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「山吹の子猫亭」はまだ、朝の眠りの中にいるようだった。サグレスはそっと階下を窺ってみたが、何の気配も無い。どこからか入り込んだのか、階下のホールにも朝靄がかかっているように感じる。サグレスはサランドラの手を引いて、そっと館の外へ滑り出た。
外では靄に囲まれて身動きできないのでは無いかと密かに心配していたサグレスだったが、朝日を受けて徐々に靄は薄らいで行く。サグレスとサランドラは港へと続く狭い坂道をひっそりと下って行った。
2人は知る由も無かったが、その様子を階上から「山吹の子猫亭」の女主人はため息と共に見送っていた。
港に近づくにつれ、あたりは徐々に見通しが良くなって来ていた。さほどの距離では無いがサランドラの手を引いているため、普段よりは気をつけているのつもりなので時間が掛かる。それでも舗装の甘い小道はサランドラ一人で歩かせるには少し危うい。何度か敷石の角に足を取られる彼女に腕を貸しながら歩いていると、ぽつぽつとサランドラが話始めた。
「あの人・・・初めての客なの。うちの店って、最初の一人目は自分で選ばせてくれるのが母さんの決めたルールで」
「何であいつにしたんだ?」
「私、漁師の父さんを海で亡くしてて、そのうちお母さんも病気で逝っちゃって一人になってお店に拾われたんだけど、あの人お店に来た時に誰にも興味無いみたいで、母さんとずっと喋ってたの」
「後から聞いたら、誰かを探してたみたいなんだけど、この人だったら海で死んだりしないんじゃないかなって思ったの」
「確かにあいつなら殺しても死ななそう・・・」
「それって大事な事なのよ。生きて戻ってくるって」
サグレスの呟きにくすっと笑って、サランドラは朝日に髪をきらきらと輝かせて呟いた。
「たとえあの人が港ごとに誰かを囲っていたって、ここへ戻ってくれるならそれもいいなって思ったの」
「そういうものなのかな・・・?」
「うん。私にとってはそれが一番大事。そう言ったら、あの人笑ってた。そして、どんなに酷い怪我をしても元気に戻って来てくれた・・・でも、これが最後って」
サランドラの瞳から一粒の涙が流れた時、小道は終わり港への道が開けた。薄れ行く朝靄の中に<我が女神号>がひっそりと佇んでいた。