その時計は捨てられて
彼が消えてからの後日談。
役目を終えて壊れた時計はその後どうなったのか、残された妹と再開を果たした少女は何を想うか。
悲しみを乗り越えて決意を示す物語。
雨が降る中で私は傘も差さずに空を見上げていた。これは私の流している涙なのだろうか。それとも兄が流している涙なのだろうか。この雨はお兄ちゃんが泣いているから降っているんだよと言われて信じる年齢ではもうないけれど、今だけは信じていたかった。
兄は私の膝の上で静かに息を引き取ったと思う。思うというのは急いで病院に搬送してもらおうと連絡をしたが、救急隊が到着した時には既に心肺停止していて私が見つけた頃が死亡推定時刻ではないかと言われたからだ。それも私は信じたい。最期を妹の膝の上にいられたなんて兄の冥利に尽きるだろうから。
「風邪引くから中に入りなさい」
背後から母親の冷たい声が聞こえてくるが、私は聞こえないフリをする。この両親は私がすぐに連絡したにも関わらず、やってきたのは一時間後で涙一つも流さなかった。それどころか「ようやくか……」と呟いたのを私は聞き逃さなかった。だからあれから一切口をきいていない。兄に謝るまで絶対に話さないと心に誓ったから。
葬儀場を見回すと兄の高校・中学の同級生がたくさん集まっていた。私は彼らが兄に何をしたのかよく知っている。だから何もなかったかのように、それどころか仲の良い親友のように涙を流していることに少し苛立ちを覚えていた。彼らから目を背け、時間まで外で待とうとすると誰かに声をかけられた。
「君が凛花ちゃんかい?」
「あ、はい。そうですけど……どちら様ですか?」
「私は桜庭茉莉。君のお兄ちゃんの中学の同級生だよ」
「桜庭先輩って、生徒会の……?」
「よく知ってるね。透くんには随分助けられたよ」
桜庭先輩は懐かしそうに微笑んだ。兄からは信頼できる友達でよく相談にのってもらっていたと聞いた。しかし、高校が別々になってそれから特に会うことも話すこともなかったとか。
「それで私に何の用でしょう」
「あ、いや、特に用があるわけじゃないんだ。ただ、君が彼らを見る表情が少し気になってね」
露骨に顔に出てしまっていて、それを見られてしまっていたのかと反省した。いくらなんでもこの場であんなことを考えるのは不適切だった。
「責めるつもりはないんだよ。ただ、誤解しているんじゃないかなと思って」
「誤解……ですか?」
「彼らが透くんを苦しめたのに平然とここにいて涙を流しているのが気に食わないって思ってるならそれは違うんじゃないかなって」
「どういうことですか」
初対面の相手に自分の考えが間違っていると真正面から否定されて少し頭にきた。ここで口論するわけにもいかないし、同級生なら私の知らないことも知っているのかもしれない。まずは深呼吸をして心を落ち着けた。
「すぐに冷静になれるところが彼にそっくりだね。――っと、話が逸れるところだった。たしかにね、僕らが彼を傷つけてしまったのも、高校の人達も彼を傷つけていたのも事実だよ。でもね、それは常にではなかったし意図的にでもなかった」
「たまに無意識でやっていたなら許されるんですか?」
「中学はお姉さんのことや大貴くんのことがあって、彼の内部に触れるのが怖いと思う生徒が多かった。それで避けてしまっていたことは事実だけれど、彼を心配して気にかけていたのもまた事実だ。高校の方は人伝で聞いた話だけれど、彼らなりの悪ふざけがたまたま透くんの心に刺さってしまった。でも、それは彼を友人と認めていたからしたことであって嫌ってしていたわけじゃない」
「……はい」
「それに次のお見舞い用にクラスみんなでお金を出し合ってお見舞いの品を買っていたらしいね。それくらい彼は思われていたんだよ。ただ透くんも凛花ちゃんも悪い部分に注目しすぎて、そういった部分からは無意識的に目を背けちゃったんだと思う」
