2/14 猫は野に放たれた(エルシオ視点)
扉を開けたら、目の覚めるような美少女が、そこには佇んでいた。
雪のように白い肌と、艶やかな黒髪。アメジストの瞳が本当にきれいだった。
鈴を転がすような声で、僕の父と談笑している。
なぜ談笑できているのだろう父よ、謝罪の言葉は何処に消えたのだろう。貴族として社交の場に出ない僕でも今の僕たちの立場で遅刻したくせに謝らないのはあり得ないのはわかる。何ていうか、常識の問題だ。……いや、この場合謝らない父が可笑しいのか? 気にするそぶりを見せない令嬢が可笑しいのか?
まあ、僕が困惑しているうちに口を挟めるわけもない会話は流れるように進んでいるけれど。
ああそう、目の前の彼女が、シャーロット・ランスリー。
僕の、義姉となる人。両親を亡くした、独りぼっちの女の子。
いや、まったくその形容詞は彼女には似合わないけど。だって笑顔。すごい笑顔。眩しい。人見知りだっていう噂もあったけれども、大人の男である父を前にして堂々と、それでいて優雅に受け答えをしているこの余裕。どのあたりに薄幸の令嬢という要素があるだろうか。
……この期に及んで恐怖にすくんでいる僕とは、大違いだ。
――思ったんだ。
ああ、僕が、僕なんかが。
共感できると思ったのが間違いだったんだなあって。
力があって。綺麗で。愛されている。だってほら礼儀を欠いた父に向って氷点下の瞳で侍女さんが壁際から圧を放ってる。なぜ父上は気づかないんだろうか。鈍いのだろうか。
でもその圧はシャーロット嬢のためのもので、だからこれだけでもよくわかってしまう。
例えば一人になっても、誰も彼女のことを見捨てる人なんて、いないんだ。
全然、想像と違う。弱弱しさなんてない。可哀想だなんて、口が裂けても、言えない。
そんなことを茫然として思ううちに、いつの間にか僕は彼女と部屋に二人きりにされていた。
父が最後に何か言っていた気もするけれど、全く耳に入ってこなかった。多分中身はないから大丈夫だろう。あの人が僕にかける言葉に重さがあったことなんてないんだから。
だからそんなこと、今はどうでもよかった。
シャーロット嬢が、僕に視線を合わせている。
「……とりあえず、改めて自己紹介をしましょう。私はシャーロット・ランスリー。同い年ですが、便宜上はあなたの義姉、という事になりますわ。よろしくお願いしますね」
凛とした声で、令嬢はそう声を掛けてきた。
思ったよりも、柔らかい声。
でも、緊張で何も、返すことができない。
「……」
「……」
おちた沈黙に、わずかに彼女が困ったような顔をした。
「……エルシオ様?」
再度、名前を呼ばれる。思わず肩をびくりと揺らして引いてしまった。さらに彼女が困ったような表情をする。……まずい、やってしまった。でももう時間は戻せない。
「……エルシオ様……?」
訝しげな声。顰められる眉。
不審に、思われている。ここで僕はこれから住まわせてもらうのに、こんな。さっきは呆然としていたし、そうだ彼女の言う通り自己紹介だってまともにしていない。駄目だ、きっと、もう、だめだ。
「……」
ぐるぐる回る思考、でも口は全く動かない。そんな僕に、令嬢はわずかに首を傾げた。
変に、思われている。僕ぐらいの年齢なら、挨拶ぐらいできるはず、そうだよ出来なくてどうするんだ。ほら、目の前の彼女はあんなにも明朗に大人と話すことだって出来ていた。義姉と言っても同い年なのに。
でも、怖い。
どうしよう、どうすればいいんだろう。
何が怖いのか、分らないくらい、固まって動けない。
いきが、できなく、なりそう、
――俯こうと、した、けど。
でも、次の瞬間にぼくは目を見開いた。
だって、なんで。
シャーロット嬢は笑っていた。
とてもきれいに、優雅に。すごく引き付けられるような、顔。思わず見入って、――でも。
「喋らんかいこの朴念仁」
……んっ?
いや……えっ、空耳だろうか、輝く笑顔から雑把なことばが軽快に飛び出してきたんだけど。
……いやいや。そんな。表情と言葉が完全にずれている。
と、思っていたのに、さらに彼女は追い打ちをかけて。
「喋らなきゃあ何にも伝わらないでしょう。さあ口を開いて息を吸って」
はきはきと活舌能く話す彼女は笑顔だった。え、なんだろう、この笑顔怖い。さっきまで感じてた理由のわからない恐怖と違って純粋にこの笑顔に逆らったらダメな感じしかしない。
「あ……」
戸惑うまま、声が漏れた。彼女の瞳が、きらりと光る。獲物を狙う目だった。捕食される気がした。
「声が出るなら自己紹介をしましょう。君の名前は知っているが名乗るのは礼儀。これ常識。さあ、repeat after me 『エルシオ』!」
「り、りぴーとあふ……?」
聞いたことの無い発音に、舌が回らない。そう言えば名乗ってなかったのは確かに失礼だったけど、でも、えっと。
とか思っているうちにさらに追及される。
「あなたの名前は何ですか?」
「え、エルシオ、です」
思わず返した。動かなかった口が嘘のよう。
「エルシオ君、今幾つ?」
「じゅ、十歳です……」
一問一答は結構続いたけど、彼女は最後まで、笑顔だった……。