出来事
彼女、木下菜々は2年生の先輩だった。
知り合ったきっかけは何だったか、そのへんはすっかり曖昧だ。
だけどいつの間にか毎日会って話すくらいには仲良くなっていたし、先輩なのに「菜々ちゃん」って呼んでは怒られていた。
ふたりきりで海に行ったこともあった。海が好きだと、言っていた。
菜々ちゃんはやさしくてあったかくて、いつも一生懸命で、僕の尊敬する人だった。
楽しかった、記憶がある。
それが崩れたときの、記憶もーー
あるとき、同学年の友だち未満他人以上な関係の男子に言われた。
「もうやった?」
「何を?」
「何って、木下菜々先輩とじゃん」
「いや、よくわかんないんだけど」
「だから、お前木下先輩と仲良いだろ。先輩の噂知らないの?」
「噂?」
「頼めば誰とでもヤってくれるんだって」
一瞬、言葉を失った。
僕の知る限り、菜々ちゃんはそんな人ではない。そんなことできるはずも隠せるはずもない。菜々ちゃんはそういう人だ。
「は、ふは。何それ、おもしろくない」
「隠すなよ。お前もヤったんだろ?俺も頼んだらヤらせてくれるかな」
「さあ。頼んでみれば?」
もちろん本気で言ったわけじゃないし、本気にするなんて思ってもなかった。
それが、僕の失態だった。
それから、菜々ちゃんは僕を避けるようになった。
原因は単純明快。同学年の友だち、以下略ーーが菜々ちゃんに言ったのだ。
ヤらせてくれ、と。
僕の名前を出して。
避けられて当然だ。僕ははじめて自分の失態に気がついた。それと同時に、自分の気持ちにも。
避けられたくなかった。前みたいに笑って話がしたかった。このままなんて、絶対に嫌だった。
「菜々ちゃん!」
「離して」
「嫌だ」
僕を見る度、逃げ出す菜々ちゃんをやっと捕まえることができた。
「ちゃんと話しよう」
「話すことなんてない」
「僕はある。僕のこと嫌うのは、話聞いてからにしてほしい」
普段はおちゃらけている僕だけど、このときはがりは真剣に伝えた。そのおかげか、菜々ちゃんはおとなしく話を聞く態勢になってくれた。
「まずは謝る。ごめんなさい。あいつに、頼んでみればって言ったのは本当」
うつむいてしまった菜々ちゃんの表情は読み取れなかった。しばらく避けられているうちに、少しだけ前髪が伸びたんじゃないかと思う。
「でもそれは本気じゃなくて、適当な噂話すからはやく話終わらせたかったんだ。まさか向こうも本気にすると思ってなかったし、それに僕は噂なんて信じてないから。菜々ちゃんがそんなことできるわけないもん」
菜々ちゃんは何にも言わなかった。僕が一気に伝えて、それだけだった。
「菜々ちゃん…?」
「…ありがとう」
やっと顔を上げた菜々ちゃんは、なぜかひどく傷ついた顔をしていた。
何か傷つけるようなことを言っただろうか。思い返すが、何にもわからない。
「ありがとう、優紀」
もう一度お礼を言った菜々ちゃんは、最後に、ごめんと言った。
「菜々ちゃんがいなくなった」
あかねが言った。あかねは菜々ちゃんの幼なじみだった。今思えば、菜々ちゃんと知り合ったきっかけはあかねだったかもしれない。
「最近ずっと様子おかしくて、だからなんかあったんじゃないかって」
泣きそうな顔で話すあかねを落ち着かせる暇はなかった。急がなくては、なぜかそう思った。
ーーごめん
どうしてあのとき、菜々ちゃんは謝ったのか。
どうしてあのとき、傷ついた顔をしていたのか。
どうしてあのとき、何もできなかったのか。
気がつけば、僕は平日の昼間にも関わらず学校を飛び出していた。
走った。ひたすらに。ただ。足を動かした。
行き先は決まっていた。
肺が軋む。そんな感覚さえする。肩で息をしながら僕は足を止めた。
そこは、海だった。
菜々ちゃんと、ふたりで来た海だった。
「遅かったね」
やっぱり菜々ちゃんはいた。笑いながら、僕に歩み寄ってきた。
「来てくれてありがとう。優紀なら、来てくれると思ってたよ」
まだ息の整わない僕から言葉は出なかった。だから、身体が先に動いていた。
菜々ちゃんを、抱きしめていた。
「っ、優紀?どうしたの?」
「どうしたの、じゃ、ない。心配、した」
「ふふ。ありがとう」
「笑い事、じゃない、からな」
確かめる。腕の中にいる菜々ちゃんを実感する。
僕はゆっくりと息を整えた。
ちゃんと、ここにいる。いてくれている。
「ほんとに、いなくなると思った」
「……ほんとだよ」
「え…」
菜々ちゃんは、ここにーー
「わたし、この街からいなくなるつもりなんだ」
「え。は。どういうこと?」
「聞いてくれる?」
菜々ちゃんは悲しそうに言ったんだ。
「優紀に、聞いてほしい」




