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かちかち山

作者: 富澤痴呆

これは二次創作になるんだろうか。太宰の「かちかち山」を読む前に書いたからセーフだと思うんだけど……

          一


「何を言っている。お前は私にとって、仇敵以外の何者でもあり得ない」

どこまでも青く大きな空の下、少女は凛と言い放つ。対して男はやれやれとばかり、大きな溜息をついた。


静かな海の上に浮かんだ二艘の船。片方は粗末な木製の船、もう片方はいかにも立派な造形をした白色の船である。しかし、粗末な木船がずっと安定して水面に浮かんでいるのに対し、白の大船は海水にその身を溶かしながら徐々にその形を失い、それが白泥で拵えた偽物に過ぎぬことを露呈していた。二艘の船の上には、それぞれ一人ずつの人間が立っていた。細い体を覆うように長く伸びた髪を海風に遊ばせながら、ゆらりと安らかにたゆたう木船の上に立っていたのは、若々しくすっきりと通った目鼻立ちをした顔に一切の化粧を施すことなく無頓着にその素顔を陽光と海風に晒している、いかにも生真面目そうな少女である。しかし、その凛々しく端正な顔には焦燥の色が窺われ、もう一方の形を失いつつある白泥の船に乗っている小太りの男が、影の濃い角張った顔に浮かべているニッタリとした笑みとは、いかにも不釣り合いに対照的であった。


 男は言った。

「……違う、俺が聞いているのはそういうことではない。仇敵なんていうのは後付けの価値だろう? 俺がしているのはそれ以前、そもそもの話だ。もう一度聞こうか」

 そう言うと彼は一息を置いて、自らに敵意をむき出しにしたまなざしを投げる少女の全身を舐めるように見回した。柔らかい輪郭をした、ちょっと力を加えるだけで折れてしまいそうな――人間を殺すほどの力があるようには見えない、か細く脆そうな体躯。男は乾いた笑いをもらして、それからゆっくりと、その口を開いた。

「お前と俺は、そもそもどのような関係にあった?」

 先と寸分たがわぬ言葉を再び突きつけられて、少女の顔にわずかな動揺が走った。男のその言葉の意図が少女には理解できず、そのことがどうしようもなく彼女には耐えられなかったのだ。裏の意図を掴もうにも、人間の深淵を見透かしたような男の奇妙な笑みにはどんな下心を見て取ることも出来なかったので、少女は仕方なしに言う。

「仇敵でないとするのなら……お前なぞ、ただの他人だ。お前のような外道とは、知り合いたくすらなかった」

 毒づく少女に、しかし男は満足げに「そうだ」と頷いた。

「お前と俺はただの他人さ。あのことがなければ、お前のお望みの通り、二人は知り合うことなどなかったかもしれん。あるいは――違う知り合い方をして、良き友になって、それこそ仲良く釣り糸を垂らしていたかもしれない」

「何を馬鹿なことを」と言う少女を、男は「考えてもみろ」と制して続ける。

「俺だっていつも、お前さんの言う外道とやらでいるわけではない。むしろ俺なぞ、普段はただの善良な男だよ。困窮が俺にコソ泥をさせ、不運が、俺に媼を殺させただけの話だ」

「今わの時に言い逃れか」

 男は、肩を竦めて言う。

「言い逃れではないよ。俺は殺人者だし、殺人者は死んで当然と言うのならそれに従うさ。俺が言いたいのは、単にあのことが俺らの関係を決定づけてしまっただけであり、本来俺とお前は……ただの、他人に過ぎないということだ。俺と、あの可哀そうな媼がもとはただの他人同士であったように、な。確かに俺と翁は一つの敵対関係にあったが、あくまで俺と媼に関して言えば、それは赤の他人と言わざるを得まい? 敵の友は、ただの他人なのだから」

 その言葉を受けて、少女は髪も逆立たんばかりの気迫で口を開いた。

「……それならお前はどうして、罪なきおばあさんを残虐にも殺したのだ」

「そうせざるを得なかったからさ」

しれっと男は答えた。

「さっきも言っただろう、不運だって。生きていくために殺さなくてはならないのなら、殺す。例え他人であれ、あるいは他人であるが故に――それが、生き物と言うものだろうが。媼は、俺の活路に立ちふさがった、それが故意であれ偶然であれ。故に、俺は生きるために媼を殺さなくてはならなかった。それ自体は仕方のないことじゃないか? 俺だって、生き物なのだから」

「詭弁だ」と糾弾する彼女に、彼は、むしろ愛しむような視線を投げかけ、ゆっくりと言った。

「ふふ、この頑固者め」

 今度は、何も言うことが出来なかった。彼女は混乱していた。何故男が笑っているのか――そして、あらゆる男の言動、仕草、態度のいずれもが、彼女には理解できなかった。危機的状況にあるのはどう考えても憎き仇敵たる男の方であり、一方自分は安全地帯に立って、沈みゆく男を見下ろしている。媼の仇は今にも打たれようとし、彼女の内に燃え滾る「正義」は、勝鬨を上げる瞬間を今か今かと待ち構えている。

(それなのに……なぜ)

 追い込まれているのは、安泰な木船に乗った彼女の方であった。その彼女を追いつめるのは、死に際に追いつめられたはずの男。男は泳ぐことができない。二艘の間には到底飛び移り得ないほどの十分な距離が――

「お前のために、これから俺は呪いを掛ける」

 少女はハッと我に返った。男の足場たる泥塊は既に水面上から姿を消し、まるで男は海の上に立っているかのようであった。男は嗤う。全てを見透かしたようなその目を少女の顔に向けながら、男は宣告する。

「『俺とお前は、何も変わらない』」

 自分の耳に届いたその音節の意味を、彼女は理解することが出来なかった。しかしその音が自分の耳の奥部に至ると同時に、彼女は胸の奥に、何か鉛のように大きな物が沈み込んだような、奇妙な違和を感じた。それは、彼女にとって決定的に異物であった。

「受け入れろ。さもなくば――――」

 それが彼女の聞いた、男の最後の音だった。


 初秋の風、午睡を誘う光も麗らかな昼下がり。きらきらと輝きながらゆったりと時を過ごす穏やかな波――ついさっきまで何も思っていなかったその風景が、今の彼女には、どうしようもなく余所余所しく、美しく感じられた。さっきまで目の前で嗤っていた男の姿はもう、どこにもない。彼女はただ、立ち尽くしていた。

計画は全てが順調に運んだ。男の為した選択は、寸分の違いもなく事前に想定していた通りであった。そうしてついに、男は――自分を可愛がってくれた、純真にして疑うことを知らないおばあさんを殺した憎き仇敵は、暗い水底へと没し去ったのだ。何の犠牲も無いうちに復讐は完遂され、曲げられた義はここに正された。大団円とはこのことではないのか――しかし、聡明な彼女は気づいていた。そう思おうと自らに努力を強いているまさにそのことによって、それは決して真実ではありえないということに。


          二


 男を泥船に乗せて沖釣りに連れ出して溺死させてしまおうという計画を思いついたのは、彼女の策で背中に酷い火傷を負った男を見舞うという名目で、村はずれの男の家を訪ねて行った時のことだった。彼女が、男の殺した老婆に世話になっていた者であり、そしてその復讐を胸に誓った者であるということに男はまだ気づいていないと少女は考えていたので、その内に秘めた嫌悪感と敵愾心を悟られぬように気を付けながら彼女は恭しく男の家を訪れ、火傷に苦しむ男を、彼女は数年来の友をいたわるように言う。

