100円で救える命
この世界には100円で救える命がある。
そんなことが書かれた広告を、私は駅前で眺めていた。
それなりの仕事に就き、それなりの立場で働く私にとって、100円を稼ぐのは時給換算しても3分とかからない。
悪く言ってしまえば端金だ。
だが、そんな金で救える命があるらしい。
それ自体は素晴らしいことだ。
毎日救えば一ヶ月で数十人、一年続けば数百人を救えることになるだろう。
大変素晴らしいことだと思う。
だが、私はそこまで熱心に募金する気にはなれない。
人を救うのが嫌だから? いいや違う。
100円が大金だから? いや、それも違う。
では、なぜ救わないのだろうか?
どうせボランティア団体がちょろまかすだけだとか、焼け石に水だとかもあるが、それよりももっと単純な理由だ。
その答えは、私の心のどこかで"それ"が意味の無い行為だと認識しているからだ。
100円で何回かの食事はまかなえるだろう。あるいは、何人分かのワクチンが打てるのだろう。
だが、それで何が変わるのだろうか。
いやきっと何も変わらない。
被災地に送る義援金は、いつか私が被災した時に回り回って元に帰ってくるかもしれない。
あるいは、恵まれない子供達や難病の子供達に寄付をすれば、いずれその子供達が立派な大人になって社会に恩返ししてくれるかもしれない。
相互扶助の精神が織り成す美しい共存関係だ。
だが、"これ"ばかりはそういった気概が微塵も感じられない。
私が物心ついた時から、彼ら彼女らは100円で命を救われていた。
それから数十年経った今でも、彼ら彼女らは100円で命を救われている。
おそらく数十年後も100円で救われているだろうし、私が死ぬ瀬戸際までになっても、やはり100円で救われているかもしれない。
底の見えない穴に、ひたすら100円玉を放り込んでいくような感覚といえば良いのだろうか。
地面に落ちた音はしないので底についたのかは理解らないし、放り込んだ影響で穴はどうなったのかもわからない。
この状況を一言で言えば、『虚無』だ。
この虚無が生み出す空気感はどこか不気味で、それがいたる所に点在していると思うと、一種の恐怖感すら覚えてしまう。
だから私は、この100円で彼ら彼女らの命を救うことは出来ない。
だが、こんな私でも今すぐに100円で救える命がある──。
そんな事を思いながら、今日も馴染みの店で100円の温かいコーヒーを買った。
このコーヒーは間違いなく、今日の私を救ってくれるだろう。