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「な……にが起こったんだ?」
甲板を夏の風が通り抜けていく。今まであれほど賑々しかった目の前の海面には空と波しか無く、一片の雲さえも見つけることは出来ない。サグレスの指は舷側を強く握り締めたせいで白くなっている。背後でシナーラがへたり込む音が聞こえた。慌ててデワルチが助け起こした。
「フェナが、まだこんな近くに……いたんですね」
「あぁ」
エスメラルダの呟きにゲオルグが答える。その声はいつもよりやや優しく響いたように思える。
「お前、変な気起こすなよ」
シークラウドの叱責にイーグルもはっと顔を上げる。遠く離れたと信じていた神々が実はまだ側にいるという事実は少なくとも年長者達の心に何かしらの波風を立てたようだった。一方、今だ放心状態といった体のサグレスにグァヤスが声をかける。
「そういえば昔、乳母が話してた物語の中に、人に恋をした人魚の話があったよ。航海中の王子に一目惚れした人魚はその船にずっと付きまとっているんだが、王子に近づく事も出来ない。悶々とした日々を送る人魚の気持ちを海王は試すんだ。次々出される難問にそれでも人魚は一途に王子を思い続け、最後にこう言われる『お前は大切な私の娘。その娘の恋する男なら是非にも海へ連れて行こう』と。でも、人魚の娘はこう言うんだ『あの方は大地の上で生きる方。住む世界が違うのです。私はここであの方を見守っていられれば十分です』ってね」
「サグレスは王子って柄じゃねーな」
デワルチがまぜっかえす。サグレスはつられて少し笑った。
「それで?」
ラディックがわくわくと先を促す。ひとつ頷いてグァヤスは続けた。
「それを聞いた海王は人魚の娘を哀れに思い、その体を泡と変え、その魂をどこかの海岸の村で生まれ変わらせるんだ。後に王子がその海岸に立ち寄る事があって、めでたく元人魚の娘は王子……っていうか、その頃は王様になってたはず、と結ばれるって言うんだよ」
「その話がもし、本当だったらあの子は今頃人間に産まれ変わっているんですかねぇ」
グロリアが遠い水平線の向こうを眺めながらのんびり呟く。デワルチも口を開いた。
「その前にかなり年の差開いてるよな」
その言葉に皆声を立てて笑った。サグレスは心の中で(そうだと良いな)と呟いた。また、あの子にどこかで会えるのかも知れない。サグレスは少しだけそのことを期待した。
一方、シナーラはようやっと立ち上がった所だった。サグレスもそれに気づいて手を貸した。
「あの子、山猫の子だよな?何があったんだ?」
一瞬、サグレスの目を見返して、シナーラは目線を外した。
「ずっと一人ぼっちで生きてきて、仲間のところへ行きたいって言ってたんだ。だから、この航海が終わったら、俺が一緒に探してあげるつもりだったんだ」
「そ……うだったんだ」
「でも、大事にしただけだったんだなぁ」
シナーラがポツリと言った。
「おーぃ。ガキ共働けー」
シークラウドの声が響く。見れば同行している商船が動き出すところだった。既にイーグルも操帆作業を始めている。エスメラルダはややぼんやりしているのか動きが遅い。慌ててサグレス達士官候補生も作業に加わる。<我が女神号>は先へ進み始めた。