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「温室を見て来てくれないか?」
時々、父がこう言う時、幼いシナーラの胸は高鳴った。
返事もそこそこに庭へ向かうシナーラの後姿を父はいつも微笑ましく見守っていた。シナーラの家はイングリアでは爵位などは無いもののなかなかに古い家柄であった。
王都からはやや離れた中規模都市に位置し、所領の産物は十分家族を養える程であった。
父は領地の見回りを兼ねた狩猟を趣味とし、優しい母は手仕事を趣味とする穏やかな家庭である。シナーラはその一人息子だった。
その自宅の離れに小さな温室があった。貴重な硝子をふんだんに使用した瀟洒な造りで、寒冷地に当たるイングリアにあってそこは一年中温かな空気に包まれ、中は丹精こめて育てられた花々の香りでむせ返るようだった。
キィィ
ゆっくりと二重になっている扉を順番に開き、慎重に中に入る。扉が二重なのは中の蝶達が不意に外へ飛び出したりしないためだ。サイガニアなどの南国から連れて来られている蝶々は温室の外では生きてはいけないのだから。
一歩ずつ進む度に香りが変わるのを楽しみながら、最奥へ進んでいく。もちろん、言いつけられている硝子のヒビなど無い事を確認するのは忘れない。
やがて、温室の中心部に辿り着く。そこには更に1枚の硝子で仕切られた小部屋になっていて、硝子越しに中を覗き見ると小さな寝台が置かれているのが見える。
ドキドキしながら、シナーラは小部屋の扉を押し開ける。花の香りとはまた別の芳しい香りに包まれる気がする。
寝台には一人の少女が眠っている。髪は白銀。肌の色は更に白い。最近では滅多に目覚める事は無いが、開けばその瞳は輝く明るい緑の瞳だった。
シナーラはそっと呼びかけてみる。
「おばあさま……」
注意深く見守るシナーラの期待に反して、おばあさまと呼ばれた少女に反応は無い。僅かに胸が上下するのが見えるだけだった。
しばらくして、温室を後にしたシナーラの様子を見かけた父が声をかけた。
「変わりなかったかな?」
「うん……」
曇る表情のシナーラに父は頭を撫でながら、話を続けた。
「今日も良くお休みだったみたいだね。見てきてくれてありがとう」
にこやかに微笑む父にシナーラは問いかけた。
「おばあさまはもう起きないの?昔はお話をしてくれたり、遊んでくれたりしたのに!」
「おばあさまは随分永い時を生きて来たから少しお疲れなんだよ。故郷に帰ればまた元気になると思うんだけどね……」
「ぼく、大きくなったらおばあさまを故郷に連れてってあげたい!そうしたらまた元気になれるのでしょう?」
「あぁ、そうだね」
父は僅かに微笑んだ。
後にシナーラは自分がおばあさまと呼んでいた少女が実はエルフ族であり、シナーラ自身の何世代も前の先祖である事を知った。シナーラにも極々薄まったエルフの血が流れているのである。