長く雨の続いた日のおはなし
長く長く雨の降り続いた日のこと。
その御山に住まう土地神の杏様は大変飽いておられました。
雨ばかりでは外へ散策というわけにもいかず、女官に言われたとおり御殿にじっとしているだけです。
杏姫様は見目は六歳になるかならずかの童女でございましたが、この御山の土地神となられてすでに百年を越えようという齢になられます。
正に見かけによらない、とは、このことでございましょう。
杏姫様はふぅ、とため息をついて、御簾越しに空を見ました。
雨はしとどに降り注ぎ、止むことを知りません。
「飽いたな」
杏姫様がそう申しますと、下座に座しました家臣たちは
「さても、さても」と顔を見合わせます。
その様子に痺れを切らしたのか、すっと立ち上がりました杏姫様は、御簾を払うと、つい、と扇を前に差し出しました。
「誰ぞ、あの厄介な雨雲を払う者は居らぬのかえ?」
「……それはなりませぬ、姫様」
傍に控えていた乳母やに諌められて、杏姫様は不思議そうな顔をしてそちらをご覧になられました。
「何故じゃ」
「あれは、東の龍神の涙にございます。無下に打ち払おうとすれば、この御山に災いがございましょうぞ」
「……そうかや」
ふぅむ、と一思案をして、けれど杏姫様はまっすぐ外をご覧になって、乳母やに仰せになりました。
「けれど、乳母や。こう雨が降り続けば如何な御山とて無事ではあるまい。草木はしおれ、獣たちは病んでしまおう」
ため息を交えて杏姫様がそう申しますと、乳母やは困ったように頬に手を添えます。
その様子をじっと眺めていた杏姫様でございましたが、ふと、思い立ったように広げていた扇をぱちんと閉じて、広間の方を向き直りました。
「誰ぞ、雲を用意致せ!」
「姫様?」
「これが龍神の涙じゃと言うのならば、その涙を止めればよいだけのことであろ?」
「そうではございますけれども……」
「誰の手も煩わせる必要などない。わらわが直接行って話をつけてこよう」
こうして、杏姫様は遠くお空の上へと参りました。
「さて、どちらに居られるのか」
続く黒々とした雲の上を歩みながら、杏姫様が辺りを見回しておりますと、しくしくと泣き伏せる童子の姿がございました。
「……龍神殿?」
取って食われるのではないかと、恐る恐るお声をかけますと、童子は顔を上げました。
泣き腫らした瞳は金、たてがみの様な髪は銀色にきらきらと輝いております。
「誰ぞ?」
「わらわか? わらわはこの下にある御山の土地神じゃ。杏、と申す」
「……あ、んず」
「そうじゃ」
しゃくりあげる動作を繰り返す童子と同じ目線になるようにしゃがみ込むと、童女のお姿の杏姫様は手を出すことも出来ないのでそのまま問いかけました。
「御名は何と?」
「東風」
「東風殿か。よい名じゃな」
にっこりと杏姫様が微笑まれますと、甘い柔らかな香りが辺りを包み込みます。
目をしぱしぱとまたたかせて、東風と名乗った龍神の童子は杏姫様を見つめました。
「何ぞ?」
あんまり驚いた顔をされていたので、杏姫様は小首をかしげて童子を見ます。
「花の、香りが致す」
「おお。うっかりしておった。わらわが笑うと花が咲くのじゃ。これ、この様に」
そう仰られて、もう一度にっこりとしますと、ぽんぽんぽんと、小さな白い花が咲きました。
甘い、よい香りが致します。
「そのせいじゃな」
「杏殿」
「よいよい。龍神殿に「殿」と付けられるほど、わらわの徳は高うないぞよ」
「では、杏姫」
「まぁ百歩譲ってそれならよいな」
「私も、竜神殿と呼ばれると、心もとない」
「では、東風殿、とお呼びしてもよろしいか?」
「うむ」
そして二人、並んで雲の階に腰掛けると、ゆっくりとお話を始めました。
「天帝様は、私が、元服したので、龍神にと」
「ほう。それはめでたきことじゃな。まだ若いのに」
「見目と同じではないぞ」
「それはわらわとて同じじゃ」
にっこりとまた杏姫様が微笑まれます。
花がひらひらと咲き誇り、ささくれ立った東風の龍神の心は知らず和んでおりました。