「散々な目にあいましたね」

 布団に胡坐をかいて居直った男は、「うむ」と頷きながら蒲団の傍に置かれた皿に盛られたリンゴの一つを手に取って、それをしげしげと眺め回した。実はそれは、彼女がわざわざ特別渋くて酸っぱいリンゴを選んで手土産と称して持参し、皮を剥いて皿に盛って男に渡したものだった。男はそれをぽいと口に入れ、ゆっくり味わうように咀嚼する。しかし男は眉をピクリと震わせただけで、それからのんびりとした口調で言う。

「このリンゴは……少し、渋いようだな」

「……そうでしたか、それは迂闊でした」

 抑揚のない声で言う少女に、「いや」と青ざめた顔で男は言う。

「それほどでもない。むしろ俺は、これくらいの方が好きかもしれん」

 彼女は男の反応を不満に思った。というのも、事前に彼女がそのリンゴを味見した時にはまるで酢漬けにした砂の塊を齧ったかのような酷い味であり、しばらく味が分からないくらいであったからだ。恐らく自分の齧ったリンゴが特別酷かったか、男のリンゴが特別良かったのか、そのどちらかだろう。手ぬかったと内省する少女に、男は「それにしても」と言った。

「唐土の火鼠とは、また厄介な生き物もいたものだな。おかげでとんだ災難をこうむってしまったよ」

 彼女はさも済まなそうに、「ええ……」と声を低くして同意を表した。しかし彼女は、その内心でそっとほくそ笑んでいた。薪を背負った男を火責めにする計画を実行した際、薪に火をつけるときに鳴る火打石の音をごまかすためについた嘘を、男が未だに信じていたことがわかったからだ。この分なら、自分に嫌疑がかかることはなさそうである。それにしてもなんと単純な男だろうかと彼女は気づかれないように、そっと軽蔑の目を男に向ける。男はこちらには無関心そうに皿の上のリンゴを眺めてはそれを口に運んでいた。その様を見て少女の胸に去来したのは、すうっと胸が冷たくなるような奇妙な錯覚だった。彼女はそれをごまかすように、何の気もなく話題をくる。

「それにしても、ずっと家の中にいるのでは退屈でしょう。何か趣味などはないのですか」

 趣味か、と男は口の中で繰り返した。

「たまに気が向いたときに歌を詠む」

 へえ、と少女は思わず声を上げる。このような冴えない男が持つ趣味にしては、詠歌などはあまりに不似合な趣味であるように思えたからだ。しかし、彼女の反応が芳しくないと見た男は、まるでその言葉を上塗りするかのように続けた。

「あと、釣りが好きだ」

「釣りですか。それは私も好きです」

 他意もなく少女が引き取ると、男はその唇を歪ませた。きっと笑ったのだろう、と彼女は思った。そして、言葉を引き取った時には何も考えていなかった彼女が、男のその嗜好を、復讐を果たすために用いようと思いついたのはまさにその、彼女にとって醜い笑顔を見た時であった。

「私は海釣りが好きです。それも、のったりと波に揺られながら糸を垂らす船釣りが。より深く、岸から遠いところに糸を垂らした方が、より良い魚を釣ることが出来ますからね。貴方はどうですか」

 実は彼女が男に火傷を負わせたその日、世間話を交わしている中で男が泳げないという話は聞いていたのだが、そんなことは忘れているかのように彼女は言う。

 それに対し、少し考えるようなしぐさをしてから男は答えた。

「俺も、沖釣りが一番好きだな」

 泳げないのに! 自分から仕掛けておきながら、少女は内心で男の愚かさを嘲笑った。泳げないのに沖釣りを好むというのは、それこそ自分に降りかかる危険の可能性を鑑みない、ひいては目先のことしか考えない愚鈍の証明であるようにしか少女には思えなかったのだ。

 彼女は極めて冷徹な心で誘いをかける。

「なるほど。どうです、貴方の火傷が良くなったら、共に沖に船を浮かべて、のんびり釣り糸を垂らすというのは」

 それも良かろう、と男は言ったきり黙りこんで、また少しずつリンゴを齧りだした。がさつそうな男が、ケチ臭そうにちびちびとリンゴを齧る光景はいかにも滑稽であったが、それは彼女にとって見良いものでは決してありえない。故に少女は、目的は達せられたとばかりにそそくさと男に暇乞いをし、その家を後にした。

去り際にちらと目に入った、男の手にしていたリンゴのやけに幸せそうに艶々と照かっている青色が、また彼女の心が冷えるような錯角をもたらしたので、彼女は急いでその場所を後にした。


         三


 少女は、冷たい目を静かな水面に向けた。静かに波が行き交う海の色はどこまでも均一であり、ついさっきまでそこにあったはずのものの名残を何も感じさせない。見届けるはずだった、仇敵が死の淵に沈むもがき苦しむ姿も、その時に男が浮かべるはずだった憎悪と渇望に歪んだ醜い表情も……奇妙なことに、彼女にはそれがあったのかなかったのかすら、判別することが出来なかった。まるで世界からその時空間だけがごっそり抜け落ちてしまったかのように、記憶を辿ろうとすればそれだけ、本来あるはずのものが欠落しているという奇妙な感覚が明確に意識され――対比的に、彼女には、己の心の内に落ち込んだ、本来そこに存在しなかったはずのものの存在がまた明確に意識された。男の断末魔の記憶の代わりに彼女に残されたのは、胸の奥底にずううんと沈みこむような冷たい鉛のような異物と、それに伴う違和感である。そしてそれを意識すると、彼女の脳内に残留した男の声が生々しいほど鮮やかに甦るのである。

『俺とお前は、何も変わらない』

『受け入れろ、さもなくば――――』

「…………!」

 彼女はその声を振り払おうとするかのように、ぶるるっと頭を振うと、違和感の上に覆いかぶせるように新たな思考を繰り出した。

『奴の言葉は、所詮は敗残者の負け惜しみ、曳かれ者の小唄のようなものだ。そうだ、呪いと称して意味深長にも聞こえる言葉を投げることで私を混乱させ、精神を弱らせようとしたに違いない。不可解なものほど、人間の神経を蝕むものは存在しないからな』

 その考えは合理的に思えるであるばかりでなく、勝者としての彼女の矜持を少なからずくすぐるような考えであったので(無論、そのことは彼女自身意識しないが)、彼女はそう考えることに決めた。すると、自分の中でこんがらがった論理の糸がすっきりと元通りになったかのようで、彼女は気を取り直すことが出来た。

「帰ろう。やるべきことは、終わったのだから」

 自らの行動を規定するかのように、彼女は独り語ちる。しかし彼女の口から離れた言葉は、そのまま彼女に背を向けて、すうっと空の青へと逃げるように溶け込んでいってしまった。彼女は青ざめた顔で木船の底に腰を下ろすとゆっくりと櫂を操り、岸を目指して船を漕ぎ出した。


