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「あ、いててて」
多少は加減したのか、エトワールの傷は浅かった。とはいえ、傷は傷だ。痛いのは本当だった。はっと短いため息を付いて、エトワールは立ち上がる。そのまま後を追おうかとも思うが、今からでは追いつかないだろう。
(ここは別のルートを通る方が賢いかな)
イーグル達が降りてきた階段を振り返って、そこにモカルが蹲っているのに気がついた。モカルは頭を覆って震えていた。
「おぃ。大丈夫か?」
「ホルスト……」
自分が発する声に驚くように、モカルの大きな瞳から涙が溢れ出してきた。しかし、助け起こそうとしたエトワールを認識した途端にその瞳の色は失われ、普段の様な夢見る目つきを取り戻す。
その様子は不審ではあったが、今はそれどころではなかった。エトワールはすぐに甲板を目指した。
エディラは一人、階段をいくつもいくつも駆け上がっていた。じきに背後から追ってくるような足音が響いている。実際にはイーグルとシナーラなのだが、エディラにはそれが分からない。恐怖心と、それに勝るここから逃げなければならないという使命感が幼い彼女の足を動かさせていた。やがて、最後の階段を上りきった先に甲板への扉があった。日頃からエトワールに伴われて、甲板へも足を運んでいたので、間違いようが無かった。
その扉を開いて、まぶしい外の光景に目が慣れる前に激しい剣戟の音や怒声、砲声が一斉に耳に飛び込んできた。その明るい外に出るのを躊躇したエディラだが、人の群れの中に見つけた見知った人影に思わずその名を呼ぶ。
「ゲオルグ!!」
「エディラ!?」
はっと、ゲオルグが声の方を見る。その顔に信じられないと言った表情が浮かぶ。その一瞬に隙が出来たのをクルゼンシュテルンは見逃さなかった。一太刀がゲオルグの腹を真一文字に割いてみせた。ゲオルグはそのまま崩れ落ちた。
「いやぁぁぁぁ!」
エディラの絹を裂くような悲鳴が響き渡る。その声に呼応するかの様に、灰色の雲がどこからとも無く湧きだしてきていた。エディラはゲオルグへ駆け寄ろうとするが、クルゼンシュテルンが自分に向きを変えたのを見て、踏み止まった。戻ろうと扉を振り返ると、丁度出てきたシナーラとイーグルがナイジェルニッキに追いつかれた所だった。
「エディラ!」
船尾側で呼ぶ声がする。エトワールだった。恐怖にかられながらもエディラはエトワールの呼ぶ方へ駆け出している。それをクルゼンシュテルンが止めようと走り出したが、マントがそれを邪魔した。振り返るとそこには矢がマントと甲板板を貫いている。その先にはエスメラルダが弓を放った形のまま立っていた。この距離でもその眼光の鋭さが分かる。
「その板を渡るんだ!」
エディラはエトワールの指示するまま、途中にあった隣の船への渡り板を駆け登る。手すりも何も無い板の上を歩く事に逡巡するが、すぐに板を渡り始めた。しかし、2、3歩進んだところで足を滑らせて、そのまま海面へ落ちてしまった。
「きゃぁぁぁぁーー」
すぐに一度、エディラは海面へ浮かび上がったが、そのままもう一度沈んでいく。潮が流れているのか、落ちた場所から流されていた。
「マジかよ!」
近くの舷側にいた、サグレスはすぐにその後を追って海中へ飛び込んでいった。




