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時計の針が止まる時

今回は「物語」というより「人生」を意識して書きました。一人の少年の人生、その序章ですが読んでくださった人の心に何か残せれば幸いです。

 朝、目が覚めると妙に肺が痛む。誰かに握り絞められているような痛みで悪い病気ではないかと少し不安になったが、僕は昔から肺が弱く時折呼吸が苦しくなるような発作が起こっていたから、これはその延長だと思い、とりあえず今日は高校を休むことにした。

 病院には行かなかった。僕は病院が大嫌いでどこが悪くても行ったことは一度もない。だから、発作の理由は未だに知らない。別に知らなくても生活に支障はなかったから。少し我慢すればすぐに治まる。そんなことであんな場所に行きたくなんてなかった。

 次の日も肺の痛みは治まらなかった。今日は土曜日だから学校を休まなくて済んでよかった。ただでさえ、1日休んだだけでもずる休みだとかお前がいないせいで大変だったとか、そういう言葉をかけられるというのに2日休んだら何を言われるのか分からない。早く治すためには病院に行った方がいいのだろう。でも、行きたくない。でも休むと学校の人たちに何か言われる。数分ほど脳内で病院に行く行かないバトルを繰り広げ、花占いででも決めようかと思っていたら携帯が鳴った。妹からの電話だ。何日ぶりの会話だろうか、家族だというのに緊張して電話に出た。

「この電話は現在使われておりません。ピーという発信音の後にお名前とご用件をお話しください。ピー」

「もしもしお兄ちゃん? その色々混ざったボケにつっこむの面倒だからスマホ二つ折りにしてもいい?」

「ごめんなさいでした。で、何の用件?」

「今からそっち行きたいっていうか、泊まりたいかも」

「……なんで?」

「お兄ちゃんなら分かるでしょ。あの人たちの側にいるの嫌なの」

 僕は高校生になってから一人暮らしを始めた。別に高校が遠いわけではない。むしろ、実家から高校までは自転車で10分ほどでここから実家までは自転車で20分ほどしかかからない。なのにどうして実家を離れたかというと、両親に追い出されたからだ。お前なんてうちの子じゃない。生活費は出してやるから二度と近づくなというようなことを言われたような気がする。しかもその後、生活費と学費は就職したら返してもらうという内容の手紙をご丁寧に送ってきた。そんな僕のことが大嫌いな両親だけれど、妹のことは溺愛していたはずだ。家を出たくなるようなことをあの人たちがするわけがない。

「もう中1になるのに幼児みたいな扱いしてくるんだよ? 気持ち悪いに決まってるじゃん。許されるならずっとお兄ちゃんと暮らしたい」

「ナチュラルに僕の心を読むんじゃないよ。そんなことしてあの人たちにばれたら、何されるか分からないから勘弁して」

「冗談。それで、行ってもいいの?」

「親になんて言ってこっちに来るの? まさか内緒で来るなんてことしないよね」

「そんなことしたら捜索願出されちゃうよ。友達の家に泊まりに行くって言ってあるし、その友達にも口裏合わせてもらってるから大丈夫だと思うよ」

 たしかに、そのくらいはあの人たちならやってもおかしくないような気がする。そこまで対策しているなら後はうちを出入りするところさえ見られなければ大丈夫だろうか。あれこれ考えている間にインターホンが鳴った。

「あ、ごめん。着いちゃった」

「断っても来る気だったのかよ……」

 ベッドから降りると肺に突き刺さるような痛みが襲ってきた。変な声が出る前に通話を切って、ゆっくりと玄関に向かう。なんとか呼吸を整えて目を閉じた。さっきまでの自分を殺し、妹用の自分と入れ替えるための動作だ。普段通りのお兄ちゃんを演じるために――。

「あ、お兄ちゃん。久しぶり」

 ドアを開けると普段と変わらぬ妹――凛花の姿がそこにあった。彼女の表情から、どうやら自分が体調を崩していることはばれていないようだ。彼女も親に似たのか、心配性で普段と違うとすぐに何かあったのかと心配してくる。それが鬱陶しいわけではなく、むしろ嬉しいのだけれどあまり妹に迷惑はかけたくないし、僕のことを心配しているそぶりを親にばれたら面倒になることは間違いない。だったら、心配させないのが誰にとっても幸せになる方法だ。

 何も言わずに考えすぎたせいか、妹の表情が徐々に怪しむものへと変わりつつあったからとりあえず家の中に入れることにする。こんなところで立ち話をしていたら見られてしまった時の言い訳なんて不可能に近い。

「とりあえず中に入りな」

「お、お邪魔します」

 一応家族の家なはずなのに、凛花はまるで目上の人間を相手にしているような振る舞いで入ってきた。まるで礼儀作法の番組の例に出てくるような動作だ。別に彼女が誰に対してもいつだって礼儀正しく生活しているというわけではない。どちらかと言えば礼儀正しい方ではあるが、これは僕と彼女の間にそれほどの溝が出来てしまっているという表れだろう。離れて暮らし始めてから数か月しか経っていないが、その時間は思っていたよりも長いことに気づかされた。部屋で落ち着かない様子で立つ妹の姿に悲しさを感じたが、それをなんとか表情に出さないようにして普段の雰囲気で声をかけた。

「自分の家にいるような感じでいいから。お兄ちゃんの家なんだから遠慮しなくていいんだぞ」

「そ、そうだね。失礼します」

 そうは言っても他人行儀が抜けないようで、少しでもいつも通りでいられるように普段の3割増しの軽いノリで接する。兄妹なんだからこのくらいがちょうどいいだろう。だが、対する彼女は余計に緊張してしまっているのか正座をして縮こまっている。僕まで緊張して声をかけにくくなってしまった。リラックス……リラックスしよう。

 話題がなく、視線を時計に移すと針は12時を示している。ちょうどよかった。ご飯でも食べながらゆっくり話そう。

「ご飯食べてきた? 何かリクエストあるなら作るよ」

「本当? 実はお腹空いてたんだよね。久々にお兄ちゃんのオムライスが食べたいな」

「よし、すぐ作ってくるから待ってな」

 両親が共働きなこともあって昔はご飯を作ってあげることが多かった。その時彼女が好んでいたのがオムライスだったから、昔のような距離に戻りやすくなるかもしれない。話し方も少しくだけてたし、安心した。

 最近高校が忙しくて自炊することが減っていたけれど、作り方は体がしっかりと覚えていてくれたおかげで時間をあまりかけずに完成した。盛り付けの準備をしていると、ドアの隙間からキッチンを覗いている凛花の姿が見えた。その姿は数年前と変わらなくて、思わず苦笑した。早く早くと言わなくなったのは大人になった証拠だろうけど、それで大人扱いしたら怒られそうだから黙っておくことにする。

 お皿を持って部屋に戻ると、彼女は礼儀正しく正座をして待っていた。さっきの様子を見た後だと妙に笑いがこみあげてきたから、堪えきれなくなる前に食べ始めよう。

「それで、最近学校とかどうだ? 楽しくやれてる?」

「そこそこかな。成績も上がってるし、友達もたくさんいるよ。不安なことは先生に来期は生徒会やってみないかって言われててちょっと悩んでるくらい?」

「そっか、それは良かった。凛花の好きなようにやるといいよ。先生に言われたからじゃなくて、自分でやりたいって少しでも思うなら僕はおすすめするよ。きっとプラスになることを学べると思うから」

「やってみたいって気持ちはあるんだけど、お兄ちゃんみたいに出来るかなって……」

「僕みたいになる必要なんてないよ。凛花らしく頑張ればいいんだ」

前者の意味を察せられないように上手い言葉で取り繕った。僕みたいになってはいけない。というか、そもそも両親がそれを許さないだろう。どんなに良い事をしていたとしても、僕の後を追うようなことはしてほしくないのに何故か凛花は僕を追いかけようとする。それにもっと早く気がつけば、僕はこんなに頑張ろうとは思わなかった。どんなに彼女が頑張っても僕の1ランク下までしか届かない。それを近所や親戚の人たちに噂される。兄より出来が悪い妹だと。そこまで出来ていれば十分じゃないか。県で5本指に入る高校だって目指せるレベルだ。そこに何の文句がある。不満がある。どうして自分より下という部分にしか目がいかないんだ。そのくらいまで見てあげろと思う。

両親だってそう言えばいいのに彼らは僕に

「お前はもう頑張るな」

「余計なことをするな」

「そのくらい出来て何だ? お前が出来たところで何の価値もない」

とはっきりと言い放った。

それ以来僕は頑張るのをやめた。自分が頑張ることで誰かが傷つくというなら、この努力には何の価値もないから。

「お兄ちゃん……? 具合悪いの?」

「あっ、ごめんごめん。ちょっと味濃いかなって考えてたんだ」

「そんなことないよ。いつも通りで美味しいよ」

 難しい顔をして無意識でスプーンを握りしめてしまっていたらしい。僕はなんとか笑顔を作ってみせると、凛花は嬉しそうに微笑んだ。僕がこんなことを考えてるなんて知ったら悲しむだろうから、言えるわけがない。今は余計なことを考えずにせっかくの妹との時間を大切にしよう。


「お風呂あがったよー」

 髪を拭きながら寝間着姿でやってきた凛花は僕の膝の上に乗ってきた。中学生になったと言ってもこの前まで小学生だったわけだし、あの両親に甘えるというのは難しい。きっとまだまだ甘え足りないのだろう。ちょっと照れくさかったけれど、拒む理由もなかったし気にせず勉強を続けた。

「うへぇ……高校の勉強難しそう。これとか数学なのに数字の方が少ないじゃん」

「まあ、そこそこのところに入っちゃったから仕方ない。昨日休んだ分、復習しないと授業ついていけなくなっちゃうからね」

「お兄ちゃん、昨日学校休んだの?」

「あっ……」

 うっかりしていた。一緒に暮らしていた頃は学校を休むことなんてほぼなかったから、休んだなんて話をしたら心配されるに決まっているのに。妹の顔をおそるおそる覗き込むと、不安そうな表情をしていた。これはまずい。早く言い訳を考えないと。

「もしかしてどこか悪いんじゃ――」

「ちょっと勉強のしすぎで体調崩しちゃってさ。しかも、週の終わりだから疲れも溜まってのかな」

「病気じゃないならいいけど、ちゃんと病院に行ってね?」

「やばそうだったらちゃんと行くよ」

 すんなりと嘘がつけるのは少し心が痛む。でも、誰かを傷つけないための嘘だから仕方ない。気にしないようにして勉強に集中していると、彼女は寝息を立てていた。時計を見るともう日付が変わる頃だ。普段ならとっくに寝ている時間だろう。起こさないように抱きかかえてベッドに運ぶ。僕は何かあった時用に買った寝袋で寝よう。歯を磨いて寝ようと歩くと、急に視界が歪んだ。

「うっ……くっ……」

 平衡感覚を失ってその場に崩れ落ちた。それにくわえて肺が強く痛む。呼吸が上手く出来なくて苦しい。こんなところを凛花に見られたら間違いなく病院に連れて行かれる。早く治まれ、治まれ治まれ治まれ……!