          四


「ただ今戻りました」

彼女がそう言いながら翁の家の立てつけが悪い扉を開いた時には、もうすっかり日は落ちてしまっていた。板葺きの粗末な家の中を辛うじて暗闇から守っているのは、囲炉裏でパチパチと音を立てる頼りない火ばかりである。その傍には一人の老人が微動だにせず、静かに燃える火に向かって座り、痩せこけて凹凸も顕わになったその顔面をぼんやりと火に赤く照らしていた。もしその老人が彼女の声にぴくりとその肩を震わせなかったとしたら、誰もが彼を、もう既に死んでいる人間であると思ったことだろう。老人はぐりんとその萎びた顔を声のした方に向け、その声の主が彼女であることを認めると、ぬらあとその顔に深く刻み込まれた皺を歪ませた。それは笑っているようにも見えたし、泣いているようにも見えた。少女は、ほとんど初めて見るかのような心持ちで、媼――彼にとっての妻が無くなってから急に老け込んだ翁の小さな姿を見た。まるで骸骨が皮を被って、その上に衣服をまとったかのような痩せこけたその体に、かつての快活にして明朗な翁の面影はない。彼女は少なからず胸を痛めたが、復讐を終えた今となっては哀れな老翁を衰えさせた心痛は徐々に和らいでいくものと確信していたので、彼女は翁の傍まで行って威勢よく口を開いた。

「おばあさんの憎き仇敵は、確かに冷たい海の底へと没し去りました。今頃は震えながら、地の底で閻魔の裁きを待っていることでしょう」

 彼女がそう言う間、老人はぼんやりと囲炉裏でパチパチと音を立てる赤い火を見つめていたので、彼女は翁が話を聞いているのか少し不安に思ったが、彼女が言葉を切ると、翁は彼女と視線を合わせることなくぼそりと呟いた。

「そうか……死んだか」

 翁は天井を仰いでため息をつく。彼女は、翁の反応があまり芳しくなかったことを内心不満に思ったが、それも妻を殺された心痛ゆえであろうと彼女は考え、言葉を続けた。

「これで、おばあさんは心安らかに眠ることが出来るでしょう。おじいさんも辛いでしょうが、どうぞお元気を……」

 そこまで言って、彼女はハッと口をつぐんだ。天井に向けられた翁の双眸から、一筋の涙が零れてきたのを見たからである。老人はふっと俯いた。彼の膝にぽたり、ぽたりと涙が落ちる。彼は肩を震わせながら、絞り出すような声で言った。

「儂が……死ねば、良かったんだ」

「そんなことを言わないでください。憎むべきはあの卑劣な男です。隙を盗んで、善良なおばあさんを手に掛けるだなんて……」

「あやつを、」

 彼は、少女の言葉をさえぎって言う。

「官吏に引き渡してしまおうと言ったのは、わしだった。ばあさんが、可哀そうだから逃がしてやれって言うのを聞かず……ばあさんの言うとおりにすれば、誰も死ななくて済んだのに」

 心から悔やむような翁の言葉に、彼女は即座に返答することが出来なかった。ややあって、彼女は口を開いた。

「それは……仕方のないことです。節度のない盗人をおじいさんが官吏に引渡そうとした判断には、何の間違いもありません。おばあさんが慈悲心から男の縛めを解いてやったことに、何の間違いもないように」

「……そんなことには、何の意味もないんだよ」

 老翁はその顔を俯むけたまま、驚くほど冷たい声で言った。少女には理解できなかった。翁の言った「そんなこと」というのが何を指しているのか、そして何故、彼の声色がそれほどに冷たいのか――

不意に老翁は彼女に顔を向けた。そして彼は、もう涙の名残も見えないその顔に繕ったような笑みを張り付けて言った。

「すまないことを言った、許してくれ。ばあさんのためにありがとうよ。飯でも食べていくといい」

 いえ、と少女はその申し出を断った。

「おなかが空かないので」

 老人が引き取って言う。

「そうか。実はわしもそれほど腹が減っているわけではないのでな。では、茶でも沸かして体を温めるとするか」

 言いながら立とうとする翁を少女は制し、「私が淹れます」と言って台所へ向かった。

それから茶を淹れ、翁と共に媼の思い出話をしている間、彼女はずっと胸の中に抱えた鉛の違和感を意識していた。


          五


夜も遅いから泊っていきなさいという翁の誘いを丁重に断り、少女は翁の家を後にした。彼女は、山の中にある媼の墓に寄ってから家に帰るつもりであった。幸い山の道は失わないで済むような、月が明るい宵である。彼女は山の登り道を行きながら、しかしその名月には目もくれず、ただ、その意識を己が内に向けていた。

 時間が経てば徐々に小さくなっていってやがて忘れてしまうだろうと思っていた胸の奥の違物感は、しかしいつまでたってもその存在をどっしりと寡黙に主張していた。そして、耳に残留する男の呪いの言葉――少女は苛々し、また困惑していた。

『お前と俺は、本質的には何も変わらない』

『受け入れろ、さもなくば――――』

 その言葉の意味を、彼女は考えようとしていた。船の上では下らぬ妄言として切り捨てることが出来たのに、今の彼女にはそれが出来なかったのだ。

 自分と男の共通点――

(人を、殺したということか)

 それは違う、と彼女は叫びたかった。そう叫べばきっと、胸の奥でわだかまっている違和感がほつれるかもしれない。しかし、彼女は叫べなかった。だから彼女は押し黙ったまま、夜の山道を悶々としながら行くのである。

 やがて媼の墓に至った。媼は死に際の希望により森の中で一番大きな楠木の傍に埋葬され、白い石を積み重ねたものが墓標として置かれている。ここに冷たくなった媼を葬ってから、もう一カ月近くが経った。少女には未だに、その時手に抱いた冷たい媼の感触が残っていた。そして同時に、かつて媼に抱きついた時の暖かい感触も――少女はぎこちなく墓標に向かって一礼をしたのち、崩れるように、墓前に膝をついた。目を瞑り両の手を合わせ、自分を可愛がってくれたおばあさんの冥福を一心に祈った。この時ばかりは、少女の胸に巣くっていた鉛のような違和感もその鳴りを潜めていた。

 長い黙禱の後で、彼女は顔を上げた。その手を重ね合わせたまま、彼女は暗闇の中で月の光を受けて、ぼうっと浮かび上がるように明るくなっている白い墓標の石を見た。彼女は思わず、尋ねるように言った。

「おばあさん。私は、正しいことをしたのでしょうか」

 重々しい白石が彼女に返したのは、冷たい沈黙であった。月の光が、はたと消える。月が、雲に隠れされたのだ。途端、夜闇に覆われた森の静寂が自身を蝕もうとするかのような感覚が意識され、彼女はほとんど無意識に立ち上がった。そうして彼女は墓標に軽く一礼すると、逃げるようにその場を立ち去ろうとした。

 ――――ドサリ。

 彼女は振り返った。見れば、重ねて置いてあった墓標の白石が一つ地面に落ちていたのだ。

彼女は駆け寄って、冷たい地面に落ちた白い石を拾い上げると、それを一番上に戻した。しかし、彼女が石から手を放した途端、また石はするりと滑って地面に落ちた。どうやら石が少し湿っているらしい。彼女は再びそれを拾い上げ、今度は注意深く石の上に置いた。今度は、落ちてくることはなかった。