「母者や、父者が恋しいか?」
杏姫様はどこか遠い眼をしながら、そう問いました。
東風の龍神はこくりと頷き、杏姫様を見つめます。
「杏姫は?」
「わらわか? わらわの両親はもう、随分と前に離れてしもうたからの。どうしておるのか分からぬ」
「そう、か。私は、ひとりで寂しくて、泣いていた」
そこで杏姫様はようやく合点がいきました。
東風の龍神は寂しくて寂しくて、泣いていたのです。
「なぁ、東風殿。ひとりでは、ないぞ?」
その言葉に驚いて東風の龍神はきょとんと致しました。
「わらわもひとり、東風殿もひとり。ひとりとひとりが一緒におれば、ふたりじゃ。ひとりではあるまい?」
にこりと笑って、さらに杏姫様は続けます。
「泣いてばかりおったら、目がとろけてしまわれる。泣いてはいけない、ということではないのじゃ。ただ、あんまり東風殿に泣かれると、御山が大変なことになるのでな」
「あっ」
そう言われて、はっとした顔になった東風の龍神に、杏姫様はよいよい、と首を横に振りました。
「もし、また泣きたくなったら、わらわの御山の御殿にお立ち寄り下さればよい。もてなしもしよう」
「……そうしたら」
「うむ?」
「そうしたら、杏姫も寂しくないか?」
「……ああ、そうじゃな。東風殿が来てくれると思えば、お務めも苦ではあるまい」
そうして、杏姫様は東風の龍神とゆびきりをしました。
暗くどんよりとしていた黒雲は、すでに白い透明な色に変わりつつあり、空には虹がかかっておりました。
それから、日に何度も東風の龍神は御山を訪れるようになりました。
変わらず、杏姫様は彼を出迎え、御殿は活気に満ち満ちておりました。
そして。
「杏姫」
もう、幾年経ったのか、忘れてしまった頃。
すっかり青年の姿になり、美丈夫と謳われる東風の龍神は、童女のまま姿の変わらない杏姫様の前に膝をつき、請い願う様に申しました。
「どうか、私の、伴侶になって下さらぬか」
「何を呆けたことを仰るか」
杏姫様はそう言って、一蹴りに致します。
ここのところずっと、東風の龍神は御殿を訪れては、何度も何度も、そう願い続けてきました。
「わらわは天神ではないぞ?」
「知っております」
「人がこの地へわらわを奉じたのじゃ。齢が七つにならなかった故、御山の主様がわらわを土地神に封じただけのこと。わらわは六道輪廻の輪からも外れた、ただの人外じゃ」
むかし、むかし、のことを、杏姫様は淡々と語ります。
「人外なのは、私とて同じですぞ?」
「そうではなく!」
「すでに千年が経ちました。すでに、杏姫の御魂は精霊に近いのです」
「だから何じゃ」
「私の伴侶にしても、申し分ない、ということです」
まるで人の話を聞こうとしない東風の龍神の言い草に、杏姫様は小さな頬を膨らませました。
「本当に聞き分けないの!」
「それは杏姫も一緒です」
ふわり、と。
杏姫様を抱きかかえ、同じ目線になって東風の龍神は微笑みました。
ずっと、ずっと、一緒に。
寂しさを分かち合ってきた、愛しいひとを見つめて東風の龍神は再度願います。
「どうか、私の伴侶になって下され」
「いやじゃ、と申したらどうする」
「私はもう、杏姫以外の伴侶を迎える気はござらん。それだけの話です」
「脅迫じゃ、それは」
「そうかも知れませぬ」
くすくすと笑う東風の龍神に、仕方の無い、と小さく杏姫様は呟きました。
それから、にっこりと笑って。
最初に出会ったときと変わらぬ、春の花の香りをさせて、東風の龍神と向き合いました。
「後悔しても知らぬからな」
「杏姫を伴侶に選べない後悔より、酷いものはありませぬよ」
その日。
御山からは東風の竜神の空の御殿へと、美しい虹がかかりました。
花嫁道中はゆっくりと、その上を進んでまいります。
幸せそうな二人を祝福するように、空は青く青く澄んでおりました。
長雨は、久しく降る気配もないようです。
おしまい。
ちょっと息抜きに昔話のような古典のような恋愛話を。
杏姫様と東風の龍神様のお話を深く書いてみるのも面白いかなぁ。