エピローグ
波が寄せる音で目が覚めた。下半身が水に浸かっている。体の下は砂浜だった。起き上がって周りを見回すが見慣れた景色は一つも見当たらなかった。寄せる波から体を引き上げて立ち上がると、海水を吸った衣服から水が滴り落ち、その重さにモカルは砂に尻餅をついてしまった。一度に気を失う前の光景が押し寄せてくる。海に落ちた後の記憶が無い。もしかしたら気を失った事で、水を飲まなくて済んだのかもしれない。しかし、一緒に落水したナイジェルニッキ様はどうなったのだろう?
もしかしたら、同じ様に流れ着いているかもしれないと周囲を見回すが、海藻の塊がいくつか流れ着いている位で、他には何も見当たらなかった。再びのろのろと立ち上がり、頭の端に一瞬出合ったホルストの姿を思い出す。ホルストだけは生きていてくれたのねと思った途端にその頬を涙が伝った。郷が燃えてから、あちこち彷徨いそしてナイジェルニッキに出会ってからは心を封じられていた事を思い出す。
不思議と今はナイジェルニッキに対して恨みの感情は無い。ただ、悲しみだけがあった。彼もまた何者かに操られていたのだと判る。モカルはひとしきり泣き続けると、やがて涙も枯れ果てたのか嗚咽だけが辺りに響いていた。
「白い羽の香りが残っているな……」
唐突に誰も居なかった砂浜に、黒衣の青年が立っていた。驚いたモカルが顔を上げると、青年の漆黒の瞳と目が合った。
「結果的に巻き込んで悪かったな」
ふっ、とため息と共に独り言の様にもモカルに話しかけた様にも思えるが、モカルはその青年から発せられる冷気の様な侘しさに身もすくむ思いだった。
その時、わずかな気配に気づいたモカルが振り返ると、ちょうど海から何か陽炎の様なものが砂浜を揺らめきながら上がって来た。その動きは緩慢ではあるが、ある一点に向かって動いている。モカルが目を凝らして見ているとそれはやがて人の影の様に見えて来た。更に凝視していると、モカルはある事に気がついた。それはちょうどモカルの目の前まで来ていた。
「ナイジェルニッキ様!」
透ける様にゆらめくその物は、ナイジェルニッキの姿をしていた。しかし、モカルの声が聞こえないのかその歩みは止まらない。押し留めようと両手を広げたモカルを、しかしナイジェルニッキの陽炎は一瞬重なるとモカルをすり抜けて通り抜けて行った。モカルの体を冷気が通った様だった。慌てて振り返るモカルの視線の先には、丘の様に傾斜している先に黒々と開く闇の口だった。
「お前の縁者か?あいつは魔天使の技に取り込まれすぎて、自然に還る事が出来なくなっているから魔界へ連れて行くんだが……」
「魔界……?そこに行ったらナイジェルニッキ様はどうなってしまうのですか?」
「どう……もならない、な。ずっとあのままだ」
「え……」
絶句するモカルに憮然と青年は考え込んだ。
「もし、もしだが、お前があいつをずっと見守り正しく導けるというなら、あいつの生をやり直させる事ができるが、どうする?」
「あの……」
そう言っている間にナイジェルニッキは亡者の様に闇に向かって進んでいる。モカルはその闇の先で永遠に心を闇に囚われたまま彷徨うナイジェルニッキの姿を見た様な気がした。
「約束します。あの方を私がお守りします!」
モカルの決意に気圧される様に、青年は息を大きく吸い込んだ。そして、長く息を吐き出すとその姿は闇そのものに変わる。
「その契約、魔王がしかと受け取った。必ず違える事なかれ」
その言葉を最後に一度辺りは闇に沈み、再び明るさを取り戻した時、青年の姿も闇の入り口もそしてナイジェルニッキの姿も無かった。砂浜にはモカル一人が取り残されていた。呆然と座り込むモカルだったが、突然稲妻の様にその事を理解した。自分の中に何かいる。
「一緒に、生きて行きましょう」
天は高く晴れ渡り、辺りは波の音が響くばかりだったが、一羽の鳥が上空で高く鳴いた。目の下に印のある鷹だった。
毎週読んでいただいた方。一度に読んでいただいた方。最後までお読みいただきありがとうございました。楽しんでいただけていれば、とても嬉しいです。