 彼女は、殊更ゆっくりと来た道を引き返していった。


          六


 彼女は、翁の家から歩いて三十分ほどの山の中腹に一人で暮らしていた。父は早くに亡くし、年老いた母は菩提を供養するために、そこから少し離れた寺に寝起きしている。そのため、一人で暮らすには少し大きいその家やさまざまの書物雑貨が、遺産として彼女の手に渡っていた。母親は、いい年であるし彼女をどこか良いところへ嫁づけてやりたいと思っているのだが、漢学者の父の影響を受けた彼女は、家事よりももっぱら書物を好み、縁があれば嫁入りも良いが、自ら求めることでもないと言い、晴耕雨読の気ままな生活を送っていた。

あれから五日が経っていたが、胸の中の異物は彼女の苦悩を吸い上げて一層大きく膨らんで、彼女を押しつぶさんばかりであった。

今日も彼女は、目を覚ましたっきり朝食を採ることもせず、床の中でぼんやりと考え事をしていた。

『俺とお前は、何も変わらない』

『受け入れろ、さもなくば――――』

「…………」

 さもなくば――? さもなくば、何なのだろう。男は、何を言おうとしていたのだろうか? そしてあの視線――わからない。男は何を言わんとしているのか。何も変わらない、同じ人殺し? しかし、「何も」とはどういうことか。その動機が、根本から違うではないか。では、動機が問題ではないというのだろうか。それなら、いったい何が問題になる? 殺害の仕方だろうか、と彼女は何度目ともつかぬ、自分がした殺人と男のした殺人の比較をする。男が殺したのは、何の罪もないおばあさんである。男がおばあさんを殺したのは、自分の身の安全を図ってのことだ。縄が解けたのなら、おばあさんを殺さずとも逃げることは出来る。その時おじいさんは官吏を呼びに行っていたので、家の中にいたのは無力なおばあさん一人だったからだ。なにより、慈悲心から男の縄を解いてやったおばあさんは、男にとって恩人ではないか! ただ、自分の逃走した方向を知っているというのは具合が悪いという打算から、おばあさんを殴り殺したに違いない。それは明らかに、利己心に根差した忘恩の殺害に他ならない。

 一方自分はどうか。自分にとっておばあさんは、お世話になった恩人である。その恩人が殺され、自分はその仇を取ったに過ぎない。それは報恩の殺害だ。それを同じであると言うのは、彼女には理解できなかった。

(あるいは……あの男は、「恩」というものに価値を置かないのだろうか)

 故に男は、忘恩の殺害も報恩の殺害も等しく、単なる殺害であると言ったのだ――この考えはなかなか良い考えのように思えた。これならすっきりと筋が通っているように彼女には思えたし、結局男の言葉は恩を何とも思わぬ畜生のような発想のもとに出てきたものであるため、自分が殊更に気にする必要もない。

 しかし彼女の胸の奥に残留している違和感が、それが正解ではないということを彼女に知らしめていた。そう、これでは一つだけ、説明できないことがあった。

(あの目だ――男が死に際に見せたあの目が、それでは説明できないのだ)

 人間は、死ぬ間際には嘘をつかないものだ。あるいは男の言葉がただの虚言だったとしても、あの男の愛しむような視線だけは、演技では有り得ない。では、あれは一体……

「……ああ、もう」

 彼女は寝そべったまま首を振って、堂々巡りを続ける思考を停止した。ここのところ毎日がこのような調子なのだ。それこそ男の思う壺だと分かっていても、どうしようもないのである。

「――――――」

 何か音が聞こえたような気がして、彼女は耳に彼女は意識を向けた。すると、コンコンと控えめに扉を叩く音が確かに聞こえたので、彼女はすっくと寝床から起き上がり最低限の身だしなみを整えると、誰だろうと訝しみながら玄関口に行った。

 扉を開けたところにいたのは、まだ年端も行かぬ少年であった。随分痩せていて顔色が悪かったが、その目は爛々としていて、その風貌には少年らしい可愛さがあった。しかし少年は、彼女の姿をしげしげともの珍しそうに眺めているだけで、何を言うこともしない。仕方がないので、彼女の方から少年に声を掛けた。

「何か用か」

 その声を聞くと少年はハッと気が付いたように背筋を伸ばし、少しその顔を俯け、躊躇いがちに言った。

「迷子に、なっちゃいました」

「…………そうか」

 迷子になるような子供がこのあたりにいただろうか、と彼女は思いを巡らせたが、思い当たる家はなかった。ここから少し離れたところにある村の子供だろうかと思って彼女は少年に尋ねてみたが、少年の答えは一向に要領を得ない。仕方がないので、彼女はわかりやすそうな大きい道まで、少年を案内してやることにした。

 道すがら彼女は少年に様々な話を持ちかけたが、少年は終始俯いたまま、わずかに頷くか首を振るかしかしなかった。そのいかにも不案内な様子に、彼女は少年を大通りまで案内するだけで本当に大丈夫かと不安になった。しかし程なくして村まで続いている大きな道に合流すると、少年は「ここまで来れば大丈夫」と言って立ち止まった。彼女は、まだ心配だったので家まで送って行こうとしたが、少年は「いい」と断った。それから彼は彼女の方に向き直ると、初対面の頃よりは大分要領よく、しかしそれでもまだおずおずとした様子で言った。

「ありがとう。今度、お礼に行きます」

 少年らしからぬ律儀な言葉に、少女は笑って言う。

「変に気を使わないでくれ。言葉だけで十分だよ」

 少年はその言葉には返事をせず、ただじっと少女の目を見ていたが、やがてふいと背を向けて駆け出して行ってしまった。

「……変な奴」

 一人残された彼女は苦笑しながら独り語ち、自分が今、久しぶりに笑ったことに気が付いた。考えてみれば、太陽の光を全身に浴びたのも久しぶりであった。彼女は太陽を見、一つ大きく伸びをした。陽は暖かく風は穏やかで、何とも心地のいい日である。ふと彼女はおなかが空いていることに気が付いたので、今日はちょっと村の食事処にでも赴こうかと思い立ち、そのまま、少年の後を追うようにのんびりと歩き出した。


          七


 翌日の昼下がりに扉を叩く者があった。昨日の少年だろうかと思って彼女が扉を開けると、案の定そこに彼の姿があった。

「昨日はありがとう、おかげで無事に帰れました」

言いながら、少年は膝に頭を打ち付けんばかりにお辞儀をする。その身なりは昨日と変わっていなかったが、そのいかにもハキハキとした様子はまるで別人のように思えた。少年は袂から一つのリンゴを取り出した。青くて少し色艶が良くないが、ふっくらとしたリンゴである――それを見た時、彼女は胸の奥に熱い棒を突き付けられたかのように嫌な感覚を覚えたが、少年はそんなことにも構わず「おみやげです」と言って、それを彼女に差し出した。

「わざわざありがとう」と彼女はリンゴを受け取った。それは見た目よりも案外軽かった。それを渡してしまうと少年は手持無沙汰そうに手をもじもじさせる。このまま帰すのも良くないかと思って「茶でも飲んでいくか」と言うと、少年はこくりと頷いたので、そのまま少年を家の中へと招き入れて熱い茶と茶うけの饅頭を振舞った。少女に向かい合うようにして囲炉裏の近くにちょこんと座りこんだ少年は、まるで見知らぬ薬湯でも飲もうとするようにおずおずと茶碗を口に運び、茶を少しだけ口に含んだがすぐに「うえ」と顔をしかめた。

