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裂け目はやがて左右にぐぐっと何者かに押し広げられようとしていた。とてつもなく強い風が吹き、帆と帆柱を大きく揺さぶる。海面の人魚の群れが一斉に頭を海面まで下げた。あたかもひれ伏すかの様であった。
「まずい!皆伏せろ!」
大声で怒鳴ったのはシークラウドだった。その声に慌てて甲板上に皆伏せた。立っているのはファランを抱き上げたゲオルグだけだ。更に強い風が吹きすさび、甲板の上も海面も不安定なものは皆飛び去って行く。そして、裂け目から大きな、帆柱を優に超えた高さに顔が突き出て来た。
裂け目から吹く風は荒れ狂い、帆が裂けんばかりだったが、不思議と海面はぴたりと静まり、波しぶきひとつ立っていない。
そして、徐々に上半身が裂け目から現れ出た、と同時に風も収まった。既に裂け目が綺麗に繋がり何の痕跡も残していない。青みがかった肌を持つ人影を残して。
「海王神……」
誰とも無く呟く。その巨大な人影はまさに天界十二神の一人、海の王その人だった。
「な……なんでフェナの一人が現れるんだ!?」
デワルチが呟く。
「フェナは人の世から遠く離れた神々だけの地へ移っていったって言うのは、間違った伝承なのか?」
皆、神話の世界の物語として知っているフェナの一人が目の前に現れた事が全く信じられなかった。
「悪かったわね。巻き込んでしまって。確かにフェナはこの地を去っていっているわ。でも……海王はまだこの地を去る決心をつけられてないのよ」
「どういう事だ?」
やや済まなそうなファランの言葉にサグレスが問う。
「彼の最愛の女神、大地母神ガーナがまだ大陸の奥深くにいるからよ」
「もしかして、貴女はガーナのフェーンなのですか?」
遠慮がちにグロリアが口を開く。ファランがこっくりと頷く。
「海王が女神を恋するがあまり、女神の元まで行こうとして大陸を沈めかけた事があってから、彼は大地に近づく事を禁じられた。それを不憫に思った女神が自らの姿に似せたフェーンを一人、海王に贈ったという神話があったね。まさか、貴女は……」
グロリアの言葉に微笑んでファランは肯定した。
「海王のフェーンである人魚が皆、貴方に似ているのではなく、皆、女神の姿に似せているんだ」
グァヤスが呟いた。その時、海王が口を開いた。声の響きに力がこもっている。
『大地の娘の心が騒いでいる。その波は私をざわめかせる』
声と共に、海面が大きくうねり始めた。




