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突然、海上に巨大な白い翼が現れ、迷信深い船員達の多くは恐慌に陥っていた。慌てて船を動かしてその場から離れようとする者、何かに隠れようとする者、それはイングリアの士官達も例外では無かった。
「提督!」
「あれは何だ?兵士たちを鎮めてくれ。セドフ」
互いに顔を見合わせながらも、事態の把握するために指示を出そうとしたセドフの目の前でシスヴァリアス提督が胸を押さえてうずくまろうとしていた。その顔色は蒼白であった。
「大丈夫ですか!?」
「いや……何でも……」
シスヴァリアスはその胸に突如沸き起こった不安の正体が掴めずに、困惑した。
「なんだ、なんだ!?どうなっているんだ!?」
<我が女神号>でも出現した翼によって混乱が引き起こされるのは例外ではなかった。それでも、必死にエディラを守ろうとする気持ちが恐怖に勝っていた。相手がこの出来事に気を取られているうちに何とかエディラを安全なところへ移動させたかった。エスメラルダはそう思い声を出そうとした時、自分が激しく涙している事に気がついた。胸の奥が刺し貫かれる様に痛い。これは、失った痛みだと感じられた。息もつけない痛みの中、顔を上げるとエディラが激しく硬直しているのが見えた。そのエスメラルダの様子から気づいたサグレスがエディラを揺さぶるが、目を開けたまま意識が無い様だった。
その時、<我が女神号>の獅子と女性の船首像がめりめりと大きな音を立て、女性の像が剥がれ落ちた。そして獅子像が金色に輝きひとつ咆哮するとその獅子が船首から離れ空中へ昇っていく。それは空中高くで停止し、強烈な光を放った。辺り一面目がくらむ光に包まれ、その後には大剣がひとつ宙に浮いていた。それはちょうどエディラの真上で停止している。
「あれは何!?」
城壁から戦況を見守っていたソルランデットは傍のミルチャーに問いかける。ミルチャーも目の前に起こる現象に目を瞠る。
「わかんないよ。それよりお前、胸が痛いのは大丈夫なのか?」
やや心配そうなミルチャーにはとても痛い事は伝えられず、海上に目をやり続けるソルランデットはまた別のものを見つけた。
「あれ……」
それは、船のメインマストを遥かに超える水の壁が湾全体を囲みつつ立ち上がるところだった。水の壁は海面から上空へと流れ昇り、光る大剣を囲んでいる様だった。そして、その壁の後ろには巨大な人影が現れた。そこには海王が憤怒の表情で壁の中をにらみつけている。
(我が養い子を殺めたな)
海王の怒りがそこにいる全てのものに響き、伝わった。