 しばらくすると呼吸がだんだん楽になって痛みが引いてきた。いつの間にか視界も正常になっている。そっと振り返って彼女の様子を見ると変わりはない。見られずに済んだようだ。僕は溜め息をついてその場に寝転んだ。起き上がれる気分じゃなかった。今日はこのまま寝よう。きっと休めば良くなると思うから。

 

「きて……起きて……」

「ん、凛花……?」

「おはようお兄ちゃん。よく眠れた?」

「って、え!?」

 目を覚ますと目の前に妹の顔があって、驚きでベッドから落ちそうになるのを何とか堪えた。って、なんで自分はベッドで寝てるんだ? たしかに昨夜は床で寝てたはずなのに……。

「こんなフローリングの上で寝たら風邪引くし、体痛くしちゃうでしょ? だから、私が何とかお兄ちゃんをここまで誘導したのでした」

満足気に話す妹だが、中学生ってなんかこう……もっと反抗的だと思っていた分、ここまですることに何とも言えない気持ちになる。いや、普段の様子を見ていれば反抗なんて微塵も感じないんだけれど、それは果たして良いのか悪いのか。

考えても答えが出るわけもないから、僕は朝食の準備にとりかかることにした。パンを焼くのとお皿を用意するのは凛花に任せて、僕はウィンナーを焼くと同時にスクランブルエッグを作る。たしかに冷蔵庫の中にサラダが残っていたはずだ。定番の洋風朝食といった感じだが、彼女は嬉しそうに食べてくれた。いつも一人でご飯を食べている時は味なんて全然感じなかったけれど、やはり誰かと食事を共にすると美味しく感じるものなんだと気づいた。そうは言っても、遊びに来る友達もいないからこれからも一人で食事をすることになりそうだけど。


「じゃあ、あんまり長居するとあの人たちがうるさいから、私はそろそろ帰るね」

「ああ、気をつけて帰るんだよ」

「気をつけるほどの距離じゃないけどね。また来るね」

二人でゆっくりしていると時間は早いものでもう夕方になっていた。親に見られたら不味いから見送りは玄関までにして、僕は部屋に戻った。そういえば昨日までの肺の痛みはすっかり治まっている。これでなんとか学校には通えそうで安心した。だが、明日から5日も連続で学校に通わないといけないというのは憂鬱だ。勉強は別にいいが、クラスメートにはあんまり会いたくない。

頭が良い=性格が良いというわけではないことを学んだのは僕が高校に入ってからだ。この辺でトップクラスの高校に進学できたのはいいが、勉強が出来ると言われてきた人が集まるせいか、みんな変にプライドを持っていて他人を落として自分を上げようとする。入学して1ヶ月はそれが割とショックだったが、今は多少は慣れてきた。案外クラスメートと関わらなくてもやっていけることに義務教育との差を感じた。だからこそ、凛花には同じ高校には来てほしくないと思うけれど受ける気満々だ。彼女が受験するころには僕は卒業しているし、親は僕より高いところを目指せと言わない限り反対することはないだろう。そう考えるとため息が出た。毎回そんなやつらが集まるわけじゃないということを今は信じよう。そうでもしないと悩み事に押しつぶされてしまいそうだ。

「どうしてこうなったんだっけ」

言葉にしてみたがよく分からなかった。きっと僕が悪いから仕方ない。だからこの苦しみは罰であって、拒むことは絶対に許されない。明日からも地獄のような日々を笑って過ごしてみせよう。



「七瀬のやつ、今日も休みだといいよなー」

「分かる。あいつ、たまに何か偉そうだよな。俺はお前らとは違うんだぜ的な?」

「普段は話しかけやすいんだけど、たまに近寄りがたい何考えてるのか分からない雰囲気出してるよね」

「たまにずる休みしてるしよ。なら来んなって話だよな」

 月曜日の朝も痛みが引いていたから、学校に行くことにした。教室に入ろうとすると僕の話をしているのが丸聞こえで一瞬入るのを躊躇ったが、だからといって帰るわけにもいかない。いつも通りでいれば大丈夫だ。

「おはようみんな」

「お、おう……おはよう」

「体調大丈夫なのか?」

「もう何ともないよ。心配してくれてありがとう」

 聞いてなかったフリをして僕は自分の席に座って授業の準備を始めた。彼らは聞かれてないか僕の様子をちらちらと確認していたが、聞かれてないことを確認したのか安堵していた。彼らが普段僕について何を言ってるのかも、どう思ってるのかも分かっているけれど、それを言ったところでクラスの雰囲気を悪くするだけだ。僕はみんなの邪魔をしちゃいけない。円滑に学校生活を送るために、自分に向かってくる弊害は全て耐えないといけない。それが中学の頃に植え付けられた考えだ。

 授業が始まるとノートを書く音だけが教室に響く――わけではなく、真面目な人は真面目だし遊んでいる人は遊んでいる。その辺りは他の高校と変わらない。僕はどちらでもなく、真面目に聞いているわけでもなければ遊んでいるわけでもない。話は聞いているけれど頭にあんまり入ってこなかった。まるで勉強することを拒絶しているみたいだった。でも、そんなのは言い訳だ。入りたくてここにいるのだからちゃんとやらないといけない。そう思い直して僕は再び黒板に視線を向けた。


「はあ……」

 結局いつも通り勉強も上手くいかず、放課後になってしまった。このまままっすぐ帰るのもあれだし、残って勉強していこう。ふと考えてみれば放課後が自由だなんて不思議な感覚だ。つい数か月前――中学生だった頃は、クラスメートに色々用事を任され、先生にも仕事を頼まれたりクラスのことでお前がもっとしっかりすればクラスも良くなるなどと説教をされたりしていたからそれで帰りが遅くなっていた。そして、帰ると母親がなんでこんなに帰りが遅いんだと怒鳴り散らす。よくあんなに普通にしていられたものだと自分のことなのに感心してしまう。

 昔のことを考えると肺が痛むような気がして考えるのをやめた。ここには自分一人しかいなくて自由なんだから、少しでも勉強に集中しよう。後で苦労するのは僕なんだから今はどの道を進むにしても学力を高めておいて損はない。明日やろうって思い続けて数年前の自分を恨むことになるのは目に見えているのだからつらくても頑張ろう。つらいこと、苦しいことを耐えるのは僕の得意分野だから。

問題集を解いていると案外解けてしまうのだが、これに応用が入ると何がなんだか分からなくなってしまう。他の問題にも慣れるために新しい問題集でも買ってみるべきだろうか。いや、でも下手に色々なものに手を出したって中途半端になってしまう気がするし、それならこれ1冊に集中した方が……。

「おーい、七瀬。そろそろ教室閉めるぞ」

「あっ、はい」

 ドアの隙間から担任が顔を出して声をかけてきて、時計が7時前を指していることに気がついた。意外と集中してたみたいで普段からこのくらい出来るといいんだけど。

 自転車で慣れてきた帰り道を走る。肌を撫でる風が心地良かった。勉強も大事だけれどたまには何も気にせず、こうして自然を感じるのもいい。視線を上にあげると空が広がっていた。こうしていると小さい頃にブランコに乗っていて空の向こうに行けそうだと思っていたのを思い出す。今はそんなことは無理だと分かっているけれど、あの時は夢を持っていた。何だってやりたかったし、何にでもなりたかった。そんなあの頃は今の自分には眩しすぎて、昔のことを考えるのはやめて無心で自転車を走らせた。

 家に着く頃には汗が喉まで垂れてくるほどで、先にシャワーを浴びることにした。汗と一緒に嫌なものまで洗い流せたようで、風呂場から出ると少しスッキリした。部屋着に着替えてベッドに寝転ぶ。休み明けの学校は思ったより疲れた。

「いや、それだけじゃないか……」

 クラスメートの言っていた言葉を思い出す。僕だって好きであんなことしているわけじゃない。でも距離が近いのは怖いし、近づいたら離れていくのは分かっている。それなら始めからある程度の距離を保っていた方が楽だしお互いのためなんだ。別に僕がいないと誰かが困るわけでもないし、このままでいい。

「この呪われた子め! お前なんか余所の家に行っちまえ!」

 昔言われた言葉が脳内再生される。それと同時に肺が少し痛んだ気がした。当時はなんて酷いことを言うんだと思った。もう何もかも絶望した。でも、今思えばその通りだ。僕は呪われた子で、誰かの役にたてないなら生きていても仕方ない。困ってる人を助けるために、もっと頑張らないと。誰にも必要とされないなら――。



 次の日の学校もいつもと特に変わったことはなかった。中学よりも1時間の授業時間が5分伸びただけで長く感じるなと考えていると、数学の時間が終わった。やっと昼休みだ。クラスメートたちは机を寄せたり、他教室に移動したりして自由にお弁当を食べていた。僕もどこかに行こうかと考えたけれど、教室の人数が少ないしここで済ませることにした。

「あのさ……」

「ん?」

 お弁当を広げているとクラスメートが声をかけてきた。昨日僕の噂をしていた一人だ。なにか文句でも言われるのかと思ったがそんな様子には見えない。むしろ、少し申し訳なさそうにしている。そこで僕はピンときた。こういうことは1回じゃない。今まで何度でもあったから。

「次の化学って課題あったっしょ? 見せてもらってもいい?」

「……いいよ」

「サンキュー、七瀬! やっぱりお前に頼んで正解だったわ!」

 僕からプリントを取るとさっきとは打って変わってにやにやした表情で自分の席へと戻っていった。

「……調子いいな」

 聞こえないように小さい声で呟いた。普段はストレス解消の対象として扱うくせに、困ったら下手に出て利用する。少し気に障るがこんなことで気分を害していたらキリがない。頼みやすい相手に頼むのは人として普通のことで、みんなの中でのその相手が僕だけだったということだ。いいじゃないか。これが僕の望んでいた誰かの役に立つということなんだから。

 そのはずなのに、また肺が痛んだ気がした。最近日に日に痛みも頻度も多くなっている気がする。教室にいるとだんだんと息苦しい気がして僕は教室を飛び出した。誰か人がいないところを探そうと廊下を走っていると保健室の前に着いた。ゆっくりドアを開けると中には誰もいない。少しここで休ませてもらおう。

