∞/4 空に還る(小夏視点)
すう、はあ、とあたしは何度も深呼吸をする。目の前にはちょっとレトロな雰囲気でかわいい、小ぢんまりしたビル。あたしはそれを見上げて、シャーロット様に言われたことを何度も何度も反芻する。
(――よし、行ってきます!)
勇んで、あたしは足を踏み出した。ガッチガチに緊張して、右手右足一緒に出たけども!
✿✿✿
――あの日。あたしは無事に日本に帰ってきた。というか、あっちが真夏だったのに、日本は冬だったものだから「アッ、さっぶ!?」と思わず叫んでしまって、お母さんの「あら、まだいたの? 遅刻するわよー」という何とも気の抜ける言葉をもらった。
そしてあたしは思い出した。その日が模試だったことを。お母さんの声や見慣れた光景に涙ぐむ間もなく、さっと青くなったあたしは、混乱冷めやらぬ中、何はともあれ駆けだした。開催会場がどこかなんて度忘れしてたけど、駅で友達と待ち合わせは覚えていてよかった。本当によかった!
そして受けた模試では、過去に類を見ない高得点をたたき出して先生に呼び出しされたよね。天才的で女神のような知り合いが、あたしのために勉強を見てくれたんだって言い訳して事なきを得たけど。むしろ、あたしのカバンに入っていたシャーロット様謹製問題集という神器に等しいものを先生に渋々提出したら、先生は敗北感に打ちひしがれてから納得していた。さすがシャーロット様!
その後、『この問題集を作った天才に会わせてくれ!』とそれはもう熱心に頼まれたので、そのひとは遠くに行ってしまって、もう日本にいないから会わせることはできないと言い訳をする羽目になったよ。
なお、あたしが呼び出しを受けたことはお母さんたちには言わなかった。そんな知り合いいないでしょって突っ込みされるし。あたしインドア派だもん。基本家にいたもん。まあ、エリザベス先生の教えのおかげで、所作がすごくきれいになってたから、それはそれでびっくりさせちゃったけど、にっこり笑ってごまかした。笑顔で大体相手が勝手に勘違いしてごまかせるっていう、シャーロット様の教えは真実だった。
ともかく、そんな感じであたしは受験を乗り越えた。むしろ狙ってたツーランク上の大学に入れるっていう快挙だった。友達が拝み倒すので、神器(シャーロット様謹製問題集)を友達にも見せてあげたりして、みんなたった数か月で志望校の合格ライン超えたって喜んでたし、その友達も実際に受かったし。
ともかく、無事に帰還からの模試・受験・卒業っていう怒涛のイベントが終わって、あたしは今、とある街の、レトロ可愛いビルに入ろうとしているのだ。手には杉原様の著書『空に還る』と、シャーロット様からのお手紙。
もうもう、このお手紙が汚れたり破れたりしないか心配で心配で、お母さんが間違って捨てちゃうかもしれないのも怖いし、本気で貯金をはたいて金庫を購入しようかって思った。……金庫、高かった。買うの、無理だった。仕方ないから、勉強机の唯一鍵がかかる引き出しの中に厳重にしまって、鍵は肌身離さず首から下げていることにしたんだけどね! 努力の甲斐あって、皺ひとつない綺麗なお手紙だよ!
で、なんであたしがこの場所にいるのかっていうと、シャーロット様が教えてくださったからだ。三月某日、杉原様は必ず、このビルを訪れるんだって。シャーロット様がいた時はお二人だったけど、今もきっと一人で来てるって。
なんか、セキュリティがいろいろあるんだけど、それの潜り抜け方も教えてくれた。暗証番号とか警備員さんの躱し方とか、受付のお姉さんのスルー方法とか。
レトロ可愛い、小ぢんまりしたビル。小さな会社、なんだと思う。でもじろじろ見るわけにもいかないし、あたしはシャーロット様に教えていただいた通りの方法でそそくさとビルに入って、受付のお姉さんと警備員さんを躱し、屋上へと向かう。屋上の扉は鍵がかかっていたけど、暗証番号式で、そこももちろん教えてもらったものでクリア。
(こ、この向こうに……、杉原様が……!)
