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昨夜の出来事で、河川敷は一部封鎖され、男の日課であったサイクリングも新たな道を考えなければならなくなった。
しかし、男の住む家の周辺は、住宅密集地であるため、サイクリングに向いたような道は無く、しばらくはサイクリングは辞めようと男は思うのだが、日課としていたものを辞めるというのは、生活のリズムが崩れてしまいそうで少し不安になる。
事件発覚の二日後、警察が男の家に来て、事件当日のことをあれこれと聞いていった。
どこから聞いたのか、河川敷をサイクリングすることが日課だったことを警察は知っており、事件当日のことを詳しく話すことになった。
といっもサイクリング中に複数の光を見たとしか男は話せなかったが。
警察はその次の日も、そして、次の日も男の家に聞き込みに訪れた。ここまでくると男も訝しがり、「自分が疑われているのではないか」と思うようになった。
そして警察が再び聞き込みに来た時に男は聞いた。
「もしかして、俺疑われてます?」
この時、警察は二人で聞き込みに来ており、互いに顔を見合わせると年配の思われる男性の警官は
「一応、現場周辺の家々に聞き込みにまわっており、まだ誰かを疑う段階ではありませんので」
と言い、事件当日の男の行動を詳しく聞いていった。
警察はそう言うが、男の素人目にも疑われているのは明らかで、家の周りに警察が張り込んでいるのではないかと外の様子を少し窺ってしまった。
そして、男は昔の苦い記憶を思い出さずにはいられなかった。
男は当時十七歳の高校三年生の普通の学生であった。
季節は夏になっており、男の家の周りでは、夏休みであろう子供達が朝早くから外を元気に走り回っており、時折喧嘩しているのか女の子の泣き声までもが、男の耳に届いていた。
高校生であった、男には夏休みをゆっくりと過ごす暇はなく、補習や受験勉強で一日の大半を過ごしていた。
その当時、男には他の高校生もそうであるように、男にも同様思いを寄せる女子生徒がいた。その女子生徒と男はクラスは別であったが、帰り道で会うことが多く、会えば挨拶をしたり、雑談をする仲であった。
男にとっては、高校一年生の時に帰り道で笑いながら友達と話しているのを見掛けたときから好意を寄せていた。所謂一目惚れであった。
何の意識もせず、只々毎日同じ道を通っているだけなのにばったり会うことが多く、話しかけてきたのは、その女子生徒の方であった。
「よく一緒になるね。お家この辺りなの?」
男は緊張してしまい、喉に何かが詰まってしまったかのように、言葉が出てこなかった。何とか絞り出した言葉は「はい」である。なんとも無愛想に映ってしまったか。男は心配になるが
「はいって、私、先生じゃないんだから。面白い人だね」
と言って女子生徒は微笑むのであった。
その笑顔に更に緊張してしまった男は、その後何を言ったか分からないまま、いつの間にか女子生徒と別れ、家に帰っていた。その後も、その女子生徒とは何度も帰り道に一緒になり、男も少しは緊張無く話せるようになっていった。
すると、学校でもお互いを見つけると、話しかけるようになった。大抵は女子生徒の方からであったが。
逆に学校で男からはあまり話しかけることはなかった。
というのも、男は授業以外の時間でも教室からあまり出ず、本を読むことが多い生徒であった。
教室から出る時は図書室に行っているか、天気の良い日に屋上で読書しているかである。
夏休みに入ろうかという日に男はいつも通り屋上で読書をしていた。真夏の照りつける日差しの中、屋上で読書するのは、男ぐらいであるが。
「よくこんな暑い日に屋上にいられるね」
女子生徒は本の目線までしゃがみこみ男の顔を覗き込むように満面の笑みを見せていた。
男は本から目線を離さずに少し驚いて見せた。
「屋上に来るのは、君ぐらいだよ。屋上にいる時は、誰にも邪魔されずに自分の好きなことが出来るからね」
と言ったものの、その女子生徒から返事はなく、本の下から見える足元のみが、女子生徒がそこにいる証のようなものであった。
すると、その足元に少しは水滴が二滴三滴とこぼれた。
この晴天に雨が降るわけもなく、不思議に思った男が本を閉じ、女子生徒を見ると、その女子生徒の制服はボロボロになっており、唯一きれいなのは、男から先まで見えていた足元ぐらいであった。
驚いた男は戸惑うも、すぐに状況を飲み込み、女子生徒に何があったのか問うも、女子生徒は何も言わずに、男の胸に顔をうずめて泣きじゃくるのであった。
次の日から、その女子生徒は学校に来なくなった。もちろん帰り道に会うこともなく、男はその時始めて学校の職員室に足を踏み入れた。
当時男の担任だった教師は定年間近の男性教師で、少し気難しいところがあり、生徒の間ではあまり評判は良くなかった。
しかし、授業も淡々とこなす男にとっては、教師が誰であってもあまり関わることがなく、その担任教師のことも何とも思っていなかった。