 ベッドのカーテンを閉めて仰向けに体を倒した。こうして空間を区切ると落ち着く。次の授業は少し休もう。出る気分になれない。

「あ、あの……どこか悪いんですか?」

 突然声がしたかと思うと隣のベッドに先客がいたらしい。カーテンを少し開けて顔を覗かせてきた。気の弱そうな女の子だ。肺が悪いだなんて言うと驚かせてしまう気がして作り笑顔でもしようと思ったけれど、それだとサボっている不良だと思われてしまう。

「ちょっと調子が悪くてね。少し休んだら治りそうだよ」

「そ、そうなんですね。それは良かったです……」

 調子が悪いとは便利な言葉だ。たぶん正解を言えただろう。それで話が終わると思いきや、彼女はまだこちらを覗いている。それだけで彼女の心境が理解出来た。話し相手が欲しい――いや、自分のことも聞いてほしいというやつだろう。偏見で悪いが経験上この手の相手は気をつけないと厄介ごとに巻き込まれる。それに注意して聞いて返答しないといけない。本当なら別にそう言われたわけでもないのだから、放っておくのが正解なんだろうけど自分という人間はどうもスルーをするというのが出来ないらしい。

「君はどうしたんだい? 大丈夫そうなのかな?」

「わ、私はですね――」


 それから1時間が過ぎて彼女は嬉しそうに教室へと戻っていった。結果だけ言うとやっぱり人と話すことに飢えていたらしい。心配していたほどではなかったが、一人でいるのが耐えられないタイプだ。ちょっと危なっかしい。ある程度の自分なりのアドバイスはしたからきっと周りにとけこんでいけると思う。それがちょっと自分だけでは出来なかっただけだ。

 ついさっきまで全く見知らぬ相手だったのにここまで気にかけていたことに気がついて、ここまでくるとおせっかいが過ぎる気がして少し注意しようと思った。これでよく面倒事に巻き込まれるのだから。

 ベッドから起き上がり、体を軽く動かすが特に痛みはない。長居しても仕方ないし教室に戻るとしよう。

「はーい。ここに名前とその他諸々の記入よろしくー」

 いつの間にか保健の先生が戻ってきていて、言われた通りに記入した。症状の欄になんて書くか一瞬悩んだが「頭痛」と書いておいた。特に何も言われず、お辞儀だけして保健室を出る。時計を確認するとまだ休み時間だ。これなら余裕で授業に間に合うだろう。

 教室の前に着くと、人の気配がない。そういえば今日は先生たちが何かあるとかで5限で終わりだったんだ。荷物をまとめて帰ろうとドアに手をかけると中から声が聞こえてきた。

「知ってるか? 七瀬って中学時代先生にめっちゃ媚売ってたらしいぞ。それでここに合格したとか」

「うわ、まじかよ。そこまでして入りたいとか引くわー」

「同中のやつから聞いた聞いた。相当先生から気に入られてたとか」

 また僕のことを噂するクラスメートの言葉が聞こえてきてため息をついた。お前のせいでクラスの雰囲気が良くならない。そんなこともできないならやめちまえと怒鳴り散らされている一方でそんな噂をされていたなんて知らなかった。クラス、学年の問題を僕のせいにしていたのは気に入られていた証拠だったのか。心の中の皮肉は、怒りが沸々とわいてきたが何も言えなかった。彼らにそんなことを言ってどうするのか。悲劇の主人公を気取っているのかと笑われるのも、かわいそうだと同情されるのも苦しいだけだから。

「うっ、げほっ! ごほっ!」

 突然息苦しくなったかと思ったら何かが喉につっかえて噎せた。そしてその何かが口を押さえた手のひらに付着する。

 真っ赤な血だった。あまりに綺麗な色で健康なんじゃないかと思ったが、そもそも健康な人は血を吐かない。そんなことを考えられるほどの余裕はまだあった。出血する場所によって吐血とか喀血とか呼び方が変わるんだったかなとそんな曖昧な知識を思い出していると、突然ドアが開いた。

「げっ、七瀬……」

 教室から出てきた僕の噂をしていたクラスメートはあからさまな表情で見ていた。慌てて血の付いた左手を隠して笑顔を作る。

「こんな時間まで勉強なんて偉いねー。さっすが、真面目な人たち」

「んなわけねえだろって、電車が来るまで駄弁ってただけだよ」

「じゃ、じゃあな。気をつけて帰れよ」

 逃げるように去っていく彼らを目で追い、完全に姿が見えなくなったところでため息をついた。そんな取り繕ったところでばればれだっていうのに。

 廊下に立ちつくしていても仕方ないから、僕も荷物をまとめて学校を出た。

 さっきの吐血のせいか、結構ふらつく足取りで家に着いた。息が切れるし嫌な汗が額から流れてる。視界も普段より若干狭い。明らかに体調不良だが、先日休んだばかりなのにまた休むわけにはいかない。すぐに体調を整えて明日に備えないと――。

「ぐっ……うぇ、ごほっ、がはっ!」

 突然苦しくなって咳き込むと足元に血が垂れた。いや、流れたとか零れたとかいう表現の方が近いかもしれない。血だまりが出来るほどの量が口から吐き出された。

「流石にこれはやばいでしょ……」

 今回ばかりは動揺を隠すことはできなかった。人の口からこんな量出てくるなんて信じられない。とにかく今はこれを綺麗にしないと不味い。アパートの廊下にこんなものを残していたら、警察を呼ばれてもおかしくない。

 水と拭くものを持ってこようと玄関のドアに手を伸ばすと勝手にドアノブが傾いた。

「えっ……?」

「お兄ちゃん? ちょっと待って。それどうしたの」

 家に凛花がいることに驚いてしまったせいで隠すのを忘れていた。左手も口元も足元も血だらけなのをはっきり見られてしまった。急いで誤魔化そうと頭を回すが、色々起こりすぎて脳内は真っ白になってしまっている。何も思い浮かばず、ただただ時間が流れるだけだった。

「答えて」

「あ、えっと……」

「いつから?」

「……最近かな」

「本当に? 何回くらい?」

「ほ、本当。まだ数回」

「……分かった」

 淡々と聞いてくる妹がこんなに怖いとは思わなかった。その勢いに圧倒されてぼーっとしてしまったせいでスマホを取り出してどこかに電話しようとしていることに気づけなかった。こんな状態だ。誰がどう考えたって連絡する先は一つしかない。

「ま、待って凛花! 救急車だけはやめてくれ!」

「そんな状態で何言ってるの? 一刻を争うかもしれないんだよ。お兄ちゃんが病院嫌いなのは分かってる。でも、そんな状態で――」

「近所の人が驚いちゃうだろうし、僕は普通に動けるからさ。病院はちゃんと行くから救急車を呼ばなくても大丈夫だって」

 それっぽいことを理由にして説得を試みる。もちろん病院には行くつもりはない。あんなところ絶対に行きたくないから。凛花には後で行くと伝えて行ったことにすれば誤魔化せるだろう。彼女には申し訳ないけど、それほど僕はあの場所に行きたくない。例えこの症状が悪化したとしても、病院に行くより全然マシだ。

「じゃあ、今すぐ行く。私もついていくから」

「待って。そんな子どもじゃないんだから――」

「だってそうでもしないと絶対お兄ちゃん行かないでしょ! それでお姉ちゃんみたいになったら、私は……私はどうしたらいいのか分からないよ……」

 俯き震える妹の姿に僕は何も言えなかった。自分のことばかりで凛花の気持ちは全く考えていなかった。病院は本当に大嫌いだし、死んでも行きたくないけど……それよりも大切な妹が悲しむ方が嫌だ。

 僕は凛花の頭をそっと撫でた。彼女は唇を曲げて微かに抵抗を示したが、黙ってぐしゃぐしゃと撫でられていた。

「ごめん、凛花。連れていってもらってもいいかな」

「うん……」

 彼女はいったん部屋に戻り、すぐ支度を終えて出てきた。そして僕の手をしっかりと握って歩き始めた。この年にもなって

妹と手を繋ぐのは照れ臭かったけど、あんなことを言われた後だから離すことは出来なかった。僕でも未だに引きずっているんだ。僕以上に仲良かった凛花はもっと忘れられないだろう……小春姉さんのことを。

 黙々と歩き続けて20分ほどで市内の病院に着いてしまった。着いた瞬間、一気に息苦しくなって目眩がする。背中は冷や汗で濡れていて体は微かに震えている。

「お兄ちゃん……」

「――大丈夫だよ」

 深呼吸をして落ち着いてから1歩ずつゆっくりと進んでいく。近づくほど苦しさは増していくけれど止まってはいけない。いつかは乗り越えなくちゃいけないものなのだから。

 凛花は僕の心中を察してか、何も言わずにゆっくりと歩幅を合わせてくれていた。それが嬉しくもあるけれど、兄としては情けなく感じた。

 病院の中はそれほど混んでいなくて、受付で予約を済ませて10分ほど待つと放送で僕の名前が呼ばれた。

「七瀬さん。七瀬透さん。第一診察室まで来てください」

「それじゃ行ってくるよ」

「待って。私もついてく」

「流石に兄妹揃ってじゃ恥ずかしいから、待っててもらってもいいかな? 大丈夫。結果はちゃんと言うから。診断書だって見せるし」

「たしかに、高校生にもなって妹の付き添いはちょっと恥ずかしいかもね。待ってるからちゃんと礼儀正しくしてくるんだよ?」

 そう言って凛花は笑った。その様子に安心してさっきよりも落ち着いて診察室に向かうことが出来た。

「失礼します」

「どうぞ。おかけになってください」

 医者にしては若く見えた。この界隈のことはよく分からないけれど、相当優秀な人なんだろうか。優しそうな雰囲気に男の目から見てもかっこいい顔で女性患者に大人気そうだ。医者でかっこいいなんて天は何てものを与えてしまったのだろう。

「さて、今日はどうなさいましたか?」

「えっと、ですね……血を、吐いてしまいまして」

「血、ですか。それはいつ頃でしょうか?」

 医者は一瞬表情を強張らせたがすぐに穏やかな表情に戻り、声色も優しくなった。患者を不安にさせないための配慮だろう。それに気づいてしまう自分は嫌な患者だ。

「今日です。夕方――4時頃に1回と4時半頃に1回」

「ふむ……。その時の量や症状は覚えていますか?」

「1回目は少量でした。数敵ほど。2回目は……血だまりが出来るほどです。どちらも急に息苦しくなって噎せたら血を吐いたっていう感じです」

「……分かりました」

 だんだん真剣な表情に変わってカルテを記入する姿を見てただ事ではないことが伝わってきた。血を吐くほどのことなのだから、ただの風邪なわけがない。入院するくらいは覚悟しておいた方がいいだろう。

「これまで体調が悪くなる……どこか痛むことはありましたか? どんな些細なことでも構いません」

「……えっと」

 一瞬本当のことを話すか戸惑ったが、妹の悲しそうな表情が思い浮かんで自分が馬鹿なことを考えていることに気がついた。せっかく苦しさを耐えてここに来たというのに医者にまで嘘をついてどうするんだ。現状を知ることが今は一番大切だ。