「……苦い」

 はは、と少女は笑う。

「そうかもな。ほら、茶菓子を食えば良い。甘さが引き立って美味いぞ」

 少年は小皿に盛られた小ぶりの餡饅頭を一つ口の中に放り込んだ。やはり少年の口には奥深い茶の苦味よりは餡の甘みの方が合うようで、少年は美味しそうにそれを咀嚼し、呑み込まない内に次を放り込み、といった調子でどんどん小皿の上の茶菓子を減らしていく。その子供らしい無邪気な様子に、少女は笑いながら言う。

「そればかり食っていては茶を受ける甘味が無くなってしまうぞ」

 彼女の指摘を受けて、少年は照れくさそうに笑う。彼は茶碗を無造作に掴んでモゴモゴさせた口の中に、一気に茶を放り込む。そうして、茶菓子もろともごっくんと飲み下すのだった。茶碗は、一口で空になってしまった。

「そんなに腹が減っていたのか、仕方のない奴だ。もう少し食べるか」

「いい、もう沢山」と少年は言い、せわしく口と小皿とを行き交っていたその手を膝の上に休めると、所在なさげにきょろきょろと、書棚に満載された書物を除けば余分と言えるようなものは何一つとして見られない、その部屋を見回した。

「本がいっぱいあるんだね」

「ああ、父の遺品だよ」

 父の、と少年は呟く。そうだ、と彼女は言う。

「とはいえ、ほとんど目は通してある。これから読むものもあるが、持ち腐らされるには惜しいものばかりだ」

 はたと思いついたように、彼女は言った。

「本を知っているなら、読み書きは出来るのだろう?」

 うん、と案の定少年は頷いて言う。そうか、と彼女は続ける。

「ここの本は少し難しいかもしれないが……読みたければ読んでも良いぞ。読みやすいものも多いしな」

その言葉を聞いて、少年は嬉しそうに顔を輝かせた。

「本当?」

 ああ、と少女は言って、黒茶色の本棚から一冊の本を取り出してくると、それを少年に手渡した。

「和文の物語だから。これなら読みやすいだろう」

 わあ、と少年は本を珍しそうに撫でまわす。その題名を一語ずつ追って読んだ後で、少年は言った。

「これ、知ってる。読んだことはないけど、父さんが良く話してた」

 そうか、と少女は引き取って言う。

「有名な本だからな。それにしてもお前の親は結構な物知りなんだな」

 少年は何も答えず、書物をぺらぺらとめくっていた。少女は、興味が完全に本の方に移ってしまっているのだと考えた。

「……読めそうか?」

 うん、と少年は言う。

「けど、わからない言葉がある」

「わからない言葉は聞くと良い。注釈書もあるしな。汚さないように気を付けてくれさえすれば、本は持って帰っても良い」

「いい、ここで読む」と少年は言って床に腰を下ろし、いよいよ本格的に読みだした。家は大丈夫なのか、と彼女は聞いたが、少年はもう本を読むことに夢中になって耳に入らないようである。少女は苦笑し、自分も何か読もうかと思い、読みかけの書物を本棚から取ってそれを読みだした。


 しかし彼女は、どうにも本に集中できなかった。勿論、頻繁に少年が分からない言葉の質問を投げてくるからということもあったが、何よりも本の内容に意識を傾けようとすると、今まで気にもならなかった、胸の奥に沈みこんでいる異物が煩くその存在を主張するのだ。

「………………」

 ふと、彼女は少年の方を見やった。少年は熱心にその視線を本に向け、彼女のことを気にする様子は少しも感じられない。その面影がどこかあの男に似ているように、今の彼女には思えた。考えすぎだと少女は自分に言い聞かせようとした。しかし、それはかえってその猜疑心を明瞭に意識させるだけであった。彼女の心の内にどんよりと佇んでいる鉛は、時間と共にその猜疑心を吸収し、奇妙な異物はどんどん膨れ上がり、その嵩を増していた。

それでも、少年に言葉の意味を教えている時だけは、その違和感は嘘のように消えてしまうのである。やがて彼女は少年のすぐ隣で、少年のために文章を音読してその部分を目で追わせて読ませることにした。一つは、少年の読みがあまりに拙いからであり、そしてもう一つは、それが彼女にとって一番の気紛れになったからである。実際読み聞かせを始めてからというもの、それが幼い日から何度も読んだ書物であるのにもかかわらず、彼女は時間を忘れてすっかり熱中してしまった。その時間は彼女にとって、幸福な時間であった。


書物も半ばに至ったところでふと彼女が本から顔を上げると、いつのまにか窓から差し込む光は橙へとその色を変え、日はまさに山の影に隠れようとしていた。

「そろそろ終わりにしようか。暗くなったら大変だ」

 彼女の脇に座り込んでいた少年は、その言葉を聞くとハッと本から顔を上げ、窓から本棚に差し込んでいる橙色の光を不思議そうに眺めていた。不意に少年は立ち上がって、両手を大きく天井に向けて全身を伸ばした。

「んん……今日はありがとう」

「気にするな」と彼女が答えると、少年は彼女の方に向き直り、わずかに俯いて躊躇いがちに言う。

「……また、明日も来ていいかな」

「もちろん構わないよ」少女は言った。「ただ、明日は畑を見に行きたいから……午後からだと良いな」

「わかった、ありがとう」と少年は言うと、「じゃ」とそのまま飛び出すように家から出て行った。道はわかるのだろうかと少し心配になったが、足音が正しい方向に遠ざかって行ったので、彼女は安心した。

 ふと床に目をやると、少年が読んでいた本と、それから青いリンゴが放られたままになっていた。

 そこで、今まで忘れていた胸の奥の異物感が再びその頭をもたげてきた。

彼女はそのリンゴを手に取った。ふっくらとして軽い、色艶の悪い青リンゴが、斜陽を受けて不敵に笑っていた。それをしばらく眺めた後で、少し齧る。

「…………!」

舌を突き刺すような不快な渋さと強い酸味。酢に漬けた砂の塊を噛んだような嫌な食感。彼女は思わず顔を歪めた。ほとんど反射的にそれを吐き出しかけたのを辛うじて抑えてそのまま飲み下すことが出来たのは、おそらくその体験が二回目だったからであろう。

彼女は、自分が今しがた齧ったばかりのリンゴを、焦点の定まらない目で見つめようとした。それは偶然の一致だろうか? あるいは必然の一致? ――それはいったい、何を意味するのだろう?