男が職員室に顔を見せると、その担任は驚いた顔をして、さすがのベテランである。直ぐに何かあったのだと察知し、その時間帯空いていて、生徒があまり来ないであろう、進路指導室に男と共に入っていった。
「どうした、職員室に顔を出すのは珍しいな。初めてではないか?」
男は下を向き、何から話したら良いのか、中々口を開こうとしない。
「黙っていたら何も分からないぞ。でも、先生は嬉しかったな。一人の生徒が職員室に訪ねてくるなんてな。若い時はこれでも生徒に人気があって、生徒達がよく来ていたんだぞ」
と担任は笑うのであった。もちろん男の緊張をほぐすためである。
しかし、男は下を向いたまま何も語れず焦れた担任は単刀直入に聞いた。
「いじめか?そして、当時者はお前ではないな」
言い当てられて、驚いた男はその担任の顔をまじまじと見てしまった。どうして分かったのか。いじめが分かったとしても、当時者が自分でないと見抜いたその担任に男は只々驚いていた。
「いじめと確信したわけではないのですが、ある女子生徒か顔を腫らして僕の目の前に来て、泣き出したんです。そして、何があったのか何も言わずに。そしたら次の日から見掛けなくなってしまったんです。学校に来てるかどうかも分かりません」
男は何とか言葉を絞り出した。太ももの上に置いていた手の甲に何滴も落ちてくる水滴を見ながら。あの屋上の時と違うのはその水滴が自分の目から出ているということだ。
「いじめがあると、その当事者はまず教師のところには来ない。両親にも相談しにくいだろう。だから気のおける友人にまず話す。そうすると、いじめは発覚しない。その友人もいじめの標的にされるのが怖いからな。何も行動に移せんのだよ。そして、大抵は何も無かったかのように学校に来なくなる。」
だが、と言って担任は言葉を続けた。
「その友人が勇気を持って、自分の両親や俺達教師に話してくれたら、状況は変わってくる。それが解決の糸口になる」
担任は席を立ち、下を向いた男の所にいくと、頭を撫で、「よく俺のところに来た。これはすごい勇気だ。見直したぞ」と何度も何度も頭をくしゃくしゃにするのであった。
その後、男は担任に女子生徒の普段の様子やどういう生徒だったかを話した。といってもクラスも分からなければ、交遊関係も分からない。
あまり詳しく話せなかったと思ったが、担任教師は「よく参考になった」と言って、話は終わった。
校門まで担任教師は男を送っていき、最後に言った。
「この後、職安会議があるから議題に挙げてみよう。しかし、お前の話で、ある程度の見当はついている。学校に来ていない生徒は、何十人もいないからな」
男は驚いたような表情をするも、直ぐに冷静な顔になり
「クラスや名前は、知らないでおきたいんです。彼女本人から直接聞きます」
と言って帰路に着いた。
その後職員会議でどういう話し合いが行われたのか、男は担任教師に聞くまで、悶々とした時間を過ごした。
次の日、補習があったので学校に行くと、担任教師が校門の所で男を待っていた。
再び男と担任教師は進路指導室に行くと、「補習があるだろうから単刀直入に言うぞ」と言い、昨日の職員会議で判明したことを話し出した。
「まず、学校には来ていない。おまえの言う通りずっと休んでいる。理由は体調が悪いということになっているが、もう一週間近く経つから、神田川先生がお宅に訪問して様子を窺うことになっている」
と桜川は男の反応を見るように、一拍おくと、腕を組み何かを考えるような顔をして更に続けた。
「そして、最近の彼女の様子だが、やはり少し変わっていたようだ。交遊関係ではなく、彼女自身のことのようだ。あまりこういうことは教師である俺の口から言うべきではないが、お前には知る権利があると思うから言うが、最近成績が著しく低下していたみたいだ。神田川先生の話ではそれとなく彼女に聞いてみたが、スランプみたいとあまり気にしていない様子だったようだ」
男はずっと下を向いていたが、顔を上げると赤く腫らした目で桜川を見つめると
「そんなわけないです。成績が急に悪くなることなんてよくあることではありませんか」
桜川は更に考え込むように下を向くと、意を決したように男に向けて話し出した。
「実は神田川先生も今まで調査をしてきた。俺も含め教師歴の長い先生方は色々な生徒と接してきて、成績が急に下がった生徒は何人もいた。実際、その生徒達は交遊関係、そして家庭内で問題があった」
男は何かを言いたそうに口を動かそうとしたが、桜川が手で制し、更に続けた。
「お前の言いたいことは分かる。交遊関係は前々から神田川先生と学年主任の三沢先生で独自に調べていたそうだ。でも、彼女は明るく活発で、友達も多く、いじめの痕跡がこれっぽっちも出てこなかったそうだ」
でも、と男は身を乗り出すようにして桜川に言った。
「彼女は実際に目を腫らして僕の前に現れたんです。あれは何だというんですか」
