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その言葉にはっとナリュが顔を上げる。困惑しながらもシナーラを振り返った。シナーラは引き止めたい衝動を抑えるために、ぐっと拳を握り締めた。
「行くんだ!」
シナーラが声をかける。ナリュはもう一度シナーラの顔を見るが、やがてそっとシナーラの手に触れてから舷側の上に立ち上がった。
「ありがとう。さよなら」
もう一度シナーラを振り返って、ナリュは自分の翅で空を飛んだ。風に乗って高く舞い上がり、やがて海王の肩に止まる。海王はそれに気づかない様子で、背を向けて立ち去ろうとしているところだった。
「待って。まじないをかけ直さないと」
ファランが海王を押しとどめる。ファランの願いの禁忌は女性を乗船させる事だったからだ。
「それには、何か代償がいるよ」
海王が興味無さそうに海面を見渡す。その時サーリアが海面を尾で叩いた。
「海王様!私をお使いください!」
「お前、何を言っているか分かっているの?」
ファランの厳しい叱責が飛ぶ。サーリアの後ろからネルフィが慌てて腕を引っ張った。
「わ……分かっているつもりです!どうか、お願いします!」
ネルフィのしぐさにも気づかず必死でサーリアは手を合わせて懇願した。サーリアは分からないなりに察していた。今のこの騒ぎによって目の前の船に掛けられていた、今まで強くサーリアをひきつけて離さなかった何か-恐らく海王の力の一端が解けていて、それは船にとって良くない事だということを。
「お前。止めろ!」
突然、ゲオルグがサグレスを振り返りざまに前に押し出す。サグレスも漠然と感じていた。あの自分を助けてくれた人魚が何か大きな犠牲を払おうとしていると。
「何を言っているのか分からないが、彼女に手を出すな!彼女は関係無いはずだ!」
海王にも物怖じしないこの少年に少し興味が湧きはじめていたファランはその様子に「なるほどね」と呟いた。
「海王。あの子を代償に、まじないをかけて。前と同じ願いよ」
「おい。まてよ!」
サグレスの制止が届くより早く、海王の髪がなびくとサーリアの体が泡と消え、その泡が<我が女神号>を少しの間包んで、やがて消えた。
「な!どういう事だよ。あの子をどこへやったんだよ」
「禁忌も同じ、我が養い子のためにだけ尽くせ」
海王は現れた時と同じ裂け目に身を投じ始めている。その手の中のファランがサグレスに向かって幾分優しく答えた。
「海王のフェーンだった人魚のサーリアは泡と消えたけれど、どこかの海岸で人間に生まれ変わってくるはずよ。もちろんあなたの気持ちが強ければね」
「えっ?」
問い返した返事も無く、海王の姿は消えていた。見れば海面にいた夥しい数の人魚達の姿も忽然と消え失せていて、広い大海の上には2艘の船だけが残されていた。