暗証番号で開いた扉のノブに手をかけて、ごくり、と息を飲む。無意識に鼻息が荒くなっていたので慌てて落ち着かせた。杉原様に変態と思われたらあたし、生きていけない。あ、でもでも、あたし、死んだらシャーロット様がお迎えに来てくださるって……。……。
(いやいや。だめだめ。あたしはこのお手紙をお渡しするという女神のお願いを完遂して、女神に恥じない人生を生きてお迎えに来てもらうんだから!)
カッと顔を上げ、あたしはえいやっと気合と共に扉を開けた。
そうして、そこには緑いっぱいの庭園が広がっていた。思わず目を奪われるくらいきれいな、おとぎ話の中のような場所。ここは都心からは外れているけど、田舎って程じゃない普通の街中だ。それを忘れさせるような光景だった。
(ちょっと、ランスリー公爵邸のお庭に似てるかも)
落ち着く空間だな、と思った――んだけども、それもつかの間。庭園の中にあるテーブルで、本を読んでいらっしゃった美女が、ゆっくりと振り返って、目が合ったのだ。
長い黒髪を一つにまとめて、肩に流していらっしゃるお姿も麗しいそのお方は、あたしが憧れてやまない女神の、たったひとりの親友であらせられる、杉原斗海様だった。
そして杉原様はおっしゃった。
「あら。警備員をシメるべきね」
あ、シャーロット様のご親友だな、って思った第一声だった。
「あなた、迷子……のわけがないわね? どうやって入ってきたのかしら、侵入者さん」
清楚な美貌があたしを見つめ、すうっと細められた瞳まで美しく、声は少し低くて落ち着いた響きで……。あたしは、あたしは……っ!
「杉原様も女神!!」
叫んだ。心のままの叫びだった。杉原様はスンっと表情を消して、「ああ、信者なのね」と理解していた。さすが杉原様!
そしてその後、警備員さんに突き出されそうになったり、その警備員さんの首(雇用的な意味で)がピンチになったり、誘導尋問にあったりとすったもんだした。怖かった。でもいい思い出な気もする。怖かったけど。
多分、警戒心を解いた決め手は、これまたあたしの叫びだった。
「シャーロット様が刈宮様で、刈宮様がシャーロット様なので、お手紙郵便しに来たんですううううう!」
「何を言っているのか意味が解らないわ」
流石杉原様。冷静な突っ込みだった。でもいろんな感情がキャパオーバーで、盛大にむせび泣きだしたあたしに、大いに呆れた杉原様はおっしゃった。
「ま、鮮花から何かを聞いていたのは確かなんでしょうね。この場所に今日、私がいること、警備のすり抜け方、暗証番号も一度でクリアなんて、鮮花が教えたのでなければできない真似だもの」
警備員さんたちも刈宮様たちが教育された方々なんだって。あたし、よくすり抜けたよね。緊張でガッチガチだったのに。こちらでは亡くなって数年たっていらっしゃって、警戒網や警備員やルートだって変わっているところがあるはずなのに、すべてを看破して、あたしにもできる完璧な躱し方を伝授してくださったシャーロット様は女神OF女神!
って、こうしている場合じゃない!
「あ、あの! 本当に郵便しに、じゃなくて、お手紙をお渡しするようにってお願いされていて! えっと、えっと、あたしは長峰小夏って言います! お邪魔して本当にすみません! 受け取っていただけますか!?」
顔は真っ赤、もはや抑えられない鼻息は超荒い、不審者感満載だったと思うけど、九十度に腰を折ってビッシィ! とお手紙をお渡しした。皺だけはつけてしまわないように、握りしめないのがめっちゃ大変だったけどやり遂げたよ!
