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夜明けの晴れ上がった空は徐々に明るさを増し、爽やかな朝の空気に包まれていた。やがて水平線の彼方に恋焦がれた陸地が薄っすらと見えて来る。
「イングリアです!」
見張り台に立っているシナーラが最初に声を上げた。全員が甲板に出て寝ずの操船をしている手を止めて、彼方の水平線上を仰ぎ見る。どの顔にも疲労の色があったが、その一言で全てが払拭されたかのようだった。僅かに陸地を認めたのはイーグルだけだったが、皆の胸には懐かしい港の姿が浮んでいる。僅か二十日にも満たない航海だったが、数年にも思われる航海だったと思うのは皆同じだったと見え、一斉に歓声が上がった。
しかし、イーグルの表情が険しくなったのに目ざとくエスメラルダが気がついた。
「何かありましたか?」
「船が沢山出ている……戦っている……?」
その頃には誰の目にも夥しい船影や煙が見え始めた。
「操船止め!」
ふいにゲオルグが号令を掛けた。
「どうしてだよ!あと少しで国に着くじゃないか!」
突然の事に近くにいたサグレスがゲオルグに詰め寄る。他の士官候補生にも動揺が広がった。
「こちら側から港に着けるルートが無い」
ゲオルグがぽつりと呟く様に洩らした。それはサグレスのはやる気持ちに火を点けた。
「これは軍船じゃないのかよ!?皆が戦ってるのに高見の見物してろって言うのかよ!?」
「……」
ゲオルグに掴みかかるサグレスを慌ててイーグルとグロリアが止めに入る。他の者達はサグレスに感化されて口々にそれぞれの思いを訴える。エスメラルダが悲鳴の様に声を上げた。
「姫様の乗るこの船を危険にさらす訳にはいきません!」
一瞬にして、その場の空気が止まった。サグレスも上げた拳を下ろさない訳には行かなかった。
その時、火砲の音が立て続けに上がる。外海から一隻のイングリアの軍船が敵陣へ向かって行ったのだった。火砲はイングリア船が四方に向けて放った物だったが、その倍以上の火砲がイングリア船に向けて撃ち込まれ、<我が女神号>と敵陣の半分の距離にも満たない前にそのイングリア船は火柱となって燃え上がっていた。しかし、その船は船足を緩める事無く敵陣へ突っ込み逃げ送れたと見える敵船の1隻を道連れに、やがて沈んでしまった。そこはそれ程深く無いらしく、主柱の一つが海面に突き出したまま沈み、何名かの船員が海面へ顔を出したが救出される事も無く、射殺されていくのが<我が女神号>からもはっきりと見る事が出来た。その様子を見ていたサグレス達には声も無かった。
そら見ろといわんばかりの表情のハインガジェルと後方の騒ぎを交互に見てクルゼンシュテルンはそっと主を伺った。
「卿の言うとおりになったな」
やや興が乗ったのか、ナイジェルニッキが面白そうに呟いた。緩い風がナイジェルニッキの髪を揺らしていた。今は向かい風である。
「その様で」
クルゼンシュテルンの受け答えにナイジェルニッキが続ける。
「もう少し、面白くしてみようか。あの港に砲を撃ちなさい」
「いやいやいや。それは届かないです。最前線の船に届くかどうかですよ?」
ナイジェルニッキの物言いに慌ててハインガジェルが応じる。しかし、ナイジェルニッキは取り合わなかった。
「撃ちなさい」
しぶしぶ、ハインガジェルが従うように砲手に指示を出す。
(絶対届かなくて、恥をかくんだから余計な事はしないで欲しいよな)
じきに準備が整うと、ハインガジェルが号令を出した。
「仰角いっぱい。撃て!」
砲身から放たれた砲弾は高さはあるが威力はそれ程でもない。運よく前線の船に当たったとしても甲板を打ち抜ける程度で、それよりは友軍の船に当たる確立のほうが高い。はらはら見守るハインガジェルの思いを他所に砲は大きな弧を描いて飛んでいく。その砲弾が頂点に達する直前にナイジェルニッキが大きく前に腕を振った途端に、砲弾はそのまま加速しながら港にある建物の一つに吸い込まれるように飛び込んで行った。何かに燃え移ったのか、建物から火の手が上がる。
「嘘だろ……」
薄く微笑むナイジェルニッキの全身が微かに光っているようにハインガジェルには見えた。