桜川は一息つくと、「悪い」と謝った。
「もったいぶった話になってしまったかな。職員会議後、私と神田川先生と三沢先生の三人で彼女のクラスノートを見てみたんだ。俺のクラスでも皆に配っているノートと一緒だ。お前は一回も書いてきたことがないがな」
そして、そのノートのあるページのコピーを男に渡し、更に続けた。
「ちょうど今から三ヶ月前になるが、そのくらいの時期に私のお勧めの、ある作家さんの言葉です。と、こう書いてあった」
世の中には自分だけでは乗り越えられない壁が山ほどある。
しかし、皆と力を合わせればその壁を乗り越えることが出来るかもしれない。
もしくはその壁を壊すことも出来るかもしれない。
それを他力本願という人は悲しい人だ。人といる悦びを知らない人だ。
人に頼るのではない。協力するのだ。
人任せになってもいけない。それは協力ではない。自分、そして皆で頑張るのだ。
人といる悦びを人も、一人でいる悦びを感じているかもしれない。
しかし、それは人といる悦びを知らないからだ。ちっぽけな悦びしか味わえていない悲しい人だ。
そのためにも自分ではない誰かが高い壁に挑戦していたら協力しよう。
一人が協力すれば二人、三人と自然と増えてくる。一人目になれ。そうすれば悦びも倍増する。
悲しい人になるな。悦びを味わえる人になれ。
「彼女はこの詩の最後にこう書いてある」
先生、私には幸せなことに、協力し合える友達がたくさんいます。でも、先程の詩にも出てきた「高い壁」の存在を伝えて協力し合える友達がいませんでした。
その「高い壁」は私にとってはるかに高すぎるからです。詩にもあったように私も努力しなかったら、それは「人任せ」になってしまう。
だけど、私は見つけられそうです。
そのあまりにも「高い壁」を一緒に乗り越えることの出来る友達が。その友達はあまり多くは喋らない人です。
だけど私という人間と紳士に向き合ってくれます。そんな友達とこの「高い壁」に挑もうと思います。二人目、三人目来てくれるかな。
男は、目の前に自分の担任教師である桜川がいるかとを忘れ、ひたすら泣いた。
何分間泣いたであろうか。桜川が進路指導室から席を外したのにも気づかないまま泣き続けた。
桜川が進路指導室から出ると、廊下で女子生徒の担任である神田川と学年主任の三沢が神妙な面持ちで待っていた。
「やはりあの高い壁の友達とは彼でしたか」
学年主任の三沢は腕を組み、ほっとしたような、悲しいような面持ちで言った。
神田川は下唇を噛み、悔しそうに言った。
「全く気づきませんでした。この文を見たときにもっと彼女に寄り添うべきだったのかもしれません。彼女の高い壁を一緒乗り越えること人になれなかったです。彼はこの文を見終わった瞬間に泣き出したんですよね」
桜川は頷くと、しかしと言って神田川に「私達は教師です」と言って続けた。
「彼女のいう高い壁を共に乗り越える人間は、教師ではあってはならないのです。彼女達生徒は、この高校生活が終わってしまったら、新たなステップを踏み出さなければいけない。そして私達教師は、毎年何百人もの生徒を世の中に送り出さなければならないのです。」
桜川は遠くを見つめるような目で更に続けた。
「協力し合える人間が教師になってしまうと、卒業後彼女達生徒は、教師の分その人間の数が減ってしまう。それは彼女にとってとても悲しいこと。教師はその人間を見つけられるように協力しなければならない」
桜川は神田川の肩に手を置くと、再び「私達で協力出来る人間を見つける協力をしよう」と言って神田川に向かって頷いた。
神田川と三沢が職員室に戻るのを見届けた桜川は再び進路指導室へと戻った。
男は泣き止んでいたが、何か考え込んでいる様子で机の一点を見つめていた。
「何があったのか教えてくれないか。彼女の目の痣以外にも何かあるのだろう。でなければお前のその反応はいくらなんでも変ではないか」
そういうと、桜川は机の傍らにあったティッシュを男に渡した。
「何があったか。ある程度の確信を持つまでにはいたってないのですが」
男はそう言うと彼女のことについて話し始めた。
桜川は話を聞きながら、何ともやるせない気持ちになった。
途中、何度も目を潤ませながら、桜川は男の話に耳を傾けるのであった。
男は長い間、何度もつっかえ、涙を流しながら話した。なかなか誰にも言えなかったことを。
おとこには「高い壁」を越えることに協力してくれる人がいなかったのである。そして、今回その「高い壁」はその女子生徒となって男の前に立ちはだかった。
そう、女子生徒にとっての「高い壁」を越えることに協力する前に、男には自らの「高い壁」がそこにはあったのである。
桜川と男はその後、日が暮れるまで、女子生徒のことを話し合った。
神田川には教師は協力者にならない方が良いのではないかと言ったが、桜川は思うのであった。
――教師である以前に一人の人間として、男の「高い壁」を越える協力がしたい。