「昔から突然肺が痛むことが――」

「そうか……ああ、申し訳ない。続けてください」

「あ、いえ。それ以上のことはないです」

 患者の言葉の途中で無意識のように呟いたことに疑問を抱いた。もしかしたら心当たりがあるのかもしれない。医者の次の言葉を待っていると彼は悟られないように下唇を微かに噛んでいた。その仕草が何を意味しているのか、少し怖い。

「紹介状を書こう。すぐに近くの総合病院まで向かってくれないか」

「え、あの――」

「急いでCT検査した方がいい。万が一のことがあったら大変だからね」

「分かりました」

 一応ここの設備で出来ることはしてもらったが、結論から言うと原因はよく分からなかった。診察を終えて部屋から出ると凛花と目が合った。すごく不安そうな表情をしていて、本当のことを言うべきか悩んだ。

「あ、お兄ちゃん、嘘吐こうか悩んでる顔してる」

「え、僕そんな顔してた……!?」

「やっぱりそうだったんだ。ほんと分かりやすいね」

 そう言って彼女は大袈裟にため息をついた。どうやら僕は自分が思っているよりも嘘を吐くのが下手らしい。いや、もしかしたらずっと一緒に兄妹だから通用しないのかもしれない。そんなことを考えていると、彼女は疑いの眼差しで見つめていた。今は考え事をしているよりも、謝る方が先だ。これからは隠し事はしないように気をつけよう。

 なんとか凛花から許しをもらい、支払いを終えて招待状をもらうとすぐに近くの総合病院に向かうことにした。本当なら診察時間はもう過ぎているが、特別に話を通してもらって今すぐに検査をしてもらえるみたいだった。そこまでしてもらって嬉しい反面、そこまでしないといけない状態なのかと不安がよぎった。凛花もさっきまでは少し元気だったけれど、その話をしたら口数が減ってしまった。結局行きと同様の空気でそこから15分ほど歩き続けた。

 総合病院が視界に入ると、さっきまで落ちついていた肺の痛みが一気に増した。それを凛花に悟られたら不安にさせてしまう。どうにか何ともない体を装わないと。最初は自然にしてられたが近づくにつれて痛みは増してくる。まるで刃物のようなもので内側から刺すような痛みになり、もう僕は耐えることは出来なかった。呻き声をあげて膝から崩れ落ちる。

「お兄ちゃん? お兄ちゃん! しっかりして!」

「うぅぅ……あっ、ぐっ……」

 声にならない声をあげるだけで精一杯だった。視界に病院が入らないような体勢になったが、それで治まるほど甘くはなかった。僕は鮮明に思い出してしまう。小春姉さんが死んだ時とその後の僕を苦しめた弊害の数々を。そして、ブチンと何かが切れる音がした瞬間、僕の意識は途切れた。



「んっ……ここは……?」

 目を覚ますと真っ白な天井が視界に入った。辺りを見回すと病室だった。個室のようで僕以外の患者は誰もいない。いつもなら強く痛んだ後は治まった後も微かに痛みが残っていたのに、今は体もどこも痛みはなくさっきまでの痛みが嘘のように感じられた。とりあえずナースコールを押してみるとすぐに看護師と医者がやってきた。

「七瀬透くん、具合の方はどうだい?」

「今は特に何ともないです。体調はいつも通りです。」

「そうか。詳しい話は妹さんから聞いたよ。検査の連絡はきていたから、君が気を失っている間で悪かったけれど検査を済ませてしまった」

「それは大丈夫ですけど、どうでしたか……?」

「……遠回しに言うとかえって迷惑をかけてしまうだろうから単刀直入に言わせてもらうと、君の余命はもう1年もない」

「え?」

 突然の医者の言葉に意味が分からなかった。余命が1年ないと言われたような気がする。たしかに今日の症状は結構危ないものだったけれど、今まで割と普通だったのに突然そんなことを言われても実感がわかない。何かの間違いではないのか。そういった現実から目を背けるような思考が僕の脳内を埋め尽くしていた。

「突然こんなことを言われて混乱すると思うけれど、今からちゃんと説明する。疑問も全て答えよう。その上でこれからどうするか考えてほしい」

 それから僕の病気についての説明が始まった。正直に言えば僕はほとんど聞いていなかった。聞き取れたのは余命が1年もなく、下手したら今月に亡くなってもおかしくない状態にあること。どうやらこの病気は体の機能が徐々に低下し、いずれ死に至る不治の病らしい。僕はまず症状が肺――内臓から出たらしく、それだと余計にもうどうしようもないようだ。ここで痛み止めを打ちながら最期の時まで待つか、余生を自由に暮らすか選択肢が与えられた。

「……1日考えてもいいですか」

「こんな話突然されて答えるのは難しいだろう。1日じゃなくてもいい。ゆっくり考えなさい」

 医者が部屋から出るのと入れ違いで凛花が病室に戻ってきた。彼女の表情を見ると不安そうだが、さっきの話は聞いたものには見えない。どうすればいいんだ。こんなこと言えるはずがない。だからといって隠すことも出来ない。

「今のお医者さん? 検査はどうだった?」

「……とりあえず今日は様子を見るために1日入院してくれってさ。詳しいことは明日分かるみたい」

「そうなんだ。じゃあ、明日お見舞いにくるからね。今日はもう遅いし、あの人たちに探られると面倒だから帰る。じゃあね、お兄ちゃん。おやすみなさい」

 自分でも驚くほどすんなりと嘘が出た。一切彼女は疑うことなく、安心した表情で顔を合わせることが出来なかった。出て行く時も見ることが出来なかったが、きっと突然こんなことになって落ち込んでいると勘違いしてくれたかもしれない。

 体をゆっくり横にして目を閉じた。今日は色々ありすぎて何を考えても悪い方向にしか進まなそうだから、早めに寝よう。親を一応呼ばないといけないからそのためにも体力は残しておかないといけない。どうせならこれが夢で目が覚めたらいつもの日常があったらいいのに。そんな絵空事を考えているうちに意識が少しずつ夢の中へと誘われていった。


 早く寝たせいか、いつもとベッドと枕が違うせいか5時に目が覚めてしまった。夢であってほしいという願いは容易く砕かれ、身の回りは寝る前と何一つ変わっていない。もう一度寝ようにもすっかり目が覚めてしまって寝る気になれないし、かといってこんな時間に病院を探索するのも微妙だ。そもそもとりあえず安静にしていた方がいいと言われていたのだから、不用意に動くのは好ましくないだろう。ベッドの隣の椅子に置いておいた鞄から読みかけの小説を取り出して時間を潰すことにした。普段から暇つぶし用に数冊入れておく癖をつけておいて正解だった。

 1冊と半分を読み終える頃には病室の外から色々音がするようになった。気がつけば起床時間である6時を過ぎて、7時半になっていた。それからしばらくすると朝食が運ばれてきた。病院食であるから量は少ないが、朝はあまり食べられない僕にとってはちょうど良かった。自炊は一応しているもののここまで栄養バランスを考えて作っていないから見習わないといけない。まあ、そんなことをしても1年以内に死ぬらしいけど。

 朝食を食べ終えて食器が片づけられるのと入れ違いで誰かが入ってきた。父さんと母さんだった。後ろには俯いて暗い表情をした凛花がいる。

「どうして凛花がお前が入院したと知っている」

「朝の挨拶もなしでそれかよ。あんたらに直接連絡したら嫌がると思って、凛花に連絡したからだよ」

「透、凛花にはもう関わらないでと言ったはずよ。どんな理由であれ、この子と話すのはやめなさい」

「まあ、過ぎたことはいい。それで俺たちにそれを知らせてどうしたい」

「……それが当然だと思ったからだよ」

 入院までしているのだから親に知らせる義務があると思っていたがこの人たちはそんなことは微塵も考えていなかったらしい。失敗だった。それなら何も言わなきゃよかった。言うことないならさっさと帰ってほしいのだけれど、彼らの不満は終わらなかった。

「こんな大きい病院に入院して、そのお金は誰が払うと思っているんだ」

「生活費の中から何とかしてね。これ以上あんたに割くお金はないの」

「こんなところにまで連れてきておいて、それだけとは時間の無駄だったな」

「それにここがどこだか分かってるの? 小春のことを思い出させるような場所にきて、本当にあんたは親不孝ね」

 よくそんなに言うことがあるなと思うほどの言葉をぶつけられ、心を切り刻まれるような気分だった。でも、僕は何も言うことはない。何を言っても無駄なのは分かってるから。どうせ強気に出て正論を言ったとしても、母は泣き真似をして父は激怒して暴力に走る。それなら黙って耐えている方がましだ。何も言い返さないとあっちも良い気になってどんどんヒートアップするが、何も言わなきゃそのうち勝手に収まってくれる。

「お前なんかさっさと余所にやっちまえばよかった」

 でもやっぱり……。

「あんたがいなかったら、小春だって死ななかったのに」

 何度聞いても苦しすぎる。僕なんか存在しなきゃよかったって思う。

「この人殺しめ。お前なんか――」

「いい加減にしてよ!」

 心を殺して耐えようと思った時だ。病室に大声が響いた。一瞬誰だと思ったけれど、こんなことを言ってくれるのは一人しかいない。

「お兄ちゃんだって家族でしょ!? 家族が苦しんでる時にそれが親の言う言葉!? おかしいよ。絶対におかしい! こんな時までふざけないでよ!!」

「凛花、俺たちはお前のことを思ってだな」

「そうよ。あなたが幸せに生きていけるように考えてのことなのに」

「てきとうなこと言わないで。大切な家族を苦しめておいて、私のことを思ってる? 幸せになってほしい? 逆に苦しくてつらいよ!」

「凛花、もういいよ。僕のことは――」

「出てって……ここから出て行って! もう私とお兄ちゃんに関わらないで!」

「凛花、まだ話は――」

「いいから出て行って! もう2人の顔なんて二度と見たくない……! うっ、あっ……あああああああ!」

 凛花は両親の背中を突き飛ばすように追い出して、その場に崩れ落ちて泣き叫んだ。まだ中学生の彼女になんて苦しいところを見せてしまったのだろう。後悔したところで何の意味もなく、泣く彼女の背中をただただ擦ってあげることしか出来なかった。


結局僕は退院することにして、余生を自由に過ごすことにした。あんなことになった凛花を放っておけないというのもあるが、先が短いというのにあの場所でじっとしているのも性に合わないと思ったから。

 飲まないよりはましだと薬をもらって僕らは病院を出た。涙で目を真っ赤にした彼女はずっと俯いたままで一言も話さない。きっと色々と整理する時間が欲しいだろうし、僕は黙って彼女の手を握って歩き始めた。

