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あの日。
幼いエスメラルダは父にくっついて王宮へ向かっていた。即位されたイングリアの新しい国王が廷臣達と昼餐を取りながらざっくばらんに親交を深めようと言うものだったと大きくなってから聞かされた。
エスメラルダは身重の母からお行儀良くするようにと重々言い付かっていたが、心ははや優しいシィエン国王様にお会いできるのだと言う事で胸がいっぱいで、気もそぞろであった。
前の国王は幼いエスメラルダからすると、敬愛するべき存在と言うよりは遠い存在だったが、当時王女のファナギーア様の夫と言う立場で、会うたびに優しい言葉を投げかけて何かと構ってくださるシィエン様は大好きな人だった。
父が祖父から宰相の立場を継承したばかりだった事もあり、父はしばしば王宮へエスメラルダを連れて行ったし、エスメラルダもそのことが誇りであった。
今日はごくごく内輪の会食と言う事で、シィエン国王を囲んで、若きアーディ宰相、老シスヴァリアス卿と気心の知れた間柄で和やかな時間だった。
「アーディ殿は立派な跡継ぎがおいでで全く羨ましい」
老シスヴァリアスが口を開いた。アーディは少しはにかんだように微笑んで頭を下げた。
若輩の自分はまだまだひよっこだ。国王の交代のごたごたがやっと落ち着いたところで、宰相家の世代交代を進めた父の考えには度肝を抜かれたが、この年若い王を支えるのには年の離れた自分ではなく、年の近い息子だと決めてすべてを纏め上げた父を尊敬せずにはいられない。そして、早く父を超え国の守りの中心になるような臣下になりたいものだとアーディは考えている。
「卿にも立派なご子息がいるではないか」
やんわりとシィエン王が口を挟む。老シスヴァリアスが恭しく返す。
「私も早く家督を譲りたいと考えていた矢先、あのような怪我でお見苦しいところをお見せしてしまって。恥ずかしい限りでございます」
「それは違うよ。彼のお陰であれだけの大艦隊を退ける事が出来たのは紛れも無い事実だし、私は名誉の負傷と思っているよ。今はどうしているの?」
その言葉に老シスヴァリアスの目じりが僅かに滲む。
「その様なお言葉、ありがたき幸せにございます。息子もさぞ喜ぶでしょう」
「スターゲならセドフが付きっ切りで怪我の治療に当たっていますよ。今回の事はセドフも相当悔やんでいるみたいですね」
「そうか……仕方ない事とはいえ、不憫だな」
会話が止まった所で、つまみと酒が運ばれてくる。分かった風に首を傾げてテーブルについているエスメラルダには少しの酒を果汁で割った物が置かれた。
「退屈だったかな?」
シィエンが優しくエスメラルダに声をかける。
「いいえ!そんな事ありません」
急に話かけられて、つい大きな声で返事をしてしまった。しまったと言うのが顔に出ていて座がほころんだ。
「本日のお飲み物はシィエン国王の故郷、エスネンの果実酒を10年程寝かせた物になります。中々手に入らない物なのですが、丁度交易船が入ったとの事で入手いたしました」
「へぇ。懐かしいな。それはありがとう」
嬉しそうにシィエンが手にしたグラスの中の金色の液体を透かしてみる。辺りには良い香りが漂っていた。
「では」
老シスヴァリアスがグラスを捧げ持つ。ここは自分の発声だとアーディは緊張しながらグラスを掲げる。
「イングリアとシィエン国王の末永き繁栄を祈って。そして、エディラ様の健やかな成長を海王に願い」
「乾杯」
エスメラルダも見よう見まねでグラスを高く上げ、そして唱和の後、一気にグラスを飲み干した。酒精の香りが鼻をつくと同時に少し土の匂いが混ざっている。しかし、飲み干した途端にお腹の中がひっくり返ったような痛みが襲ってきた。声を上げようとするが声が出ない、お腹を押さえたまま椅子から落ちた音に侍従が気づいたらしく、悲鳴がいくつも上がった。
そこには卓上に突っ伏す、シィエン国王と老シスヴァリアス、アーディの姿があった。