10/75 永久凍土を噛み砕く(ベルキス視点)
『あー、わりぃな、ベル』
ふと、友人であり腹心でもある男の、そんな言葉が聞こえた気がして、吾輩はあたりを見渡した。しかしこの広い執務室内にいるのは吾輩と専属騎士であるデュキアス――デュキアス・アキト・ラクメイナム騎士爵だけだ。気のせいだったのだろうか。そう思い、手元に視線を戻した。
メイソード王国との戦況は変わらず一進一退。レア――オレアノイド・ハルト・バディア商爵の作戦がうまくいけば、帝国内での憂いを一つはらえると言ったところだ。
メイソード王国の護りは想定以上に堅固である。王子二人やランスリー公爵といった若い世代が前面に出ている影響もあるのか、人を食ったような作戦で煮え湯を飲まされることもあった。
「……ベルキス様」
軍議のための資料をまとめていると、デュキアスがそう吾輩を呼んだ。視線だけで先を促せば、執務机の上に何かを差し出す。それは真っ二つに割れた黒真珠のペンダントであった。
「……オレアノイド殿が、失敗したようです」
ぐっと、吾輩の眉間にしわが寄る。ペンダント――その魔道具の使用方法は知っていた。三対になっているそれは、どれか一つが割れれば残り二つも同じく割れる。……同じものを引き出しから取り出せばなるほど、真っ二つになっていた。吾輩とデュキアス、レアの三人で持っていたそれ。本当に『帰還がかなわない』時に使うことを決めていた。
先ほどの空耳が脳裏をよぎる。
「……お前の『双生人形』を模した魔術があったはずだが。レアは使わなかったのか?」
「オレアノイド殿の光魔術『擬態憑依』は私の魔術よりも制限が多いものです。弱点を見抜かれたのかもしれません」
「……」
あくまで冷静なデュキアスの言葉に、吾輩も思い出す。そもそもレアはあまり戦闘や魔術に長けてはいないし、魔力量もそこまで多いわけではない。憑依が可能な期間は一週間ほど、そして術者本人と憑依体が一定以上離れられないという制限もあったはずだ。だから最後の手段として、レアはここぞという時にしか使用していなかったが……。
思えばこの度の『交渉』にあたり、ウィルネラムを閉じ込めていた『塞の玻璃箱』も、遠隔爆破装置を量産するのは簡単だが、その操作有効範囲があまり広くないという欠点があった。レアの魔術に使用する魔道具。黒真珠が伝えてきたのは、そういったあらゆる欠点をつかれた結果、だとでもいうのだろうか。
『お前さ、どんどん追い詰められてってるのわかってるか?』
『わかっているに決まっている。でも、レア、好きでしょう? 結果の見えない勝負』
『好きだけど? 悪いかよ』
呆れたような口調で、しかし許容するような表情でそんなことを以前言っていたレア。紅茶色の優しげな瞳に、光の加減によっては黒にも見えるほどに濃いコーヒー色の長い髪。黙っていると性別不詳、むしろ女に間違えられることが多い容姿を武器に、伏し目がちに憂いを帯びた表情で人をいいように操る。それもあって普段は別人かと思うほど丁寧に、一人称さえ変えて話す。……その癖に吾輩たちの前では本性を隠さない男。
目を閉じる。机に両肘をつき、両の手を組んでそこに額をつけた。怒り、失望、焦り。それらすべてに似ていておそらくはどれも違う、そんな言いようのない感情が巡り、――吾輩はそれら全てを潰した。
「……おそらく命は取られていないのであろうな」
「メイソード王国のこれまでの対応を考えれば、その可能性が濃厚かと。シルヴィナ皇女やザキュラム帝があちらと通じている様子ですので、そちらへの配慮でしょう」
「で、あろうな。前線でも大規模殲滅魔術は使用されておらん。……甘いことだ」
「ですがあちらは懐柔もうまいものがそろっています。どうなさいますか?」
デュキアスの言葉が含むのは、『救出』か『口封じ』か。どちらもであろう。そして吾輩が選んだ結論を受け入れる。デュキアスも、レアもだ。相性が悪いと常日頃言い合っている吾輩の右腕と左腕は、割と理解しあっているのだ。
だが、その二つしか選択肢がないわけではない。
「レアは吾輩を裏切らん。……ならば今は戦争に集中すべきではないかね。実験は成功し準備も整った。戦線は『秘魔の森』近くまで動かすことができた。これが終われば兄の始末も容易となる事だろう」
そもそも、ほかに割ける余裕が今はないのだ。メイソード王国、いや、ランスリー公爵家であろうか。彼らのこちらへの『対処』は実に正しく、吾輩たちの手ごまや手札を徐々に切り落とされておる。ここで予定外の動きをして作戦に支障が出れば本末転倒というもの。
レアは簡単になびく男ではないし、繊細な心根でもないのだ、生きてさえいればあいつは問題ない。
吾輩の言葉に、デュキアスは微苦笑を浮かべたが、すぐにさっと礼を取った。
「……御心のままに」
そして吾輩たちは軍議へと向かう。すべての作戦はすでに動き出している。いや、初めからここに至るようにしてきたのだ。手ごまや手札をいくら切り取られようとも、最も重要な部分は手の内にある。
全ては明日――『秘魔の森』の傍で。