悪いことをした人は悪で絶対に許してはいけないと考えてしまっていたのは間違いない。彼女の意見も正しいと思う点があって、私の心は揺らいでいた。兄を傷つけてしまったことがあっても、兄を想っている人がいるのは否定できない。それなのに、内心では偽善者ぶって泣くのはおかしいと決めつけていたことが恥ずかしかった。
「ごめんなさい……」
「ご、ごめんよ。本当に責めるつもりじゃないんだ。ただ、勘違いしたままだとこの場でも今後ももやもやしちゃうかなって思って……!」
「私がこんな偏った見方をしなければ兄だって亡くならなかったかもしれないのに……」
「自分を責めるのは違うよ。それは透くんが一番嫌がることだと思う」
そう言って彼女はそっと私を抱きしめてくれた。その温もりが兄に似ていて涙が溢れて止まらなかった。亡くなった日に水分が無くなるほど泣いたからこの場では泣かないと誓ったのに。
「お兄ちゃんはいつだって自分が死んでも悲しむ人がいないように周りと距離を置いていたんです。『私たちが悲しんだら透くんも悲しくなるから。だから笑おう』って言ってもらえるような生き方だって出来たはずなのに、それをしなかったんです。最期の最後まで自分を犠牲に誰かのためにと思い続けて、自分なんか価値のないものとして生きていたんです……」
「凛花ちゃん……」
「どうしてですかね……。なんでここまで分かっていたのに、私はお兄ちゃんを一人にしてしまったんですかね。高校生はもう大人だから大丈夫だろうと思い込んで、勝手に安心してしまったからこんなことを招いてしまったんですかね……! 私の、私のせいでっ! んっ……うっ……うわあああああん!」
「凛花ちゃんだけのせいじゃないよ。これは私たちみんなのせい。彼は私たちがそう思うことをきっと嫌うだろうけど、十何年も彼を一人にしてしまった故に彼の心を歪ませてこんな事態を引き起こしてしまったのは事実だから」
親は頼れず、自分の友人には話せず、兄の友人は敵だと思い込んでいたから今日までずっと一人で抱え込んでいたから彼女が一緒に背負ってくれて嬉しかった。姉も兄も失って心が折れかけていたから、私はしばらく彼女に抱きしめていた。
「……ごめんなさい」
数分後、よく考えたら知っているとはいえ初対面のしかも先輩の前で泣きじゃくってしまったことに気がつき、迷惑をかけてしまった。力強く抱きしめてしまったし、恥ずかしくて顔も見られない。
「気にしないで私の分まで泣いてもらえてすっきりしたし、妹が出来たみたいで嬉しかったから」
「じゃあ、ありがとうございますに言葉を変えます」
「そうだね。そっちの方がしっくりくる」
そう言ってもらえても顔を合わせにくいと思っていたらそろそろ告別式が始まるアナウンスが流れて私たちは葬儀場の中に戻った。
そこからは兄との記憶を振り返っていたせいであまり記憶にない。両親がそれっぽい言葉を並べて挨拶をしたり、僧侶の方がお経を読んだり、ご焼香したり――気がつくと棺が前に置かれてみんなで兄の周りに花を置いていた。両親は友達に置いてもらった方が透が喜ぶと言って離れているがここで責めても仕方ないし気にしないことにした。
「ほら、凛花ちゃん置いてあげよう。透くん、茉莉だよ。覚えてるかな? いっぱい色んなお話したよね。私ほんと楽しくて本当は透くんと同じ高校に行こうか悩んだくらいだったんだよ。気づいてたかな」
「……お兄ちゃん」
言いたいことは山ほどあったけど、心の中でしっかり話して胸のあたりに優しく花を置いた。綺麗な花に囲まれているのを見て、一度くらいはお花畑で一緒に寝転がってみたかったなんて思ってしまった。
