2/33 正義は何処にもない(エルシオ視点)
姉上の話は淡々としていた。主観を込めない事実を並べる。報告書を読み上げるように機械的だ。
幼少期の事件、誘拐、そして誘拐犯への僕の暴走。
話の最中、僕はずっと震えが止まらなかった。
ゆっくりと、呼吸を深める。だって、つまり、それは。
姉上の話が正しいのなら僕は。……この力で誰かを、人を、
殺めたのだ。
姉上の話は淀みなく、言葉を濁すこともなかった。とても噓の上手な人だと知っている。でも、彼女は。
――『お嬢様は、お優しい方です』。
メリィの声が脳裏によみがえった。
彼女は嘘吐きだけれど、同時にとても優しくて、きっと残酷なくらいに誠実だ。
彼女の言動を信じ切ることは出来ないのに。
嘘だと叫んでしまいたいのに。
「……っ……っっ」
覚えていないのに知っていた恐怖が脳裏によみがえる。
誘拐されたあの時。対処法は頭にあったのに動けなかった。大人しく機をうかがうべきだったのにパニックを起こした。
憎悪と怒りに目がくらんで、炎が立ち上ったあの瞬間。
またと思った。
理解出来なくて切り捨てた小さなそれ。でも確かな既視感。
姉上の話を否定することを僕自身が否定する。
――ぼくは、ひとを、
ぐるぐると回る思考。気持ち悪い。どうすれば。怖くて、怖くて、怖くて。
「エル」
ひどく近く、名前を呼ばれた。細い指が僕の頬をゆっくりと撫でていく。少し冷たい温度が、目の前を正しく認識させてくれた。
「……あ、」
「エル。貴方は優しい。強い力を持って生まれたのはあなたのせいではけしてない。貴方の誘拐は実行者の罪。貴方は被害者よ」
いたわるような声ではなかった。事実を彼女は事実として告げていく。
アメジストの瞳は深淵のようだ。
「……気に病むなとは言わないわ。でもあなたが過去を悔やむなら。殺めてしまった事実を恐れるなら」
ぽん、と姉上の手が僕の頭をなでた。
「力を恐いと忘れないように、上手に使えるようになりなさい」
例えばそれを言ったのが姉上ではなかったのならば、僕はきれいごとだと思っただろう。過去の事実は変わらない。それが罪に問われないとして、相手が犯罪者であったとして、幼さ故に正誤の判断ができなかったとして。
過去は、消えないのだ。
だけど深淵のような姉上の目は僕と同い年の子供にはとても見えないから。
かつて、彼女の両親は病に倒れ、命を散らした。前領主代理は暴政を敷いて領地を困窮させた。そこには人身売買なども含まれていたと聞いている。それを摘発したのは姉上自身で、そして結果現在独房で前領主代理は絞首台を待つ身だ。
この細い体で、筆頭公爵家を導いてきた姉上。
多分、どうしようもない理不尽も罪悪も、知らないところで、被ってきたのかもしれない。
目の前の姉上をただ見つめる。頭をポンポンと撫でていた手がまた頬に近づいてきて、するりと目元を拭ってくれた。
その動作で、いつの間にか泣いていたのだとようやく気付く。
「姉、上」
「ん?」
「姉上は、どうやって、乗り越えたの?」
この恐怖を。この痛みを。どうやって。
姉上は僕の言葉に一瞬目を瞬いて、それから苦く微笑んだ。
「……ああ、やっぱり。メリィね?」
「――うん」
やっぱり彼女のような人でも、忘れられないのだと思った。同時に、確認するような姉上の言葉で、きっとメリィは僕との話を全部は姉上に伝えていないのだとわかった。
僕とメリィがあっていたことを姉上が知らないはずがない。それでも姉上はメリィを問いたださなかった。それは正しく信頼と呼べるのだろう。その信頼関係が羨ましいと思う。まだ迷っている僕には、とても。
でもだからこそ、僕が姉上にああいう問いをしたのなら。
彼女は気づくのだろう。戦慄するほど勘がいい人だ。
例えば『それ』が彼女の心を抉るとして、それでも彼女は笑っている。
僕がそれを知っていることを知りながら。
もう何年も昔の話、彼女自身の過去は、姉上の中でどれほどの禍根を残し葛藤を呼んだのだろうか。