「……そうね、これは……本当に、鮮花の字だわ」
驚いた眼で杉原様はお手紙の宛名を凝視する。そして私をもう一度見た。だよね、あたし、どう見ても二十歳行ってないし、日本で刈宮様はもう八年も前にお亡くなりになっていらっしゃるもんね……。
「……死ぬ前に、幼いあなたに託したという線が一番現実的でしょうけど。死んでまで普通ではいられない彼女が何かしらの手段でよみがえったという可能性が捨てきれないところが、鮮花の底知れないところよね」
蘇ってはいないけど転生はしていらっしゃいます、と言うべき? 言わないべき? あたしの迷いを察したのか、杉原様は先にお手紙を受け取って下さった。
「読むわ。いらっしゃい。お茶でも飲みましょう」
「えっ!? えっ!? いいいいいんですか!?」
「害のある信者ではなさそうだものね、あなた」
害のある信者とは? なんて思わないよ。ファンレター攻撃したり誘拐未遂したり妄想族だったりする人たちですよね、ニュースで見た。良識ある信者に、『万死に値する』ってこき下ろされていたのも知っている。
そしてあたしはがちがちになりながら、杉原様が手ずから入れてくださった紅茶を一口飲んだ。ひええええ、あたし、憧れのお二人の淹れてくださったお茶をどちらもいただいちゃってる……! シャーロット様の時もそうだったけど、緊張で味がわからないよ……!
あたしが内心も外見も悶えている間に、杉原様は対面に腰かけて、ぱっと躊躇なくお手紙を開いたのだった。その瞬間。
――パア、と、黒銀の光が散った。
『斗海、久しぶりね。小夏、お手紙届けてくれてありがとう』
まさに、『刈宮鮮花』様のお姿が、ホログラムのように浮かび上がった! えええええ、そんなお手紙!? てかこれ魔術だよね! アリなの!? やばい、シャーロット様マジ女神!
ぽかん、とあたしが口を開けて放心していると、杉原様も一瞬、同じく驚いていらっしゃったようだけれど、すぐに平静に戻られた。そしてお手紙が入っていた封筒を矯めつ眇めつ見分している。超クール!
『斗海、封筒は調べつくしたわね? 見たとおり、種も仕掛けもないわ。これは私がそちらで死んで、別の世界で生まれ変わった後に手に入れた力なのよ。ちなみに、これはただの記録映像だから、そちらの様子を見て話しているわけではないわ』
杉原様の行動を理解りつくしているシャーロット様も超かっけー! あたしはきらきらした目でお二人を見つめていた。そして杉原様は小さくため息をつく。
「やっぱり、とっくに転生していたのね。あなたらしいわ。そしてこうした訳の分からない行動をするのもあなたならではよね。科学か魔法か知らないけれど、ますます人間やめたのね」
もはや達観した貫禄で、杉原様は現実を受け入れていらっしゃった。シャーロット様の言ったとおりだ。シャーロット様いわく、『斗海は、『刈宮鮮花』に関することなら何が起こってもおかしくないと思っているから、目の前に現実を突きつければすぐに受け入れると思うわ』と。すごい。お二人ともすごい。しゅごい……。あたしは胸の前で手を組んで恍惚としてしまった。
『日本から異世界転生した私は、日本から異世界転移してしまった小夏と偶然出会ってね。彼女をお家に返す時、斗海へのお手紙をお願いしたのよ。優しくしてあげてね』
「……」
シャーロット様のお言葉に杉原様があたしをちらりと見る。あたしはがくがく頷いて肯定した。
『それはそうと、斗海。あなたの書いた伝記……読んだわ。やると思ったけれど、行動が早くて、本当にあなたって機を逃さないわよね』
杉原様の視線が刈宮様とあたしを行き来しながら徐々に強くなる。あたしは首がもげそうなほどにがくがく頷き続け、すっと、『空に還る』を胸の前に掲げた。
『……あんなメッセージをもらったからには、私も答えなくちゃね』
その言葉に、すこしだけ、ほんの少しだけ目をそらして、照れている様子の杉原様が最高に美女でかわいい。
