あなたに風邪がうつる前に
「ゴホッ……ゴホッ……」
青年の目の前で女性が咳をする。咳払いのような軽いものではなく、頻繁に繰り返される重い咳だ。何度も鼻をかんでいるし、声も鼻声で、顔も赤くなっている。彼女の症状は風邪のそれだと、青年は確信していた。
「風邪じゃないですか?」
「大丈夫。ゴホッ……ゴホッ……」
風邪を引いていることを示唆したところで、彼女の回答は常に「大丈夫」だった。その言葉を聴くたび、青年は「こっちは大丈夫じゃない」と、マスクをしていない彼女に対して思うのだった。
青年は彼女の体調を気遣っているわけではない。自分に風邪がうつったら困るというだけの話だ。もし、自分にうつってしまったら、病院に行く必要も出てくるし、今ここでしている仕事にも影響が出る。
青年は派遣社員として、データ入力の作業をしていた。目の前の席に座る彼女も同じ業務についている。正社員とは違って、休んだら有給休暇が消費されることはない。稼ぐ機会を一日分、失うだけだ。
一定期間、働いている場合は派遣社員にも有給が付与されると聞かされてはいるが、青年が働いている期間は長くなかった。故に、収入が減っては困る青年は、風邪を引いているのにマスクをしない彼女を何とかしたかった。
「具合が悪かったら、無理せずに休んだ方が……」
「大丈夫だから……ゴホッ……ゴホッ……」
気遣っているフリをしてみるものの、女性の回答は変わらなかった。「その風邪、周りにうつしたら迷惑だろ」と言いたいところではあったが、それを言って関係が悪くなるのは避けたかった。相手の方が、ここでは古株で言いづらいこともある。
「風邪、流行ってるみたいですね。僕も気をつけないと……」
青年はわざとらしくマスクを取り出し、彼女の目の前でつけてみせた。最初からつけていた方が予防にはなったろうが、つけるところをアピールすることで、彼女にもマスクの必要性をアピールできるのではないかと踏んだのだ。
「ゴホッ……ゴホッ……」
彼女は咳をしながら、キーボードを叩く。青年の“マスクをつけましたアピール”は気にも留めない様子だ。
「本当に大丈夫ですか? 風邪も悪化したら大変だって聞きますよ」
「大丈夫って言ってるでしょ。ゴホッ……ゴホッ……それに、この程度で仕事を休むだのなんだの、仕事というものを軽く考えている証拠ね」
青年は少しムッとした。仕事云々をいうなら、人の足を引っ張らないよう、周りに迷惑をかけないよう、休むのが第一だろうに。まして、代わりがきくポジションなら尚更だ。そう思ったところで、口には出せない青年だった。
結局、その日は彼女にマスクをつけさせることは叶わなかった。
翌日、青年は最初からマスクをして職場に入った。
彼女の前でマスクをつけるパフォーマンスをしても無駄なことを知ったこともあるが、少し咳が出るようになっていたことが大きかった。
「おはようございます」
挨拶をしながら席へと向かう。
「おはよう」
自分の席に着くと、向かいに座る彼女に挨拶をされる。昨日まで鼻声だったのに、今日は普段の声に戻っていた。
「おはようございます。風邪、治ったんですか?」
「風邪なんて引いてないわよ。昨日まで、ちょっと喉とか、調子が悪かったけど、朝起きたらよくなってたわ」
青年は自分にうつしたことで治ったように思えて腹立たしかった。
「ゴホッ……ゴホッ……」
咳をしたのは青年だった。
「風邪を引いたの? うつさないでよ、迷惑だから」
咳き込む青年を見た女性は、マスクを取り出してつけた。昨日、マスクをつけさせようとしても叶わなかったのに、自分の咳ひとつで身に付けられたことに、青年は何とも言えない気持ちになった。
「ゴホッ……ゴホッ……」
彼女に対する苛立ちのせいか、青年は症状が悪化していく気がしていた。
「風邪を引いたのなら休みなさいよ。職場に菌をばら撒いて、他の人の業務に支障が出たらどうするの?」
「ゴホッ! ゴホッ!」
青年は付けていたマスクを外し、彼女に向かって大きく咳をした。