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夜明けにはまだ、幾ばくかの間があった。波の音を遠くに聞きながらシークラウドは薄ぼんやりと目を開ける。その瞳に映るのは静まり返った薄明の室内だった。瞳の色が違っても見える景色に違いがないなんて不条理だな、などと眠った頭で考える。じきに港の喧騒に包まれる朝になるはずだが、今、彼は一人きりだった。
(改修も大方済んだし、後は仕入れぐらいか……今日は一日のんびりだな)
シークラウドは再び目を閉じた。そのままゆっくり眠りにおちいる寸前、不意に騒々しい音が耳に飛び込んで来た。すぐに馬車が飛ばしていると聞き分ける。
(何かあったな。どっちだ?)
シークラウドは飛び起きると、すぐさま甲板に向って駆け出した。
車内は恐慌状態におちいっていた。
「後は、心臓を強く押すんだ」
そう言って、心許なげにシナーラがエスメラルダの胸に手を当てる。
「何にもならないぞ!?その先は?」
「え……?」
兎にも角にも僅かな知識を総動員してエスメラルダを救おうとするが、震える手元は覚束無い。シナーラは必至にサグレスが溺れた時を思い出してみるが、あの時も動転していて順序良く思い出す事も出来ない。エスメラルダの口から吹き込んだ息が虚しく漏れ出すのを見てサグレスがいらいらと先を促す。
(あの時は、あんなに上手くいったのに)
脈を取ろうと手を取っても、自分の手の方が震えていて脈を取るどころではない。それに、自分が取っていると思っている脈は実はとっくに止まっているのではないかという恐怖が頭をかすめる。一方のサグレスの方も呼吸を見ようにも、エスメラルダの呼吸が余りに弱すぎてともすれば止まりがちな事に気が気ではない。
「どうすれば……」
既に冷たい感触のエスメラルダに絶句するサグレスにシナーラは絶望的な顔を見合わせるだけだった。
胸の潰れそうな恐怖に終止符を打ったのは御者の一言だった。
「着きました!」
直後にガタンと大きく揺れて馬車が止まる。サグレスが慌てて馬車の扉を開けると、目の前には<我が女神号>が聳えていた。
「どうした!?」
上から声と共に人影が飛んで来た。それが文字通り甲板を蹴って飛んで来たシークラウドだと知って思わずサグレスの目から涙がこぼれる。
「エスメラルダが……」
「どけ」
こちらも涙声のシナーラの言葉を聞いて、シークラウドがサグレスを押し退けて車内に入る。流石に蒼白なエスメラルダを見てシークラウドは言葉を失った。そのまま、エスメラルダを肩に担ぐと馬車から降りる。
「まだだ……まだ、持てよ……」
乱暴な、と言っても良いぐらいシークラウドは急ぎ足で渡し板を登って行く。登り切る直前、シークラウドはちらと船首を見た。
「言った事は……守れよ」
そのまま船内に消えたシークラウドを追ってサグレスとシナーラも船に駆け上がった。