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「さて」
ゲオルグの一声にエスメラルダがすぐさま振り仰ぐ。甲板にいる者達がその様子に気づいて作業の手を進めながら耳をそばだてる。朝から広がっていた靄は太陽が顔を見せた途端に溶けるように消え去っていた。空は晴れ上がり今日は快晴となりそうだ。イングリアから南に位置するザルベッキアはすぐに暑くなりそうだった。
「帰るぞ」
その一言に全員が歓喜の声をあげる。サグレスも自分が思いのほか大きな声が出た事に少し驚く。初めての航海、初めての海外。慣れたと思っていても、案外と郷が恋しく感じられる。見回せば皆それぞれに嬉しそうだった。
甲板から港に目をやるといつの間にか大勢の人が集まっている。やがて楽団の演奏も始まった。渡し板をザルベッキアの評議員の一人が従者と共に上って来る。太ったリュクオールだった。
エスメラルダの号令で全員が甲板に整列する。ゲオルグ、エスメラルダ、イーグルそしてシークラウドが仕官服。サグレスたちは普段の制服だった。
やがてリュクオールは汗だくになりながら甲板に到達する。一斉に敬礼で迎えた。リュクオールは大きく一呼吸すると、手にした書簡をゲオルグに手渡した。
「こちらがザルベッキア評議会からの正式な返書でございます。何卒親愛なる御女王陛下へお届けくだされ。われわれはいつでも貴国の友人とありましょう。また、貴船の勇気ある友好に敬意を示し、我が通商の船の護衛をお任せする次第であります」
「謹んでお受けする」
堂々とゲオルグが書簡を受け取る。こういうときはサマになるんだよなと、サグレスは心の中で思う。
リュクオールは汗を拭きながら、周囲を見わたし何を納得したのか一人うんうんと頷き、甲板を後にした。その間にエスメラルダがそれぞれの配置を指示する。右舷にシークラウドと左右にデワルチ、グァヤス。左舷にはエスメラルダと左右にサグレス、シナーラ。船尾にはシークラウドとグロリア、ラディック。そして船首にはゲオルグが一人で立つ。仕官服の上着の長いすそが風にたなびいている。良い風が吹きそうだった。
「あれ?」
「なに?」
サグレスの疑問にシナーラが問いかけた。
「全員立ってたら、操船はどうするんだ?」
「さっき曳航する船に綱を渡したよ。来た時と同じだね」
いつの間にか、船首には引き綱が渡され、その先に引き舟が繋がっている。楽団の演奏が一際大きくなり、やがてゆっくりと<我が女神号>は動き始めた。
「総員!敬礼!」
エスメラルダの良く通る声が歌うように響く。ゲオルグとサグレスたち仕官候補生がイングリア式の敬礼に対し、間に立つエスメラルダ達はザルベッキア式の敬礼をしている。港にいる群集はそれぞれに手を振っている。サグレスはその中に人の影に隠れるようにして手を振るジョアンナの姿を見つけた。その姿にまたきっとこの国に来ようと心に誓う。甲板上のそれぞれがこの国で出会った人たちの姿を見つけた様だった。
港を離れた<我が女神号>の左右には少し離れてザルベッキアの軍船が並行するように停止している。その列は港湾の出入り口まで続いている。甲板上には船員達がこちらに向けて敬礼している姿が見え、また横を通過するたびに儀礼空砲が空に向けて放たれる。一際大きな軍船にはロクゼオンの姿が見えた。ゲオルグの口元が「派手」と刻むと、ロクゼオンが嬉しそうに笑う。列からは離れたところにいる優美な私艇らしき船には女性評議員のエリキシアとエスカッシュ・ミリエの姿もあった。
見送りの列が切れるとすぐに湾外の海が広がり、その先に一艘の商船が停泊している。<我が女神号>はその船に近づいていった。