「あ、あのお兄ちゃん……」

「どうした?」

「私……今夜、宿無しなんだけど泊めてくれないかな……?」

「仕方ないな」

 笑って答えると、凛花は嬉しそうに微笑んだ。あの様子だとずっと家に戻れなさそうだから、そのうち話し合う機会を作った方がいいだろう。それまではうちで面倒をみればいい。少し離れて暮らして家族の大切さを知った方が両親のためにもなるだろう。時間が限られているのだから、出来ることはしていこう。それが兄として妹に出来ることだ。

「あ、今日の夕飯私が作るよ。何が食べたい?」

「そうだな……スーパーに寄って考えようか」

「賛成。ふふふ、お兄ちゃんと2人暮らし楽しみだな」

 さっき空気を壊してしまったことを気にしてか、少し無理していつも通りにしようとしているように見えるが、わざわざ指摘することもない。この笑顔に自然となれるようにこれから僕が頑張ればいいだけのことだ。

 2人で話しながら歩くと時間が経つのはあっという間で、気がつくとスーパーに着いていた。凛花は嬉しそうに買い物カゴを手に持って野菜コーナーに目を配る。値段と商品を見比べながら考える彼女を見て、ついこの前まではあれが欲しいと強請る年齢だったのに成長の早さを感じた。ぼーっと眺めているうちにカゴに色々なものが入っていた。豚肉に玉ねぎと人参、ピーマン……なんとなく作りたいものが分かってきた。

「何を作るかは夕飯までのお楽しみだよ」

 僕がカゴをじっと見て考えていたせいか、彼女は人差し指を唇に当てて楽しそうに笑った。意地悪して正解を言ってしまおうと思ったけれど、せっかくの彼女の見せ場を奪ってしまうのもかわいそうだから僕は黙って分からないフリをしておいた。

 家に着くと早々、凛花は「キッチンは男子禁制です」と言って夕飯の準備を始めてしまって暇になってしまった。とりあえずもらった薬と診断書に目を通し、病名をスマホで検索してみたが珍しい病気だということしか出てこなくて、症状等は医者の言ってることと同じだった。下手したらすぐに死に至る病だ。ネットに書いてあること以上の説明はされているだろう。つまり、僕はこの後体の機能が低下していき痛みに耐えながら死ぬということだ。ようやく、自分が死ぬという実感がわいてきたが不思議と涙は出てこなかった。僕は自分が思っている以上に生への執着がなかったのかもしれない。

 スマホを机の上に置いて椅子に寄りかかった。せっかく妹が家にいるというのに、そんなことを考えて顔に出ていたら気にしてしまうに決まってる。彼女がいる間は最期の最後まで楽しんでいる兄を演じてみせよう。深呼吸をしてさっきまでの僕を殺すと同時に凛花が入ってきた。

「完成です! 今夜は酢豚だよー」

「すごく美味しそうにできたね。お腹空いてきたよ」

「すぐご飯にしようね。あ、お皿出してもらっていい?」

 テーブルの上を片づけて2人で夕飯の用意をする。昨日に続いて今日も誰かとご飯を食べることになるなんて思わなかった。早速酢豚を食べてみるとすごく美味しい。誰かと一緒にいると美味しさが増すと思うけれど、それだけじゃない。彼女の料理の上手さもある。そんな僕を見て彼女は嬉しそうに笑っていた。あの頃の僕と一緒だ。僕が作った料理を嬉しそうに美味しいと笑ってくれた凛花。その時の気持ちを今、彼女は感じている。

「すごい美味しいよ。ありがとう」

「ふふ……どういたしまして」

 言葉に出すのは照れるけれど、大切なことだ。言わずに後悔するくらいなら言った方がいい。と思ったけれど、すごく恥ずかしくなってその後はお互い俯きながら食事を続けた。そんな状態が何だか新鮮で、数秒経つと耐えきれず笑ってしまった。凛花も楽しそうに笑っている。僕らは兄妹なんだからこうしているのが当たり前だったんだ。こんなことならあんな人たち気にしないでもっと関わっておくべきだった。

 いつまでも笑っていたら食事が終わらないから落ち着いて、酢豚に箸を伸ばしたその時だった。それがなかったら僕はこの時間が永遠に続くものだと誤解していただろう。痛みは突然襲ってきた。

「うっ、が……ああああああ!」

「お兄ちゃん!?」

「ご、ごめん……!」

 突然襲ってきた嘔吐感に急いでトイレに向かう。せっかく凛花が作ってくれたものを吐き出すなんてことはしたくなかったけれど、苦しさには耐えられない。今食べたものを全て吐いてしまった。もう胃が空っぽなのにそれでも嘔吐感は止まらず、あのヒリヒリする独特の痛みが喉のあたりを襲う。

「大丈夫……大丈夫だよ……」

 彼女は気にせず、僕の背中を優しく擦ってくれた。こんな汚いものを見せたくなかったけれど、言葉を出すことさえ出来なかった。微かに口の中が変な味がすると思ったら、吐瀉物が赤く染まっていた。そこで僕はようやく肺の次は胃をやられたことに気がついた。これでもう食事も考えなくてはならなくなってしまった。

「大丈夫……大丈夫だよ……」

 相当酷い顔をしていたのか、彼女は繰り返し僕に囁く。いや、もしかしたら僕が死に向かっているという現実を認めないための自身の励ましなのかもしれない。どちらにせよ、彼女の不安を取り除いてあげられる行動も言動も出来ない僕がとても惨めで仕方なかった。

30分ほど嘔吐感と戦い続けてようやく落ち着いてきた。苦しみに耐えるので精いっぱいで後ろにいた凛花が僕を抱きしめて眠ってしまっていることに気がつかなかった。昨日もしかしたら眠れなかったのかもしれない。それに昨日今日とこんなことが続いたら疲れてしまうだろう。

僕は優しく彼女を抱きかかえて、ベッドの上に寝かせた。そして喉にはりつく不快感を取り除くためにうがいを何度もするが、しないよりましとも言えず全く変わらなかった。ベッドで眠る彼女に目を向け、僕はこの先のことを考えた。本来なら数日――1週間ほど彼女を置いておこうかと思ったが、僕がこの調子じゃ彼女を苦しめるだけなのは考えなくても分かる。両親は凛花を溺愛しているから、1日だけでも離せたなら反省するだろうし明日にでも家に帰すべきだ。でも、それを彼女自身が認めるだろうか。きっと僕を一人に出来ないと言って残ろうとするだろう。無理やり家に帰して僕が死んだら彼女は一生癒えない傷を負うことになる。それだけは避けなくてはならない。結局この夜は今後どうするか、ずっと考えていて一睡も出来なかった。

気がつくと朝陽が昇っていて、6時になっていた。一夜かけて考えた結果、凛花には納得してもらって帰すしかないという可能性としてはゼロに等しいものしか思い浮かばなかった。とりあえず彼女が起きたら言うだけ言ってみよう。もしかしたら素直に納得してくれるかもしれないし。

7時になって朝食の用意をしていると寝ぼけ目の彼女がキッチンまでやってきた。

「んー、私が用意するから、お兄ちゃんは無理しないで座ってて……」

「そんな目も開けられないような子に火を扱うことは任せられないよ」

 昨日ほどの痛みはなく、ある程度なら食べられそうだし動くのも問題はない。けど念のため自分の分はおかゆにしておいた。これからは胃に優しいものを口にするようにしないと、昨夜みたいなのはもう勘弁してほしい。

「ほら、朝ごはんにするよ」

「んー」

「ちゃんと起きてる?」

「私もお兄ちゃんと同じおかゆでいい……お兄ちゃんだけつらいのは嫌だから」

「その気持ちだけで十分だよ。朝はしっかり食べて」

 この感じじゃ話したところで納得されなさそうだ。どう切り出すべきか考えながら、とりあえず食べることにした。

「このオムレツ美味しいね。あまりの美味しさに目覚めてきちゃった」

「それは良かった。意識もしっかりしてきたところで凛花に話があるんだけど……」

「ん、どうしたの?」

 彼女の純粋な眼差しが僕の瞳を覗き込んで少し心が痛んだ。別に突き放すわけじゃない。妹のためを思ってのことだ。心を痛めるのはおかしい。自分にそう言い聞かせて静かに口を開いた。

「ご飯食べ終わったら家に帰ろう。……あの人たちも心配してると思うから」

「――はあ、お兄ちゃんってほんと嘘が下手だよね。あの人たちの心配なんていつもしないくせに、どうせ昨夜の件でこれ以上私に迷惑かけたくないと思ったんでしょ?」

 納得してもらえないどころかこっちの思惑さえもばればれだった。しかし、素直に引き下がるわけにはいかない。

「それはそうだけど、凛花だってこれから学校あるのにここにいたら落ち着いて生活出来ないだろ?」

「でも、そしたらお兄ちゃんだって学校行くの大変だから――」

「僕は辞めるよ。これからその手続きをしに行く」

「え、嘘でしょ……?」

 余命の話をされた辺りから考えていたことだ。最初の吐血、昨夜の血が混じった嘔吐……これから僕を何が襲うか分からない。それをあまり人に見られたくはない。気持ち悪いと引かれるのも同情されるのも嫌だから。それなら通わない方がましだ。どうせ卒業までは生きられないのだから通ってても意味はない。両親も余計なお金を払わなくて満足だろう。

「突然辞めたら学校のみんなだって……その……」

「僕がいなくたって大丈夫。学校で会わなくなるだけで会おうと思えばいつだって会えるしさ」

「それなら……いいけど。それじゃ、行ってくるね」

 多少疑いの眼差しを向けられたが、凛花は素直に学校に向かってくれた。うっかり僕なんか必要ないと言いかけてしまって危なかった。かつて、小春姉さんが亡くなった時にそれを言って大喧嘩になったことがある。あんなに怒った彼女を見たのはあれが初めてだったかもしれない。あれから僕は自分を卑下するようになったが、凛花の前だけでは言わないように気をつけていた。あんなに怒らせるのも悲しませるのも嫌だったから。

 気がつけば9時を過ぎていて、もう高校はとっくに授業が始まっている時間だ。これから向かえば人とあまり遭遇せずに済むだろう。提出する書類が封筒にちゃんと入っていることを確認して家を出た。

 学校へ向かう道はスーパーやコンビニ、駅とは逆方向で学校へ通う以外に通ることがほとんどない。だから、こうしてこの道を通るのはこれで最後だと思うと少し寂しい気持ちもあり、自転車じゃなくて歩きで向かうことにした。数分でやっぱり自転車にすればよかったと後悔しそうだと思ったけれど、いつも流れていく景色一つ一つがしっかりと見えて案外この辺りも面白い場所なんだと初めて気がついた。昨日から今更気がつくことが多くて今まで自分がてきとうに過ごしてしまっていたことを後悔している。今から人と会うのにみっともなく泣いてはいけない。何とか涙を堪えて僕はさっきよりも速く歩き始めた。