『私も、誰が何といおうと、あなたが一番の親友だったわ。……私もあなたも、独りで生きていけるけど、二人だったからあんなに楽しかったのよ』
――いろいろあったわね、乗っ取りにあったあなたのお父さんの会社を取り戻したり、詐欺集団を締め上げたり。
ふふふ、と、刈宮様の声と笑いが続いたけれど、内容が笑って言うことじゃないな、とあたしは思った。しかし、杉原様は本当に楽しそうに、綻ぶように笑った。
「あったわね、そんなこと」
やばい、美女……。
あ、ちなみに、ここが取り戻した、杉原様のお父様の会社で、今は杉原様が社長で、今日はなんと刈宮様のお誕生日なんだってことを、後で杉原様に教えていただいた。社会現象になることを危惧して秘匿されているお二人の誕生日は毎年、隠れ家的良スポットであり、かつ完全身内経営であるこの場所に来ることにしていたらしい。なんか、秘匿しているのに、知っている人は知っているもんだから、隠れないととんでもない目に合うんだって……。
ともかく、刈宮様のお言葉はさらに続く。
『斗海。あなたが人生全うして、人間の生から解放されたときは、私が迎えに行くわ。人類最長寿を記録するつもりで長生きしてほしいわね』
「無茶を言うわね、相変わらず。……簡単に逝くつもりはないわよ」
そうつぶやいた杉原様を慈しむように、刈宮様が右手を伸ばす。そっと、触れることができないのに、実際に触れているかのように頬をなぞった。
ふっと、『刈宮様』の姿がブレる。ぱちぱち、と杉原様が瞬き、あたしも瞠目した。そして浮かび上がるお姿は、『シャーロット様』になり、『ローヴァ様』になった。『ローヴァ様』は、『刈宮様』にも『シャーロット様』にも似ていたんだと思った。いや、逆だ。『ローヴァ様』のお姿が、少しずつ『刈宮様』や『シャーロット様』にあらわれていたんだ。
「それが、今の、あなたなのね」
目を細めた杉原様も、そっとローヴァ様のほほを撫でるように手を伸ばす。ふわりと、ローヴァ様と、杉原様がほほ笑んだ。その時、あたしは気づく。ゆっくり、足元から、ローヴァ様のお姿が消えていることに。
『私は私の道を行くから、あなたはあなたらしく、生きればいいと思うわ』
「あざか」
消える直前、快活に、はじけるような笑顔で、ローヴァ様はおっしゃった。
『いつか、またね。斗海、小夏!』
そうして、しゃらりと黒銀の輝きを最後に、お姿がすべて消えたのだ。
「あ……」
あたしはいつの間にか頬を伝っていた涙をぬぐって、杉原様に視線を向けた。杉原様は、かすかに肩を震わせていらっしゃって……。あたしはかける言葉が見つからないながらも、おろおろと声をかけようとした。――でも。
「……っふっ。ふふっ。あはははははははははは!」
「えっ」
涙を浮かべるほどに笑い出した杉原様に、あたしは別の意味でオロオロオロオロする。それをよそに、不敵に笑った杉原様は宣言した。
「ほんと、鮮花らしいわね! 言われなくても、私は私の人生を謳歌してあげるわ!」
そしてあたしをぱっと振り返る。びくっと肩がはねてしまったけど、仕方ないよね。だってぎらぎらした瞳してるもん、杉原様!
「長峰さん。……小夏、と呼んでいいかしら? 鮮花……いいえ、あなたが出会った『彼女』の話、聞かせてくれるかしら?」
圧がすごい。そしてあたしは展開の速さについて行けない。どうしよう、この感覚覚えがある。シャーロット様の時と同じだ!
気づいたあたしは、混乱はまだまだあるけど、笑顔が抑えられなかった。
「もちろんです、杉原様!」
そして全力で、シャーロット様たちのお話を語ったのだった。……杉原様、と呼ぶのはやめてほしいとお願いされて、畏れ多くも『斗海さん』、と呼ぶことを許されて大感動という一幕もあったりしたけど。
――これから、まだまだ長い人生。刈宮様に、シャーロット様に、ローヴァ様に。家族に、友達に、先生に、年上の友人となって下さった斗海さんに……誰にも恥じない人生を、私らしく生きるんだと、あたしたちは笑いあったのだ。