2/18 信じていたかった(エルシオ視点)
――歪んだ、空間。次の瞬間、そこにたたずむ、人影は。
「――あね、うえ?」
闇の中でも尚輝くような美貌の、義姉だった。
なんで、姉上が、こんなところに。
『助けて』と。
そう言ったら、まるで、こたえる、みたいに。
彼女は騎士か。僕が姫か。
阿呆なことを考えるくらいには驚きすぎて、凝視してしまった。いつものドレス姿。着飾ることをさほど好まない彼女がよく着ている、機能性重視のデザイン。
ああきれいだなあと思う。
場違いなくらい美しい立ち姿で、彼女は僕を見下ろして――口の端を吊り上げた。
「騒ぐなよ?」
凛とした声で言われて、なんだかとても、とても力が抜ける気がした。
なんで、ここがわかったんだろう。気絶していたって言っても、きっとまだ何時間もたってないだろうに。
本当に、この人は底が知れない。でもとても、強い人。
この人が来てくれたなら、きっと、もう大丈夫。
僕は、助けてもらえる。
――そう思って、確かに僕は安堵して。
「姉上……」
なんだかちょっと、泣きそうだった。
でも。
なんでだろう。姉上は、僕に近づいては来ない。僕が拘束されているのは見えているだろうに、それを解いてもくれない。
なぜ?
ただ彼女は、笑うばかりで。
背筋が凍るような、その美しさ。
そして姉上の次の言葉に、僕は硬直した。
「――馬鹿なの? ……私が、君を助けに来たとでも、思った?」
本当に美しく、笑って。
ひどく残酷な笑みが、あんまりにも、似合っていた。
だから、なんと言われたのか、よくわからない。
「……え? あね、うえ、いま、なんて」
「一度ではわからない? 本当に、馬鹿ね。……私は君を助ける気など、これっぽっちもないと、そう言ったんだよ、判ったかな?」
うそだ。
意味が分からない。たちの悪い、冗談のようだ。だってそんなことを言われる理由がない。
混乱に目を見開いた。そうだ、きっと聞き間違いなんだ、こんなの。
だってどうして、わかんない、なんで?
――冷たい姉上のまなざしが、嘲笑交じりの声が、ひどく刺さって。
「そんなに予想外かなあ? ……ま、そう演じてきたんだけど、騙される君はやっぱりは馬鹿だね。この私を、信じるなんて……ね?」
「あね、う、え……?」
ハッと、馬鹿にしたように嗤う。歪んだ、笑みで。
そんな、だって。
姉上は、変な人で、規格外で、僕をそれでも、受け入れてくれた、人で。
笑って、くれた。
居場所を、くれた。
あの、邸で、確かに。
――傍に。
「幻想だよ、全部」
茫然とする僕に、姉上は――ランスリー公爵令嬢は、冷笑する。毒のような声で、柔らかに囁く。
「本気で、私が君を歓迎していると? 降ってわいた跡取り話……断るのも世間体の悪い話だったからね。やってきた養子を邪険にするのもねえ? だから、優しくしてあげたんだけど」
――わかる?
そう、ランスリー公爵令嬢は言う。笑みを絶やさずに、でも、僕を見る目は心底不愉快そうに。
指の先から、冷えていく、気がした。縛られたままで、感覚なんて、もうないのに。
――違う違う違う、嘘だ、嘘だ、嘘だと、言って。
お願い、壊さないで。
震える僕に、それでも彼女は容赦なく。
「努力する君は可愛らしかったけどね。……君は私には勝てないよ? おこがましいね、魔術も使えない落ちこぼれなんだから。――まったく、もう少し早くこの話が生きていると気付いていたら、潰してあげたんだけど」
――お情けで、優しくされて、舞い上がって、本当に君、可哀想だね?
ふふふ、と、楽しそうに。愉悦にひたるように。
『落ちこぼれ』、僕は、そう、判っていたけど、こんな。
だって優しかったでしょう。ぬくもりを、くれたでしょう。
初めて、だったのに。
「……全部が、嘘、だったの?」
優しさは、幸せは、あの場所は。
世界が崩れ落ちていくような感覚。
僕の問いに、ランスリー公爵令嬢は目を細めた。
「――当り前でしょう? 誰が、君なんて喜ぶと思う? ……夫ならね、操りやすいの。傀儡にしてしまえば、私が全てを握れるでしょ? ねえ? でも君がいたんじゃあ、私は何処ぞの貴族に嫁がされちゃうじゃない。……本当に、余計なことをしてくれたものね」
『僕なんて』。
何度も何度も、自分でそう思ったけれど、本当にそんな風に、思われていた、んだ。
ずっと、ずっと。
強張った身体が、恐怖とは違う感情で震えだす。
彼女はひどく忌々しげに。そして僕から少しだけ視線を外して、思い出したように言う。
「――ああ、そうそう。面倒を押し付けてくれたアッケンバーグの方も、ちゃんとつぶさなきゃね。仕事を増やすだけ増やして、役に立ちもしない害虫は駆除、しないとね?」
どうしてそんなに簡単に、言ってしまえるんだろう。
僕の生家を、潰す、とか。
愛着があったわけじゃないけど、それでも。
こんな。
赤子の手をひねるよりも簡単に、この人はそれを実行する。
彼女の口は、止まらない。聞きたくないのに、震える身体は言うことを聞かない。感情の制御が、出来なく、なりそう。
「本当に、私が優しくてよかったね? 十分だったでしょう? 半月間、私を優しい姉だと信じて疑わなかったものねえ」
疑わなかった、ああそうだ、誰がこんな女を、どうして僕は信じて、なんで。
……だって、彼女が居場所をくれた。
だって、彼女とあの家が……、
ぼくのぜんぶだったのに。
「そうやって懐柔して行ってやろうと思っていたけど――都合よく、誘拐されてくれからさ」
やめて、失望させないで。
お願い、聞きたくない。
震えるこの感情は、何だろう。
恐怖じゃない。
頭が支配されていく。混乱から恐怖から、まったく違う感情に塗りこめられていく。
怖さなんて、誘拐が何だっていうの、これは、きっと。
怒りだなんてそんな、生易しいものじゃ収まらない。
「これで、何の違和感もなく、君を始末できる」
……ふざけるな。