職員室に入ると先生はいつもの席でくつろいでいた。僕の顔を見るなり手招きをする。

「おっ、七瀬か。まあ、とりあえず座れや」

「失礼します」

「ほんとお前は固いよなー。つっても昨日今日で色々あったんじゃ、仕方ないか」

 隣の先生の椅子に座らせてもらい、普段と変わらない様子で話してくれるのが嬉しかった。とりあえず色々話す前に書類を渡して確認だけしてもらう。退学の手続きを済ませたところで先生は煙草をくわえた。

「校内禁煙だと思うんですけど」

「なーに、ただのココアシガレットよ。最近糖分が不足してて一石二鳥ってやつ?」

「生徒がいる時間にお菓子食べてるのもどうかと思いますけどね」

「はっはっは、そんな冷静にツッコミが出来るってことは俺が聞いたことは誇張されたものだったか?」

「いえ、伝えたとおりですよ。クラスはどうなってますか?」

 昨日、先生に電話で伝えたばかりだからまだ職員室でしか話題になっていないと思うが生徒の噂とは不思議なもので誰かがいつの間にか耳にしている。昨日今日の話だからまだそうでもないと思いたいが、先生は手をひらひらとさせてあっけらかんと答えた。

「悪い。今朝のHRで伝えちまった」

「えぇ……」

「お前がどう思ってるのか分からんけど、俺の見る限りではみんなお前のことはちゃんとクラスメートだと思ってる。だから伝えるべきだと俺は判断した」

「……はい」

「ロッカーに荷物入ったままだろ? 気まずいと思うだろうけどそれは自分で取りに行け」

「分かりました。行ってきます」

「っておい、俺の話はまだ途中だぞ――はあ、七瀬よ。周りと距離を置いてると真実ってやつは見えないからな」

 職員室から出る直前、先生が何か言っていたような気がしたけれど僕は気にせず教室に向かった。まだ授業の最中だろうしロッカーは教室の中ではなく廊下に設置されているから誰とも会わないと思いたい。肺がチリチリと痛むのを堪えて階段をあがっていると、授業の終わりを知らせるチャイムが鳴った。最悪なタイミングだが引き返すわけにはいかない。いつものように自分の心を入れ替える。

「七瀬じゃん! お前、大丈夫なのかよ!?」

「透くん、具合は大丈夫なの?」

「大丈夫だよ。荷物を取りに来るくらいの元気はあるから」

 ちょうどクラスメートたちが廊下に出ていて会ってしまったけれど、予測していたから自然と言葉が出てきた。話したことない人まで僕を心配そうに見つめていて、心が少し痛んだ。

「言ってくれたら、家まで持っていったのによ」

「無理すんなって。下まで運ぶの手伝うか?」

「ありがとう。その気持ちだけで十分だよ。……それじゃ、みんなまたね。今までありがとう」

 ロッカーから荷物を取り出すと、僕は振り返らず逃げるようにその場を後にした。後ろからは優しい言葉の数々が聞こえてきて、今すぐにでも耳を塞ぎたかった。こんな時ばかりそんな風に言わないでくれと叫びたかった。僕のことを噂していたやつまで、優しい言葉を投げかけてきてそれならどうして普段からそうしてくれなかったと怒りがわいてきた。

 いや、それは自分勝手すぎる。僕が今までみんなと距離をおいてきたから利用されるような扱いを受けてきたんだ。でもそれなら最後まで無関心でいてほしかった。かわいそうだと分かった瞬間、同情して心配するそぶりを見せるなんてそれが本心なのか。それとも優しい自分を演じるためなのか分からない。僕に何を求めているのか分からない!

 自然と足早になって校舎から飛び出し、人がいないような路地に入って痛みが増す肺を押さえつけた。

「うぅ……あが、あああああ……!」

 怒りと悲しみと苦しみといろんな感情が入り混じって自分が何を考えているのか分からなくなる。肺が、心が痛くて苦しくてひたすら叩き続けた。このまま自分が壊れてしまえばいいのにと本気で願った。


気がつくと僕は自分の部屋のベッドにいた。夕方のはずなのにやけに日差しが明るくて、時計を確認すると朝の7時だった。そういえばあの後なんとか足を引きずるように家に帰ってそのまま寝たんだった。あのせいで汗をかいてそのまま寝たから体が気持ち悪い。シャワーを浴びようと立ち上がるとスマホのメールを知らせるランプが点滅していた。全部で3通、全て凛花からだった。

「具合は大丈夫? もし駄目そうなら夕飯を作りに行くから連絡してね」

「お兄ちゃん、何かあったの? お願いだから何か反応して」

「今から行きます」

 最後の文章を見た直後、ベッドの下で何かが動いているのが視界に入ってあまりの驚きにスマホを落としてしまった。それはちょうど動いてるものに当たって、呻き声をあげた。

「うぅ……痛いよぉ……」

「凛花!? どうして家の中にいるんだよ!?」

「んー……お兄ちゃんが、心配で……」

 途中まで言いかけて彼女は再び寝息を立ててしまった。このまま起こすのもかわいそうだし、先にシャワーを浴びてくることにしよう。

 シャワーを浴び終わって部屋に戻ると、凛花はしっかり目を覚ましていた。

「おはようお兄ちゃん」

「ああ、おはよう……じゃなくて、なんで凛花がここにいるんだ!」

「なんでって……返事がなくて心配だったから」

「それは寝惚けてる時に聞いた! そうじゃなくて病院行った日もそうだけど、どうやってうちに入ったんだよ」

 しっかり玄関も窓も鍵は閉めているはずだから侵入経路はないはずだ。そう考えるともう答えは一つしかないのだけれど、いつの間にか用意してたのか。

「え、えっと……入居時にスペアキーを……」

「まあ、それしかないよな。どこかに細工してたとかじゃなくて安心した」

「怒らないの?」

「親に何か言われたりされたりすると思って渡さなかったけど、兄妹なんだし凛花にとってあの場所は窮屈になることだってあるんだから作ってあげればよかったって逆に後悔してたところだから」

「そうだね。私たちあの人たちのせいで距離おいてたけど兄妹なんだからもっと一緒にいてよかったんだよね。それに今更気がつくってちょっと悲しい」

 終わりに近づいているとはいえ、まだ時間はあるのだから残っている時間を大切にしていけばいい。今までしてあげられなかったことをこれからしてあげればいい。そんな甘い考えをこの時の僕はもっていた。残された時間がそう長くはないことを知らずに――。


 肺の痛みも何とか耐えられ、食べたものを嘔吐してしまう生活にも慣れ始めたと思っていた頃、新たな苦しみが僕を襲った。

「……あっ」

 喉が渇いたから何か飲もうとコップを手にすると、するりと僕の手からすり抜けるように床へ落ちていった。たしかにしっかり掴んでいたはずなのに、大きな音と破片が現実を物語っている。

「なになに、今の何の音!?」

 慌てて凛花が部屋から飛び出してきた。出来れば気づいてほしくなかったが、この距離でこの音に気づかなかったら逆に不安になる。余計な心配をかけさせたくなくて、僕はとっさに嘘をついた。

「ちょっと手が滑っちゃってさ。びっくりさせてごめんね」

「あー、だめだめ。直接ガラスに触れないで。手を切っちゃったらどうするの」

 そう言って彼女はすぐに小箒を持って床に落ちたコップの破片を片づけてくれた。

今回は何とか誤魔化せたものの、さっきの感じは明らかに手が滑ったものではなかった。急に握力がゼロになったような感覚――体の機能の低下が内臓だけでなく、運動能力にも出始めたのだ。冷や汗が背中をじっとりと濡らしていく。徐々に自分の体が蝕まれて壊されていくのが分かる。不安がのしかかってくるのを何とか振り払って呼吸を整えた。

「お兄ちゃん?」

「何でもないよ。ココアでも飲もうと思ってたんだけど、凛花も飲む?」

 彼女は探るような表情で僕を見つめていたが、数秒で諦めたのか。頷いてキッチンを去っていった。ため息をついて何とか凌げたことに安堵する。でも、まだ手が痺れているような気がしてこれから自分がどうなるのか不安で仕方なかった。きっとまだ大丈夫。そう信じることしか出来なかった。

その数日後、結論から言えば普通に凛花にばれた。リアル箸より重いものが持てない箱入り娘のような状態になってしまい、重いものは持てないし軽いものでも落とすことが増えたせいで誰から見ても何かおかしいのは丸分かりの状態だった。隠してたことを怒られると思っていたが、彼女は怒りを通り越して呆れたような様子で落胆していた。僕も怒られると分かっていたのに、それでも隠そうとするなんて懲りないなと自分で思った。そんな僕をそのままにしておくのはいけないと思ったのか、凛花は真剣な表情で僕に声をかけた。

「ねえ、お兄ちゃん。私そろそろ実家に帰ろうと思うんだけどさ」

「結局長居させちゃったし、あの人たちも怒ってそうだからね。僕もちょうどそう思ってたところだったからよかったよ」

「……お兄ちゃんも一緒に連れていこうと思うの」

「――え?」

 凛花の発言に思わず耳を疑ってしまった。まさか彼女がそんなことを言うなんて思わなかった。僕らがお互いどれだけ仲が悪いかも分かっているはずだし、一緒にいたところで家の雰囲気は最悪になって僕の体に悪影響しか及ぼさないだろう。それなのにそんなことを言うなんて、彼女の考えが僕には読めない。

「私がここにずっといたら、あの人たちが無理やりでも私を家に戻そうとするかもしれないしお兄ちゃんに何かあったらあっちにいる方が早く対処出来ると思ったから」

「僕に何かあってもあの人たちは何もしてくれないから、状況は変わらないよ。だったら、こっちにいる方がいい」

「……でも、それでもやっぱり家族は揃った方がいいと思う。私の勝手な思いでお兄ちゃんを苦しめるかもしれないけど、それでも……私たちは家族だから」

 僕は家族が揃うことは一生ないと思っているからそんなことは考えたことなかったけれど、凛花は今いる家族だけでも最後は一緒にいたいという思いみたいだ。少し悩んだが、僕だって一緒に住んでいた頃に比べたら大人になったし彼らの言うことを真に受けず受け流すことだって出来る。散々彼女を傷つけてしまったんだ。そのくらいの要望は聞いてあげるべきだと思う。

