部も会社なら対する愛が足りないかもしれない。私にはまだ自信が無い。駒井運送さんが特例なのかもしれないが、実際にそこまで、社員に愛された会社があるのだから目指してみようではないか。同じ時代に生きた会社に出来るのだから我々にも出来るはずだ。そういったことで是非、和義君のノウハウをこの会社に取り入れたいのだ」
幹部達は何度も頷いていた。
駒井運送の事件後、退職者が事件を起こした当人だけだったという話は密かに有名になっていた。もちろん水村も知っていたし、幹部も知っていた。
しかし、そういう会社を本気で目指そうと思ったのはこの水村だけであったのではないか。事件が絡むと、その会社全てが駄目に見えがちだが、目先のことだけでなく、広い視野で物事を見る水村は駒井運送のポテンシャルをかっていた。
幹部も当初は難色を示していたが、改めて水村に熱く語られると、事件を起こした会社の社長といえど、マイナスより、プラスの方が遥かに大きいことに考えが変わっていったようだ。
当初日本の社会は、戦後の復興に向けて体を骨にして皆働いていた。
今でいうところの、過労死も数多く出ていた。
しかし、働かずもの食うべからずということわざが示すように、どれだけ働いたかを評価される日本の社会にとって、過労死は栄誉の一つにさえされていた。
そんな中、大手製薬会社の社長補佐になった和義は会社内に社員が休めるようにと、様々な工夫を凝らした。
談話室や今で言うカフェのようなものまで、設置した。そして、社員を二百人新たに入社させ、社員の負担減を狙った。
当時、就職難の学生が溢れて、優秀な人間も入社せず、細々とした生活を強いられていた。
そんな中での二百人規模の求人は当時、かなりの話題になり、それだけでもイメージアップに繋がった。
運送に一筋であった和義は、もちろん製薬会社での必要な知識は持ち合わせていなかった。
しかし、その手腕は、関連会社以外からも賞賛を浴び、一躍有名になった。
ある雑誌の取材で、社長である水村は和義のことを聞かれるとこう答えた。
「彼は、正直言うとそこまで我が社が扱っている商品やサービスの知識があるわけではない。それは当然で、全くの畑違いな業種の会社にいたのだから。しかし、私が彼と共に仕事をしたいと思った訳は、彼の人間力だ。我々幹部は、会社のことを考えると、どうしても金のことが第一になってしまう。そうすると、社員の生活や社員一人一人の状態が見えなくなってしまう。そんな中で彼は、社員の全てが見えている。要因は様々だ思うが、才能のようなものだと思っている」
そして、更なる実績を積み上げ、水村と共にLC製薬を最大手へと押し上げ、遂にその時が来た。
その日は台風が過ぎ去った真夏の猛暑を記録していた。
駒井運送の配達担当の社員達はこれからの配達のことを考え、少し憂鬱な気持ちでいた。
なんせこの猛暑である。体力と共に気力も削られていく。
この日、社員は出社したら大会議室に集まるように言われていた。
社員達が大会議室に行くと会議に使用していたであろう机や椅子は端に片付けられ、奥には舞台のような少し大きな台が置かれていた。
これから何が始まるのか。社員達はささやき合いながらその時を待っていた。
始業の時間と共に駒井運送の社長である駒井光一郎が入ってきた。
舞台に上がると社員達に向かって言い放った。
「これからの業務もあるから、私からの話は本題だけ言いたい」
社員達は社長の光一郎の普段と違う雰囲気に戸惑っている様子だ。
社員達にとって、光一郎の訓示は、社員達の気持ちを一気に最高潮に上げる魔法のようなものであった。
特に変わったことを言っている訳ではないのだが、光一郎の纏った雰囲気と聴衆の心に響くような抑揚の付けた話し方。
今日は、それが全く無いのであった。まるで国語の教科書を読んでいる学生のようだ。
「今日をもって私は社長を退くことを決めた」
社員からは戸惑いの声が上がり、途方に暮れたような顔をしている社員もいる。
それとそのはず、横領事件のあった時と社長の辞任の発表方法が似ているのである。
あの時も当時の社長であった、和義も壇上に上がると、本題だけを言い、頭を深々と下げて出て行ってしまった。
しかし、今日は会社の状況が、大きく違っていた。
そもそも、横領事件のような大きな出来事は起きていないし、光一郎の手腕もあり、駒井運送の業績はむしろ、右肩上がりになっていた。
所謂波に乗っている状況での社長辞任は社員の誰も予想していなかった。
しかし、光一郎は残念な顔はしていない。
どちらかというと、何かふっきれたような、マラソンを走り終わった時のような達成感に満ちた顔に見えていた。
「私の後任だが、皆も知っているこの人物が就くことになった。賛否両論あると思うが、皆で協力して更なる高みを目指していこう」
光一郎は壇上から降りると出口に行き、扉を開けた。
そして中へとその人物を招いた。
社員がその人物を認識した瞬間、嵐のような拍手と、雄叫びのような喜びの声があがった。
その人物は和義であった。
社員を辞任してから五年後のことであった。
和義の五年間のことは社員誰しもが知っていた。
日本全国で有名な人物になっていたのだからそれは当然だ。
社員からは和義が社長を辞任した当初から社長への復職の声が強く、光一郎が社長に就いていなかったら社員は社長に付いて行かなかったであろう。
和義はこの拍手と声を聞いた途端、涙を流しその場から動けなくなった。
光一郎もそんな和義の背中を押しながら涙を止められないでいた。
和義はやっとのことで壇上に上がると、まず深々と頭を下げた。
そして、頭を上げると話し始めた。
「ありがとう。この言葉しか今は浮かばない。何十回でも何百回でも皆に言いたい。ありがとうと」
和義は懐からハンカチを取り出し、何度も涙を拭った。
「私の前任者である光一郎氏と共に駒井運送は持ちこたえました。それどころか、更なる高みへ物凄い勢いで突き進んでいます」
社員は涙を流しながらも、和義の話に耳を傾けていた。
和義の声以外は、外の茹だるような暑さの中、必死に鳴いているセミの鳴き声のみである。
「そんな中で、私が社長へと復帰して良いものかと考えに考え抜きました。光一郎氏とも何度も話し合いを重ねました。そして、決心がついたのは、つい一週間前のことでありました」
社員の顔を見渡すと、なおも続けた。
「私はあの時、辞任したのが正解なのか失敗なのか。正直今でも分かっていません。しかし、先ほどの拍手と皆の言葉で私の心は、より固まりました。光一郎氏に会長に就任していただき、そして私が社長に就任し、更なる高みへと皆と共に進みたいと思います」
再び拍手喝采で、壇上を降りた和義は、光一郎と暑い抱擁を交わした。
後日、正式な就任式が行われ、和義の妻である美里と息子の浩之も呼ばれ社長復帰を祝った。
浩之はこの時まだ学生であったが、心に決めていた。
父さんのようになりたい。
どうなことがあろうとも、タダでは起きず、くじけず乗り越えられる大人へ。
まさか、その何十年後、浩之までもが苦難に立たされるとはこの時は予想だにしなかった。