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流石のゲオルグもこの一手は予想していなかったと見えて、盛大な音と共に平手を綺麗に頬で受けた。海上の人魚の群れが微かにざわめく。サグレスは海上を見回すが、海中で出会ったあの子を見つけることは出来なかった。
「どうして駄目だと言われた事が守れないのかしら?これはあなたの為に言っているのよ」
甲板の人魚をサグレスは初めてまじまじと見た。柔らかい大人びた肉付きの上半身は虹色に光る薄い布状の物をまとっている。それは腕を動かすたびにひらひらとその下の皮膚を透かして見せた。顔立ちや髪型だけを見れば普通の人間となんら変わりは無かった。しかし形の良いヘソのすぐ下からは青銀色の大き目のうろこに覆われた滑らかな魚の皮膚が繋がっている。それは最後には尾びれとも言うべきヒレ状の形で終わっており足に相当する物はどこにも無いのだった。
ゲオルグは困ったように人魚を抱き上げると立ち上がった。
「そうは言ってもファラン。今回だけは俺には全く覚えが無いんだがな」
「憎らしい口ね。それにしても酷い傷……綺麗には塞がらなかったのね」
「それよりお前のその姿はどうした?いつから人魚の仲間入りをしたんだ?」
ファランと呼ばれた人魚が船首像に目をやった。ゲオルグが一つ残った瞳で船首を見やる。船首には獅子像とそれに絡みつく少女の像が刻印されている。
「あれ……お前の写し身か?もしやまじないに自分の体を使ったのか?」
ファランはそっとゲオルグの顔の傷に指を沿わせる。ゲオルグはさせるがままにさせていた。ややあって、海上の人魚達がざわめき始めた。海面が僅かに波打ち始めている。
「ハル・ファラン。気がつかれた様だ。早くしないと……」
船上からファランが水平線の向こうへ目をやったとき、海上の人魚の一人が前へ進み出た。
「大地のお姉さま!お願いです。その船を沈めないで!贄が必要なら私を使ってくださいませ!どうか御慈悲を!」
それはサグレスを助けたあの年若い人魚-サーリアだった。