「しょうがないな」

「ほんと!? あの人たちは説得してみせるから、何言われても気にしなくていいからね」

 そう言うと彼女はスーツケースを持ち上げて玄関に向かって行った。どうやらもう既に荷物はまとめられていたらしく、すぐに帰ることになった。

 実家と言っても僕からしたら追い出された家だから、ろくなことを言われないのは分かっていたが、凛花はいつの間にかメールを送っていたらしく、仕方ないという返信を実際に見せられた。あの人たちにそんなことを言わせるなんてどんな内容を送ったのか少し気になったが触れないことにした。

 家に近づくほど緊張のせいか自分の口数が減っていき、そんな距離もないからすぐに着いてしまった。言い訳してやっぱり帰りたくないなんて言う時間もなかったのは逆に良かったのかもしれない。

「久々の実家だからって、そんな緊張しなくていいのに」

 凛花が初めて家に来た時に僕が言ったような言葉と笑顔で彼女は見つめてきた。その表情を見て少しは落ち着き、僕はゆっくりと家のドアを開けた。

「ただいま」

 自分の声が家の中に響くが返事はない。そりゃそうだ。いくら久々でも余命宣告された息子でも、彼らが僕に興味を示すわけがない。ため息をついて靴を脱いでいると、凛花は僕を見てにやにやと笑っていた。

「2人ともまだ仕事だからね?」

「……分かってるよ」

 心配しすぎたせいで両親が共働きであることをすっかり忘れていた。でも、それを言うのが少し恥ずかしくて見栄を張ったが、にやにやと笑う彼女はそれすらも気づいているだろう。でも変に不安そうな顔をされるよりは良かった。ぎこちなく家の中を歩いていると、ゆっくりと背中を押されて僕の部屋に導かれた。正直壊されていたらどうしようとか、部屋がなくなっていたらどうしようと不安だったけれど、目の前に広がる僕の部屋は間違いなく数か月前と全く変わらない状態だ。

「物置にしちゃおうって言われてたんだけど、必死に抗議したんだ。ここはお兄ちゃんの家なんだもん。そんなこと許さないぞって」

 凛花の言葉に溢れ出そうになった涙を何とか堪えて笑ってみせた。僕はさっさと逃げた――正確には追い出されたけど大差ない――というのに彼女はいつだって自分のためではなく、僕のために彼らと戦い続けていたのだ。そこまで彼女に想われていたというのに、僕は何かしてあげられただろうか。そんなことは考えるまでもない。勝手に妹のためだと決めつけて避けていただけだ。それが一番凛花のためになると思い込んで、てきとうなことばかりしていた。

 家に家族がいるといいねと笑う彼女が眩しくて思わず目を逸らしてしまった。ちょうどそのタイミングで親が帰ってきて、今だけは良かったと僕は部屋に籠り凛花はリビングへと出て行った。僕がいることは伝えているけれど、あんなことがあった後に平然と一緒にいたらお互い困るだけだ。だから、あっちから何らかのアクションを起こしてくるまで僕は部屋にいることにしたのだ。

 しかし想像通り、彼らが部屋の戸を叩くことはなかった。夕食時に凛花がご飯を持ってきてくれたが、明らかに夕飯の残りではなく、彼女が新たに作ってくれたものだった。いつものことだし、普通の食事は多分食べられないから悲しいなんて思わない。むしろあの人たちに突然謝られてかつてのような生活に戻ろうと言われる方が気持ち悪いから。

 夕食を終えて特に胃に問題はないなと確認してぼーっとしていると、両親が早々と部屋に戻っていくのが音で分かった。今のうちに風呂に入ってしまうことにする。一人でいる時はシャワーで済ませてしまうことが多く、久々の湯船が心地良かった。体の疲れは十分取れた気がした。

風呂場を出て自分の部屋に戻るが凛花の姿はなかった。親の目があるし、僕と会うのは難しいのだろう。寝るにはまだ少し早い時間だけれど、することもないし早めに体を休めるのも悪くない。僕は久々のベッドの上に横になった。眠気は全くないと思っていたが、すぐに意識は落ちていった。


サイレンの音がうるさい。何事かと思って窓を開けて下を覗くとマンションのロビー付近に救急車が停まっていた。何かあったのかと思っていたら、部屋の外から大声が聞こえてくる。両親の声だ。ただごとではないと部屋から出ると玄関で母が肩を震わせて、床に座り込み父は必死に母を慰めていた。凛花は大泣きしていてどういう状況か一切分からなくて、僕は家から飛び出して階下をもう一度確認すると救急隊が自分の真下に向かって走ってくるのが分かった。そして、その先に視線を移すと――人が、女性が倒れていた。制服を着ていて、その制服を着ているのはこのマンションで一人しかいない。

小春姉さんだ。位置的に誰かに襲われたようには思えない。ここから落ちたとしか考えられなかった。家族に伝えようと急いで家に戻ると、母が震える手で何か紙を持っていて僕を殺すかのような目で睨みつけていた。

「母さん……?」

「一体どうして、どうしてこんなことしたのおおおおお!!」

 母が体を引きずるように僕の元に近寄り、僕の首を絞めた。尋常じゃない力だった。間違いなく、僕を殺す気でいる。父さんと凛花に目を向けたが、父さんも僕を敵のように睨み、凛花は目を見開いて震えていた。どうしてこんなことになっているのか、さぱり分からない。僕は息苦しさを堪えて絞るように声を出した。

「か、母さんどうしてこんなことを――」

「お前が、お前が小春を殺したのね」



「うわあああああああ!!」

 体を跳ね起こすと見慣れない暗い場所に僕はいた。いや、よく見ると実家の僕の家だ。そういえば凛花に連れられてこっちに帰ってきていたんだった。

 肺を抑えて乱れる呼吸を整えようと頑張るが、落ち着くことが出来ない。さっきのは数年前に実際にあった出来事だ。夢だけど夢じゃない。僕が家を追い出される原因の一つだ。

 過去のトラウマを思い出してしまって体の震えが止まらない。ここにいるだけで頭が狂ってしまいそうで、急いでここから出て行こうと立ち上がると力が抜けたように関節が曲がって床に叩きつけられた。突然の出来事に受け身も取れず激痛が走ったが、それよりもどうしてこうなったのか分からない。落ち着いてもう一度立ち上がろうと足に力を入れるが――動かない。そこで僕は何が起こったか理解した。足も蝕まれて動かなくなったのだ。その事実にショックを受けたが、それ以上にここにいる恐怖が上回り両手で何とか這いずって部屋から出た。リビングが怖い。キッチンが怖い。廊下が怖い。両親の部屋の前が怖い。玄関が怖い。何もかも怖くて必死に家から出たが、ここはマンションの6階だ。ここから離れないと恐怖が纏わりついてくる。

「やめろ……やめろやめろやめろやめろ!!」

 まだ深夜だから近所迷惑だとか考える余裕もなく、自分を鼓舞するように大声で叫んで僕は必死に体を引きずった。エレベーターの前に着いたが、点検中の張り紙があって動いていない。僕はすぐさま横の階段に向かって、転がるように落ちた。踊り場の壁に背中を打ちつけられ痛みで息が一瞬止まる。1階に着くまでこれを何度繰り返せばいいのかなんて考えたくもない。ただひたすらに落ちてぶつけて落ちてぶつけてを繰り返して、意識が朦朧とする中で何とか1階に着いた。そのままマンションを出ようとすると突然足が動いた。体の痛みが酷くてまともに走ることは出来ないけれど、這いずるよりはましだ。ふらふらとよろけながら僕はマンションから離れた。

どこに向かってるのかなんて分からない。周りに何があるのかも分からない。ただ、あの場所から離れることが出来るならそれでよかった。途中で雨が降ってきて体を濡らすがそんなのは構わない。この程度で僕を止めることなんて出来ない。

どのくらい走っただろうか。途中で自分の足に足を引っ掛けて無様に転び、水たまりに顔から突っ込んだ。立ち上がる気力なんてなかった。脳内では「お前が殺した」という言葉がずっとリピートされている。うるさい。分かっているのに。そんなこと言われなくても自分が一番よく分かっているのに!

怒りが湧き上がり、地面に何度も何度も腕を叩きつけた。早く自分を壊したかった。終わりにしたかった。ハッピーエンドなんて望まない。この先にバッドエンドが待っているのは分かっているから。誰かに決められたシナリオを辿るくらいならここで自分の手で終わらせたかった。

何度も何度も腕を叩きつける。それでも、もう自分に力が残っていないのかそれとも思っているよりも腕は頑丈なのか。平然と僕の体にくっ付いていた。それに腹が立って今度は頭を打ちつける。額から生ぬるいものが流れ出て気持ち悪いけれど関係ない。何度だって、何度だって、僕が終わるまで繰り返してやるんだ。

もう一度打ちつけようと思いきり顔を上げると、正面から誰かに力強く抱きかかえられた。温かくてよく知る匂いがした。

「何してるの……やめてよお兄ちゃん。もうやめてよ……私がいるから。もう大丈夫だから。だから、もうやめてよ……」

 声が震えているけれど誰だか分かる。最近までずっと側にあった声だ。僕を助けてくれた声だ。だから……これ以上依存したくなかったのに。

「小春姉さんを殺して……凛花まで殺したくなかった……」

 かすれるような声で相手に届くか分からなかったけれど、彼女は必死に首を横に振ってくれた。

「違う! それは違うよ! お姉ちゃんが亡くなったのはお兄ちゃんのせいじゃない!」

「僕のせいだって、遺書に書いてあったよ……。それに、大貴が亡くなったのも僕のせいだ」

「それだって!」

「おかしいよね……? 2人で事故に遭って僕は軽傷で済んだのに、大貴は即死だったなんて……。そりゃ、相手の両親に僕が殺したって言われてもしょうがないや……」

「違う違う違う! そんなの間違ってる! 偶然大貴さんが亡くなっちゃってお兄ちゃんが軽い怪我で済んだだけの話! 相手の親がまだ心の整理が出来なくてそう言っちゃっただけ!」

「でも……僕らの両親もそれを信じたから僕を捨てたんだよ……」

 小春姉さんの僕のせいで生きていけないという言葉、大貴を殺したというレッテルを世間に貼られた事実。それらのせいで家族としていられるのが嫌になったから。だから、僕はその詫びとして自分の幸福を捨ててでも誰かを幸せにしなくちゃいけなかった。みんなが幸せで笑顔になれるようにしなくちゃいけなかった。

でも、僕なんかがいるとみんなが不幸になる。でも、みんなを幸せにしなくちゃいけない。じゃあ……もっと早く死ねばよかった。

「ごめん、凛花……もう眠いや……。ちょっと眠らせて……」

「待って! もう少し頑張って! 今、救急車呼ぶからね!」

 ゆっくり目を閉じると凛花の声が遠くなる。どこかでサイレンの音が聞こえる。僕はどうなってしまうのかと少し考えたけれど、今は何も気にせず眠りたかった。妹の、救急隊の、ここの近所だと思われる人たちの叫ぶ声が聞こえてきたけれど、全ての音が少しずつ小さくなって――静寂が訪れた。



