10/96 触れるべからず(エルシオ視点)
ベルキス将軍とシャロンの言い合いは終始シャロンが優位になっていた。当然だろう。背後からの急襲すらシャロンにとっては児戯に等しく、圧倒的な力の差が二人にはある。それを周囲も知っている。理解せざるを得ない。ヴァルキア帝国軍もだ。彼らは救われてしまったから。
シャロンが現れたのは、起死回生というべき最高のタイミングだった。……話を聞いたところ、意図してあそこまでの壊滅寸前で現れたわけではなかったみたいだけど。ともかく、ヴァルキア帝国軍の大半の心もがっちりつかんだんだよね。ベルキス将軍じゃなくてシャロンを見て拝んでいる人、そこかしこにいるし。
そして、そんなシャロンは笑っていた。僕らは血の気が引いた。
彼女の笑みは余裕しかない嘲笑に見えるけど、僕たちには目の奥が全く笑っていない冷徹な光しかないことが分かった。先ほどまでいつものシャロンだと思っていたけれど、あざけりを隠そうともしない言葉選びに思わず止めた時にも普通だったけど――違った。
(かつてなく怒り狂ってる……っ!)
だから、彼女はひと思いにベルキス将軍を拘束してしまわないのだ。それができるのに、しない。そこには、腹の虫がおさまらない、という理由と、拘束ついでに命まで奪いそう、という理由が混在していそうだ。
あの、第一回若者会議にて見せた怒りよりもより、濃く、重く、渦巻くような怒りだった。それらをすべて内包し、制御している。彼女をよく知らない者ならば気づかないだろう程に。
「っ、」
「エルシオ! いけません、今は」
背筋を這い上がる悪寒に嫌な汗が噴き出し、思わずシャロンに近寄ろうとした僕は、同じく冷や汗を流したジルファイス殿下に小声で止められた。殿下も僕と同時に、シャロンの怒りに気づいたのだろう。小声なのは、風魔術でベルキス将軍に声を届けないためだろうか。
「エルシオ。シャロンは未だ、冷静です。今、私もあなたもほぼ魔力がありません。無駄に刺激しないほうがいいでしょう」
言われ、ぐっと唇をかむ。たしかに、先ほどまでのエイヴァ君の攻撃を防ぐために結界をして、残っていた魔力はほぼ底をついた。ドレーク卿を治療したのもぎりぎりだったくらいだ。
と、そこでふっと悪寒が止まった。
「……シャロンですね。……僕らを守ってくれています」
「ええ。おそらくですが、メイソード王国軍の全員に守護を施していますね」
意識すればわかる程度に淡い白光が、うっすら僕たちの体を覆っていた。僕ら以外の騎士や魔術師たちもだ。ジワリと体が温まり、疲労が癒えるのを感じる。そしてシャロンは、煮えたぎる怒りすらも完璧な微笑みに覆い隠してしまっていた。
むしろ念話が来た。ベルキス将軍と言いあっているというのに。
『あの男が嫌いすぎて抑えられないこの怒りを思うままにぶつけたいけど、シルゥ様にお約束したからできないこの葛藤をどうしたらいいかしら?』
回答を間違えた瞬間大惨事になる質問が来た。僕らでさえも一見ではわからないほどに普段通りを装っているけれど、内心はこれ以上なく憤っていようだ。感情の発露をやめたのは、僕らの体調を気遣ったんだろう。シャロン、僕らに過保護なところがあるから。笑って『愛よ』と言いながら千尋の谷に突き落とすひとでもあるけど。
ともかく、僕と殿下はシルヴィナ皇女殿下という存在に心から感謝をした。彼女がいなければベルキス将軍は存在しなかったことになるか、もしくは塵も残らない無残な姿になっただろうし、そもそもヴァルキア帝国は既に存在していなかったはずだ。帝国の救世主は皇女殿下である。今、戦場でシャロンを崇めている帝国軍は身をひるがえして、帝都にいるはずのシルヴィナ皇女殿下を崇め奉るべきかもしれない。
そしてどんな回答をすればシャロンの破壊活動を止めることができるのか。否、シャロンはエイヴァ君とは違って力の制御が完璧なので、精神的に甚振る方向に振り切るかもしれない。彼女は歩けば信者を作るが、その気になればさして労せず廃人も作り出せる。
僕と殿下は思考を高速回転させた。――が、それは無に帰した。何故なら、回答を返す前にベルキス将軍が動いた。
――バリン、と、何かが割れた音が、シャロンの風魔術にのって聞こえた。瞬間、ベルキス将軍から感じる魔力量が一気に増大する。それは当然というべきか……シャロンの魔力だったものだ。
「ベルキス様! 制御装置を……!?」
驚愕の叫びはラクメイナム騎士爵の声。なるほど。魔力供給の量を調節していた魔道具を破壊したのか。……なんて、考えている余裕があるのは、やっぱりシャロンがそばにいるからなんだろう。
「エイヴァ、わかっているわね?」
「う、うむ!」
お前は余力があるんだから当然守れるわよね?