「――――――」

斜陽が地平線にその姿を隠してしまうまでずっと、彼女は青く嗤うリンゴを手に、ただ立ち尽くしていた。


          八


 その日から、少年は頻繁に少女の家に出入りするようになった。大体少年は午前中にやってきて、少し話をした後で本を読み、日が傾いたら帰るという風であった。たまに彼女は田畑に出ていることがあるので、少年がお礼代わりに手伝いをすることもあったが、それでもその後で、彼女の家に戻り本を読むことには変わりない。少年の質問は日を追うごとに少なくなっていき、少しずつ漢文も読めるようになっていった。少女は、少年の成長が手に取るようにわかるのが楽しかった。

 しかしそれと共に、彼女の中に巣くう違和感は、不信感という表層にくるまれた、幾条もの糸が複雑にこんがらがり合ったような名状しがたい何かとして認識されるようになった。その感情を一本一本に解きほぐそうとすればするほど、ますます絡まりは強固に、そして複雑になって、その核は巧妙に隠蔽されるのだ。

彼女は少年の動作や意思に、逐一隠された意味を探し、いつしかそれを求めるようになった。そしてそんなことを考えている時、不意に少年に無邪気な声で質問をされたりすると、自分がどうしようもなく嫌な人間に思えていたたまれなくなってしまうのである。少年の笑顔の前は、彼女にとってこの上なく居心地が良く、それでいて居心地が悪い場所であった。何より、その矛盾に彼女は意識的には気づいていなかったのである。


「お姉ちゃんは、本を読む以外に、何か好きなことってないの?」

 ある日、和漢混淆の説話物を読みながらおもむろに少年が問うた。少女は「うん?」と本から目を上げて言う。

「本を読んで、土をいじって、後は……」

 彼女は少し躊躇ってから言った。

「後は、釣りが好きだ」

「釣りかあ」と少年が言う。

「お前は釣りをするのか」

「するよ」少年は、即座に答えた。「沖釣りが好き」

「……そうか」

 彼女がそう答えたっきり、二人の間にはしばしの沈黙が流れた。ややあって、腹を探るように――しかしその目的物はわからぬまま、彼女はゆっくりと口を開いた。

「近いうちに行くか。船は私が出そう」

「……うん」と、少年は遠くを見るような目で呟いた。


         九

 

その晩、彼女は母に手紙を書いた。彼女はなるべく定期的に、母親に近況を報告する手紙を送ることにしているのだが、ここのところやや疎遠になっていたのをふと思い出したのだ。何となく母が恋しくもあり、机の上で墨を擦っている時には早く手紙を書き始めたくて仕方がなかったのに、いざ紙を前に筆を持つと、お決まりの挨拶を記したきりそれ以上先に筆を進めることがなかなか出来なかった。言うべきことはたくさんある。しかし、言うことのできるようなこと――年老いて、頼みはほとんど娘だけという哀れな尼僧に言えるようなことなんて、今の彼女には数えるほどしかなかった。彼女は、媼のことについて、世話になっていた媼が亡くなったとだけ、その他一切の顛末を明かすことなく記し、後は畑の作物の収穫がいよいよ近くなってきたが今年も良く実ってくれたこと、それから、ひょんなことから自宅にある少年が出入りするようになり、今度連れ立って釣りに行くということ。それらを書き記すと彼女にはもう、それ以上書き記せるようなことは何もないということに気が付いた。

彼女は愕然として、灯篭の中でゆらゆらと寂しく揺れる橙色い火を見つめていた。


          十


 数日後の朝、二人は連れ立って海辺へと赴いた。雲掛かった空はどんよりと重たい灰色をしていて、風は弱い。それでも海はあの日と変わらず蒼く静かにゆったりと、どこか眠そうに揺れている。波は規則正しく、岸辺に上がっては白い泡を残して去っていき、それを律儀に何度も何度も繰り返している。男がおばあさんを殺した時も、自分が男を殺した時も、自分が悩んでいる時も、自分が少年に本を読んであげている時も、変わらず波はゆったりと海を漫歩し、気が向いたら岸に上がっては白い泡を砂になすりつけていたのだろう。そしてきっとこれからも――その感覚は彼女の心を安心させもしたし、当惑させもした。

二人は手際よく船を岸から海へと出すと、手際よく櫂を繰って、船を沖に向かって漕いでいった。しばらく漕いだ後で、少年が躊躇いがちに言った。

「……もう少し行くの?」

「ああ、もう少し行こう。海の色が、一番蒼いところまで。……疲れたか?」

彼女は、少年に目を合わせることなくそう言った。

「ううん」と少年が答えたその顔を窺い知ることは出来なかった。

やがて海の色が、淡い青から深い蒼へと変わった。それからもう少し行ったところで、彼女は「この辺で良いだろう」と言って櫂を置いたので、少年もほっとしたように櫂を手から離した。波は少し高くなっているが、そのあたりなら、まだ大きな海流はないことを彼女は知っていた。そうして二人は手早く針に餌を取り付けた。

「同じ向きに糸を垂らしたら絡まってしまうからな、背を向けあって釣るのが良いだろう」

「そうだね」と少年は得心し、二人は互いに背を向けあって、それぞれ海に釣り糸を垂らした。

『………………』

 二人分の沈黙がどっしりと船に重圧をかけ、波に揺れる船体も、ややその揺れを弱めたようにすら彼女には思えた。

「……今だと何が釣れるのかなあ」

 沈黙に耐えきれなかったかのように少年が言う。それに、「そうだな」と彼女は背を向けたまま、糸を手繰りながら答えた。

「いろいろ釣れるが、鯛か鱚でも釣れると良いな」

 鯛かあ、と少年は呟いた。それきり彼は再び黙りこんでしまったので、少女もそれ以上何も言わず、ただじっと、ピンと張って波にも動じない釣り糸を眺めていた。

 そして、船漕ぎに専心していたおかげで一時的に忘れることが出来ていたあの錯綜した感情が、再びその頭をもたげてきた。相変わらずゆったりとたゆたう青い波。そのまま顔を上げれば、そこで、あの男が笑っていそうですらあった。振り向けば、そこには少年がいる。釣り糸は動かない。雲は相変わらず、一面のっぺりとした灰色。時間だけが過ぎていく。変わらぬ景色は、時間の感覚をおかしくする。それから経った時間が半刻にも満たない時間か、あるいはとうに半日が過ぎているのかも彼女にはわからなかった。

突然、ギィ、とわずかに木の軋む音が少女の背後から聞こえた。不自然な静寂が、後に続いた。

錯綜した幾条もの感情の糸は、やがて二条の細い糸へと集約されて、彼女の心を強く、かつ二つ共に同程度の力でもって縛り付ける。彼女は、後ろを振り向くことが出来なかった。その二条の細い糸のいずれもが、彼女を振り向かせまいというその意思においてのみ団結していたからである。


 ――少年は今、自分に背を向けて、海に釣り糸を垂らし、そのわずかな動きも見逃すまいと目を凝らしているはずである。

 ――少年は今、自分に向きなおって、その手で私の背中を押して海へ落とし込もうと、その機会をじっと伺っているに違いない。


「………………」

 それを意識した途端、ふと二条の細い糸で雁字搦めにされた彼女の心に、焦燥とも不安とも付かぬような、漠然とした名状しがたい嫌な感情が新たに湧き上がってきた。

――私は、恐れているのだろうか?

その考えは、彼女を戦慄させた。恐れている? ああ、それは何よりも強く、自分の野蛮たるを証明する感情ではないか!

