10/95 憎悪に溺れる(ベルキス視点)
見誤ったものは何であろうか。
「滅べ。――『世崩災厄』」
あっけなく壊れた結界。真っ白に染まった視界。理解できなかった。吾輩が葬った、前ランスリー公爵夫妻の遺骨を組み込んで完成させた魔道具と、シャーロット・ランスリーの膨大な魔力をも利用して発動させた巨大結界である。事前実験ではかのアドルフ・ランスリー公の攻撃すら軽くしのぐだろうほどの強度を誇った。なのに。
白き『魔』。最古の生き物。人ならざるモノ。
赤子の手をひねる様に、薄硝子を割るように、結界は破られた。
しかしあっけない終わりを迎える直前、吾輩も含めたすべては救われた。救われてしまった。捕らえたはずの、封印されているはずの、際限なく魔力を搾取される便利な器に過ぎないものであるはずの少女に。
なびく黒髪。アメジストの瞳。いともたやすく『魔』を退けた少女。シャーロット・ランスリー。
突如現れ、メイソード王国の騎士服を纏って降り立った彼女は、まっすぐに己の義弟たるランスリー公爵のもとへ行ったようであった。そして彼女のもとに集う、彼女の『仲間』たち。
なぜだ。『魔』の力に結界が敗れたことも、シャーロット・ランスリーがここにいることも。なぜだ。なぜ、――つい先ほどまで、すべてが計画通りであったはずなのに。
「ベルキス様」
吾輩のもとへ戻ってきていたデュキアスが吾輩を支えるように肩に手を添えてくる。戦場を見渡す。三分の二以上が意識を飛ばし、夥しい人数が倒れていた。すでに軍は瓦解したに等しい。意識を保っている者たちの割合が同じでも、負傷の程度が同等であっても、心がくじけておる。
『魔』を退けた絶対的な強者である『味方』が現れたメイソード王国と、現れないはずだった『紫の瞳の鬼』を此度も『敵』に回したヴァルキア帝国。
その『紫の瞳の鬼』に、我等もまた救われてしまったという覆しがたい事実も、戦意を削ぐのには十分すぎるであろう。
「これ以上は、御身が危険です、ベルキス様」
デュキアスが言う。撤退を示唆する言葉であった。周囲で意識を保ったものは少ない。それでもいないわけではない。それらが吾輩を見る。見ている。濁った瞳に折れた心を映しているのだ。
吾輩を見ない者もいる。彼らは跪いて頭を垂れている。シャーロット・ランスリーを崇めている!
「ベルキス様!」
デュキアスが叫ぶ。吾輩はいつの間にか拳を強く握りしめていた。爪で皮膚が裂けて血が滴るほどに。
「……まが……」
漏れた声は無意識ゆえである。しかし魔力を練り上げたのは明確な意思であるのだ。デュキアスの手を弾いて叫んだ。
「貴様がなぜここにいる! 死ね! 光よ! 『光矢』!」
見えていた、完全に背を向けて歩んでいたシャーロット・ランスリーたちが。――背を向けていたくせに。
彼女はゆっくり振り向いて、左手を軽く振っただけだった。『魔』の攻撃と同じくして、いともたやすくかき消される吾輩の攻撃魔術。
少女は嗤う。見える姿が小さな人影に過ぎない程度に離れていて、それでも分かった。シャーロット・ランスリーは明らかに嘲笑をしたのである。
「呆れた卑怯者ですわね。――『なぜここに』って? これだから恩知らずは嫌だわ。あの封印が私にとって無意味だったから、今私はここにいて、エイヴァよりも私の方が強いから、今あなたたちは生きているんでしょう? とっても簡単なお話じゃない」
そう返してきたシャーロット・ランスリー。叫んだわけでもないのに、凛としたその声が吾輩に届いたのはどうしてなのか。そして吾輩の声すらも、聞きとめていたのは何ゆえか。
その困惑の答えは、すぐさま当の少女から返ってきた。
「あらびっくりしちゃったかしら? 風魔術で声を通すくらい基本でしょう?」
クスクス、と笑う声すら聞こえる。『魔』よりも悪辣であるかのように嗤っている。そして少女を諫める周囲の声すら癇に障った。……どこまでも馬鹿にしておる。
「――風魔術。なるほど。小器用なことであるな」
深呼吸をする。そして言葉を選び、語りかけた。まだだ。まだ終わっていないのだ。諫めるように再び吾輩の肩に手をかけようとするデュキアスを振り払う。
「そうよ、私、器用なの。そして強いわ。さっきエイヴァを止めた力も見ていたでしょう? ならわかるわよね? 私、ヴァルキア帝国くらい簡単に滅ぼせるのよ。だってエイヴァにできるんだもの、私にもできるわ。むしろ、エイヴァにできない『選別』だって、できてしまうのよ。そんな私が今まで裏方に徹していたのは、やりすぎちゃったらシルゥ様が悲しむからよ。彼女が泣いてしまうのは可哀そうでしょう?」
歌うように言うそれは、自信過剰なのではなくただそこにある事実を述べているだけなのであろう。……化け物め。
「……それはそれは。ならばこの状況も計算の内と?」
「いいえ? だってエイヴァの暴走さえ抑え込めたら、私がいなくても勝てるもの。戦争が始まってから今まで、ほとんどエルたちの功績だわ。だから、私はエイヴァがやらかさないよう多少手を打ったけど、あとは自分の用事だけに集中できたのよ。ま、想定外の不幸が重なってエイヴァがやらかしてしまったから、こうして止めに来たけれど」
どこまでも自信に満ちた少女である。吾輩はほほをゆがめ、フン、と鼻で笑うようにしながら、皮膚が裂けて血のにじんだ掌を懐へと伸ばす。
「『想定外の不幸』……愚かな。吾輩の手を見切れずに『魔』の暴走を許したのであろう?」
「あら、エイヴァの力を見くびっていたお方に言われたくはないわね? もちろんエルとジルとエイヴァにはこの戦争が終わった後にでも私と一緒にお話ししなくっちゃならないことがあるけれど、人外を人間同士の争いに介入させまいとしていたこちらの気遣いを無にしたおバカさんが一番悪い子なのよ? わきまえてほしいものだわ。だから出るつもりもなかった私が来ることになったんじゃない」
ふう、とため息をつくようにしてシャーロット・ランスリーは続けた。
「……まったく、私貴方が嫌いだから、あんまり相手にしたくないのよ。だって私はエルもジルもエイヴァも止めてあげられるけど、私を止められる人間は何処にもいないのよ。最強も考え物よね。そう思わない?」
「そうかね。吾輩も君のような化け物はおぞましいがな」
それは時間稼ぎであり、本心だった。ああ、あの少女は、正しく化け物である。人ならざるモノすらも抑え込む、この世でたった一人の『紫の瞳』を持った化け物。
悍ましく、恐ろしく、この世に在ってはならぬ存在。おとなしく捕らわれていれば吾輩が上手に使ってやったのに。
けれど化け物は何の痛痒も感じた様子もなく言った。
「ふふ、『化け物』を好き好んで敵に回したのはあなたでしょう? ランスリーの魔力に憧れた、可哀そうな人」
――バリン、と、吾輩が懐で握りしめたものを割ったのは、その瞬間だった。