そんな圧がかかったシャロンの声にエイヴァ君は背筋を伸ばしてお返事をしていた。判り切った力関係だった。
そうして、エイヴァ君が結界――僕ら以外のメイソード王国軍一人一人にも、それはそれは強固に施された――を形成したのと、ベルキス将軍の声が響いたのは同時だった。
「さあ、あの女を殺すのだ! 来い! 『魔人』どもよ!」
ボコり、ボコり、と、国境付近の地面が盛り上がり、先ほどとは比べ物にならない数の異形たちが姿を現す。
まさか、と思った。僕と殿下で倒した『魔人』が、まだこんなにも残っていたのか!
「アアアああ、アエハハハ、アハハハハハハアアアアアアアーーーー!」
あまりに夥しいその数。立ち込め始めた異臭。そしてそれらはすべて一直線に、シャロンへと向かっていて。
「「シャロン!」」
叫んだのは僕と殿下。しかしシャロンは平然とその場に立ち、自分の倍以上の体躯を持つ『魔人』が突進してくるのを眺めている。彼女の足元からすらも、ぼこぼこと現れているのに。あれらは人の手足を食いちぎり、魔術騎士の剣すら通さない――!
が、シャロンはにやりと笑って、『魔人』を殴った。
きれいな右ストレートだった。『魔人』は吹っ飛んだ。……放物線を描いて、吹っ飛んだ……。そして足元の『魔人』たちは足蹴にしていた。『魔人』たちはやはり等しく吹き飛んで、痛みにもがき苦しんでいた。ええ……物理……。
「貴族令嬢としてどうなのかという点はさておき、あれは痛いです。本当に痛いんですよ」
ジルファイス殿下の言葉には重みがあった。そういえばジルファイス殿下はよくシャロンに吹き飛ばされていた。身を持って彼女の拳の威力をご存じのようだった。
「……」
そろって遠い目をする僕らには目もくれず、シャロンは仕方がなさそうに頬に手を当てて、言った。
「全員殴るのは面倒くさいわね。まとめて終わらしましょうか」
できる前提の発言だったし、なんなら花壇の雑草を刈るくらいの気軽な声だった。どこからか、『さすがお嬢様!』と聞こえた。『影』さんたちが続々と僕らのもとへ戻ってきているらしい。ヴァルキア帝国軍はほぼ機能していないし、映像魔道具の操作人員は持ち場に残してきているようなので問題はないんだけど、たぶん、残される映像係が誰になるかで壮絶な押し付け合いが発生したんだろうなと思う。
そんな僕の現実逃避をしり目に、シャロンはふわりと中空に浮き上がる。
「なにを……っ」
たぶん、見た目だけは華奢で美麗な公爵令嬢に、『魔人』が殴り飛ばされた光景が信じられなくて呆然としていたのだろうベルキス将軍が、ようやく再起動を果たして声を上げた。けれどそれにこたえてあげる義理はシャロンにはない。
彼女は国境のちょうど真上で止まると、天に向けて両手をかざす。地面では『魔人』たちが口から吐き出す光線などの攻撃を準備しているようだけれど、歯牙にもかけない。僕らももう、黙って見守ることにした。だって、シャロンだし。
そうして、凛とした声が戦場に響く。恐ろしい速度で魔力が練られている。緻密に、狂いなく、繊細に、それでいて膨大な、魔力。
彼女は詠唱した。
「光・水・闇・火。――右の腕で断罪せよ。『鬼神の戦斧』。左の腕にかき抱け。『聖母の揺り籠』」
それは破壊であり、救済であり、――生であり、死だった。