――いや、と彼女は思いなおした。違う、それは自己の保安を願う本能的な感情などでは有り得ない。きりきりと胸を走るそれは、むしろこの上もなく理性的な、切ない祈りのような痛みであることに気が付いたからである。

彼女は殊更に無防備であった。そしてそのことを、彼女は自覚していた。自覚していてなお、あるいは自覚していたが故に、彼女は、背を向け続けた――何に? 私は、何に対して背を向けているのだろうか? 表面的には、少年に。そして、本質的には――

「お姉ちゃん」

「……なんだ」

 まるで声が彼女から出たかのように、彼女は背を向けたまま答えた。

 躊躇うような沈黙。やがて少年は言った。

「……引いてるよ」

「は」

 少年の言葉の意味を、すぐには理解することが出来なかった。しかし、指の隙間をスルスルと逃げていく細い麻糸の感覚に気が付くと、逆順に少年の言った意味を理解することが出来た。

彼女はそれ以上糸が逃げないように、慌てて糸を手に巻きつけた。彼女はグッと立ち上がって、糸を手繰る。糸が手を締め付ける感覚が、食いついた魚は大物であることを彼女に知らせていた。

「こいつは大きいな、……手が痛む。巻き木を持ってくるべきだったな」

彼女は笑いながら言った。

「手伝うよ」

 言いながら少年は彼女の前に回ると、海に向かって一直線に張りつめている糸を手に取り、それを引く。彼女はそれを助けながら、少年の引いた糸を手に巻いていき、魚の方も必死に逃げようとしているようで糸をぐいぐいと引っ張るが、魚との距離は着実に詰められていく。やがて深い青色の海面に、ぼんやりとした大きな魚影が見えた。

「手網を」

 彼女が言うと、少年は船底にあった手網を掴み、それをざんぶと海に入れて抵抗を続ける魚を捕らえた。

少年は間髪容れずに海から手網をあげる。魚の黒々とした立派な体躯が露わになる。自分の領域から連れ出された魚は往生際悪くビチビチと大きく跳ねて二人に海水を降り掛けたが、火照った二人の体には、それさえ心地よかった。少年は急いで魚を船底に下ろした。船底に横たえられると、大きな黒い魚は跳ねるのを止めて疲れて息が上がったかのように、エラと腹をせわしく動かしていた。

「これは何て言う魚?」

 少年は興奮したように尋ねた。少女は答えて言う。

「黒鯛だな、これは。こんなに大きなものは初めてだ」

「クロダイかあ」と少年は頬を上気させながら言った。

 彼女は空を見た。少し薄くなった灰色の空にぼんやりと光る太陽は、岸辺で見た時よりもかなり高くなっていた。一番高いところまでは至っていないようだが、釣りを始めてから一刻ほどが経ったようだ。

「どうする、もう少し続けるか?」

 少年は少し考えてから、ううん、とかぶりを振った。

「なんだか疲れちゃった。これで沢山じゃないかな」

 そうだな、と少女は引き取った。

「じゃあこれで終いにしよう」

 言いながら少女はクロダイを竹籠の中に入れ、二人は手早く釣りの道具を片付けて櫂を手に取った。船は、岸から随分離れていた。大物を釣り上げたというのに踊らぬ心を、彼女は冷静に認識していた。そして、おそらくは少年も。

 二人は、船を漕ぎだした。


         十一


 囲炉裏で焼いたクロダイは脂が載っていて、彼女がこれまでに食べたどの魚よりも美味であったし、少年も大いに満足したようであった。その後、少年はまたいつものように本を読み始めたので、彼女もまたいつものように本を読み始めた。

しかし、その内容が頭に入ってくることはない。彼女は、船の上で自らが抱いた、あの奇妙な感情について考えていた。


(あの切ない痛みは……なんだったのだろうか)

 その感情が、完全に消えてしまったわけではない。船の上で感じた時ほどの強い痛みはなかったが、今でもその感情は、まるで冷たい銀の針のように彼女の心を時折突っついて、彼女の心を休ませない。

(私は、少年に、私を突き落としてほしくはなかった)

 彼女は確認するように、頭の中で思考を言葉にする。

(その願望は、しかし保身の感情から出発したものではありえない。客観的に、私は、少年に、私を突き落として欲しくはなかったのだ――待て、私の中ではすでに、少年が私に害意を持っていたことが前提になってはいないか? ……いや、そんなことには、何の意味もないのだ……)

「……おい」

 ハッと少女は、声のした方を見た。そこでは、薪を背負ったあの男が、優しい微笑みを浮かべながら自分を見ていた。その状況は、かつて少女が男を火責めにした時と同じであるということが、彼女には即座に了解された。

「すまない、少し考え事を」

「間の抜けた奴だ」と男は笑う。不思議と彼女は、あの時ほど男の笑いに不快感を覚えなかった。

「それにしても、人間とは憂きものよ。憎んでは憎まれ、憎んでは憎まれ。輪廻転生も結構だが、その劣情の輪廻も、どうにかならないものかね。それでいて、良い感情、たとえば慈悲だとか喜びだとか、そういったものはいつまでも続いていくものではない、いつか擦り切れていってしまう……お前もそう思わないか」

「そうですね」と、少女は答えていた。彼女の手には、冷たい火打石があった。そのことに、男はきっと気づいている。――気づいている?

 かち、かち、かち、かち。

少女は石を打つ。薪には、なかなか火がつかない。

「何の音だろう」

 男が言う。

「どうせ虫の鳴き声か猿の悪戯か、そんなところでしょう。ただ、一つ伝承があるんです。あの山には火鼠という、唐土の妖怪が棲みついているといいます」

 かち、かち、かち、かち。

「火鼠は悪戯好きで、燃えるものを持っている人を見ると、そこに取り付いて火を出すそうです。その時に、火打石で出来た歯を打ち鳴らすので、かちかちと音が鳴るんだとか」

 かち、かち、かち、かち。

「故に、この山はかちかち山という名前が付いています」

 かち、かち、かち……

赤い火が、男の背負った薪に付いた。彼女は火打石を袂に仕舞い込む。その間も、彼女の目はゆらゆらと不自然に大きく燃える火に釘付けになっていた。

「ほら、もう止みました。伝承なんて……」

 そこまで言ったところで、男はぐりんと彼女に顔を向けて、口を開いた。その声は、そしてその顔は――まさに、あの少年であった。

「俺とお前は、何も変わらない」


「!」

 彼女はハッと目を覚ました。続いて視界に飛び込んできたのは橙色の光。それに背を向けるようにして、人間が一人そこに立って自分を見下ろしていることが、辛うじて彼女には認識できた。

「……お姉ちゃん、大丈夫? うなされてたけれど」

 しかし続いて投げられたその言葉で、少女は、今まで自分が夢を見ていたことに気が付いた。彼女は額の汗を拭いながら言う。

「……ああ。どうした」

 「僕はもうそろそろ帰るよ、って言ったんだよ」

少年の言葉に、彼女は「ああ」とだけ返した。バクバクと脈打っていた心臓が、徐々にその鼓動を落ち着けていく。それとともに、彼女の心は、どんどん穏やかになって行った。

「ねえ、お姉ちゃん」

 橙色の光の中で言うその声が、やけに大きく響いたように、彼女には思えた。彼女は少し顔を上げた。彼女の座っているところからでは斜陽に覆い隠された少年の表情をうかがい知ることが出来ず、ただ黒い輪郭だけが見えるだけだった。故に彼女には、今まで見ていた夢も相まって、その声の主が誰なのかが認識できなかった。