「七瀬さん、分かりますか? 七瀬さーん」

 ぼんやりとしていた視界が徐々に鮮明になり、看護師が呼びかけていることに気がついた。こうしてベッドに横たわっているということは、どうやら病院に運び込まれて自分は無事だったらしい。

「七瀬さん、自分のお名前分かりますか?」

「透……です。七瀬透」

「意識は大丈夫そうですね。今ちょっと検査しますのでリラックスしててくださいねー」

 自分の体に繋がれた管の先にある機械に様々な数値が表示されているが、素人には全く意味が分からない。言われた通りリラックスして、することも考えたいこともないからぼんやりと窓の外を眺めることにした。

 検査はすぐに終わったが、もう手足はまともに動く状態ではないから寝た体勢から動くことはできない。ずっとこのままここで最期を迎えるのかと思っているとドアをノックする音が聞こえた。

「どうぞ」

「七瀬、大丈夫かー」

「手ぶらでわりいな。急いできたから、さっき何も持ってきてないことに気づいてさ」

「全然構わないよ。来てくれてありがとう」

 クラスメートの姿が見えた瞬間、僕は心を殺して学校での自分を創り出す。思ったよりも明るい声で普段通りに話すことが出来た。

「で、いつ頃退院できそうなんだよ」

「みんなも心配してるぞ。やっぱり1人欠けたクラスは何か違うって」

 どうやら先生は僕の病気について詳しくは話していないらしい。散々色々言っておいて何を今更綺麗事を……と思ったが、飲みこんで笑顔を作った。どうせ、年内にはお別れなんだ。どのくらい嘘を吐いたって変わらないだろう。

「まだ分からないけどね。そんなに悪くないし、近いうちには退院できるかな?」

「そっか。それなら安心したわ」

「あんまり長居すると体に悪そうだから、そろそろ帰るわ。また別の奴らがくるかもしれないからその時はよろしくー」

「了解。ありがとね」

 2人が病室の外に出て行くのを見届けて、深いため息をついた。寝ているから足のことは大丈夫だとして、手を全く動かさなかったことに違和感を覚えられなかっただろうか。都合のよい道具として扱ってきた人たちにこんな無様な姿を晒すのはあんまり気持ちの良いものではない。

頭を起こし、後頭部を枕に叩きつける。もう僕は二度と誰かの役にたてることはないのだ。2人を犠牲にして生きてしまった僕は、誰かのために生き続けたかったのにこんな状態では不可能だ。存在価値がない。あの時死んでしまえばよかったのに……そう思うが、そんなことを考えても何の解決にもならない。とりあえず今は今後どうするか、どうしたいかを考えよう。

まず凛花になんて話をすればいいだろうかと思った瞬間、胸の辺りに激痛が走った。

「ぐっ……ああああああ! あ、あぐっ、はぁ……はぁ……んんんんんんん!!」

 誰かがきたら不味いと思って、二の腕を噛み千切るようにして声を抑える。首を絞めつけられたかのように呼吸が出来ず、胃の中がかき混ぜられているようで気持ち悪い。両手両足は引きちぎられるように痛み、黒い得体の知れない何かが自分の周りを囲っていた。

「いやだっ! やめろ!」

 体を揺さぶるがそれは構わず自分の周りを這っている。何の感触もなく、黒い靄のように見えるからそれが幻覚であることに気づくことが出来たおかげで少し落ち着くことが出来た。何の前触れもなかったらおかしくなっていたと思うけれど、自分の体の機能が低下していくという情報のおかげで今の状況を理解することが出来た。たぶん、目がやられた。この目は正しいものを映さなくなってしまったのだ。

 こんな姿を学校のやつにも先生にも両親にも病院の人にも凛花にも、誰にも見られたくない。これ以上おかしくなる可能性は大いにありえるのだ。一人でどこか遠くに逃げて静かに消えたい。もうこんなところにいたくない。

 パニックになってきて冷静な考えが出来なくなってるのは分かっているけれど、自分で自分がコントロールできない。落ち着かないといけないのは分かっているのに落ち着けない。どうするべきかと焦って頭を振っていると窓に映った自分が目に入った。いや、正確には……その後ろに誰かいる。

「透、あんたさえいなければ」

「小春……姉さん……」

「あんた優秀だったものね。凡人の私には何の分野でも辿りつけなくて、近所からも学校からも弟は出来がいいのに姉は失敗作だっていうレッテルをはられて、あんたに私の気持ちが分かる?」

「違う。そんなつもりじゃなかった……。こんなことになるなんて知らなかったんだ!」

「知らなかったって言えば何でも許されるの? 知らなければ何をしてもいいの? あんただってどうせ、心の底ではレベルの低い姉だって嘲笑ってたくせに」

「違う! 僕はそんなこと思ってない。小春姉さんも凛花も、大切な家族だって思ってた……だから……」

「いいよ透。あんたがどう思たってあんたの自由だから。でも、現実はどうなってる? あんたはどうなってる? もう誰もあんたを必要としていない。だから凛花だってあんたの側にいないでしょ? 唯一来てくれた彼らだって、友達を失ったっていうステータスを武器に悲劇の主人公を気取って生きていくかもよ? あんたの死を自分を同情させるための道具として使うかもよ? ね、透……あんたなんてその程度だったの。誰も本当にあんた自身を必要となんて思っていないのよ」

 小春姉さんの言葉に何もかもが壊れる音がした。もう叫ぶ声も呻き声さえもあげることが出来ず、心が痛みを訴えている。しかし、それを治療する方法はない。治まるまでその痛みを感じ続けるしかない。これはいつになったら治まるのだろうか。治まる時は来るのだろうか。

 様々な思考が交錯して狂ってしまいそうな僕は無意識の判断で舌を思いきり噛んだ。激痛が走ったが今更この程度の痛みは慣れたし、思考を吹っ飛ばしてくれたから正解だった。ベッドから落ちて這い出て、壁を伝って体を無理やり立たせて姉の映る窓を額で思いきり割った。

「死人はおとなしく天国に帰れ! 僕も地獄に落ちてから会いに行くから向こうで待ってろ!」

 もうそこには誰もいないはずなのに、まだ誰かいるような気がして僕は窓の外に身を乗り出すとそのまま地面に向かって落下した。地面が見えた瞬間自分が3階にいたことに気づいたが、どうしようもない。重力に身を任せ、木の枝に体をぶつけて地面に叩きつけられた。が、不思議と痛みはそんなになかった。枝がスピードを抑えてくれたおかげだろうか。

 そんなことを冷静に分析している場合でもここで横たわっている場合でもない。僕は体を起こして急いで走った。窓を割ったから看護師たちが僕を探しているかもしれない。姉がすぐ後ろを追いかけてきているかもしれない。恐怖がのしかかり、自分の足が動けていることに疑問を持つことさえもできない。ただ闇雲に走ることしか出来なかった。

 姉の言葉は間違っていない。誰も僕を必要となんてしていなかった。その理由は簡単で、僕自身がみんなを必要としていなかったからだ。本当は自分で分かっていた。自分が間違ったことをしていると分かっていた。でも、もう自分ではどうしようもなくて誰かを傷つけないなら、傷つくのが自分だけならそれでいいと思った。

「げほっ、ごほっ、うえええええっ……!」

 吐血と嘔吐が同時にきて血と吐瀉物を吐き散らして僕は崩れ落ちた。大して逃げることも出来なかった。ここならすぐに誰かが見つけて病院に連れ戻してしまうだろう。なんて無様なんだろうか。笑う人がいなくて僕は一人で笑った。

 なんとか体を仰向けにして、正面を向くと青く澄み渡る空が広がっていた。個人的にはもう少しちょうどよく雲が広がっているのが好みなんだけど天気に文句を言っても仕方ない。子どもの頃はあの空にだって届くと本気で信じてたのに、大人になる前に汚いものを吐き散らして横たわっているのが現実だ。血が足りないのか、それとも病気のせいなのか分からないけれど頭がくらくらする。それが終わりが近いことを示していると分かった。何が年内だ。1ヶ月も保たなかったじゃないか。

 でも、それでよかった。1年いっぱい生きたって苦しいだけで、つらいだけで、色んなものに押しつぶされてしまいそうでたぶん病気で死ぬ前に自ら命を絶っていたと思う。そんな姿を妹の前で見せることなく、ちゃんと病気で逝けるのは頑張った方だと思う。このタイミングでくるならちゃんと病室にいて凛花に話せば良かった。兄として七瀬透という一人の人間として、言いたいことがたくさんあったのに。まあ、見捨てられて来なかったかもしれないけど。それなら病室のベッドより、そこら辺のコンクリートの上の方が僕の最期にはお似合いだと思う。

 視界の隅で誰かが走ってくるのが分かる。なんだ。もう見つかっちゃったのか。

 顔を傾けて誰か確認しようとすると、すぐに分かった。ああ、やっぱり病室で待ってるべきだったな。

「……っ! ……!!」

 何か叫んでるのは分かるけど涙声でよく分からない。ここ数週間で何回泣かせてしまっただろうか。最低なお兄ちゃんで本当に悪かったと思う。

 凛花、直接伝えられなくて申し訳ないけどお前だけは小春姉さんのように一人で抱えて苦しんで死なないように、僕のように自分を犠牲にして諦めないようにしてほしい。僕は本当に心の底からお前の幸福を祈ってる。お前がいなかったら僕は小春姉さんのように一人で抱え込んでもっと苦しみながら誰にも気づかれないまま死んで、無駄な人生だったと思うから。何にもなれなかった僕の生きた証をここに残せて良かった。

 だんだんと瞼が重くなって意識が朦朧としてくる。昨日と違って、もうどうしたって間に合わない。昨日が自分を変えるチャンスだったのに同じ間違いをするなんて本当に僕は馬鹿だな。

 もう感覚もないし目も見えないに等しい。たくさん言い過ぎて矛盾してるかもしれないけど、言いたいこと言えたしもう満足した。

「お兄ちゃん! しっかりして! お兄ちゃん……!」

 死ぬ前は耳だけは聞こえてるって本当なんだ。必死に僕を呼ぶ声が聞こえてくる。ありがとう凛花。本当にありがとう。来世があるとしたらまた兄妹として会えるといいね。

 



 誰かの謝る声が聞こえた気がした。

お久しぶりです。pixivには何とか月一で更新しているのですが、なろうはあらすじがあるので書くの苦手な自分はなんとなくあげるのが遅れてしまって……という話は前もしましたっけ?

書いた内容を忘れない程度の頻度であげられるように頑張ります。

書いてて気づきましたけど、こういう感じの内容は後書きの方がいいですね。次からは気をつけたいと思います。

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