「それでは最後に釘打ちをお願いします」
私の家は親戚が少ないため、ほとんどを友人で打つことになった。みんなが叩くのを見届けて、私は撫でるように叩いた。もう触れることの出来ない兄との最後の触れ合いだった。
その後は火葬場に移動して準備が来るまで待合室で待っていた。30分ほど待つと放送で呼ばれて火葬場の前にみんなで集まった。
「これが最期の別れとなります。皆さま、どうかもう一度故人様への言葉かけをお願いいたします」
最近の棺は釘で周りを打っても顔の辺りが開くように作られているようだった。さっきが最期だと思っていたのに、もう一度兄に触れられると言われて私はなかなか離れることが出来なかった。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん……嫌だよ。ずっと一緒にいたいよ……」
心の底から溢れる言葉が止まらず、顔を撫で続けていた。冷たいけれど眠っているように見える兄にいくら声をかけても目覚めなくて涙が止まらなかった。
「お兄ちゃん起きてよ……また、ご飯作ってよ……」
「透くん、凛花ちゃんが撫でてるよ。凛花ちゃんの感触忘れないであげてね」
「私も、私も忘れないからね……」
その言葉を最期に棺が閉められ、奥の炉に運ばれていった。もう会えないのが苦しくて悲しくて心が痛くて痛くて、私は思わず炉に向かって歩いていた。
「お兄ちゃん、嫌だああああ! 別れたくない! 行かないでよ!」
「凛花ちゃん……もう寝かせてあげよう。ね?」
桜庭先輩が腕を掴んできて、振り払おうとするが離してもらえなかった。振り返ると彼女も頬を涙で濡らしていた。そして、私のことを力強く抱きしめて嗚咽を漏らした。私も彼女をしっかりと抱きしめて悲しみを分かち合った。
何時間が経過しただろうか、兄は骨となって戻ってきた。それをみんなで箸で拾って骨壺に入れる。最後にこれが耳ですね。顎ですねと解説をしながら業者の人は優しく集めて壺に入れてくれた。私はそれをしっかりと抱きしめて車に向かった。
お墓に行って埋葬を終える頃には日も落ちて暗くなっていた。一日付き添ってくれた桜庭先輩も少し疲れた表情をしていた。
「先輩、今日は一日ありがとうございました。兄も喜んでいると思います」
「いえいえ、こちらこそ。それだと嬉しいね」
そう言って彼女は儚げに空を見上げていた。私も一緒に見上げると、微かに星が輝いているのが見える。兄がこういう空が好きだったのをふと思い出した。
「きっとね、透くんに必要だったのは一緒に同情してくれる子じゃなかったと思うんだ」
「――え?」
「いや、そういう子も必要だったとは思う。けど、本当に必要だったのは間違った道から手を引っ張ってくれる子だったと思うの。素直じゃない彼はきっと最初は反抗すると思う。もしかしたら嫌いになるかもしれない。それでもね、彼の幸せを願うためなら誰かがやらなくちゃいけないの」
「……そうですね。それを私が――」
「もしもう一度チャンスがあるとしたらその役は私が引き受ける。嫌われたっていい。彼を救ってみせる。だから、凛花ちゃんは透くんを支えてあげて?」
「そんなことを桜庭先輩に任せるわけにはいきませんよ。疎かにしてしまった私がやります」
「中学の時、知っていたのに見て見ぬフリをしていたのは私も一緒だよ? だから私に協力して欲しいの。凛花ちゃんが寄り添って私が引っ張る。まあ、チャンスがあったらっていうあり得ない話なんだけどね」
「でも、もしチャンスがあったとしたら……その時はお願いします。私は兄の支えになりますから、どうか孤独の底にいる兄を救ってください」
私たちは握手をして誓い合った。もし、もう一度だけ兄と出会えたら――今度は救ってみせると。