影は、少し笑いを含んだ声で言った。

「……今度はお姉ちゃんが、僕の家に遊びに来ない?」

「……私が、お前の家にか」

 彼女は呟くように言う。影は、「うん」と首肯する。

「いつも来てばっかりで悪いしね。明日のお昼過ぎくらいに迎えに来るよ」

 それを言うと、影はくるりと背中を向け、ただの少年に戻った。少年はこちらを振り向きいて「じゃあね」と言って、そのまま家から出て行ってしまう。

彼女は、いつしか自分の中に迷いがなくなっていたことに気が付いた。


          十二


 翌日の昼過ぎに、約束通り少年がやって来た。

「少し、本を持って行ってもいい?」

少年の言葉に、彼女はその理由も聞かないで頷いた。

「お姉ちゃんも、何か本を持ってきた方がいいかも」

少年は続けて、繕うように言う。「僕の家には本も何もないからね」

少年は和文の説話と、和漢混淆の物語を脇に抱え、彼女はまだ手を付けていない漢語の史伝を手にした。そして彼女は、少年に連れられて少年の家へと向かった。大きな道に出て村の方向へとしばらく歩いた後で、ふいに脇道にそれる。趣深い秋の風に乗って、青い空に鳶が漂っている。彼女は、普段は意識もしないただの風景を眺めながら歩いた。徐々に木々が少なくなっていき、石が多くなっていく。そのうち大きな岩の陰から不意に、木製の家屋が現れた。しかし、彼女は驚かなかった。そこに来るのは、二回目であったから。

「ここが僕の家だよ、お姉ちゃん」

 嫌でも忘れない。そこはかつて、彼女が仲間の仮面をつけた敵として訪れた、あの男の家だった。

「遠慮しないで、入ってよ」

 促されるままに、彼女は扉代わりの暖簾を分けて、家の中へと入る。土間も囲炉裏もないきわめて簡素なその内装は、前に少女がここを訪れた時と何も変わってはいなかった。部屋の中央にどんと敷かれた、一人で寝るにはあまりに大きいように見えるその布団も、以前のままであった――ただ、前に来たときはもう少し、あたりは明るかったように彼女には思えた。

「適当に座って」

 後から入ってきた少年が言う。彼女は蒲団の傍に、横向きに腰を下ろした――奇しくもそこは、かつて彼女が男を見舞ったときに座った場所と同じ場所であった。

 少年は彼女の前へと歩いてやってくると、彼女に向かい合うように、蒲団の傍に腰を下ろした。そして、小脇に抱えた本をそっと膝の上に乗せる。彼女も、手に持った本を床に置いた。

「……僕に読み書きを教えてくれたのはね、父さんだったんだよ」

 おもむろに少年は言い、少女は何も言わなかった。少年は続けた。

「お父さんが、良くお姉ちゃんの話をしていたんだ。その時はまだ、僕はお姉ちゃんのことを知らなかったけど――頭の良い、可哀そうな人だってね」

「可哀そうな、人」

 うん、と少年は頷いた。

「お父さんが死ぬ前の日、お父さんは僕に言ったんだ。『俺は明日死ぬ。復讐されて、無様に死ぬ。いいか、俺の復讐は、絶対にしてはいけないぞ』って」

 ハッとして、少女は少年の顔を見た。

「本当は気が付いていたのに、気が付かないふりをしていたんでしょう? お父さんはね、お姉ちゃんのことが好きだったんだよ」

 少年の声色に、初めて非難の色が含まれた。今まで彼女が考えもしなかったその言葉を聞かされて、しかし彼女がそれほど驚かなかったのは、少年の言うとおり、心のどこかではそのことに気が付いていたからかもしれなかった。

 彼女は、目を閉じた。

 あの男は、馬鹿ではない。あの男を馬鹿にしたのは、他ならぬ自分だったのだ。媼を殺すようなあの男が、自分と同じような存在であるはずがない、異常な存在であってほしいという願望が、男を馬鹿と認識させ、男もまた、その道化としての役柄を甘受していたのだ。その理由が――私への、愛だという。そしてそのことに、私は自ら目を背けていた。「報恩の正義」という名目の元で、その後ろめたき事実から目を背けていたのだ。ああ、自分が正義の断罪と信じてやまなかったあの復讐は、この上もなく利己的な殺人であったのだ!

 かち、かち、かち、かち。

「苦しかったよ。お姉ちゃんが憎くて、仕方がなかった。最初お姉ちゃんの家に行ったときは、お父さんの言葉を無視して、お姉ちゃんを殺してやろうって思ってた……けど僕は、初めてお姉ちゃんを見た時、驚いた。だって、どこからどうみても、普通の女の子なんだもの。だからと言って、お姉ちゃんを赦すわけにはいかない。隙を見て、殺してやろうって思った」

 かち、かち、かち、かち。

「けど、お姉ちゃんから本の読み方を習って、一緒に話したり、畑を手伝ったりして……少しずつ、お姉ちゃんのことが好きになっている自分に気が付いたんだ。お父さんの言葉の意味が、なんとなくわかったよ。お父さんの言うとおり、全てを忘れて、お姉ちゃんとずっと一緒にいたいと思った」

 かち、かち、かち、かち。

男は、無様に私に殺された。そうなるとわかっていてなお、私の訪問を喜び、私との時間を尊んだ。ひとたび飛び込めば、魂まで跡形もなく焼き尽くしてしまうような灯に、それでも惹かれてしまう虫のように。

しかしその事実が、男が媼を殺したことを赦す理由にはなりえない。そしてそれが、私が男を殺したことが赦される理由にはなり得ない。そしてそれが、少年が私を殺す理由には、なり得ないのだ。

 かち、かち、かち、……

「だからこそ、僕は、こうしないといけないんだ」

 彼女は、目を開けた。

 蒲団の上に、小さな火が揺れていた。火は忙しくその形をゆらゆらと変えながら柔らかい蒲団を焦がし、徐々にその輪郭を大きく、領域を広くしていく。その火は、喩えようもなく綺麗であった。その火を前にして、少年は二冊の本を、愛おしそうにその胸に抱いていた。

「僕はずっとここにいるけれど――お姉ちゃんも、ここにいてくれるよね」

 少年は微笑んでいた。とても寂しそうで、無邪気な笑顔だった。少女は、頷いた。

「お姉ちゃんと過ごした時間は、とても楽しかったよ。……地獄に行ったら、三人で一緒に、本を読もうね」

「ああ、約束だ」

 少女は頷いて、脇に置いた本をそっと手に取った。そして、あの男の顔によく似た顔つきの少年を、ひしと抱きしめた。少年は震えていた。その時に彼女の胸に去来した感情を、もはや彼女は意味づけようとはしなかった。

いつの間にか、少女の心を雁字搦めにしていた鉛の違和感がすっかりその姿を消していたことに、少女は気が付いた。


          十三


 翌日になって、村はずれの岩場の家で火事があったことが村の人々に知れ渡った。村人の一人が最初にそれを見つけた時にはすでに家屋は黒焦げ、炎は燻ぶっているばかりで、火事は終わっていた。その中からは抱き合った形で二人の焼死体が見つかった。

そのことが辺りに知れ渡ったその日の夜、村はずれのある家で、老翁が首を吊って死んでいるのが発見された。


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